学位論文要旨



No 116982
著者(漢字) 金,眞模
著者(英字)
著者(カナ) キム,ジンモ
標題(和) 市浦健の公共住宅に関する理念とその実践活動
標題(洋)
報告番号 116982
報告番号 甲16982
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5123号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 加藤,道夫
 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 助教授 西出,和彦
 東京大学 助教授 岸田,省吾
 東京大学 助教授 曲淵,英邦
内容要旨 要旨を表示する

 戦前・戦後の時代から高度成長期にかけての日本社会において、時代の変化に対応する近代的な居住環境を提供する住宅や住宅団地を供給することは、社会的な最重要課題のうちの一つであったと言える。

 終戦までは、同潤会、住宅営団など公的機関がこうした居住環境を供給するため様々な提案・実現化を行っており、また、終戦後は、公営住宅、日本住宅公団、住宅公社などの公的団体が居住環境の提案や実現化を行い、多くの面で先導的な役割を果たしたことから、公共集合住宅が当時の社会に対して果たしてきた役割は大きいと考えられる。

 このような戦前・戦後の時代から1980年代にかけて、日本の公共住宅を支えてきた一人として市浦健を挙げられる。今までの日本の公共住宅は、主として、西山夘三、吉武泰水、鈴木成文に代表される建築計画学的な立場からその成立過程が論じられてきた。概して公共住宅の実践を担った市浦健に対する評価・関心は低いと言えよう。つまり、彼に関する論文や雑誌での論考は少なく、その内容に関しても彼の活動についての実態や住宅建築における歴史的・社会的意義はほとんど明らかにされていない。

 筆者は、建築計画学的な立場だけではなく在野にあって現実社会に即応した実践を担った人の活動、特にその代表者と考えられる市浦健の活動が日本の公共住宅に与えた社会的影響は大きいと考えている。したがって本研究の目的はこうした観点に立って、市浦健の活動に対する再評価を試みるものである。

 第1章では、市浦健の活動時期における社会状況を継時的に整理するとともに市浦健の活動経緯、即ち、大学を卒業してから亡くなるまでの約50年間の活動を整理した。

 市浦健の活動は、大きく1. 戦前・戦時下の活動、2. 戦後復興の活動3. 市浦建築設計事務所の活動、4. 都市コンサルタントの活動、5. 市浦都市開発建築コンサルタンツの活動に分けられる。

 終戦までは、住宅対策、住宅生産分野において労働者や庶民住宅の研究を行っており、戦後は、戦災復興院、鹿島建設など行政官庁と民間での経験を積み、1952年には市浦建築設計事務所を創立した。以降、本格的に公共住宅の実務を行った。一方、高層アパートの研究、国際会議への参加に加えて、建築家協会などの団体でも活発な活動を行っていたことが明らかになった。

 市浦健の活動経緯の内容から、彼の活動が時代によって多様な広がりを見せておりそれは、終戦までの「住宅」に関わる研究活動と戦後からの公共住宅における実務・組織活動に代表される。

 第2章では、戦前・戦時下における日本の住宅対策、住宅生産分野において、彼の研究活動とその実践がどのような場面でどのように実施され、どのような影響を当時の住宅状況に及ぼしたのかについて明らかにした。

 第一に、産業都市における住宅の共同化、半官半民の会社による住宅の生産と管理といった住宅対策の提案である。第2に、建築材料などの研究と住宅の設計から得た経験から左官工事を伴わない乾式構造(ドロッケンモンタージュバウ)の研究である。このような彼の研究は、新しい構造を前提とした住宅の生産システム、つまり、住宅生産の工業化を目指しており、工場の安定した生産材料を使うなど、住宅を大量生産するためのシステムの提案である。当時、日本の住宅建築のほとんどが鉄筋コンクリートに関する構造理論に基づいていたのに対して、充分な材料の研究に基づいた住宅設計の実践については改めて評価すべきと考えられる。第3に、彼は建築産業の経済的な側面からも研究を行っていた。彼は、住宅建設において材料から建築生産まで全てを規格化・工業化することにより、住宅の大量生産を可能とし、また、建築産業一般までの拡張をめざした建築における工業化・規格化の提案を行った。このような彼の研究は、住宅建築に留まらずにさらに他の工業または産業分野、つまり経済全体への波及効果を視野に入れた提案である。

 一方、彼は住宅営団で「住宅設計基準と規格平面について」「住宅の基準寸法について」「住宅の戦時規格について」などの研究を西山夘三、森田茂介などと行った。それは、戦時下において建築材料、労働力などの省資源化も考慮した経済的な労働者の住宅供給に取り込んでいたことが明らかになった。

 市浦健の終戦までの住宅に関する研究活動は、昭和初期からの経済不況、満州事変からの一連の戦争と太平洋戦争に至るまで次々と変化する社会状況において、経済的理由から社会情勢に対応できない労働者・庶民などに住宅を安定して供給するため、大量生産を可能とするものである。また、居住性の向上を図ると共に、経済的な面からも建築産業の発展を図る、極めて実践的な研究であることが明らかになった。

 第3章では、戦後以降に重要な役割を果たしたと思われる公共住宅において、第2章で述べた理念を実現する実務活動の内容を分析・考察を行った。

 市浦健は1952年、市浦建築設計事務所設立以来、公共住宅に関して標準設計、団地・ニュータウン計画、住宅の開発など本格的に実務活動を行っていた。その代表的な設計に1954年度公営住宅標準設計の54-CII「スターハウス」が挙げられる。当時、公営住宅標準設計に代表される吉武泰水らの研究による標準設計「51C型」が「現実の生活の認識を基礎にして合理的に設計をするという理念を確立し、これに基づく生活像を示した点で意義があり、以後の公共住宅の計画に大きな影響をもった」とすれば、市浦健による「54C-II型」は団地景観を単に変化させたと言うだけでなく、従来の単調な配置計画を多様化し、団地に景観と言う視点を持ち込むきっかけを与えたと考えられる。

 団地計画については、彼は約50件の団地・ニュータウン計画にたずさわっていた。その代表的な団地として1965年の石神井公園団地が挙げられる。この団地において注目すべき特徴は、住棟を雁行させ、「囲み型」配置手法により団地の景観形成をより敷地に対応させたものに変化させたこと、またそれによって住戸の内部空間と外部空間の密接なつながりを図ったことである。また、外部空間との関係は住棟配置に留まらず住戸の内部における居間、食堂、台所などに代表される住戸内の共用部分を既に述べたようにプライベートな外部空間(南側のクラスターと北側のクラスターによって囲まれたオープンスペース)に面させることで、外部と住戸内部両空間の密接な関連性を図っただけでなく、住棟の1階共用部分に積極的にピロティーを造ることで性格の異なる両外部空間と住棟の関連性を考慮している。

 さらに市浦健は1975年に建設省と共同で、今までの標準設計を基礎としつつも間取りの自由化と型別供給を進め、かつ住棟計画に変化を与える新しい設計方法としてNPS(ニュープランシリーズ:新プラン体系)の開発を行った。

 NPSは、配置構成の単位を住棟ではなく、住戸としているため、住戸を家族の希望やライフスタイルに応じて組み立てることが可能であり、また、時間の変化によるリノベーションも可能とするものである。配置計画においても住戸を単位とするため、構成上の自由度が高く、住棟の配置を敷地形状に合わせることが可能である。また、団地の景観に変化を与え、外部空間の積極的な形成にも応えやすいものとなっている。これは、標準設計の実践で述べたように団地の外部空間の充実化、コミュニティのための景観形成を彼が求めた結果であると考えられる。このNPSは、公営住宅、住宅公団などの公共団体によるこれまでの標準設計を改善するきっかけを提供したと考えられる。

 市浦健は公共住宅設計の理念の中に、外部空間やコミュニティに対する視点を積極的に導入したと言えよう。そしてこのことは、スターハウスの標準設計から石神井公園団地の雁行配置へ、そしてNPSへと至る具体的な提案の変遷のなかにおいて共通して見られることが明らかになった。

 第4章では、市浦健における団体での組織活動について分析・考察を行った。市浦健は、終戦までは、新與建築家連盟、日本工作文化連盟などの団体で『現代建築』『工作分化』『新建築』などの諸外国を紹介する雑誌の編集、また日本建築学会では『建築設計資料集成』の住宅部分の編集などの活動を行った。このような市浦健の終戦までの団体での組織活動は、単に、諸外国を紹介する雑誌の編集に留まるものではなかった。彼の諸外国への関心は、既に述べた彼の研究活動と密接な関連性を保ちつつ、日本の住宅における住宅の設計や住宅対策のあり方を検討し、即ち日本の住宅を国際水準まで引き上げると同時に、地域性と関連づけて実現しようとする意図の存在を示すものである。

 戦後は、当時の日本設計監理協会(現在の日本建築家協会)を中心として数多くの委員会の委員や委員長として組織作りの活動を行った。まず高層アパートを研究する委員会を設け自ら委員長となり、当時標準設計による低・中層の公共住宅を高層住宅の形式に置き換えようとする研究を行った。市浦健は、当時諸外国の高層住宅の資料を数多く集めており、彼が集めた資料の中には「スターハウス」型の資料が含まれており、彼は早くからこの形状がもつ高層住宅の日本における可能性を予見していたと考えられる。また、彼は1967年に日本建築センターでの工業化住宅性能確定委員会の委員長をはじめ、住宅金融公庫のプレハブ住宅調査委員会の委員長などを歴任し、様々な団体で公共住宅の工業化・プレハブ化の研究を行った。このような市浦健の委員会活動の背景には、彼が実践した設計活動に対する評価があったと言えよう。

 日本建築家協会など、各種の団体において住宅の総合的な質の確保を目指して公共住宅のあり方を提案していたことが明らかになった。

 市浦健は建築家協会の組織活動を通じて建築家の社会的役割とその地位の確立を目指していた。それは、建築家の個人の自由職人としての資格を建築基準法で規定する、いわば「建築家法」と言うべきものの実現を目指すものであった。さらに彼は、専門コンサルタントの一つとして都市計画コンサルタントの確立を提案していた。その資格としては建築家と同様のものを考えていた。

 以上述べたように市浦健は、公共住宅に関してその時代時代の社会的ニーズに対して実務活動を通じて答えを出してきたことが明らかになった。その中で彼の果たした役割の一つに総合コンサルタント業の確立を挙げることができる。それは、終戦までの研究者的な立場での住宅の研究活動、戦後の建築家としての実務活動、都市計画における専門コンサルタントとしての経験と日本建築家協会など様々な団体で組織作りといったリーダーシップの経験があってこそ可能となったと言えよう。

 市浦健における諸活動は、理論より実践を重視した実務活動と言えよう。しかも、特に1968年の市浦都市開発建築コンサルタンツ設立以降は、総合コンサルタントとして広い視野から日本の公共住宅に関わったと結論づけられる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は,戦前・戦後から高度成長期にかけて時代の変化に対応する近代的な公共住宅の供給に際して,主として実践の立場から分析・考察を行うものである.これまでの日本の公共住宅に関する研究は,主として建築計画学的な立場から論じられるものの,具体的な実践活動の立場からの研究は少ないといえる.特に,在野にあって実践活動を通じて数多くの公共住宅に携わった人物の具体的活動の影響についての位置づけはなされていない.本論文はこうした人物を代表する市浦健の活動を分析することで,具体的実践活動の側面から日本の公共住宅の形成・変容過程を明らかにするものである.論文提出者は,現株式会社市浦都市開発コンサルタンツ所蔵の履歴書や経歴書等の各種の具体的資料を下に公共住宅に関する市浦健の研究活動・実務活動を整理分析し,日本の公共住宅を新たな視点から捉え直しているといえる.

 本論文は4章で構成されている.

 第1章は研究の起論にあたる部分で,市浦健の公共住宅に関する建築活動と密接に関連する,戦前から1970年代中期までの社会状況の整理を行い,市浦健の活動経歴を整理分類している.

 第2章では,戦前・戦時下における彼の研究活動と実践活動を分析し,彼の行った具体的提案,1)半官半民の会社による住宅の生産管理と住宅対策の提案,2)乾式構造の提案,3)経済的側面からの研究に基づく労働力の削減および工業化・規格化による大量生産の提案,4)標準設計の下となる平面規格,基準寸法の提案の内容とその意義を当時の社会状況と関連づけて論証している.当該部分は,戦後の実践活動の基礎となる理念形成の過程を明らかにするという意味で貴重な研究といえる.

 第3章では,主として第2章で明らかになった彼の理念を実現する戦後の実務活動の分析・考察を行っている.その結果,彼が42件にも及ぶ標準設計に関わったことを明らかにしている.また,当時としては画期的な平面構成をもつ公営住宅標準設計54-CII「スターハウス」の提案を当時の他の標準設計と比較することで,そこに,彼の標準設計が住宅団地の景観を変化させるだけでなく,従来の単調な配置計画を多様化し,景観という視点の先駆的導入という意義を見出している.また,彼が約50件の団地・ニュータウン計画に携わったことを明らかにした.その内,1965年の石神井公園団地が果たした住宅団地の配置計画の多様化への貢献を具体的に明らかにしている.更に,1975年のNPS(ニュープランシリーズ)の分析を通じて,配置構成の単位を住棟から住戸へ変化させたことが果たした団地計画における重要性を論証している.当該部分は,戦後における日本の公共住宅の変容過程を実践活動者の具体的活動という視点から捉え直すこれまでにない試みといえる.

 第4章では,市浦健の団体・組織での活動を分析・考察している.その結果,彼が,終戦前に,新興建築家連盟や日本工作文化連盟等の団体で雑誌編集活動を行い,海外の建築事情の紹介に努めていたことを明らかにしている.さらに,日本設計管理協会(現在の日本建築家協会)に代表される組織での委員や委員長活動を明らかにしている.その過程で収集された海外の実例がスターハウス標準設計につながる等の実務活動との関連を指摘している.また,上記の組織での活動を通じて,彼が有していた建築家という職能に関する関心と考え方,さらには専門コンサルタントとして都市計画コンサルタントの確立に向けて努力していたことを明らかにしている.また,彼の果たした役割として,実務経験を基礎として公共住宅に関わるさまざまな問題を調整・指導するプロデューサー的役割を果たす総合コンサルタント業の確立を挙げ,それが,戦前・戦後の研究・実務活動と都市計画専門コンサルタントとしての経験,日本建築家協会での活動経験に裏打ちされたものであることを論証することに成功している.

 以上,本論文は,日本の公共住宅の形成にかかわった市浦健の研究を通じて,これまで日陰の存在であった実践者が公共住宅に果たした役割を,具体的な活動履歴を詳細に分析することで明らかにし,従来の研究とは異なる方向から光をあてた貴重なものといえる.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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