学位論文要旨



No 116930
著者(漢字) 吉原,誠一
著者(英字)
著者(カナ) ヨシハラ,セイイチ
標題(和) マウス嗅覚受容体遺伝子MOR28クラスターの解析
標題(洋)
報告番号 116930
報告番号 甲16930
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4193号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 小林,一三
 東京大学 教授 中村,義一
 東京大学 教授 伊庭,英夫
 東京大学 教授 田之倉,優
 東京大学 講師 名川,文清
内容要旨 要旨を表示する

ヒト及びマウスの嗅覚系には、偽遺伝子を含め約千個の嗅覚受容体遺伝子が存在し、これらはクラスターをなしてほぼすべての染色体に見いだされる。個々の嗅神経細胞においては、これら遺伝子群の中から一種類の嗅覚受容体遺伝子が選ばれてmono-allelicに活性化される。また嗅細胞の嗅球への軸索投射に際しては発現している嗅覚受容体の種類に応じて嗅球の特定の位置(糸球)に投射がおこる。私は嗅覚受容体遺伝子の相互排他的発現調節および特定の糸球への軸索投射の関連を遺伝子の側から解明するため、マウス14番染色体に存在する嗅覚受容体遺伝子MOR28クラスターの解析を行った。さらに、私は、進化の過程で嗅覚受容体遺伝子がどの様にして現在のクラスターを形成したのかを明らかにするため、MOR28クラスターおよびヒトゲノムにおける嗅覚受容体遺伝子のゲノム解析を行った。

結果

ゲノム解析からMOR28クラスターにはMOR28,10,83,29A,29B,30の6つの嗅覚受容体遺伝子が存在していることが明らかになった。この6つの遺伝子が嗅上皮上でどのような発現パターンを示すのかを調べるためにこれら6つの遺伝子をプローブにして嗅上皮に対してin situ hybridizationを行った。その結果MOR28,10,83遺伝子は嗅上皮のゾーン4と呼ばれる領域でMOR29A,29B,30遺伝子は嗅上皮のゾーン1でのみ発現が観察された。さらに同じゾーン4の領域で発現している互いに相同性のある3つの嗅覚受容体MOR28,10,83遺伝子についてdouble labeled in situ hybridizationを行った。その結果MOR28,10,83遺伝子は同一クラスターに存在し互いに高い相同性を有しているが相互排他的に発現することが明らかになった。

MOR28クラスターのゲノム構造から嗅覚受容体遺伝子の発現制御領域を推定するために、嗅覚受容体遺伝子の周辺領域に遺伝子同士で相同性のある領域があるかを調べるためにPIP解析を行った。その結果、MOR28とMOR10遺伝子はコーディング領域だけでなく周辺領域においても高い相同性を示していた。周辺領域のなかでもMOR28とMOR10遺伝子のコーディング領域下流に存在する長さ1kbの領域(DCR)は塩基配列レベルで94%とコーディング領域よりも高い相同性を持っていた。このDCRはMOR28とMOR10遺伝子の下流の他に10番染色体にもう1ヶ所存在していることが明らかになった。6つの嗅覚受容体遺伝子においてMOR28とMOR10遺伝子以外の組み合わせでは周辺領域において相同性のある領域は特に見つからなかった。

嗅覚受容体遺伝子クラスターにリンクして存在し嗅覚受容体遺伝子の発現制御もしくは嗅細胞の軸索投射に関与する遺伝子が存在するかを解析するために、direct cDNA selection及びMOR28クラスターのゲノム配列を元にした遺伝子予測を行ったがMOR28クラスター内には6つの嗅覚受容体遺伝子以外に遺伝子は見つからなかった。

次に嗅覚受容体遺伝子の発現制御領域の候補として核マトリックスに結合し遺伝子の転写活性の境界となっていると考えられているMAR(matrix attachment region)に注目した。MOR28クラスターのゲノム配列からMARの部位の予測を行ったところ、6つの嗅覚受容体遺伝子それぞれの近傍にMARの存在が予測された。そこでMARの嗅覚受容体遺伝子の選択的発現制御における役割を明らかにするために、MOR10遺伝子の上流近傍に予測されたMAR領域を欠失したコンストラクトを持つトランスジェニックマウスを作製した。解析の結果、MAR領域を欠失したマウスではMOR28,10,83遺伝子は野生型と同様にそれぞれ相互排他的に発現していたが、MOR10とMOR83遺伝子の発現細胞数がMOR28遺伝子の発現細胞数に比べて低下していた。

MOR28,10,83遺伝子発現細胞がその軸索を嗅球上のどの糸球に投射するのか、またそれら3つの投射先はお互いにどのような位置関係を示すかを調べるためにマウス嗅球切片に対しMOR28,10,83遺伝子をそれぞれプローブにしてin situ hybridizationを行った。その結果、同一クラスター上にタンデムに並んで存在し、互いに高い相同性を持っているMOR28,,10,83遺伝子発現細胞の軸索投射先は互いに近接して存在した。マウス2番染色体上のクラスターに存在する互いに高い相同性を持っているA16,MOR18の2つの遺伝子の発現細胞の投射先についても互いに近接していることが明らかになった。

嗅覚受容体遺伝子クラスターの形成機構を進化的に解析するためにMOR28クラスターとヒトのオルソログであるHOR10クラスター及びヒトゲノムにおいて互いに似た嗅覚受容体遺伝子(90%以上の塩基配列の同一性を持つもの)の周辺領域についてゲノム解析を行った。MOR28クラスターにおいてMOR28とMOR10の対とMOR29AとMOR29Bの対はコーディング領域において互いに高い相同性(90%以上)を持っていた。解析の結果、進化の過程で28と10遺伝子はヒトとマウスが分岐した後にマウスにおいてのみ遺伝子重複によって生じたものであり、29Aと29B遺伝子はヒトとマウスの分岐以前に存在していたが、コーディング領域で遺伝子変換が起こり配列の相同性が維持されていることが示唆された。一方ヒトゲノムにおいても高い相同性を持つ遺伝子対は28と10遺伝子のような遺伝子重複によって生じたと推測されるもの(ただし、ヒトゲノムにおいては同一クラスター内で重複したものと異なる染色体間で重複したと推測されるものの2つの場合が存在した。)と29Aと29B遺伝子のような遺伝子変換により配列の相同性が維持されていると推測されるものがそれぞれ複数例見つかった。さらにヒトゲノムにおいて遺伝子重複が推測される嗅覚受容体遺伝子の高い相同性を持つ周辺領域の長さを測定したところ、異なる染色体間に存在する場合のほうが同一クラスター内に存在する場合よりも高い相同性を持つ周辺領域が長いことが明らかになった。

考察と展望

MOR28,MOR10,MOR83遺伝子発現細胞及びA16,MOR18遺伝子発現細胞の投射先の解析から同一クラスター上に存在し、互いに高い相同性を持っている嗅覚受容体遺伝子発現細胞の投射先は互いに近接して存在する傾向にあることが明らかになった。これら互いに相同性がある嗅覚受容体タンパクは似た構造の匂い分子を認識すると推定される。一方、嗅神経細胞の接続先であるmitral cellの電気生理実験からは次のことが明らかになっている。介在神経を介したlateral inhibitionによって隣り合ったmitral cell同士の似た構造の匂い分子に対する反応応答性の違いが糸球に入力する嗅神経細胞の反応応答性の違いよりも際立っていると考えられている。互いに高い相同性を持っている嗅覚受容体遺伝子発現細胞の投射先が近接することでlateral inhibitionを介した似た構造の匂い分子の識別を可能にしていると考えられる。また、ヒトゲノムの解析で明らかになった遺伝子変換によってコーディング領域での高い相同性が維持されていると推定された嗅覚受容体遺伝子の対は非常に似た構造の匂い分子を認識し、2つの遺伝子発現細胞の投射先は近接していると推定される。この遺伝子対は非常に似た構造の匂い分子を識別するために進化の過程で遺伝子変換によってコーディング領域での高い相同性が積極的に維持されてきたと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、4部からなり、第1部はマウス嗅覚受容体遺伝子MOR28クラスターのゲノム構造解析、第2部はMOR28クラスターに存在する嗅覚受容体遺伝子の発現、第3部はMOR28クラスターに存在する嗅覚受容体遺伝子発現細胞の投射、第4部は、ヒトゲノムにおける嗅覚受容体遺伝子のゲノム解析について述べられている。

 ヒト及びマウスの嗅覚系には、偽遺伝子を含め約千個の嗅覚受容体遺伝子が存在し、これらはクラスターをなしてほぼすべての染色体に見いだされる。論文提出者は、進化の過程で嗅覚受容体遺伝子がどの様にして現在のクラスターを形成したのかを明らかにするため、マウス14番染色体に存在する嗅覚受容体遺伝子MOR28クラスターの解析を中心に行った。ゲノム解析およびdirect cDNA selectionによる解析を行い、このクラスターには6つの嗅覚受容体遺伝子(MOR28,10,83,29A,29B,30)が存在していることを明らかにした。これらのうちゲノム上で隣接しているMOR28,10,83について、遺伝子発現と発現細胞の軸索投射を詳細に解析し、これら嗅覚受容体遺伝子を発現する嗅神経細胞の投射先が脳において近接している事を明らかにした。これは、嗅覚受容体遺伝子の染色体上でのlinkageと投射先のlinkageに相関のあることを示した最初の例である。このクラスターの中でMOR28とMOR10の対とMOR29AとMOR29Bの対はコーディング領域において互いに高い相同性(90%以上)を持っている。ヒトのオルソログであるHOR10クラスターと比較した結果、進化の過程で28と10遺伝子はヒトとマウスが分岐した後にマウスにおいてのみ遺伝子重複によって生じたものであり、29Aと29B遺伝子はヒトとマウスの分岐以前に存在していたが、コーディング領域で遺伝子変換が起こり配列の相同性が維持されていることが示唆された。論文提出者はさらに、互いに似た嗅覚受容体遺伝子(90%以上の塩基配列の同一性を持つもの)をヒトゲノムにおいて探索し、高い相同性を有している嗅覚受容体遺伝子の対が多数存在することを明らかにした。これらの塩基配列を比較する事により、遺伝子重複がどの様に起こったのかについて推察している。また、これらの中には、コーディング領域の相同性が遺伝子変換によって積極的に維持されていると考えられる遺伝子対のあることも明らかにした。これらの結果を踏まえ、論文提出者は、ほ乳類においては匂い分子の識別に相似した遺伝子が積極的に活用されているというモデルを提唱している。なお、本論文第1部と第4部は坪井昭夫・名川文清との共同研究、第2部と第3部は、坪井昭夫・山崎仁香・笠井宏朗・坪井(浅井)久恵・小松円香・芹沢尚・石井智浩・松田洋一・名川文清・坂野仁との共同研究であるが、論文提出者が主体となって解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク