学位論文要旨



No 116939
著者(漢字) 谷本,拓
著者(英字)
著者(カナ) タニモト,ヒロム
標題(和) Dppモルフォゲンの作用調節機構
標題(洋)
報告番号 116939
報告番号 甲16939
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4202号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西郷,薫
 東京大学 教授 秋山,徹
 東京大学 助教授 能瀬,聡直
 東京大学 教授 宮園,浩平
 東京大学 教授 多羽田,哲也
内容要旨 要旨を表示する

1.序論

 発生過程に見られる均一な細胞集団から特定の構造が形成される機構はパターン形成と呼ばれており、発生生物学の中心的課題である。本研究ではショウジョウバエ翅の前後軸をモデルとし、オーガナイザーによるパターン形成機構を明らかにすることを目的とした。翅の前後軸は、細胞系譜により、前部と後部の二つのコンパートメントに分けられる。翅中央部分(前後コンパートメントの境界領域)はオーガナイザー活性を持つことが明らかになっており、その分子実態は、TGF-βスーパーファミリーに属するDpp (Decapentaplegic)による位置情報勾配である。前後コンパートメントの境界領域におけるストライプ状のdpp遺伝子の発現は、後部コンパートメント特異的に分泌され、そこから拡散するもう一つのモルフォゲンであるHhの作用によって誘導される。

 Dppはこの細胞から分泌され拡散し、翅全体にわたって濃度勾配を形成する。このことでDppはコンパートメント境界領域からの位置情報を周囲の細胞に供給していると考えられいた。Dppがモルフォゲンとして働いているという知見は、内在性のDppタンパク質の濃度勾配を視覚化する手段がなかったため、ターゲット遺伝子の発現パターンの観察から得られた。また、周囲の細胞がどのようにDppの濃度を核に伝え、遺伝子発現を誘導しているかは明らかにされていなかった。

 本研究はショウジョウバエ翅において長距離モルフォゲンとして働くDppの組織内における活性勾配を初めて視覚化することに成功し、モルフォゲンの読みとりはリガンドの濃度に従った単純な勾配ではないことを見出した。さらに、Dppの活性勾配はDpp受容体であるtkv (thick veins)の発現レベルに密接に関係していることを明らかにした。

2.リン酸化されたMadの検出によるDppシグナルの相対活性の視覚化

 TGF-βファミリーのシグナル伝達では、R-Smadと総称される細胞質に存在するタンパク質が活性化されて核移行し、ターゲット遺伝子の発現を調節する。ショウジョウバエでは、Dppシグナルに応答して働くR-SmadとしてMadが同定されている。R-Smadは最もC末端にSer-Ser-X-Serというモチーフを持ち、活性化type I受容体によって直接リン酸化される。従って、リン酸化されたR-Smadの量は受容体に結合したDppシグナルの量を直接反映するものである。この性質に着目し、受容体によってリン酸化されたMadタンパク質を検出することで、Dppシグナルの強度を視覚化することを試みた。Perssonらは、ヒトのSmad1, Smad5の、リン酸化されたC末端に相当する合成ペプチド(SSVS)をエピトープとして、これに対する抗体(PS1)を作成した。この部分の配列は、ショウジョウバエの相同遺伝子であるMadのものと同じであるため、PS1が、生体内においてtype I受容体にリン酸化されたMadと交差するかどうかについて検討した。

 Madタンパク質は一様に発現していることが知られているが、培養細胞、生体内の両方において、Dppシグナルの強度依存的にPS1の交差が観察された。これらの結果から、PS1はリン酸化Madを特異的に認識し、このシグナルはDppシグナルの強度の指標となることがわかった。

3.翅成虫原基におけるDppモルフォゲンの活性勾配

 次に、この抗体を用いて、翅成虫原基におけるDppシグナルの相対強度を組織染色によって視覚化した。実際、各成虫原基において、Dppの活性勾配は予想されていた通りdppの発現部位を中心として勾配を描いていることが分かった。翅においてはdpp発現部位付近では急な勾配を描き、発現部位より離れるに従い緩やかな勾配を形成していることを見出した。これは周囲の細胞がDppシグナルを勾配として読みとっていることを直接的に示した初めての例である。

4.HhによるDppシグナルの負の制御

 リン酸化Madのパターンを解析すると、翅成虫原基においてリン酸化Madの量は必ずしもリガンドの濃度に依存していないことに気づいた。驚いたことに、Dppタンパク質の濃度が最も高いと思われる前後コンパートメントの境界領域でリン酸化Madの量が低下しており、Dppシグナルが弱められていることを見出した。ターゲット遺伝子の発現もこのリン酸化Madの低下を反映して、dpp発現細胞で低下している。異所的にdppを過剰発現させても、リン酸化Madのパターンには変化が見られないため、Dppシグナルの負のフィードバック機構が働いているわけではないことがわかった。

 dpp遺伝子の発現はHhによって誘導されるため、私たちは別のモルフォゲンであるHhが直接Dppシグナルに作用し、Dppへの反応性を低下させているのではないかと考え、これを遺伝学的に証明した。Hhシグナルの受容に必須なsmoの変異クローンを作ることでHhシグナルを遮断すると、細胞自律的にリン酸化Madとターゲット遺伝子の低下が回復した。このことはHhが直接Dppシグナルへの応答を低下させていることを最もよく示した実験である。

5.HhはDpp受容体tkvの発現を低下させることでDppへの応答を制限している

さらに、Hhによるリン酸化Madの低下の制御機構を明らかにするために、Dpp受容体tkvのエンハンサートラップ系統を同定し、様々な遺伝学的条件下でのtkvの発現制御機構を精緻に解析した。これらの実験からHhは直接Dpp受容体の発現量を制御し、Dpp感受性を制限することでリン酸化Madの量を低下させていることを明らかにした。また、tkvの発現が低下している前後コンパートメントの境界領域でtkvを異所的に発現させ、Hh依存的なDppシグナルの低下を解除したところ、翅全体のサイズが小さくなった。この表現型は、Dppが外来性のTkvによって捕獲され、拡散が阻害されたためであると考えている。

6.結論

 このように、モルフォゲンDppの活性勾配を視覚化することによって、Dppのシグナルの読みとりはリガンドの濃度に依存した単純なbell-shapeではなく、複雑な制御を受けていることが分かった。さらに、Dppの活性は受容体tkvの発現レベルに大きく依存するという結論を得た。tkvの発現はHhとDppという少なくとも二つのシグナルからの制御を受けていることがわかり、これにより独立して働くと考えられていた二つのモルフォゲンが協調して作用するという、新たなパターン形成のメカニズムを理解できたと考えている。

審査要旨 要旨を表示する

本論文はDppをモデルとし、モルフォゲンによるパターン形成機構の解明を目指したものである。DppはTGF-βファミリーの分泌性タンパク質で、ショウジョウバエの翅成虫原基の前後軸に沿った長距離のモルフォゲンとして知られていた。しかし、現在までにそれが組織においてどの様な勾配を形成しているかは不明であった。そこで本論文は、周囲の細胞が、拡散したDppの濃度勾配を認識する機構を理解するために、Dppシグナルの活性化を特異的に認識する抗体を用いて、シグナルの強度勾配を解析する系を構築した。その結果、組織内におけるDppの活性を可視化することに成功し、その活性が成虫原基において勾配を描いていることを見出した。さらに、別のモルフォゲンであるHedgehogが直接Dpp受容体の発現を負に制御し、翅成虫原基においてDpp感受性を制限していることを明らかにしている。以上により論文提出者は、モルフォゲンの読みとりが、リガンドの濃度を反映した単純な勾配ではなく、別のシグナルによって厳密に調節されている受容体のレベルに大きく依存することを証明した。

 なお、本論文における生化学の実験はPeter ten Dijke博士、伊東進博士との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が充分であると判断する。

 従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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