学位論文要旨



No 116913
著者(漢字) 登野,健介
著者(英字)
著者(カナ) トノ,ケンスケ
標題(和) 遷移金属炭化物・酸化物クラスターの電子・幾何構造
標題(洋) Electronic and geometric structures of transitionmetal carbide and oxide clusters
報告番号 116913
報告番号 甲16913
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4176号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 浜口,宏夫
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 教授 永田,敬
内容要旨 要旨を表示する

 遷移金属と典型元素からなる化合物クラスターに関する興味が高まっているが,実験的手法を用いて詳しく研究されているものは非常に数が限られている。化合物クラスターのなかでも特に注目を集めているのが,3d遷移金属の炭化物クラスターと酸化物クラスターである。炭化物クラスターでは,金属原子8個と炭素原子12個からなる,メタロカーボヘドレンと呼ばれる篭状クラスターの生成が確認されて以降,クラスターの成長機構が議論の的になっている。成長のしくみを解明するためには,まず,成長初期に現われる小さなサイズのクラスターを調べる必要がある。

 一方,酸化物クラスターでは,主に磁性に興味が持たれている。代表的な例がクロム酸化物クラスターの磁性で,クラスター中に含まれる酸素の数によって,磁気モーメントが現われたり,消滅したりすることが理論的研究で予測されている。こういった予測を検証するためには,実験的に解明された酸化物クラスターの電子構造をもとに,クロム原子間の電子スピン結合が強磁性的か反強磁性的かを調べることが必要である。

 本研究では,簡単なモデル系として,金属原子を2個だけ含む炭化物と酸化物のクラスターを対象とし,それらの電子・幾何構造の解明を目的とした。得られた結果をもとに,3d遷移金属炭化物クラスターの初期成長過程,および酸化物クラスターの磁性について検討を行った。

研究手法

 レーザー蒸発型クラスター源を製作し,レーザー光の照射で発生させた金属蒸気をメタンや酸素と反応させることにより,対象とするクラスターを発生させた。発生したクラスターの負イオンについて光電子分光スペクトルを測定し,密度汎関数法の計算結果と比較することで,基底状態における電子・幾何構造とスピン状態を調べた。

バナジウム炭化物クラスター

 バナジウムと炭素はメタロカーボヘドレンを作ることが知られており,バナジウム炭化物クラスターの初期成長過程に興味が持たれている。密度汎関数法による構造最適化により,図1に示す構造異性体がV2Cn-(n=2,3)の基底状態であることが示された。これらの異性体に対してモデル計算を行い,光電子スペクトルを再現した結果を図2に示す。計算で得られたスペクトルは,実験結果とよく一致しており,密度汎関数法で得られた幾何構造が妥当であることがわかる。

 V2Cn-の構造中には,図3に示したVC2クラスターが形を変えずに保存されており,VC2が構成単位となっていることが示唆される。また,中性のV2Cn(n=2,3)についても構造最適化を行い,負イオンとほぼ同じ幾何構造を持つことが確かめられた。構成単位としてのVC2の働きは,V2C4-の場合により顕著に現われる。図4に最適化されたV2C4-の構造を示す。V2C2の2個のバナジウム原子を炭素2量体が架橋して,新たなVC2構造を形成している。以上のことから,バナジウム炭化物クラスターの初期成長段階では,VC2を構成単位として成長が起こっていることが示唆された。

コバルト炭化物クラスター

 コバルトやニッケルはカーボンナノチューブ生成時の触媒として働くことが知られており,やはり,炭化物クラスターの初期成長過程に興味が持たれている。Co2Cn-の構造最適化で得られた幾つかのモデル構造に対して光電子スペクトルを計算し,実験結果と比較した。その結果Co2C2-では,図5(a)に示した異性体が最もよく実験結果を再現した。したがって,この異性体が基底状態であると考えられる。V2C2-中のVC2と対照的に,Co2C2-中ではCoC2の構造が大きく歪んでおり,構成単位として働いていない。このことはCo2C3-の場合でさらに顕著になる。実験と計算結果を比較して得られた,Co2C3-の幾何構造モデルを図5(b)に示す。Co2C3-中ではCoC2の構造は見られず,炭素原子が3量体を形成してコバルトの2量体に配位している。したがって,コバルト炭化物クラスターの初期成長段階ではCoC2のような構成単位は作らず,炭素原子同士が集まって炭素の多量体を形成する傾向が示唆された。

クロム酸化物クラスター

 クロム2量体(Cr2)に付加する酸素の数に応じて,クロム原子間での電子スピン結合が,反強磁性的→強磁性的→反強磁性的と変化していくことが理論的研究で予想されており,クロム酸化物クラスターの磁性に関心が持たれている。本研究では,光電子分光法と密度汎関数法を用いてCr2On-(n=1-3)の電子・幾何構造を検討した。

 図6に得られた結果を示す。Cr2,およびCr2-では,それぞれスピン1重項,スピン2重項が基底状態であるが,Cr2O-とCr2O2-ではスピン10重項,Cr2O3-では8重項状態が基底状態になっている。したがって,Cr2とCr2-では反強磁性的だったクロム間のスピン結合が,酸素と反応して強磁性的な結合に変化したと考えられる。また,スピン多重度から,Cr2O-とCr2O2-が9μB, Cr2O3-が7μBの大きなスピン磁気モーメントを持つことが示唆される。中性種でも同様に,強磁性的なスピン結合を示す計算結果が得られた。酸素の付いていないCr2では,Cr-Cr間の距離が短く(1.68A),両原子の価電子同士で電子対が形成され,スピン1重項状態が基底状態となる。これに対し,Cr2と酸素が反応すると,2個のクロム原子は大きく引き離され,クロム間の相互作用よりもクロムと酸素間の相互作用が支配的になる。2個のクロム原子を架橋する酸素原子上の電子スピンは,両方のクロム原子上の電子スピンと反強磁性的な結合をするため,結果として,2個のクロム原子間の電子スピンが平行にそろったと考えられる(図6参照)。

まとめ

 負イオン光電子分光法と密度汎関数法計算の結果から,バナジウム炭化物クラスターでは,VC2が構成単位となってクラスターの成長が起こることを示す結果が得られた。これに対し,コバルト炭化物クラスターでは異なる成長機構が示唆された。すなわち,CoC2の構造単位は見つからず,炭素原子同士が凝集する傾向が見られる。

 Cr2On-では,2個のコバルト原子間で電子スピンが強磁性的に結合しており,大きな磁気モーメントが現われる。

図1 (a)V2C2-と(b)V2C3-の幾何構造。

図中に結合距離(A単位)とスピン多重度(m)を示した。

図2 V2C2-とV2C3-の光電子スペクトル。

実験結果と計算結果。計算で求められた電子結合エネルギーを棒線で示した。

図3 VC2の幾何構造。

結合長の単位はA。括弧の中の数字は負イオンの結合長。

図4 V2C4-の幾何構造。

結合長の単位はA。

図5 (a)Co2C2-と(b)Co2C3-の幾何構造。

図中に結合距離(A単位)とスピン多重度(m)を示した。

図6 (a)Cr2O-, (b)Cr2C2-, (c)Cr2C3-の幾何構造。

図中に結合距離と,各原子位置でのスピン密度を示した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は5章からなる.第1章は序論である.遷移金属を含む二成分クラスター,特に,遷移金属炭化物と酸化物クラスターが,その特異な構造や磁性の発現,星間物質中への存在などの理由から大きな関心を集めていること,その中で,d電子の少ない遷移化合物の代表としてバナジウム,d電子の多い遷移化合物の代表としてコバルトを選び,それらの炭化物クラスターの電子構造,幾何構造を研究し,そして,磁性の発現が期待されるクロム酸化物クラスター構造研究をすることの意義が述べられている.

 第2章は実験手法の詳細が述べられている.本実験装置は,負イオンクラスターを選別する飛行時間差型質量分析器,負イオンクラスターの光電子分光測定のための磁気ボトル型電子分光器,そして,今回新しく開発したレーザー蒸発型のクラスター源からなる.クラスター源の性能評価,炭化物クラスター生成の最適条件が記述されている.また,解析法の詳細も述べられている.電子状態の計算は密度汎関数を用いて構造最適化を行い,エネルギーの低いいくつかの構造に対してエネルギー準位計算を行い,これから光電子分光法のスペクトルと比較するため,モデル構造に対して結合エネルギーを求める.

 第3章は,遷移金属炭化物クラスターとして,バナジウム炭化物,コバルト炭化物クラスターへの応用が述べられている.バナジウム炭化物はメタロカーボヘドレン(M8C12)形成が有名であるが,それにいたる過程としてV2C2-, V2C3-, V2C4-クラスターを選んだ.そしてこれらの負イオンの光電子分光スペクトルを測定し,理論計算との比較から最も確からしい構造モデルを提案している.それによると,V2C2はV2とC2ダイマーが非対称に結合した平面構造をとり,V2C3になると追加したCが三次元的にV2ダイマーに結合する.これに対して,Coクラスターの場合,Co2C2クラスターではほぼV2C2と同様な非対称な平面構造をとるが,Co2C3はCo2ダイマーとC3三量体が平面的に結合した構造をとるという結果が得られた.このようにCo炭化物クラスターが炭素同士で凝集する傾向は,d電子の多い遷移金属の場合,メタロカーボヘドレンを作らず,カーボンナノチューブ形成時の触媒として働くという性質と密接な相関があるものと思われる.

 第4章はクロム酸化物クラスターの電子構造,幾何構造に関する研究について述べられている.Mn酸化物クラスターがクラスターサイズによって強磁性的であるというStern-Gerlachの実験が報告されているが,Mnより原子番号の一つ少ないCr酸化物については理論計算の予測はあるものの実験的な研究はなかった.そこで,三種類のクロム酸化物Cr2O-, Cr2O2-, Cr2O3-について負イオンの光電子分光スペクトルの測定と理論計算から幾何構造と磁気構造を調べている.その結果,それぞれについて最も安定な幾何構造が光電子スペクトルを満足に説明できること,それらの構造で予測されるスピン磁気モーメントはそれぞれ,9μB, 9μB, 7μBで強磁性的であることを明らかにした.これらは酸素原子を通した超交換相互作用によって生じるものと理解できる.

 第5章は結論と要約である.

 本論文は負イオン光電子分光法と密度汎関数法を用いて,遷移金属炭化物,酸化物クラスターの幾何構造,電子構造を明らかにし,これから成長過程や新しい磁気構造について知見を与えるものとして,その価値は高い.

 なお,本論文は太田俊明,近藤保,寺嵜亨等との共同研究であるが,論文提出者が主体となって実験,解析,考察を行ったものであり,論文提出者の寄与が十分であると判断する.したがって,博士(理学)の学位を授与できると認める.

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