学位論文要旨



No 116944
著者(漢字) 三浦,史仁
著者(英字)
著者(カナ) ミウラ,フミヒト
標題(和) 転写制御情報のカタログ化からプロファイリングへ : 競合PCRを用いた高精度な核酸定量システムの確立
標題(洋) From cataloging to profiling of information on transcriptional regulation-Establishment of a competitive-PCR-based system for accurate quantification of nucleic acids
報告番号 116944
報告番号 甲16944
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4207号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西郷,薫
 東京大学 教授 中村,義一
 東京大学 助教授 小林,一三
 東京大学 助教授 渡辺,嘉典
 東京大学 教授 榊,佳之
内容要旨 要旨を表示する

 転写制御因子の標的遺伝子を同定しカタログ化することは、それぞれの転写制御因子による転写制御機構を明らかにする上での基本情報として非常に重要である。また、遺伝子同士の相互関係を見いだすという意味合いでも重要であり、これは特にゲノム構造解析の結果存在が確認された機能未知の遺伝子を解析する上で大きな手がかりとなるものである。各転写因子の標的遺伝子の同定は、それぞれの転写因子において異なる活性化状態を作り出し、それぞれの状態間で比較転写物解析を行い、変動のあった遺伝子をリストアップすることで達成されるだろう。こうした解析のモデル実験として、私は出芽酵母における多剤耐性関連転写因子であるPDR1に注目し、この転写因子の異なる三つの状態を持つ変異体間でFluorescent Differential Display法による比較転写物解析を行った。

 その結果、標的候補遺伝子として20の遺伝子を同定するに至ったが、この中には既にその標的として確立されたPDR5、SNQ2、YOR1遺伝子が含まれており、比較転写物解析を通じて標的遺伝子を同定する目的が達成されることが確認できた。また、Pdr1pの新規標的遺伝子としプロテオソーム関連の転写因子であるRPN4や糖代謝系の転写抑制因子であるMIG2遺伝子が同定されたことは、従来薬剤耐性のカテゴリのみで議論されていたPDRネットワークが細胞内で様々な系と綿密な関係があることを示しており、これらの解析に新たな切り口を提供するきっかけをもたらした。機能未知であったORF、YNL231Cは、私がこの遺伝子をPdr1pの標的として同定した後、他のグループからこの遺伝子が実際に薬剤耐性に関連していることが示され、その結果PDR16と命名された。このことは、標的遺伝子のカタログ化により機能未知の遺伝子を既存の機能カテゴリと関連づけることが可能であることを改めて示す結果といえよう。一方で、私はPdr1pの既知標的であるいくつかの遺伝子を同定できなかった。このことはFDD法が包括性という意味合いで限定的であることを示す結果であったが、それにも関わらず、同定された標的候補遺伝子群のプロモータ中からYEBISUプログラムによる情報科学的解析から既知シスエレメントであるPDREを抽出することができたことは転写因子の標的遺伝子をカタログ化することそのものがそれらの間に眠る共通な制御機構を明らかにする上で基礎となる情報になり得ることを示していた。おもしろいことには、同定された標的遺伝子の中には100アミノ酸にも満たない、それ故に既存のデータベースには登録されていないような転写単位があった。この遺伝子は、既に機能が知られている2つのORFに挟まれた1Kbp程度の領域にマップされたが、そのプロモータ領域にはPdr1pが認識するPDRE様配列があった。実際にLacZを用いたレポーター遺伝子解析によって、この遺伝子がこのPDREを介してPdr1pの制御を受けていることが明らかになり、また、翻訳されている可能性も示された。レポーター遺伝子解析だけでなく、直接ゲノム上から発現しているmRNAも同様の挙動を示しており、この転写単位がPdr1pの支配を受けていることを一層支持する結果となった。

 FDD解析によって同定された標的候補遺伝子群は、大まかにはその挙動が似通ってはいるが、それぞれに対し、個別に詳細な定量解析を行ってみると、その動態は繊細であり、また、それぞれの遺伝子によって特徴があった。おそらくこれらの遺伝子の多くはPdr1pだけではなく、他の転写因子によっても同時に制御を受けているものと考えられ、あるいは、同じPdr1pによる制御でもそれぞれの応答性が異なっていると考えられた。私は、これら似通った発現パターンによって同定され、カタログ化された遺伝子群の中にある違いを明らかにすることで、より詳細な転写制御の記述や解析が可能になるのではないかと考えた。FDD法がPCR法を原理とすることによる高い感度と、微妙な変化さえも検出できた高い定量性を持つことは認めざるを得ないながらも、ランダムに選択されたプライマーを用いることに由来する限定的包括性は、これからのゲノム解析に用いる手法としては決定的な負の要素であった。マイクロアレイやGeneChip等の最新の包括的解析手法の有用性は誰もが認める事実ではあるが、私はより詳細な転写制御の記述を目指しており、そのためにはより定量的な解析を実現する原理が必要であった。そこで私は、近年発表されたアダプター付加競合(Adatpr-tagged competitive: ATAC)PCR法に注目し、これを基に正確で包括的な核酸定量システムを出芽酵母の解析に向けて構築することにした。

 ATAC-PCR法は一度の実験で複数のサンプル間の発現量の違いを高い感度と精度で定量可能な非常に優れた方法である。加藤菊也(1997)によって提唱された原法ATAC-PCR法はcDNAの3'最末端にしか応用出来なかったが、私はアダプターに改良を加えることでいかなる二本鎖DNA分子にもこの原理を応用可能にし、さらには反応条件の最適化を行った。私はこの方法を一般化アダプター付加競合(Genelaized Adaptor-tagged Competitive: GATC)-PCR法と名付けた。ウサギ網状赤血球由来β-globin mRNAをスパイキングしたモデル実験によると、GATC-PCR法は反応溶液中に1000コピーのオーダーで標的配列が含まれていれば1.5倍の変化を見分けることが可能であった。同様に出芽酵母の168標的遺伝子に関して定量的増幅が可能かどうかを検定してみたが、そのうちおよそ70%の増幅単位において1.5倍の変化を正確に検出可能であることがわかり、GATC-PCRの定量における高い力量が示された。

 GATC-PCR法は、対象フラグメントを、アダプター特異的プライマーとそれぞれの対象遺伝子に対する遺伝子特異的プライマーを用いて増幅する。従来のPCRでは、それぞれの標的に対して一対のプライマーを用いたため、個々のプライマーの特異性がそれほど高い必要性は無かったが、GATC-PCR法では標的の特異性を決定するプライマーが単一の遺伝子特異的プライマーであるために、このプライマーには非常に高い特異性が要求される。従って、プライマーのデザイン時には、プライマー配列の特異性をより正確に判定する指標が必要であった。そこで、私は、Nearest-Neighbor熱力学による計算から導き出せる会合比率をプライマー末端の安定性を考慮する際の指標として、ゲノム配列やcDNA配列を基に作成した配列の出現頻度ライブラリをその配列のユニークさを判定する指標として、それぞれの遺伝子の大まかな発現量比を他の遺伝子の増幅時に非特異的増幅産物として出現しうるかどうか判定する際の指標として、この三者を用いて動的に最も特異的な配列を抽出するアルゴリズムを考案した。これをプログラムとして実装した結果抽出されたプライマー群は、配列の特異性のみを考慮してデザインされたプライマーよりも20%以上も非特異的増幅産物の出現を抑制することが可能であった。このことによりGATC-PCR法を、より一般的に使用することが可能な基盤を整えることができた。

 さらには、GATC-PCR法がどういったタイプの二重鎖DNAの定量にも応用可能であるという利点を生かし、cDNAとゲノムDNAの競合増幅を試みた。異なる遺伝子間の転写量の比較は、原法ATAC-PCR法やDNA microarray法ではそれぞれの遺伝子におけるPCRの増幅効率や蛍光標識効率が異なるために不可能である。しかし、GATC-PCR法は基本的に標的遺伝子のほとんどを正確に同じ数だけ含むゲノムDNAを標準として用いることが可能であるため、異なる遺伝子間の転写量の比較が可能となる。つまり、ゲノムDNAを標準に用いたGATC-PCR法による解析は、転写物の絶対量を記述することに他ならず、これにより、容易にトランスクリプトームの全体像を決定することが可能となる。このような記述は従来不可能ではなかったが、全面的にBodyMap、SAGEあるいはMPSSといった大規模なタグ配列解析に依っていた。したがって、今までは個々の状態間で容易にそのトランスクリプトームの構造比較を行えるほど単純化された系が無かったのだが、GATC-PCR法はこういった比較トランスクリプトーム解析を真に定量的にしかもより高速なものへと発展させることが出来るだろう。この目的のために、私は既に5000のプライマーを設計し、その検定を終えており、出芽酵母のゲノムとトランスクリプトームに対する解析に向けた準備が整いつつある。このシステムから得られる定量的情報は、様々な生物情報学的解析にとって理想的なものになるだろう。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、2章から成り、第1章はFluorescent Differential Display法を用いた出芽酵母の転写活性化因子Pdr1pの標的遺伝子のカタログ化について、第2章はアダプター付加競合PCR法を用いたより高精度な転写物定量システムの確立について述べられている。

 近年、ヒトをはじめとする多くの生物において、その生命の設計図ともいえるゲノム構造が決定されている。しかし、ゲノム構造の決定により存在が明らかになった多くの遺伝子の機能は未だ明らかにされていない。つまり、設計図は手に入れても、その暗号を解くには至っていないのである。こういった状況下、より効率的にそれら未知の遺伝子機能を明らかにしようとする機能ゲノミクスと呼ばれる学問分野が確立されつつあり、この中で機能解析の糸口として注目されているものの一つが、ゲノム全体に渡ってmRNAの発現動態を記載するトランスクリプトーム解析である。ゲノム的解析は解析そのものが大規模になるため、より有効にこれを行うためには、確固たる解析戦略と高度な解析技術を要する。本論文では、トランスクリプトーム解析におけるこれら二つの重要な点に関して議論を進めている。

 機能的相関を持つ遺伝子群は、およそ同様の転写制御を受けているものと考えられ、その制御の実体の多くは転写制御因子によるものである。したがって、これら転写制御因子の標的遺伝子を探索し、カタログ化することは個々の転写制御そのものに対する解析基盤をもたらすだけでなく、さまざまな遺伝子の細胞内での機能を探るための重要な礎となる。出芽酵母ゲノム中にも多くの転写制御因子の存在が確認されているが、この生物を究極に理解するためには、それぞれの転写制御因子の標的遺伝子を同定する必要がある。そのための戦略を考える上でのモデルとして、本論文では出芽酵母の転写制御因子Pdr1pの標的遺伝子のカタログ化を試みている。論文筆者は、Fluorescent Differential Display(FDD)法を用いることでPDR1の野生株、破壊株、過剰活性変異株の三者におけるそれぞれの遺伝子の転写量を比較し、その標的遺伝子を同定しようと試みた。この結果、Pdr1pの既知標的遺伝子を同定し得たことから、それぞれの転写制御因子で活性の異なる変異体を用意し、それらの間でトランスクリプトームの比較を行うことが、標的同定の戦略として有効であることを示している。さらには、今まで薬剤耐性の分野で記載されたことのない遺伝子、細胞内の蛋白分解を司るプロテオソーム、糖代謝、アミノ酸代謝、脂質代謝等の様々な機能に及ぶ遺伝子等20遺伝子がPdr1pによる支配を受けている可能性を示している。また、データベース上で注釈もついていないようなゲノム領域からアミノ酸レベルで100残基にも満たないような転写物が存在し、それが実際にPdr1pの制御を受けていることを示し得たことは、ゲノム全域に渡ってより包括的に遺伝子の存在を確認する必要性があることを示している。これらの成果は、トランスクリプトーム解析を行う上での重要な教訓を導いており、今後の同様な解析において参考とすべきものである。

 論文筆者は、FDD解析の中で、未だゲノム的規模のトランスクリプトーム解析技術が成熟していないことを痛感した。昨今のDNAチップ等による解析は十分に高速化がなされているが、その定量性が懸案の対象であった。そこで、より高精度なトランスクリプトーム解析システムの確立を目指して、高い定量性を持つアダプター付加競合(ATAC)-PCR法に注目した。まず、mRNAの3'末端にのみ応用可能だったATAC-PCR法の解析対象を、アダプター形状に工夫を加えることにより改良し、いかなる制限酵素断片も解析可能な一般化アダプター付加競合(GATC)-PCR法として確立した。続いて、GATC-PCRを行う上で定量性、感度に非常に大きな影響を持つ非特異的増幅産物の抑制という課題に対し、独自に遺伝子特異的プライマーの特異性判定基準を考案し、プログラムとして実現したことは、同手法の導入を容易にし、より安定なシステムを構築する上で必要不可欠なものであった。さらには、このプライマー設計技術を用いて出芽酵母全ゲノムに対するより詳細なmRNA発現解析システムを構築しつつあることは、論文筆者の研究者としての資質を顕著に表しているものと考えられる。

 なお、本論文の第1章は、矢田哲士、中井謙太、榊佳之、伊藤隆司との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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