学位論文要旨



No 116911
著者(漢字) 定永,靖宗
著者(英字)
著者(カナ) サダナガ,ヤスヒロ
標題(和) オゾンと海洋エアロゾルとの不均一反応による対流圏塩素分子の生成
標題(洋) Formation of Molecular Chlorine in the Troposphere by Heterogeneous Reactions of Ozone with Marine Aerosols
報告番号 116911
報告番号 甲16911
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4174号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 巻出,義紘
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 野崎,義行
 東京大学 教授 近藤,豊
 東京大学 助教授 島田,敏宏
内容要旨 要旨を表示する

 北極大気圏の春季においてBrを含む化学種の濃度の急激な上昇とともに対流圏オゾン濃度がほぼ0になる現象が発見されて以来、成層圏だけでなく対流圏においても含ハロゲン化学種の重要性が指摘されている。また、近年夜間の中緯度大気におけるCl2(max. 150 pptv)及び北極圏春季におけるBr2やBrCl(max.〜30 pptv)の観測が報告され、その重要性の認識が高まってきている。そのようなハロゲン化合物の発生源として、海塩粒子表面における不均一反応が注目されており、Br2とBrClの発生源についてはこれまでの実験室や計算機シミュレーションでの研究によって明らかになりつつある。しかしながら、Cl2の発生源についてはほとんど知見がなく、特に夜間の発生源についての報告はない。また、対流圏においてClは主に炭化水素の酸化に寄与するのに対し、Brはオゾン破壊が主となるので、対流圏の化学反応においてBrとは役割の異なるClの発生源に関する知見を得ることが必要不可欠である。

 海塩粒子表面における不均一反応によってハロゲン分子が放出されるためには、粒子中に含まれるCl-やBr-が酸化されることが必要である。一方、Fe3+をはじめとした遷移金属イオンが大気中の微粒子に含まれる微量成分の酸化を促進することがSO2について報告されている。本研究では、そのような遷移金属イオンが海塩粒子表面での不均一反応によるハロゲン放出を促進する可能性を検討した。実験的には、Fe3+を添加した海塩粒子とオゾンとの反応について調べ、その反応において光を伴わない条件下でCl2が生成することを見出した。海水に含まれる鉄の量だけではCl2の発生には効果的ではないが、海洋エアロゾル中に存在する鉄の量は海水のそれにくらべてはるかに多いこと(Fe/Na〜1.5 wt.%)が知られている。また、近年のエアロゾル単粒子測定の結果から、海塩粒子が土壌粒子など他の起源の微粒子と内部混合することが知られており、本研究の結果は夜間におけるCl2の発生源を説明できると考えられる。

 図1に実験装置の概略図を示す。実験はオゾンの海塩試料への衝突あたりの反応確率(取込係数)及びその反応による生成ガス(Cl2,Br2,BrCl)の収率を求めることを目的として、四重極質量分析計を備えたクヌーセンセルリアクターを用いて行なった。装置は反応ガスの導入部、圧力が分子流領域(<10-3 Torr)に保たれている反応槽、四重極質量分析計を備えた分析室によって構成される。反応ガスであるオゾンは純酸素ガスを無声放電させることにより生成させた。オゾンはガス導入部からキャピラリーを通じて反応槽へと導入される。海塩試料は反応槽下部に置かれ、プランジャーを上下させることによりオゾンとの反応が制御される。オゾン及び反応により生成したガスはオリフィスを通じて分析部へと導入され、四重極質量分析計により検出される。また、分析室前段には回転式チョッパーが設けられており、そこでガスの一部が切り出され、ロックイン増幅を用いることにより分析室内の残存ガスの寄与が取り除かれる。

 Fe3+の入った海塩試料は、FeCl3及びNaCl,NaBr又は合成海塩(Instant Ocean : Aquarium systems,Br-/Cl-=0.15 mol%)を蒸留水(硫酸酸性:pH〜4)に溶解させ、その溶液を蒸発させることにより調製した。このようにしてできた固体を乳鉢により直径10-100μm程度の大きさに粉砕した。実験はその粉末試料を用いて行なった。

 Fe3+を含むNaCl(Fe/Na=1.0 wt.%)とオゾンとの反応の測定例を図2に示す。図2(a)の場合、Cl2の生成が確認された。一方、図2(b)の場合にはCl2の放出がほとんど確認されなかった。この結果は、反応によるCl2の生成がガス成分と試料表面に存在する吸着水との気・液反応によって進行することを示していると考えられる。図3にこの反応におけるCl2の収率の試料表面吸着水量に対する依存性を示す。吸着水量の多い領域においてCl2の収率がほぼ一定となった。海洋境界層は一般的に湿度が高く、海塩粒子は潮解した液滴状で存在していると考えられるが、図3の結果から本実験で得られたデータは海洋境界層の条件に適用できると考えられる。本要旨の以下のデータはすべて図2(a)と同様の条件で測定したものである。図4はオゾンとFe3+を含むNaClとの反応におけるCl2の収率のFe/Na重量比依存性を示したものである。Fe/Na比が0.2%以上のときにCl2の生成が見られ、1.0%前後でその収率はほぼ一定となった。一方、取込係数の値は、Fe/Na重量比が0.1-2.0%の範囲でほぼ一定であり、例えば1.0%のときには(3.6±1.0)×10-2であった。

 実験によって得られた取込係数を不均一反応における気・液反応モデルに組み込み検討を行なった。反応が吸着水内における液相反応で起こると仮定し、液相反応の擬一次速度定数を算出すると、その値は1.60x1011s-1となった。一方、水溶液における拡散律速反応速度定数は7.4x109M-1s-1という値が知られている。仮に反応が吸着水中において最も濃度が高いと考えられるCl-が関与しているとしても、その擬一次反応速度定数は3.8x1010s-1([Cl-]=5.4Mと仮定)となり、計算で得られた速度定数よりも低い値となった。これは、本研究で取り扱った反応が気・液界面上において進行していることを示唆している。

 一方、大気エアロゾル中に存在する別の金属(M : Mn2+,Cu2+,Co2+,Ni2+)について同様にM2+を含むNaCl(M/Na=1.0 wt.%)+O3の系で実験を行なったところ、Cl2の生成はほとんど見られなかった。これは、これらの金属が内部混合により海塩粒子に含まれていたとしてもCl2の発生源とはならないことを示している。また取込係数の値は金属によって異なる値であり(2.0×10-3−6.4×10-2)、これはオゾンの取込みの速度を決めているのが金属イオンであることを示している。

 一般的に海塩粒子にはCl-だけでなくBr-も含まれている(海水中のBr-/Cl- mol ratio=0.15%)。そのようなBr-が本研究で行なった反応における塩素生成に影響を与えることが考えられる。そこで、Fe3+を含む海塩粒子とオゾンとの不均一反応におけるBr-の影響を調べるため、まず、Fe3+を含む合成海塩(Fe/Na=1.0 wt.%)とオゾンとの反応について実験を行なった。その結果、Cl2の生成は見られず代わりにBr2の放出が見出された(図5)。この反応における取込係数は(3.2±1.1)×10-2であり、Br2の収率は0.37±0.12であった。この系においてBr2が選択的に放出される理由として、合成海塩中に含まれるBr-が原因であると考えられる。即ち(1)Cl-の酸化還元電位がBr-よりも大きく、Br-のほうがより酸化されやすい、(2)いったんCl2が生成しても容易にBr-と反応してBr2に変換される、等が考えられる。一方、観測や計算機シミュレーションの結果から海塩粒子のBr-は海水のそれと比べて一般的に欠乏していることが知られている(Br-/Cl- mol ratio=min. 10-5)。このことより、Fe3+を含む海塩粒子においてBr-が欠乏した状況でCl2の生成が期待される。

 図6は、オゾンとFe3+及びBr-を含むNaCl(Fe/Na=1.0 wt.%)との不均一反応におけるCl2,Br2,BrClの収率のBr-/Cl-比に対する依存性を示したものである。Br-/Cl-モル比が海水組成比(Br-/Cl-=0.15 mol%)であるときにはBr2の生成が支配的であるが、Br-の存在量が減少するにつれてCl2の収率が増大することが確認された。また、BrClの収率についてはBr-/Cl-比による大きな依存性は見られなかった。なお、取込係数はBr-/Cl-比にかかわらずほぼ一定で、かつFe3+を含むNaClとオゾンとの反応におけるそれと誤差の範囲で一致した。これは、Br-がオゾンの取込みの速度に影響しないことを示している。

 実験で得られた取込係数及び収率の値をもとに、Fe3+及びBr-を含むNaClとオゾンとの反応の海洋境界層における影響の見積もりを試みた。海塩粒子の直径と数密度を仮定し、気相拡散による影響も考慮して、この反応におけるCl2,Br2,BrClの生成速度を見積もった。また、オゾンの混合比は20 ppbvと仮定した。表1に生成速度の結果を示す。この結果は、Cl2,Br2,BrClの放出の分配が海塩粒子中のBr-の量によって大きく影響されることを示している。また、この結果は以前の観測において推定されたCl2生成速度(=330 pptv/day)を説明でき、海塩粒子中のFe3+の存在が対流圏におけるCl2の生成に重要な要素となっている可能性が示唆された。

 以上のように、エアロゾル同士の内部混合によって生成するFe3+を含む海塩粒子とO3との反応が、対流圏におけるCl2の重要な発生源となる可能性が示された。また、エアロゾルの内部混合を想定した不均一反応の研究は本研究が初めてであり、この結果は大気中の化学反応において、内部混合された粒子での不均一反応の重要性も示している。

図1.実験装置の概略図。

図2.オゾンとFe3+を含むNaCl(Fe/Na重量比:1%)との不均一反応の測定例。

(a):試料導入直後に測定した例,(b):試料を一晩真空中で加熱した後(373K)、室温に戻して測定した例。(b)より(a)のほうが試料の表面吸着水量が多い。

図3.オゾンとFe3+を含むNaCl(Fe/Na重量比:1%)との不均一反応におけるCl2の収率の試料表面吸着水量依存性。

●:真空導入直後の試料、▲:一晩真空中に放置した試料、○:一晩真空中で加熱した試料。

図4.オゾンとFe3+を含むNaClとの不均一反応におけるCl2の収率のFe/Na重量比依存性。

図5.オゾンとFe3+を含む合成海塩(Fe/Na=1.0 wt.%)との不均一反応の測定例。

図6.オゾンとFe3+及びBr-を含むNaClとの不均一反応におけるハロゲン収率の[Br-]/[Cl-]モル比に対する依存性。

●:Br2, ○:BrCl, ▲:Cl2の収率を示す。

表1.実験結果を海洋境界層の条件に適用したときに推定されるハロゲン分子の生成速度(PX)。

単位はpptv/10hour。

審査要旨 要旨を表示する

 近年、夜間の中緯度大気における塩素分子Cl2の観測例が報告され、対流圏の化学反応におけるその重要性の認識が高まってきているが、その発生源についてはほとんど知見がなく、特に夜間の発生源についての報告はない。

 本研究では、Fe3+のような遷移金属イオンを含む海塩粒子表面での不均一反応によりハロゲン分子の放出が促進される可能性について検討した。実験室でFe3+を添加した海塩粒子とオゾンとの反応について調べ、その反応において光を伴わない条件下でもCl2が生成することを見出し、夜間におけるCl2の発生源の説明を試みた。

 本論文は全7章からなり、第1章では研究の背景、世界の現状、研究の目的などが記述されている。

 第2章では実験装置について記述されている。実験はオゾンの海塩試料への衝突あたりの反応確率(取込係数)およびその反応による生成ガス(Cl2、Br2、BrCl)の収率を求めることを目的として、四重極質量分析計を備えたクヌーセンセルリアクターを用いて行なった。装置は反応ガスの導入部、圧力が分子流領域に保たれている反応槽、四重極質量分析計を備えた分析室によって構成されている。反応ガスであるオゾンはガス導入部からキャピラリーを通じて反応槽へと導入される。海塩試料は反応槽下部に置かれ、プランジャーを上下させることによりオゾンとの反応が制御される。オゾンおよび反応により生成したガスはオリフィスを通じて分析部へと導入され、四重極質量分析計により検出される。分析室前段には回転式チョッパーが設けられており、ロックイン増幅を用いることにより分析室内の残存ガスの寄与が取り除かれる。

 第3章では実験試料の調製について述べられている。Fe3+の入った海塩試料は、FeCl3およびNaCl、NaBrまたは合成海塩(Instant Ocean; Br-/Cl-=0.15 mol%)を蒸留水(硫酸酸性:pH〜4)に溶解させ、その溶液を蒸発させることにより得られた固体を乳鉢により直径10-100μm程度の大きさに粉砕して実験した。

 第4章では、Fe3+を含む海塩とオゾンとの反応によるCl2の生成についての結果が示されている。Cl2の生成がガス成分と試料表面に存在する吸着水との気・液反応によって進行することが示され、吸着水量の多い領域においてCl2の収率がほぼ一定となった。海洋境界層は一般的に湿度が高く、海塩粒子は潮解した液滴状で存在していると考えられることから、本実験で得られたデータが海洋境界層の条件に適用できると考えられた。Cl2収率は、Fe/Na重量比が1.0%以上でほぼ一定となった。取込係数の値はFe/Na重量比が0.1-2.0%の範囲でほぼ一定であり、得られた取込係数を不均一反応における気・液反応モデルに組み込み、速度定数を算出した。その結果、本研究での反応が気・液界面上において進行していることが示唆された。

 一方、エアロゾル中に存在する他の金属イオン(Mn2+、Cu2+、Co2+、Ni2+)を含むNaClとオゾンの反応では、Cl2の生成はほとんど見られなかった。

 第5章では、海塩粒子に0.15%含まれるBr-の影響について調べた。Fe3+を含む合成海塩とオゾンとの反応ではCl2の生成は見られず、代わりにBr2の放出が見出され、Br-が原因であると考えられた。一方、海塩粒子中のBr-は海水のそれと比べて欠乏していることが観測等で知られており、Br-が欠乏した状況でCl2の生成が期待された。オゾンとFe3+およびBr-を含むNaClとの不均一反応におけるCl2、Br2、BrClの各収率は、Br-/Cl-モル比が海水組成比であるときにはBr2の生成が支配的であるが、Br-の存在量が減少するにつれてCl2の収率が増大することを見出した。BrClの収率についてはBr-/Cl-比依存性は見られなかった。

 第6章では、実験で得られた取込係数および収率の値をもとに、Fe3+およびBr-を含むNaClとオゾンとの反応について、海洋境界層における影響の見積もりを試みた。その結果は、Cl2、Br2、BrClの放出の分配が、海塩粒子中のBr-の量によって大きく影響されることを示した。また、以前の観測において推定された大気中のCl2の生成速度を説明でき、海塩粒子中のFe3+の存在が対流圏におけるCl2の生成に重要な要素となっている可能性が示唆された。海塩粒子と土壌粒子などエアロゾル同士の内部混合によって生成するFe3+を含む海塩粒子とO3との反応が、対流圏におけるCl2の重要な発生源になる可能性を明らかにした。エアロゾルの内部混合を想定した不均一反応の研究は本研究が初めてであり、この結果は大気中の化学反応において、内部混合された粒子での不均一反応の重要性も示している。

 第7章で、結論と将来展望が述べられている。

 なお、本論文の第2〜4章の概要は、廣川淳および秋元肇との共著論文として既に印刷公表されているが、論文提出者が主体となって開発、実験を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断される。その他の章の研究に関しても、同様である。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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