学位論文要旨



No 116957
著者(漢字) 狩野,泰則
著者(英字)
著者(カナ) カノウ,ヤスノリ
標題(和) コハクカノコ科貝類における適応放散と地下環境への進出に関する研究
標題(洋) Adaptive radiation and subterranean invasion in neritiliid gastropods
報告番号 116957
報告番号 甲16957
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4220号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 加瀬,友喜
 東京大学 教授 加藤,雅啓
 東京大学 教授 棚部,一成
 東京大学 教授 武田,正倫
 東京大学 講師 上島,励
内容要旨 要旨を表示する

 地下水には、甲殻類・昆虫・巻貝・サンショウウオ・魚などの多様な動物が生息する。光の届かない地下では光合成が行われず、これら地下水棲生物は流入する僅かな有機物に依存している。多くの系統において、眼の退化や皮膚色素の消失、触角や付属肢などの触覚器官の発達といった、特有の形態(troglomorphy)が知られる。これらの形態変化は不可逆的であると考えられており、また地下から地上への再進出は、いかなる生物群においても知られていない。

 本研究では、Neritiliidaeコハクカノコ科の巻貝を対象とし、地下環境への進出と適応放散について検討した。その結果、同科の現生種が、海底洞窟もしくは陸水中にのみ生息すること、陸水のものには、洞窟や河床下などの地下環境にすむものと、流水中の石の上などの明るい環境にすむものがあることがわかった。さらに、明るい場所に住むものを含め、全ての現生種が、極めて小さく単純な眼と、著しく長い頭部触角をもつことが明らかになった。これらの形態がtroglomorphyであり、退化的・適応的な進化に基づくとするなら、コハクカノコ科の共通祖先が一時期地下に生息していたと考えねばならない。以下では、この問題を中心に研究の概要を示す。

1.コハクカノコ科の単系統性−現生種の形態比較から

 本科は1908年に設立されて以降、いかなる論文においても適当な科として扱われず、Neritidaeアマオブネ科の1亜科(コハクカノコ亜科)とされていた。また、模式属であるNeritiliaコハクカノコ属の種の形態の記載は、極めて簡単なものしかなかった。そこで、連続切片作成による再構築ならびに凍結乾燥法によるSEMでの観察に基づき、両属の消化・筋肉・神経・循環・排泄・生殖の各系にわたる詳細な解剖学的・組織学的記載を行った。また、生体がいっさい知られていなかったPisulinaシラタマアマガイ属の諸種を海底洞窟より初発見し、同様に検討を行った。その結果、両属の種が19共有派生形質により支持される単系統群(コハクカノコ科)を形成することが明らかになった。

2.コハクカノコ科の単系統性−分子系統と化石記録

 本科が含まれるNeritopsinaアマオブネ上目は腹足類中の原始的な1群で、シルル紀にまでさかのぼる化石記録をもつ。現生種は潮下帯浅海域から潮間帯岩礁、また汽水域、淡水中、陸上、樹上、さらには海底洞窟、陸域地下水、深海化学合成群集までの多様な環境に進出している。このような著しい適応放散を遂げた分類群では、環境を要因とする収斂的形態進化が予想される。このため、現生の7科全てを含む形で抽出したOTUについて、28S rRNAの塩基配列約1kbpを決定し分子系統解析を行った。この結果図1の結果が示され、コハクカノコ科の単系統性が支持された。同上目の化石記録を再検討し、また分子時計を併用して各科の分岐年代を推定した結果、コハクカノコ科の派生は白亜紀前期と推定された。また本解析から、(1)同上目において3回の完全陸上進出が起こったこと、うち中生代のゴマオカタニシ科とヤマキサゴ科における進出では淡水域を経由した可能性が高いこと、(2)淡水・汽水域に最低6回進出したこと、(3)海底洞窟もしくは類似の間隙環境に2回進出したこと、うち「生きている化石」アマガイモドキ科において、間隙生活への適応により貝殻を完全に退化・消失させたチチカケガイが派生したことが推定された。

3.コハクカノコ科の分類学的再検討

 本科の諸種は全世界の熱帯・亜熱帯域に分布し、個体数も決して少なくない。しかしながら、体サイズが小さく、また多くは生息環境が特殊であるため、分類学的な検討がほとんどなされておらず、8種が知られるのみであった。本研究では、調査・採集と分類学的再検討により、3新属11新種を含む5属19種を認めた。

I.陸上河川(明所)の諸種

 流水中の石の上など、河川の明所に生息する種としてコハクカノコを含む4種が知られていた。これらについて10000以上の標本を検討した結果、インド・太平洋の2種が形態的に区別できないこと、またコハクカノコと呼ばれるものには、殻・消化器・生殖器等の形態で明瞭に区別される1新属2新種を含む、計3種が含まれていることがわかった。淡水棲アマオブネ上目の諸種は、孵化したベリジャー幼生が川を下り、海での浮遊期を経て、河口に着底、変態後に川を遡るといわれている。このため、親が河川に生息するにもかかわらず種としての拡散能力は高いことが予想される。本研究により、上記3種がいずれも熱帯インド太平洋のほぼ全域に分布することが明らかとなり、拡散能力の高さが示された。

II.海底洞窟の諸種

 インド太平洋の海底洞窟から得られたシラタマアマガイ属の標本約5000個を検討した結果、同属は2新種を含む6種からなることがわかった。これらの種は、幼生殻の形態から、浮遊幼生期の長いタイプと短いタイプに分けられる。前者は後者に比べ広い分布域をもち、幼生が比較的頻繁に洞窟から出て分布を広げている可能性が高い。また、新生代中新世のエニウェトク産化石にコハクカノコ科の共有派生形質を認め、同科の新属新種Pisulinella miocenicaとして記載した。共産する化石から、本種もシラタマアマガイ類同様海底洞窟に生息していたものと考えられる。

III.陸水と汽水の地下棲種

 地下水の環境は極めて多様である。このうち、anchialine habitatやhyporheic habitat等の地下環境から多数のコハクカノコ科新種を発見した。Anchialine habitatは、海岸から数十メートル〜数キロメートルの内陸に位置するにもかかわらず、地下で海と連絡している汽水の環境である。これまで、ハワイ島に生息するNeritilia hawaiiensisが同環境に特異的な軟体動物の唯一の例として知られていたが、本研究での野外調査により、鹿児島県上甑島のanchialine lakeよりNeritiliaの1新種を、またフィリピンのanchialine caveからも別の新種を採集、記載した。前種は四国において、河口の深く埋もれた石の下(下記)や、井戸によって汲み上げられた地下水からも見つかっている。

 Hyporheic habitatとは、川の流れやその周囲(河原)の地下にみられる、礫間等の小さな間隙からなる地下水環境である。軟体動物としてはHydrobiidaeミズツボ科が唯一の恒常的河床下動物群として知られていたが、フィリピンでの調査においてコハクカノコ科の2新属3新種を発見することができた。うち1種は笠貝型の殻をもち、眼を欠く。

 さらに南西諸島では、地下水(伏流水)が流れ込む砂礫浜の地下の礫間隙中からNeritiliaの1新種を発見した。砂粒の間隙水にすむ特有の動物群(psammon)については研究が進んでおり、軟体動物でも多くの種が知られるが、本種は地下水の影響を受ける汽水環境にのみ生息する点で特異的である。

 これら地下環境に住む種は、いずれもごく狭い範囲でしか採集されなかった。しかしながら、幼生殻の形状は全て長期浮遊幼生型のものであり、よって河川や海底洞窟の種同様、海流分散を行っている可能性がある。

4.眼の微細構造

 前述のコハクカノコ科の共有派生形質の1つに、著しく小さく、水晶体・レンズ・角膜を欠き、網膜が露出したくぼみ状の眼がある。このような眼はこれまで軟体動物中オウムガイ類(頭足綱)とカサガイ類(始祖腹足亜綱)でしか見つかっていなかった。アマオブネ上目と始祖腹足亜綱との系統関係を考慮すると、コハクカノコ科の眼はそれらと相同なものとは考えにくく、独立に生じたものである可能性が高い。TEMによる微細構造の観察から、コハクカノコの網膜がカサガイ類を除く腹足類と同様、2種類の細胞(受光細胞・支持細胞)からなり、派生的な形質状態を示すことがわかった。受光において大きな役割を果たす受光細胞の微絨毛は、きわめて短くまばらで層を形成せず、全腹足類中、特異的に発達が悪い。これらを考えあわせると、過去に一度は複雑化した眼が、何らかの原因により退化、単純化したといえよう。

5.コハクカノコ科の種間系統樹

 種や属の系統関係ならびに各habitatへの放散を検討するため、mtDNAのCOIおよび16S領域を用い同科の系統解析を行った(図2)。これは地下水棲生物群における初の分子系統樹構築の試みである。

 形態により認識された種や属はいずれも単系統群を形成した。個々の種では、地理的に大きく離れていても遺伝的には極めて近い例が複数見られ、分散能力の大きさが示された。地下の種と地表の種は共に多系統群となり、またhabitat別に見ても単系統群とはなっていない。生息環境の塩分濃度も、系統樹に反映されていない。ヨコエビ類をはじめとする地下水棲小型甲殻類の一部は、浅海から海底洞窟やanchialine habitatを経て地下水に進出したといわれる。今回の系統樹では、このような進出の歴史について推論を行うことは難しいように思われる。

 コハクカノコ科の共通祖先が一時期地下に生息していたとするなら、地上への再進出が最低3回起こったと考えねばならない。仮に、個々に地下進出を行ったと仮定しても、地下への進出は最低4回となる。このような頻繁かつ適応的形態変化を伴った地上・地下間の移動は、いかなる動物群においても想定されていない。コハクカノコ科の諸種がグレイザーであり摂食における視覚の重要性が低い点や、浮遊幼生期の拡散能力の高さが、地上・地下間の移動を容易にしているのかもしれない。

図1.アマオブネ上目の分子系統樹

(28S rRNAの約1k bpに基づく最尤樹、BP値は左からML, MP, NJの各法による)

図2.コハクカノコ科の分子系統樹

(COI, 16S mtDNAの約1kbpに基づく近隣結合樹、BP値は左からNJ, MPに基づく)

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は4章からなり、第1章はコハクカノコ科の比較解剖と系統分類、第2章は28S rRNAの塩基配列に基づくアマオブネ上目の適応進化、第3章はコハクカノコ科の退化的な眼の起源、第4章はmtDNAのCOI及び16S領域の塩基配列による系統解析に基づくコハクカノコ科の地下環境への進出と地上環境への進出について述べられている。

 第1章では、熱帯の海底洞窟から生体が初めて見つかったシラタマアマガイ(シラタマアマガイ属)の系統分類学的所属を解明するため、連続切片並びにSEM観察に基づき、消化・筋肉・神経・循環・排泄・生殖器官の詳細な検討、及び殻形態の詳細な検討を行なっている。その結果、従来の説とは大きく異なり、シラタマアマガイ属は河川に生息するコハクカノコ属と単系統群を構成し、またそれらはコハクカノコ科を形成することを明らかにしている。

 この研究は、アマオブネ上目の多様性の理解に多大な貢献をしている。すなわち、従来2種のみが知られていたシラタマアマガイ属に新たな2現生種を海底洞窟から見いだし、マーシャル群島エニウェトック環礁の新生代中新世の1化石新属新種を認め、さらに従来8種が知られていたコハクカノコ類に新たな2新属と11新種を見いだしている。特筆すべきことは、海底洞窟から陸上に繋がるanchialine環境、海岸の陸水の影響のある間隙環境、河川のhyporheic環境にコハクカノコ類が生息することを明らかにしたことである。これらの発見は、同環境の軟体動物研究の新たな発展の契機になるであろう。

 第2章では、コハクカノコ科を含むアマオブネ上目の適応放散を追求している。アマオブネ上目は古生代シルル紀に出現し、現生種は浅海から陸上、さらには海底洞窟、陸上地下水、深海化学合成群集など、多様な環境に進出している。本研究では、現生の7科すべてを含むOTUについて、28S rRNAの塩基配列約1kbpを決定し、分子系統解析を試みている。その結果、分子系統学的手法でも第1章の解剖学的、殻形態学的研究に基づくコハクカノコ科の単系統性が指示されとともに、(1)同上目では3回の陸上進出があり、そのうち中生代におけるゴマオカタニシ科とヤマキサゴ科の陸上進出は淡水域を経由した可能性が高いこと、(2)淡水・汽水域には最低6回進出したこと、(3)海底洞窟もしくは類似の間隙環境に2回進出し、その中で「生きた化石種」アマガイモドキ科では、間隙生活への適応により貝殻を完全に退化させたチチカケガイが派生したことが明らかになった。これらの新知見は、アマオブネ上目の系統分類と適応放散の理解を著しく前進させるものである。

 第3章では、コハクカノコ科の共有派生形質である退化的な眼について、連続切片並びにTEM観察に基づき、その構造を明らかにしている。すなわち、同科諸種の眼は著しく小さく、水晶体、レンズと角膜を欠き、網膜は露出したくぼみ状であり、軟体動物では頭足類のオウムガイ類と腹足類始祖腹足亜綱のカサガイ類のそれに類似していることを明らかにしている。しかしこの研究では、TEMを用いた詳細な観察から、同類の眼の網膜はカサガイ類以外の腹足類と同様に受光細胞と支持細胞からなるという派生的な形質状態であること、また受光細胞の微絨毛はきわめて短く、かつ疎らであるという同類特有の構造があることを明らかにしている。これらの観察の結果、同類でかって複雑化した眼が、地下での生活により退化した可能性を指摘している。

 第4章では、コハクカノコ科の様々な生息域への適応放散を解明するため、同科諸種のmtDNAのCOI及び16S領域の塩基配列に基づく系統解析を行っている。その結果、(1)形態レベルで認められた種や属はいずれも単系統群を構成すること、(2)地理的に大きく離れた個々の種の個体群は遺伝的には極めて近く、分散能力が高いこと、(3)地下環境と地上環境などのそれぞれの生息域の種はともに多系統群となることが示され、コハクカノコ科諸種のそれぞれの環境への進出様式は複雑であることが示された。(3)については今後さらに同科の新たな種を見いだし、分子系統学的解析の手法などさらなる検討が必要であるが、地下水棲生物群における分子系統構築は初めての試みであり、十分に評価できるものと判断された。

 なお、本論文第1章は、佐々木猛智、石川 裕、加瀬友喜との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 以上要するに、本研究はアマオブネ上目の系統分類に関して重要な貢献であるばかりでなく、海から地下環境や河川への生物の適応放散に関する多くの新知見を含む研究であると判断される。したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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