学位論文要旨



No 116916
著者(漢字) 林,友將
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,トモユキ
標題(和) 振動バンド形をプローブとした溶液中の微視的溶媒環境の動的特性
標題(洋) Dynamics of microscopic solvent environment studied by vibrational band shape analysis
報告番号 116916
報告番号 甲16916
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4179号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 教授 高塚,和夫
内容要旨 要旨を表示する

【序論】

 振動スペクトルは、分子構造のみならず、分子の置かれている局所的な環境に敏感であるため、微視的溶媒環境およびその動的特性の研究に非常に有用である。筆者は修士課程において分子動力学計算(MD)プログラムを製作し、MD計算と分子軌道(MO)計算を組み合わせて振動位相緩和、振動バンド形を計算する理論、プログラムを開発した。博士課程においては、MD/MOアプローチによる溶液中での振動数計算を溶媒の電子分極応答の揺動を含むよう発展させ、また振動位相緩和過程の非Gauss性を考慮した非対称バンドのシミュレーション手法の開発を行った。アセトンC=O伸縮振動のアセトニトリル溶液の赤外吸収バンド形について、シミュレーションおよび赤外吸収の精密測定を行い、真空中からの波数シフト、バンド幅および非対称性に注目して比較した結果、いずれもよく一致した。

【理論と計算】

1.振動バンド形と振動位相緩和(バンドの非対称性を含んだシミュレーション)

 これまでの研究では、振動位相緩和の過程は中心極限定理により近似的にガウス過程が成立するとして取り扱われてきた。しかしながら、その仮定の下では振動バンド形は常に左右対称になり、非対称バンドを記述することはできない。本論文では、振動自己相関関数のキュムラント展開の3次の項まで考慮することで、バンドの非対称性を考慮した。

 赤外吸収バンド形I(ω)は次式に示すように、分子の振動自己相関関数Cvib(t)および回転自己相関関数Crot(t)の積のフーリエ変換であらわされる。

振動自己相関関数Cvib(t)は揺動する瞬時振動数の時間積分を位相とする振動子の集団平均であらわされるが、キュムラント展開の3次まで計算して式変形することにより次式が得られる。

2次のキュムラントは瞬時振動数の2次相関関数〈δω(0)δω(t)〉、3次キュムラントは3次相関関数〈δω(0)δω(t1)δω(t1+t2)〉の時間積分を含んだ式であらわされる。2次相関による項は振動自己相関関数のノルムを時間とともに減衰させるのに対して、3次相関による項は振動自己相関関数の振動数を時刻とともに変調する(チャープさせる)。MDおよびMO計算から求まった各時刻での瞬時振動数から、その2次相関、3次相関関数を計算し、上式に従って振動自己相関関数を計算した。

2.久保理論の拡張

 久保理論においては、瞬時振動数の2次相関関数が〈δω(0)δω(t)〉=〈δω2〉e-it/τのように相関時間τで指数関数的に減衰するとして、bandshape functionを導出する。本論文では久保理論を拡張し、3次相関関数も同様の減衰〈δω(0)δω(t1)δω(t1+t2)〉=〈δω3〉e-i(t1+t2)/τを仮定することで、非対称性を含んだbandshape functionを導出した。相関時間τ1をとする緩和過程が複数存在するときの時間領域における表式は次のようになる。

この式を、実測バンド形の時間領域での解析に用いた。

3.溶質の溶液中での瞬時振動数の計算

 溶液中での溶質の各時刻での瞬時振動数は、Coulomb、Lennard=Jones(LJ)相互作用によって真空中の値からシフトする。Coulomb相互作用による振動数変化の計算のためにDirect Field/Reaction Field法(DF/RF法)を開発した。この方法では、溶質の着目する振動モードについて、溶媒が作る静電的環境に対する振動数の依存性をMOによって求め、MD計算による溶質溶媒のトラジェクトリとあわせて、瞬時振動数を各時刻で計算する。具体的には、振動数変化を、溶媒の固定電荷が作る静電場〓directおよび溶媒の電子分極の反作用場応答(反作用場係数g)について次式のように2次までTaylor展開する。

展開係数は、SCRF法と電場のFinite Field計算を組み合わせて求めた。プログラムはGAMESS、計算レベルはB3LYP/6-31+G*である。LJ相互作用による振動数変化には半古典摂動法を用いた。

【結果と考察】

1.瞬時振動数および分極の時間発展(動的分極構造)

 シミュレーションによって計算されたアセトン1分子のアセトニトリル溶液中でのC=O伸縮の瞬時振動数および分極の時間発展を図1に示す。瞬時振動数はCoulomb相互作用によって真空中から大きく低波数シフトし、溶媒環境の時間変化に従って揺動している。双極子モーメントも、瞬時振動数に対応して揺動している。また、アセトンは517psにおいて、大きく分極した構造(5.3 Debye)をとっている。シミュレーションでは1 nsに1回程度の割合でこのような構造が表れた。これはカルボニル基がほぼ完全に分極した構造に対応している。極性溶媒中でのアセトンへの求核反応にはこのような分極構造が関与している可能性が示唆される。

2.バンド形のシミュレーションおよび実験結果

2.1真空中からの波数シフト、バンド幅

 アセトンC=O伸縮振動のアセトニトリル溶液での赤外吸収バンドの真空中からの波数シフト、バンド幅について、DF/RF法による計算結果を従来の半古典摂動法による計算および実測とともに表1に示す。DF/RF法による計算は波数シフト、バンド幅ともに実験値を非常に良く再現した。

2.2バンド形の非対称性についての計算、実験結果

 さらに、このバンドについて精密測定を行った結果、わずかに非対称であることが分かった。このバンド形の非対称性に注目し、シミュレーション結果、実験結果およびLorentzフィットとの残差をそれぞれ図2、図3に示す。2次相関のみのシミュレーションによるバンド形は左右対称であるため、残差がピーク位置に対して左右対称であるのに対して、3次相関まで含めたバンド形は非対称となり、残差はピーク位置で微分形になっている。これは、遅い緩和を示すCoulomb相互作用による位相緩和の非Gauss性により、遅い時間領域に対応するピーク付近のバンド形が非対称になったためである。一方、実験値の残差も3次相関を考慮したシミュレーションと同様にピーク位置で微分形をとっている。このように、アセトンC=O伸縮振動バンド形の溶液中での非対称性について3次相関を考慮したシミュレーションにより初めて再現することができた。

3.実測バンドの時間領域解析

 実測バンド形から振動位相緩和過程についてのさらに詳細な情報を得るために、時間領域における解析を行った。測定された図3のバンド形を逆フーリエ変換して振動自己相関関数を求めた。そのノルムおよびバンドの非対称性に伴う振動の位相シフトをシミュレーション結果とともに図4、5に示す。振動自己相関関数のノルムについては実測およびシミュレーションは非常に良く一致し、位相シフトの方向も一致した。実験値による2つのプロットを、単一指数関数であらわされる2つの振動位相緩和過程が存在すると仮定してフィッティングを行った。2つの振動位相緩和成分の緩和時間のフィッティング結果とシミュレーション結果を表2に示す。フィッティングによる結果から逆フーリエ変換に伴う応答関数(0.3ps)を差し引くことにより、フィッティングとMDは良く一致している。いずれの結果でもCoulombによる緩和時間が長く、LJによる緩和時間が短くなっており、これはCoulomb相互作用が溶質溶媒の集団的運動に、LJが局所的衝突に対応していることと矛盾しない。

【まとめ】

 DF/RF法による溶液中での赤外吸収バンドのシミュレーションは、実験結果と波数シフト、バンド幅ともによい一致を示し、赤外吸収バンドから溶液内での静電環境の揺動とそれによる溶質の動的分極構造について既存の手法では得られなかった貴重な情報が得られる事が分かった。赤外吸収バンド形の精密測定とバンドの非対称性を考慮したシミュレーションから、Coulomb、LJ相互作用による2つの振動位相緩和過程を分離して解析できることを初めて明らかにした。

図1 アセトンC=O伸縮振動の瞬時振動数および分極の時間発展

瞬時振動数(実線);双極子モーメント(破線)

表1 アセトンC=O伸縮振動の振動数シフトとバンド幅

Semiclassical:従来の計算(クーロンによる波数シフトの計算に半古典摂動法を用いた)、DF/RF:本論文での計算、Obs:実

図2 シミュレーション結果

シミュレーション結果(縦軸下)、Lorentzフィットとの残差(縦軸上)

図3 実験結果

実験結果(縦軸下)、Lorentzフィットとの残差(縦軸上)

図4 振動自己相関関数のノルム

実験値(破線)、計算値(実線)

図5 バンドの非対称性に伴う振動自己相関関数の位相シフト

実験値(破線)、計算値(実線)

表2 2つの振動位相緩和成分の緩和時間

括弧内は実測の逆フーリエ変換にともなう応答関数

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、溶液中での振動位相緩和、振動バンド形の新しい理論解析手法であるDF/RF (Direct Field/Reaction Field)法の開発と、そのアセトンC=O伸縮振動のアセトニトリル溶液中での赤外吸収バンド形への応用を主題として6章から構成されている。第1章では導入として、振動バンド形、振動位相緩和および溶媒誘起動的分極構造の関係と、振動バンド形をプローブとした溶液研究の意義が述べられている。第2章では、振動バンド形、振動位相緩和についての基礎となる久保理論について概説し、また振動バンドの従来のシミュレーションによる研究の特徴および問題点を述べ、本論文でのDF/RF法が従来の手法の問題点を克服するものであることが示されている。第3章ではDF/RF法について、その基礎となる溶質溶媒相互作用ハミルトニアンの構築と、実際の計算について詳しく述べられている。溶質溶媒間のCoulomb相互作用を、溶媒の固定電荷による電場、Direct Fieldと電子分極による反作用場、Reaction Fieldに分けてモデル化し、それらをパラメーターとして溶質の分子軌道計算を行うことで、少ない計算コストで溶質の電子状態変化や溶媒の電子分極を取り込んだシミュレーションが可能になっている。第4章では基本的な極性分子であるアセトンについて、アセトニトリル溶液中でのC=O伸縮振動の赤外吸収バンドのシミュレーションを行っている。ピーク位置、バンド幅ともにシミュレーション結果は実験結果をきわめてよく再現しており、従来の半古典摂動法と比較して良い結果が得られることが示された。バンド形への寄与はCoulomb相互作用が支配的であり、赤外吸収バンドから溶液内での静電環境の揺動とそれによる溶質の動的分極構造についての情報が得られる事が分かった。また、1nsに1回程度カルボニルがほぼ完全に分極した構造をとっており、こうした構造が極性溶媒中でのカルボニルへの求核反応に寄与することが示唆された。第5章では、バンド形の非対称性を含んだシミュレーションの開発と、第4章の系への応用が述べられている。まず瞬時振動数の3次相関をシミュレーションで考慮することで非対称性を含んだバンド形の計算ができることが示され、次に久保理論が非対称性を含んだ形式に拡張されている。アセトンC=O伸縮振動のアセトニトリル溶液中でのバンドの非対称性について計算は実験で得られた傾向を正しく再現している。CoulombおよびLJ相互作用それぞれによる振動位相緩和過程について、非対称性の原因である非Gauss性の起源について考察し、それぞれの過程の非Gauss性の大小と相互作用距離の大小との関連が示唆されている。さらに、実測バンド形の時間領域での解析からCoulombおよびLJーションと誤差範囲で一致している。第6章では、これらの結果のまとめと今後の研究の方針が示されている。

 本論文において提出者は、ピークシフト、バンド幅に加えて非対称性も含めて振動バンド形を計算できる新しいシミュレーション手法を開発し、その手法をアセトンC=O伸縮振動のアセトニトリル溶液に適用した。赤外吸収バンド形のシミュレーションと実験の比較から、溶液内での静電環境の揺動とそれによる溶質の動的分極構造について既存の手法では得られなかった貴重な情報が得られる事を明かにした。また、赤外吸収バンド形の精密測定とバンドの非対称性を考慮したシミュレーションから、Coulomb、LJ相互作用による2つの振動位相緩和過程を分離して解析できることを初めて明らかにした。これらの業績は独創性に富み、また信頼できるシミュレーションと精密に実行された実験に基づいており、極めて高く評価される。

 本論文の第4章の一部は、Chemical Physics Letters誌に公表済み(濱口宏夫との共著)であるが、論文提出者が主体となって理論構築、計算および実験を行っており、その寄与が十分であることから、学位論文の一部とすることに何ら問題はないと判断する。

 以上の理由から、論文提出者林友將に博士(理学)の学位を授与することが適当であると認める。

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