学位論文要旨



No 116917
著者(漢字) 平松,弘嗣
著者(英字)
著者(カナ) ヒラマツ,ヒロツグ
標題(和) 電場変調赤外分光法の開発および液体中の分子構造の研究
標題(洋) Development of Infrared Electroabsorption Spectroscopy and Its Application to Molecular Structures in Liquids
報告番号 116917
報告番号 甲16917
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4180号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 友田,修司
 東京大学 教授 小林,昭子
内容要旨 要旨を表示する

 化学結合の形成や化学反応の進行など化学にとって最も基本的な事象は、原子間の電気的相互作用に支配されている。これらの電気的相互作用に関する理解を深める目的で、外部電場に対する分子の応答を分光学的に観測する実験、電場変調分光が行なわれてきた。これを振動分光法に応用すると、分子構造を直接に反映した分子の電場応答に関係する知見が得られると期待される。しかし従来、液晶の集団運動としての電場配向を観測した例を除いては常温液体試料を対象とした中赤外領域での電場変調赤外分光測定は報告例がない。これは電場応答信号すなわち赤外吸収スペクトルに現れる吸収強度の増減が非常に小さいという実験上の困難に由来する。今回、上記条件での電場変調赤外分光測定を実現し、幾つかの系に関して研究を行なった。本研究は以下の部分からなる。すなわち(1)電場変調赤外分光装置の開発、(2)電場応答信号強度と信号形状の定式化およびアセトンを用いた検証、(3)1, 2-ジクロロエタンの電場誘起トランス・ゴーシュ内部回転異性化の研究、(4)N-メチルアセトアミドの溶液中での会合構造の研究、である。これらに関して以下に述べる。

(1) 電場変調赤外分光装置の開発

 電場変調赤外分光装置図を図1に示す。装置はMoSi2高輝度光源、電場変調測定用セル、分散型分光器、MCT検出器、AC結合アンプ系、およびロックイン検波器からなる。AC結合法により試料透過光のうち印加電場周波数の2倍周期で変化する成分を検出し、電場印加に由来する吸光度変化ΔAを求めた。この方式でのΔA検出下限6×10-8は従来の差スペクトル方式での検出下限〜10-5を3桁近く上回る。

 自作した測定用セル(図2(a))はA, A':セルホルダー、B, B':シリコン板(電極兼窓板、抵抗率0.8-2Ωcm)、C:スペーサー(5μm)からなる。セルの等価回路は最も簡単には接触抵抗Rの存在によりCR直列回路として取り扱うべきものである。この場合Rでの電圧降下により、サンプルに印加される電場の強度および位相は実験的に印加した電場と異なったものになる。その結果として信号強度の周波数依存性が観測されることが見い出された(図3)。電子分極信号の位相をプローブとして「電圧降下と位相遅れ」の程度を検討し補正する必要がある。分子の応答のうち電子分極は1ps以内に完了するため、今回の実験条件では摂動に対する位相遅れが無視できる。以下の実験において印加電場はsin波、25kHz, 50VO-pとした。実測ΔAスペクトルは赤外吸収バンドの0次・1次・2次微分形(それぞれ面積、ピーク位置、幅の変化)の和としてよく表される。0次微分形は分布数変化、配向分極、1次・2次微分形は各振動モードの振動励起状態での電子分極についての情報を与える。今回は0次微分成分に注目した。

(2) 電場応答信号強度と信号形状の定式化およびアセトンを用いた検証

 極性分子においては、電場印加に伴う配向分極により生じる永久双極子モーメントμpの空間分布異方性に由来して吸光度が変化する(配向変化信号)。吸光度変化率ΔA/Aは、γ3以上の項を無視する近似のもと

で与えられる。ここでαはμpと振動遷移モーメントのなす角度、χは印加電場Eと入射赤外光電場ベクトルeのなす角度である(図2(b))。γは電場-双極子相互作用パラメータであり、通常の実験条件ではγ≪1である(fは電場強度補正係数)。この関係を確認するために、極性分子アセトン(1.0 mol dm-31, 4-ジオキサン溶液)の1710cm-1のC=O伸縮振動(α=0°)バンドおよび1215cm-1のCCC逆対称伸縮振動(α=90°)バンドに注目してΔAスペクトルのχ依存性を測定した。各バンドでの測定結果(図4実線)は、関係式(1)で与えられる配向変化信号および電子分極に由来するピークシフトを考慮することで再現され(図4点線)、関係式(1)が成立していることが確認された。また、χ=54.7°とした場合には、観測されたΔAスペクトルは1次微分形となり、αの値によらず検出されない(図5)という配向変化信号の特徴も確認された。

(2) 1, 2-ジクロロエタンの電場誘起トランス・ゴーシュ内部回転異性化の研究

 1, 2-ジクロロエタン純液体の赤外吸収スペクトルを図6下段に示す。観測されたバンドはそれぞれゴーシュ形(G)およびトランス形(T)に帰属される。ゴーシュの振動バンドは振動モードの対称性からa, bに分類できる。電場変調赤外吸収差スペクトルを図6上段に示す。それぞれは角度χが90°, 66°, 53°での測定結果である。χ=90°でのΔAスペクトルではG, bのバンドで大きな吸収強度の増加、Tのバンドで大きな吸収強度の減少、G, aのバンドでは小さな構造が観測され、またχ=53°でのΔAスペクトルにおいて、Gでは吸光度が増加し、Tでは吸光度が減少した。χ=53°とした場合には配向変化信号は観測されないことから、χ=53°で観測されたΔA信号は各異性体の分布数変化に起因するものであり、一方χ=90°での測定結果は分布数変化信号と配向変化信号の重ね合わせであると考えてこれらの結果をよく説明することが出来た。

 これらの結果に対して印加電場とゴーシュの永久双極子モーメントの相互作用を考慮し、平衡定数K0ならびに2種類の電場双極子相互作用パラメータ、すなわちトランス・ゴーシュの自由エネルギー差ΔGの変化に関係するγcquおよびゴーシュの配向変化に関係するγisoを用いることにより解析を行なった。得られたパラメータを表2に示す。

 今回の実験結果から得られた平衡定数K0=1.4±0.2と、エンタルピー差ΔH=0.0kJ mol-1(文献値)からエントロピー差ΔS=-3.0±1.4JK-1 mol-1を得た。エントロピー差に対する振動回転分配関数の寄与を差し引き、ゴーシュ形とトランス形の並進エントロピー差ΔStranslationが-2.6±1.4JK-1 mol-1と求まった。この結果はゴーシュ体に割り当てられた空間がトランス体の73±12%であることを示唆する。また、電場双極子相互作用パラメータγの値は実験条件から期待される値γ=0.02とよい一致を示すことから、1, 2-ジクロロエタンの電場応答は、電場双極子相互作用を考慮することによりよく説明できると考えられる。ゴーシュの配向変化に関係するγoriは自由エネルギー差の変化に関係するγequより1割程度小さいものであった。この結果からも同様に、凝縮相中でゴーシュの回転運動が妨げられていることが予想される。これらの解析結果は、ゴーシュ形同士の間に働く双極子間相互作用に由来するものであると考えられる。

(3) N-メチルアセトアミドの溶液中での会合構造の研究

 N-メチルアセトアミド(0.2 mol dm-3 1, 4-ジオキサン溶液)の赤外吸収スペクトルを図7下段に示す。アミドA、アミドI、アミドIIに注目した。電場変調赤外吸収差スペクトルを図7上段に示す。χ=39°-90°の範囲でΔAスペクトルの角度χ依存性の測定を行なった。ここでは溶液中での単量体および会合体の配向変化信号を区別して検出することにより、それぞれに関して構造情報を得ることを試みた。配向変化信号の強度変化率は分子構造に関係するパラメータμp, αと関係がある(式(1))。

 実験結果から、χに依存する成分、およびχに依存しない成分を抽出するためにSVD解析を行なった。配向変化信号はχに依存する成分であることから、今回はχに依存する成分に注目した(図8a○)。赤外吸収スペクトルと抽出したχ依存成分に関してバンド分解を行なった。赤外吸収スペクトル(図8b○)は図8b実線のようによく再現された。考慮したのは単量体の寄与(図8bの点線バンド)、および会合体の寄与(図8bの灰色バンド)である。さらに、角度依存成分(図8a○)は図8a実線のようによく再現できた。考慮したのは赤外吸収スペクトルに現れる単量体バンドの0次微分形+1次微分形(図8aの点線バンド)、および会合体バンドの0次微分形(図8aの灰色バンド)である。ここで用いた0次微分形が、注目する配向変化信号である。

 単量体の配向変化信号を、関係式(1)と文献値μp=4.4Dを用いて解析し、アミドA、アミドI、アミドIIそれぞれの振動モードに関して角度αを求めた(表2)。これらの結果はアミドA、アミドI、アミドIIそれぞれの振動が主にNH伸縮振動、C=O伸縮振動、(NH変角+CN伸縮)振動であるという従来の描像と一致する。単量体と同じαの値を仮定して会合体バンドの配向変化信号を解析すると、μp=9Dという結果が得られた。これは今回検出した会合体が直鎖型2量体構造(図9)であることを示すものである。

 本手法により赤外吸収スペクトルに現れる不均一幅を構成する複数の化学種に関して、個別に構造情報を求めることが可能になった。溶液系の微視的不均一性を分子の会合構造として分類するための有力な手法になると期待される。

図1 電場変調赤外分光装置

図2 (a)電場変調セル(本文参照)(b)角度χ

図3 電場変調信号強度の周波数依存性

図4 アセトンΔA信号のχ依存性測定結果(実線)、再現結果(点線)

図5 配向変化信号のα依存性およびχ依存性

図6 1, 2-ジクロロエタン測定結果

上段:電場変調赤外吸収差スペクトル(χ=90°, 66°, 53°での測定結果)下段:赤外吸収スペクトル

表1 1, 2-ジクロロエタン解析結果

図7 N-メチルアセトアミドΔA信号χ依存性測定結果

図8 (a)ΔA配向変化成分(○)、再現結果(実線)、配向変化信号の構成成分、(b)赤外吸収スペクトル(○)、再現結果(実線)、構成成分

表2 N-メチルアセトアミド解析結果

図9 N-メチルアセトアミドの2量体構造

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、新しい分子分光手法である電場変調赤外分光法(Infrared electroabsorption spectroscopy)の開発と液体中の分子構造研究への応用を主題として、7章から構成されている。

 第1章では導入として、従来の電場変調分光研究例の紹介ならびに電場変調赤外分光法の意義が述べられている。

 第2章では本研究に用いられた実験装置の詳細が述べられている。吸光度変化の検出下限は6×10-8という非常に小さいものであり、これにより従来不可能であった測定を可能にした。

 第3章は本研究の理論的基盤に関する記述である。配向分極ならびに電子分極の取扱いから出発し、本論文で注目する分布数変化および配向変化に由来する信号の特性が述べられている。

 第4章には、測定結果を解析する上での注意点の詳細がまとめてある。周波数依存性、ベースラインなど分子の応答以外の見かけの信号を与える原因を明らかにした後、典型的な極性分子であるアセトンの測定結果を例として、第3章で導出した理論式の妥当性を検討している。

 第5章では電場誘起の分布数変化信号に注目した例として、1, 2-ジクロロエタンの電場誘起内部回転異性化反応に関する研究が述べられている。異性化反応の平衡定数が1.4±0.2であること、ならびに1×107V/mの電場印加によりトランス形が0.0065%減少しゴーシュ形が0.0040%増加すること、を見い出し、このような結果を与える理由に関して考察を行なった。

 第6章には、電場誘起の配向変化信号に注目した例として、1, 4-ジオキサン中でのN-メチルアセトアミドの会合構造の研究が記述されている。今回検出された会合体が直鎖型2量体であることを証拠付けるとともに、本手法が赤外吸収スペクトルの不均一幅を与える複数の化学種に関して、個別の構造情報を得るための有力な手法であることを示唆している。

 第7章では本手法を用いた今後の課題が簡潔に記述されている。

 本論文において提出者は、従来不可能であった常温、溶液中での赤外指紋領域の電場変調測定を実現し、分子の電場応答のうち分子構造変化および配向変化に注目して解析を行なった。その結果、提出者は本手法が内部回転異性化および液体中の会合構造といった化学的に興味深い系の特性を解明するために非常に有力であることを示した。これらの業績は独創性に富み、実験の精密さおよび解析の適切さなどの面を含め、極めて高く評価される。

 本論文第5章はChemical Physics Letters誌に公表済み(加藤千尋、濱口宏夫との共著)であるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行なっており、その寄与が十分であるので、学位論文の一部とすることに何ら問題はないと判断する。

 以上の理由から、論文提出者平松弘嗣に博士(理学)の学位を授与することが適当であると認める。

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