学位論文要旨



No 116952
著者(漢字) 今岡,達彦
著者(英字)
著者(カナ) イマオカ,タツヒコ
標題(和) 乳腺の腺房形成とセロトニンシグナルへのプロラクチン作用
標題(洋) Prolactin effects on alveolar budding and serotonin signal in the mammary gland
報告番号 116952
報告番号 甲16952
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4215号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 守,隆夫
 東京大学 教授 竹井,祥郎
 東京大学 助教授 岡,良隆
 東京大学 助教授 兵藤,晋
 東京大学 助教授 朴,民根
内容要旨 要旨を表示する

 乳腺は、複雑に分岐した管状の上皮組織と、それを取り囲む脂肪組織からなる。その生後の発達は三段階に分けられる。マウス新生仔の乳腺にはまだ上皮組織が浸潤していないが、春期発動以降、上皮組織が伸長と二分岐を繰り返して、脂肪組織を満たす。マウスの系統による違いはあるが、成熟期から妊娠期には細かい分岐と腺房の形成が始まる。そして妊娠期には腺房の上皮細胞が増殖・分化して、泌乳能をもった腺房が完成される。これらの発達過程は、女性ホルモン、黄体ホルモン、成長ホルモン、プロラクチン、上皮成長因子などによって調節されている。しかし腺房形成の最初期の段階(alveolar budding)については不明な点が多い。近年創出されたプロラクチンノックアウトマウスには妊娠前にこの腺房形成が見られず、その回復にはプロラクチンの補填が必要であることから、プロラクチンがこれを調節していると考えられている。そこでこのモデルにおいて、プロラクチン補填による腺房形成にともなって発現が増加する遺伝子が探索され、コルタクチン結合タンパク質90(CBP90)とトリプトファン水酸化酵素(TPH)が単離されている。本研究ではプロラクチンによる腺房形成を解析することを目的に、これらの遺伝子の発現と機能を解析した。

 CBP90はコルタクチンに結合するタンパク質として近年発見されたものであり、その機能は明らかにされていない。コルタクチンは細胞膜近傍に存在し、細胞外からの情報を細胞内部のアクチンフィラメントに伝達すると考えられる分子である。雌マウスの腎被膜下などに同系統の異個体の下垂体を移植すると、移植片からプロラクチンが放出されて血中プロラクチン濃度が高まり、乳腺の腺房形成を促すが、このときCBP90 mRNAの発現も増加しており、その発現は乳腺の脂肪組織には見られなかった。また、女性ホルモン、黄体ホルモン、プロラクチンを様々な組み合わせで去勢した雌マウスに投与したところ、腺房が形成される条件下では必ずCBP90 mRNAの発現が見られ、腺房が形成されない条件では発現が見られなかった。さらに免疫組織化学によって、CBP90は腺房の上皮に多く、次いで乳管の上皮にも発現していることがわかった。これらの結果から、その機能はわからないものの、CBP90は腺房形成の分子マーカーになりうると考えられる。

 TPHはトリプトファンからセロトニンを合成する際の律速反応を触媒する酵素である。これが乳腺の上皮に存在し、プロラクチンを投与すると上皮のセロトニン含有量が増加することが先行研究でわかっているが、その発現調節機構および生理機能はまったくわかっていなかった。成熟処女マウスの乳腺上皮細胞の初代培養系においてプロラクチンはTPH発現を誘導したが、それは24〜48時間を必要とする緩慢な反応であり、用量依存性も確認された(図1)。乳腺の発達や機能に関与する様々なホルモンや因子の影響をこの培養系を用いて調べたところ、インスリン、上皮成長因子、女性ホルモンの関与は見られず、黄体ホルモンと高濃度の糖質コルチコイドがプロラクチンによる発現誘導を抑制することが見出された。このことからTPHの乳腺における発現は、血中黄体ホルモン濃度の高い妊娠期には低く抑えられていると考えられる。また細胞内の代謝系や情報伝達系に作用する薬剤を用いて、プロラクチン刺激からTPH発現の誘導にいたる機構を解析したところ、プロラクチンが乳汁タンパク質などの発現誘導に用いると考えられているJak2/Stat5系は用いられておらず、新規タンパク質の合成、タンパク質リン酸化、MAPキナーゼカスケードの活性化、ホスファチジルイノシトール3キナーゼの活性化が必要であることが示唆された。すなわち、プロラクチン受容体からMAPキナーゼ系やTec/Vav系などを介して、TPH遺伝子の転写促進因子が合成されるものと推測でき、プロラクチンは乳腺に対してJak2/Stat5系を介した直接作用とは別に、セロトニンを介した間接作用を引き起こすと考えられる。

 そこでTPHが産生するセロトニンの機能を解析した。セロトニン受容体は1〜7のサブタイプが知られているが、そのうち3を除くすべてが少なくともRNAレベルではマウス乳腺に発現しており、同じセットが乳腺の脂肪組織にも発現していた。成熟処女マウスの乳腺上皮細胞を人工的に再構築された基底膜内で初代培養すると中空の球殻状のコロニーを形成するが、セロトニンはその形成を阻害し、セロトニン受容体(サブタイプ1, 2, 7)の拮抗剤であるメチセルギドはこれを膨張させた(図2)。このとき乳腺上皮細胞では、乳汁タンパク質(βカゼイン、乳清酸性タンパク質、GlyCAM-1)、水分輸送に関わるタンパク質(αラクトアルブミン、乳糖合成酵素、Na+-K+-ATPアーゼ)、細胞接着分子(オクルーディン)などの発現が増加し、泌乳機能が高まっていることを示した。またこのとき、細胞質内に多くの顆粒が観察された。そしてさまざまなセロトニン受容体サブタイプに特異的な拮抗剤を用いた実験から、この反応がおそらくサブタイプ1と2を介していることが示唆された。これらのことはセロトニンが乳腺内において泌乳抑制因子として作用することを示している。また乳腺におけるTPHの発現が乳腺内に乳汁が貯留したときに高まることがわかり(図3)、乳腺における乳汁の貯留・除去のサイクルにおいて乳汁の産生を抑制するフィードバック因子としてセロトニンが機能している可能性が示唆された。

 プロラクチン−セロトニンのこのような関係と機能はまったく新しい知見であり、乳腺の発達・機能を調節する新たな情報伝達機構として注目される。

図1 乳腺上皮細胞におけるTPH mRNA発現のプロラクチンによる誘導

成熟処女雌マウス(12週齢)の乳腺上皮の初代培養細胞を用い、RT-PCRでTPH発現を調べた。Aは1μg/mlのプロラクチンを添加した後の時系列変化を、Bはプロラクチン添加後48時間の用量依存性を示す。

図2 人工基底膜中の乳腺上皮細胞の形態に対するセロトニンの作用

12週齢処女雌マウスの乳腺上皮の初代培養細胞に以下の処理を行った。A,対照;B,セロトニン処理;C,メチセルギド(methy)処理;D,TPH阻害剤処理;E,AとCのコロニーの大きさの分布;F,Eの中央値(P<0.005)。

図3 授乳期マウス乳腺でのTPH発現に対する乳汁貯留の影響

授乳第3日のマウスの片側の乳腺をシアノアクリレート樹脂で閉塞して乳汁を貯留させ(Seal.)、1および3日後に乳腺におけるTPHおよびβカゼインmRNA量を測定した。内部標準にグリセルアルデヒド3リン酸脱水素酵素(GAPDH)を用いた。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は3章からなり、第1章はコルタクチン結合タンパク質(CBP)90、第2・3章はトリプトファン水酸化酵素(TPH)について述べられている。本論文は、プロラクチン(PRL)遺伝子を欠損したマウスにおいて、PRLの補填によって乳腺で誘導されることがすでに見出されていたこれらの遺伝子について、分子レベル、細胞レベル、器官レベル、個体レベルでの発現解析および機能解析をおこなったものである。

 第1章は、これまで脳特異的であるとされていたCBP90遺伝子の発現が、マウス乳腺の腺房形成にともなって主に腺房において誘導されることを初めて明らかにし、これが腺房形成の分子マーカーとして有用であるという側面も示している。この結果は脳特異的に存在すると考えられていたCBP90遺伝子の新たなる機能を示唆している点で大きく評価されるし、また第2章以降で用いられる細胞培養系を評価するのに生かされている。

 第2章は、乳腺でのPRLによる誘導が明らかにされていたTPHに着目し、まず、この誘導を再現する試験管内の系として、マウス乳腺上皮細胞の人工基底膜内での初代培養系を確立している。この細胞は形態からも分子マーカーCBP90の発現の点からも腺房の性質をもつと考えられる。さらにこの系を駆使してPRLによるTPH遺伝子発現の誘導を解析し、この誘導がPRLの乳腺への直接作用であること、他のPRL誘導性遺伝子である母乳タンパク質の誘導よりも緩慢であること、生理的なPRL濃度での誘導作用が認められること、黄体ホルモンであるプロゲステロンによって誘導が抑制されること、その誘導が細胞内での新規タンパク質合成とJak2以外のタンパク質キナーゼを介していることを明らかにしている。TPHはセロトニン合成経路の重要な律速酵素であるため、セロトニン産生の行われる神経系・消化器系などとの関連は既に指摘されていたが、PRLというホルモンと結びつけて考えられたことはこれまでになく、PRLによる誘導という考えも存在しなかった。しかし本章の研究はそれを明らかに提示するものであり、そのうえいくつかの重要な解析も行っている。これらの点で、本章は評価しなければならない。いずれも重要な知見である中、とくにTPHの誘導が時間的な緩慢さと細胞内シグナルの点で母乳タンパク質と対照的であることを明らかにした点は、このTPHの機能を考える上でも大きな手懸かりとなって、第3章に生かされている。

 第3章は、TPHの誘導の結果として合成されるセロトニンの機能を検討したものである。本章ではセロトニンが乳腺の機能を調節しているという大胆な仮説をたて、これを見事に検証している。具体的にはセロトニン受容体の乳腺における存在の可能性を示し、続いてセロトニン関連の薬剤を駆使して、第2章で確立された培養系におけるセロトニンの作用を検討し、セロトニンが細胞の分泌機能を抑制することを形態および分子レベルで確認している。またその生理的な役割については、PRL存在下で乳腺の分泌機能が抑制されるべき状態として母乳消費の低下した状態を想定して実験を組み、母乳消費を実験的に停止させた乳腺で母乳産生の減少にともなってTPH遺伝子の発現が増加することをつきとめ、母乳の産生量を調節するネガティブ・フィードバック因子としての役割を示唆した。本論文のもっとも重要な成果は、セロトニンが母乳産生を抑制的に調節しているというモデルを証拠とともに提示した点である。母乳の産生を調節する因子はこれまでにいくつか知られているが、乳腺内のネガティブ・フィードバックに関わるものはほとんど知られてきておらず、本論文が新たなる因子を提示した成果は大きいと認めなければならない。また本論文の結論は、乳腺への作用という新たな機能を明らかにした点でセロトニンの生物学から見ても目新しいものとなっている。

 なお、本論文第1章は松田学、Nelson D. Horseman、Jason A. Lockefeer、守隆夫との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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