学位論文要旨



No 116954
著者(漢字) 長田,直樹
著者(英字)
著者(カナ) オサダ,ナオキ
標題(和) カニクイザル脳のcDNAライブラリー : 新規遺伝子の探索、ヒトオーソログとの比較解析、および進化学的考察
標題(洋) cDNA librarics derived from cynomolgus monkey brain : novel gene finding, comparative analysis with human orthologs, and evolutionary considerations.
報告番号 116954
報告番号 甲16954
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4217号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平井,百樹
 東京大学 教授 青木,健一
 東京大学 助教授 石田,貴文
 東京大学 助教授 河村,正二
 東京大学 助教授 植田,信太郎
内容要旨 要旨を表示する

 ヒトの進化を分子レベルで明らかにするためには、ヒト以外の霊長類とのゲノム比較解析が必要であると考えられる。ヒトの生物学的特異性の原因をDNAの塩基置換に遡ることができるとするならば、ヒトと他の霊長類とのゲノム塩基配列比較により多くの知見が得られるであろう。近年、ヒトゲノム解析計画が急速に進められ、2001年2月にヒトゲノムの概要配列が公開された。完全な配列は2003年にも明らかになるといわれている。これに対してヒト以外の霊長類についてのゲノム情報は著しく不足しており(公共塩基配列データベースのGenbankではヒト以外の霊長類の塩基配列エントリー数はヒトの0.3%以下である)、十分な比較は難しいのが現状である。本研究ではこれまで、オリゴキャッピング法によって作製されたカニクイザル脳由来ライブラリー(前頭葉、側頭葉、頭頂葉、小脳、延髄)から約40,000のクローンを分離し、その5'末端配列を決定してきた。カニクイザルはヒトと高度に保存されたゲノムを持っており、グロビン遺伝子クラスター領域の塩基配列比較では、その配列の相違度は約7%であるとされている。近年になり、カニクイザルが属するマカク属は実験動物としての有用性も大きく取り上げられ、初の遺伝子組み替えサル(アカゲザル)も作られている。次にcDNAライブラリーを解析に用いることの利点を挙げる。ゲノムDNAの約95%は遺伝子としての情報を持たない「junk DNA」であると言われており、表現型レベルでの進化を考える場合には、遺伝子間領域についてヒトと他の霊長類との比較を行うよりも、遺伝子として転写、翻訳されている部分を比較する方が効率がよい。cDNAは組織内で発現されているmRNAのコピーであり、ゲノム中で遺伝子として発現されている部分だけを効率よく解析することができる。本研究では、1)カニクイザル新規遺伝子の同定ならびにそのヒト相同遺伝子の配列決定、2)ヒトとカニクイザルとの完全長cDNA配列の比較、3)ヒトとカニクイザルとの進化において正の淘汰を受けた遺伝子の探索。以上の三点を中心にカニクイザル脳由来cDNAライブラリーの解析を行い、その有用性を検討した。

1) 新規遺伝子の探索

 ヒトのゲノム配列がほぼ明らかになり、ヒトの遺伝子は30,000から40,000と推定された。これまでにゲノム配列が解読された他の生物、例えばショウジョウバエやセンチュウなどでは、コンピュータを用いて、ゲノム配列から比較的高精度に遺伝子領域を予測できる。しかしながら、ヒトのような高等哺乳類においては、短いエキソンが長いイントロンに分断されて存在するために、ゲノム配列のみから遺伝子領域を完全に予測することは不可能である。したがってゲノム配列だけでなく、cDNAの全長または部分配列などにより遺伝子を予測することが必要となる。現在多くの大規模プロジェクトがヒトcDNAを用いてヒトの新規遺伝子を収集しようとしている。本研究ではカニクイザルとヒトとの遺伝子の相同性の高さに注目し、カニクイザル脳を用いて新規遺伝子の探索を行った。脳では他の一般的な組織よりも多くの種類の遺伝子が発現していると考えられている。また、cDNAライブラリーの鋳型となるmRNAは非常に分解速度の速い物質であり、サルと違って新鮮な組織を使うことのできないヒト脳では、ライブラリー作製の過程で多くが失われてしまう。そこで、カニクイザル脳由来ライブラリーから5'末端配列が遺伝子として公共のデータベースに登録されていないクローン約1,500についてその全長配列を決定し、公共のデータベースに登録し、解析を行った。その結果194の新規カニクイザル遺伝子が発見された。また、これら194のcDNAから翻訳されるタンパク質のアミノ酸配列とその機能についても予測した。更に29の遺伝子についてヒトゲノム配列からヒトでの遺伝子配列を予測し、そのうち21遺伝子についてはRT-PCR法によってヒトの新規遺伝子として発現を確認した。

2) ヒトとカニクイザルとのcDNA塩基配列比較

 新規遺伝子探索の過程で全長配列を決定したカニクイザルcDNA配列のうち、306クローンについては既知ヒト遺伝子のコード領域と相同性が見られた。これらは5'末端配列が未知のものであっても、全長配列を決定すると既知のヒト遺伝子に相当したものである。これら306組にGenbankデータベースから得られたカニクイザル遺伝子配列とそのヒト相同配列74組を加え、それぞれの組について、ヒトとカニクイザルとのcDNA塩基配列比較を行った。その結果、塩基配列の相違度はどちらの組でも高い順から、同義サイト(Synonymous site)、3'末端非翻訳領域(3'-UTR)、5'末端非翻訳領域(5'-UTR)、翻訳領域平均(CDS)、非同義サイト(Non-synonymous site)であることがわかった(表1)。また、得られた値はこれまでの他の研究とほぼ一致する値であった。

3) 正の淘汰を受けた遺伝子の探索

 遺伝子進化の中立説によると、遺伝子における有利な変異は数において無視できるほど小さいとされている。ダーウィン進化論による正の淘汰は表現型では多くの例が認められているにも関らず、その分子レベルでの説明は難しかった。しかし近年の遺伝子情報の増加にともない、MHC、リゾチーム、プロタミンなど霊長類の進化の過程において進化速度が速い、つまり正の淘汰を受けていると考えられる例が多数発見されてきている。そのような遺伝子では翻訳領域の非同義置換率(Ka)が同義置換率(Ks)を上回ることが知られている。そこでカニクイザル脳由来cDNAライブラリーのうち、前頭、小脳由来の5'末端配列21,302、全長配列決定をしたcDNA配列1,320についてヒトの遺伝子データベースから相同配列を検索し、ヒト、サルの二配列を整列させたあとにKa/Ksを算出した。ヒト遺伝子はRefSeqデータベースより約15,000のヒト遺伝子を対象にした。Ka/Ksが1以上のクローンについては全長配列を決定し、再度Ks/Ks値を算出した。その結果12個の遺伝子についてKa/Ks値が1を上回り、正の淘汰を受けた遺伝子として候補に上がった。12個の遺伝子のうち5つはミトコンドリアの酵素複合体で働く核由来のサブユニットであった。これは、進化速度が速いミトコンドリア由来遺伝子と核由来遺伝子とが共進化を行うという説を支持する結果となった(表2)。残りの遺伝子は、細胞表面の抗原タンパク(CD59)、アポリポタンパク遺伝子(Apolipoprotein D)、核内転写因子(Myeloid cell differentiation antigen)、そして4つの機能未知遺伝子(Hypothetical genes)であった。これまでにヒトとヒヒとのCD59塩基配列を比較した研究がある以外は、これらの遺伝子については本研究で新たに明らかにされた結果である。これらの候補遺伝子はヒトとカニクイザルの間で進化速度が速いと認められたが、果たしてどちらの系統で進化速度が速くなったのか、などの詳細についてはこれまでの結果からはわからない。そこでシトクロームc酸化酵素を例に取り、候補遺伝子群の有効性、そして詳細な進化の歴史について調べた。ミトコンドリア遺伝子群のうちシトクロームc酸化酵素(Cytochrome oxidase c subunit)は10の核由来、3つのミトコンドリア由来のサブユニットで構成されており、そのうちI,II,IVa,VI,VIIaの5つのサブユニットでは霊長類の系統で進化速度の加速が発見されている。このうち今回新たに候補として見つかったサブユニットVIIc、VIIIについてはまだ進化に関する報告がされていない。本研究ではこれらの候補遺伝子探索の結果を評価するためにこの二つの遺伝子について更なる解析を行った。ヒトとカニクイザルに加え、コモンチンパンジー、ピグミーチンパンジー、ゴリラ、オランウータン、ヒヒのゲノムDNAからPCR法により遺伝子領域を増幅し、塩基配列を決定した。その結果、サブユニットVIIc、VIIIの両方でヒト上科と旧世界ザルの系統において塩基配列の置換速度の加速が見られた。これにより、従来まで発表された5つのサブユニット以外にも新たに2つのサブユニットが霊長類進化の過程で正の淘汰を受けている可能性を新たに明らかにした。

 以上のようにオリゴキャッピング法によるカニクイザル脳由来cDNAライブラリーは、ヒト以外の霊長類におけるゲノム解析に非常に重要なリソースであり、今後も精力的に解析されるべきものであるといえる。

表1

塩基配列のサイトごとの相違度

表2 Ka/Ksが1を超えた遺伝子

*Ks=0であったため算出できず。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究では、第1章でカニクイザル新規遺伝子の同定ならびにそのヒト相同遺伝子の配列決定、第2章でヒトとカニクイザルとの完全長cDNA配列の比較、第3章でヒトとカニクイザルとの進化において正の淘汰を受けた遺伝子の探求を行っている。ヒトのゲノム進化を解析するうえで、近縁のサル類との比較解析は必須であるので、以上の三点を中心にカニクイザル脳由来cDNAライブラリーの解析を行い、その有用性を示した。

 ヒトのゲノム配列がほぼ明らかになり、ヒトの遺伝子は30,000から40,000と推定されるようになった。しかしながら、ヒトのような高等哺乳類においては、短いエキソンが長いイントロンに分断されて存在するために、ゲノム配列のみから遺伝子領域を完全に予測することは不可能である。したがってゲノム配列だけでなく、cDNAの全長または部分配列などにより遺伝子を予測することが必要となる。本研究ではカニクイザルとヒトの遺伝子の相同性の高さと、脳では他の一般的な組織よりも多くの種類の遺伝子が発現していることに注目して、カニクイザル脳を用いて新規遺伝子の探索を行った。作製したカニクイザル脳由来cDNAライブラリーから5'末端配列が遺伝子として公共のデータベースに登録されていないクローン約1,500についてその全長配列を決定し、解析をおこなった。その結果194の新規カニクイザル遺伝子が発見された。これらのcDNAから翻訳されるタンパク質のアミノ酸配列とその機能についても予測した。更に29の遺伝子についてヒトゲノム配列からヒトでの遺伝子配列を予測し、そのうち21遺伝子についてはRT-PCR法によってヒトの新規遺伝子として発現を確認した。これを第1章でまとめている。

 次に、新規遺伝子探求の過程で全長配列を決定したカニクイザルcDNA配列を解析した結果、306クローンについては既知ヒト遺伝子のコード領域と相同性が見られた。これら306組にGenbankデータベースから得られたカニクイザル遺伝子配列とそのヒト相同配列74組を加え、ヒトとカニクイザルとのcDNA塩基配列比較を行った。その結果、塩基配列の相違度は高い順から、同義サイト(synonymous site)、3'末端非翻訳領域(3'-UTR)、5'末端非翻訳領域(5'-UTR)、翻訳領域平均(CDS)、非同義サイト(non-synonymous site)であることがわかった。これを第2章にまとめている。

 近年の遺伝子情報の増加にともない、霊長類の進化の過程において進化速度が速い、つまり正の淘汰を受けていると考えられる例が発見されてきている。そのような遺伝子では翻訳領域の非同義置換率(Ka)が同義置換率(Ks)を上回ることが知られている。そこでカニクイザル脳由来cDNAライブラリーのうち、5'末端配列21,302のうち全長配列決定をしたcDNA配列1,320について、ヒトの遺伝子データベースから相同配列を検索し、ヒト、サルの二配列を整列させたあとにKa/Ksを算出した。Ka/Ksが1以上のクローンについては全長配列を決定し、再度Ka/Ks値を算出した。その結果12個の遺伝子についてKa/Ks値が1を上回り、正の淘汰を受けた遺伝子として候補に挙がった。そのうち5つはミトコンドリアの酵素複合体で働く核由来のサブユニットであった。これは、進化速度が速いミトコンドリア由来遺伝子と核由来遺伝子とが共進化を行うという説を支持する結果となった。これらの遺伝子については本研究で新たに明らかにされた結果である。ミトコンドリア遺伝子群のうちシトクロームc酸化酵素(Cytochrome oxidase c subunit)は、10の核由来、3つのミトコンドリア由来のサブユニットで構成されており、そのうちI,II,IVa,VI,VIIaの5つのサブユニットでは霊長類の系統で進化速度の加速が発見されている。今回新たに候補として見つかったサブユニットVIIc、VIIIについてはまだ進化に関する報告がされていない。本研究ではこれらの候補遺伝子探求の結果を評価した結果、サブユニットVIIc、VIIIの両方でヒト上科と旧世界ザルの系統において塩基配列の置換速度の加速が見られた。これにより、新たに2つのサブユニットが霊長類進化の過程で正の淘汰を受けている可能性を新たに明らかにした。

 以上のようにオリゴキャッピング法によるカニクイザル脳由来cDNAライブラリーは、ヒト以外の霊長類におけるゲノム解析に非常に重要なリソースでありることを明らかにした。

 なお、本論文のうちの第1、2章は、肥田宗友、楠田潤、田沼玲子、伊関可奈子、平田誠、數藤由美子、平井百樹、寺尾恵治、鈴木穣、菅野純夫、橋本雄之との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証をおこなったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク