学位論文要旨



No 116993
著者(漢字) ちゅーしゅあい,らしゃぽーん
著者(英字) CHOOCHOEY,RACHAPORN
著者(カナ) チューシュアイ,ラシャポーン
標題(和) バンコクの都市建築の近代化過程の研究
標題(洋) BANGKOK'S 7 TALES OF MODERNITY short circuits & cultural crossover
報告番号 116993
報告番号 甲16993
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5134号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 曲淵,英邦
内容要旨 要旨を表示する

■研究の目的と意義

 タイにおける近代建築の研究は、他の非西欧諸国と同様に、近代の巨匠建築家たちの仕事やその建築に関して、西洋の近代建築史との関係を明らかにすることに関心を寄せるものであった。しかしながら、こうしたアプローチはけっして土着のイデオロギーと海外から導入されたイデオロギーの間に横たわる建築議論や、タイの近代化過程の全体を通して移り変わった実践のあり方を深く理解するものとはなっていない。

 本研究は、地方特有の建築実践とイデオロギーに影響を及ぼした近代化過程を示す社会的な文脈に加えて、いくつかの建物と都市の要素を抽出し、それらを検証するものである。そして、それは次の考えに基づいて行われている。すなわち、近代化は何らかのかたちでほとんどすべての人間に影響を与えるグローバルな現象である一方で、国家が種々異なる個別の状況を近代化しようとする際、場所ごとに異なる非常に地域的な応用となった、ということである。

 研究の目的は、主にタイの歴史に刻まれた近代化という概念に焦点を当てながら、タイ建築の発展に関する新しい見解を提出することである。同時に、この国の重要な特徴のひとつである文化の流用という問題、さらに、それが都市環境にいかなる影響を与えたのかについても検討する。そして、本研究が将来、タイの建築史における、過去と現在、伝統と近代の間を結ぶ失われた絆となれば幸いである。

■論文の構成

 本論文は7章から成り立っており、時代の推移にしたがって3部に分かれている。第1部「バンコク以前」は2章から成り、バンコク時代以前に外国の要素を扱う際に認められるシャム文化の特性を考察している。第1章「宇宙の創造」はアユタヤの都市に採用されたクメール人の宇宙論的都市モデルを扱っている。第2章「レンガと卵」はナライ王の治世において、西洋人を含め異なる文化背景を持つ外国人との接触がなされた重要な局面に注目する。第2部「近代の足がかり」では、第3章「新しさの予感」において、バンコクにおける19世紀初頭の物質的、社会的環境について、さらに、近代化が到来する以前のシャムの伝統的な建築の基本的なタイポロジーに関して述べる。この部分もバンコクをそれ以前の首都であったアユタヤに結びつけるブリッジの役割を果たすものである。最後の第3部「近代性のなかのバンコク/バンコクのなかの近代性」はもっとも主要な部分で、19世紀後半そして20世紀初頭に、バンコクの物理的な環境に導入された4つの重要な近代の要素を分析している。第4章「中王国以降」では、現代のバンコクにおいてもっとも重要な要素、すなわち、通り沿いに並ぶショップハウスを考察している。ショップハウスは、中国人がタイの近代経済や都市基盤の整備をおし進めた結果として生じたものである。第5章「王の問題」は視点を変えて、チュラロンコーン王の治世の始まりに着手された宮廷建築を取り扱っている。これは、その形態において異種混合の精神を表明するように思われるもので、土着の様式、西洋の様式、さらに近代化や改革を装った宮廷の慣習が入り混じっている。第6章「大通り」では分析対象がより拡大し、王によって行われた壮大な都市計画を取り扱う。19世紀ヨーロッパの都市モデルに触発された王は、バンコクを近代的な都市へと変貌させようと試みたのだった。そのとき、伝統や慣習が新しい都市計画のために作り出されたことが本章の捉えた重要なポイントである。最終章となる第7章「メイド・イン・イタリア」では、壮大な都市計画の最後の要素トゥローン・ホールThrone Hallを扱う。ここでは、主としてイタリア人建築家のグループによって進められたシャムにおける近代建築の実践の有り様を示すことができるだろう。彼らは1890年代から1910年代まで政府に雇われ、建築の実務に従事した。都市に近代的な風景を生み出すことによって、また、近代的な学識を伝達することによって、彼らも地方の建築実践に影響を及ぼしたのである。また、自国の伝統的で象徴的な意味を伝えるためにエリートが行った西洋建築の実践についても分析した。

■考察

 シャムは自国の必要に合うように外国の要素を操作してきたにもかかわらず、模範となった文化モデルは、王国の当初から常にクメール、中国、インドであった。外国人との接触はエリートや都市住民に限られており、外国の影響は社会のわずかに狭い範囲であったと言わねばならない。近代化の過程を通して、シャム人がこれほど大規模で社会の広範にわたる外国の影響を受けた建物を作ることができたのは史上初めてのことだった。そして、最大の変化は、東南アジアを安価な資源産出国へと変えるヨーロッパの植民政策が進められたなかで、シャムが世界経済の渦中へ歩みを進めたという事実である。また、新しい経済のメカニズムの支持者は19世紀の初頭より移民してきた中国人たちだった。その後、彼らは国の経済のほとんどを掌握することになる。シャムの社会的イデオロギーに関しては、当時近代化を絶対的に表明していた国においては、王(そしてエリートたち)がすべての中心であった。物質的近代化において、重要なプロジェクトは王やエリートが主導的な役割を果たした。彼らが世界を舞台に交流する最前線にいたからである。

 目新しい都市建築に加えて、複数の意味を纏った王宮の実現やレクリェーションや式典が取り入れられ、そこに土着の象徴的な意味を伝えるために伝統的な要素が挿入された。実際、新しく導入された要素とうまく融和する試みとして、それらの地方化という方法があった。なぜなら、ヨーロッパから輸入されたこれらの建築は外観においてはほとんど異質のものだったからである。それらがバンコクに置かれ、近代の広告塔であるだけでは十分ではなかったのである。君主と人民の新しい伝統が創出される必要があった。シャム人は輸入された要素を、その当地の意味とはまったく無関係に、自分たちの必要や要求にしたがって操作してきたと言うことができるだろう。ここで重要なことは、文明化されているように見える形態を手にするということであった。

 西洋建築の導入は、単にその形態を通してだけではなく、イデオロギーと実践を伴うものだった。非常に早い段階で、シャム人は優秀な中国人労働者とともに見よう見まねで西洋の形態を持つ建造物をつくっていた。その後、西洋人の建築家や技師が宮廷に仕えるようになって、西洋建築の学識が伝達されるようになった。シャムの建築実践に与えたもっとも大きな影響は、地方に西洋の建築ドローイングの技法が導入されたことであった。それによって、地方の伝統的な建築の認識や形態、建設法が完全に変化した。ここに初めて、伝統的なシャム建築が普遍的な建築言語によって伝達されるようになったのである。実際、外国人が政府に雇われなくなっていた1930-40年代の段階で、西洋人建築家に学んだシャム人が手がけたいわゆるタイ様式の建築が出現するきわめて重要な要因となった。

 技術を要する仕事は外国人に指揮させるというのがシャム人の気質だった。アユタヤ時代から、中国人、ムーア人、日本人、そして西洋人、その他の外国人が特殊な事業のために宮廷に仕えた。外国人を起用するということは、民族や大陸を超えて王の美点を示すということでもあった。事実、シャム人は専門職を好まず、エリートだけが宮廷に仕えることをめざした。一方で、大衆は農耕に従事していたのである。近代化がおし進められる時代にも、同様の戦略がとられた。近代技術に関しては人材が乏しいために、シャム政府は外国人を雇わなければならなかったが、これは伝統でもあったのである。建築や建設においては、国を物質的に近代化するために不可欠な職業のひとつであったにもかかわらず、シャムのエリートにとっては名誉ある職種であるとは考えられなかったせいで、1885年以降に留学を命ぜられた(王族や貴族に限られた)シャム人留学生において建築を専攻する者はいなかった。そのかわりに、お雇いの建築家や技師が独占的に建設省を占めることになった。彼らから技術を学んだシャム人は排除されていたのである。しかし、20世紀初頭になって初めて、政府にシャム人建築家を起用しようという政策からではなく、ナリス皇太子の個人的な趣味のおかげで建築の学識が取り入れられるようになった。シャムの政治的、経済的問題によって外国人の専門家がそれぞれの国に帰った1930年代になると、職業としての建築家がシャム人によって占められるようになった。

 西洋から近代的な文化を受容しながら、シャムは新しい要素を地方に根づかせなければならなかった。その際、それが持つ本来の意味とは無関係に、新しい形態だけが目的であった。当時の建築や都市は、近代化された制度や実践によって現れる近代的な機能をもたらす目的だけではなく、近代的に文明化された国家のイメージを描く目的もあった。それゆえに、現実の機能が単にその形態のみにある場合もあった。これに関して、近代建築の歴史は体勢において、近代の工業社会への賛同を確かめることのできる形態や建設の目録に注意を向けているのである。そうしたアプローチではけっして浮き彫りにされてこなかった問題点が、本論の全体にわたって検証されていることを再度述べておきたい。

審査要旨 要旨を表示する

 この論文は"BANGKOK' S 7 TALES OF MODERNITY short circuits & cultural crossover"(バンコクの都市建築の近代化過程の研究)と題され、バンコックにおける地方特有の建築実践とイデオロギーに影響を及ぼした近代化過程を示す社会的な文脈に加えて、いくつかの建物と都市の要素を抽出し、それらを検証するものである。

 タイにおける近代建築の研究は、他の非西欧諸国と同様に、近代の巨匠建築家たちの仕事やその建築に関して、西洋の近代建築史との関係を明らかにすることに関心を寄せるものであった。しかしながら、こうしたアプローチはけっして土着のイデオロギーと海外から導入されたイデオロギーの間に横たわる建築議論や、タイの近代化過程の全体を通して移り変わった実践のあり方を深く理解するものとはなっていかった。本論文はその欠を補うべく、次のような視点に立って進められた。すなわち、近代化は何らかのかたちでほとんどすべての人間に影響を与えるグローバルな現象である一方で、国家が種々異なる個別の状況を近代化しようとする際、場所ごとに異なる非常に地域的な応用となった、ということである。

 本論文では主にタイの歴史に刻まれた近代化という概念に焦点を当てながら、タイ建築の発展に関する新しい見解を提出することが試みられた。同時に、この国の重要な特徴のひとつである文化の流用という問題、さらに、それが都市環境にいかなる影響を与えたのかについても検討された。

 本論文は7章から成り立っており、時代の推移にしたがって3部に分かれている。第1部「バンコク以前」は2章から成り、バンコク時代以前に外国の要素を扱う際に認められるシャム文化の特性を考察している。第1章「宇宙の創造」はアユタヤの都市に採用されたクメール人の宇宙論的都市モデルを扱っている。第2章「レンガと卵」はナライ王の治世において、西洋人を含め異なる文化背景を持つ外国人との接触がなされた重要な局面に注目する。

 第2部「近代の足がかり」では、第3章「新しさの予感」において、バンコクにおける19世紀初頭の物質的、社会的環境について、さらに、近代化が到来する以前のシャムの伝統的な建築の基本的なタイポロジーに関して述べる。この部分もバンコクをそれ以前の首都であったアユタヤに結びつけるブリッジの役割を果たすものである。

 最後の第3部「近代性のなかのバンコク/バンコクのなかの近代性」はもっとも主要な部分で、19世紀後半そして20世紀初頭に、バンコクの物理的な環境に導入された4つの重要な近代の要素を分析している。第4章「中王国以降」では、現代のバンコクにおいてもっとも重要な要素、すなわち、通り沿いに並ぶショップハウスを考察している。ショップハウスは、中国人がタイの近代経済や都市基盤の整備をおし進めた結果として生じたものである。第5章「王の問題」は視点を変えて、チュラロンコーン王の治世の始まりに着手された宮廷建築を取り扱っている。これは、その形態において異種混合の精神を表明するように思われるもので、土着の様式、西洋の様式、さらに近代化や改革を装った宮廷の慣習が入り混じっている。第6章「大通り」では分析対象がより拡大し、王によって行われた壮大な都市計画を取り扱う。19世紀ヨーロッパの都市モデルに触発された王は、バンコクを近代的な都市へと変貌させようと試みたのだった。そのとき、伝統や慣習が新しい都市計画のために作り出されたことが本章の捉えた重要なポイントである。最終章となる第7章「メイド・イン・イタリア」では、壮大な都市計画の最後の要素スローン・ホールThrone Hallを扱う。ここでは、主としてイタリア人建築家のグループによって進められたシャムにおける近代建築の実践の有り様を示すことができるだろう。彼らは1890年代から1910年代まで政府に雇われ、建築の実務に従事した。都市に近代的な風景を生み出すことによって、また、近代的な学識を伝達することによって、彼らも地方の建築実践に影響を及ぼしたのである。また、自国の伝統的で象徴的な意味を伝えるためにエリートが行った西洋建築の実践についても分析される。

 シャムは自国の必要に合うように外国の要素を操作してきたにもかかわらず、模範となった文化モデルは、王国の当初から常にクメール、中国、インドであった。外国人との接触はエリートや都市住民に限られており、外国の影響は社会のわずかに狭い範囲であったと言わねばならない。近代化の過程を通して、シャム人がこれほど大規模で社会の広範にわたる外国の影響を受けた建物を作ることができたのは史上初めてのことだった。そして、最大の変化は、東南アジアを安価な資源産出国へと変えるヨーロッパの植民政策が進められたなかで、シャムが世界経済の渦中へ歩みを進めたという事実である。また、新しい経済のメカニズムの支持者は19世紀の初頭より移民してきた中国人たちだった。その後、彼らは国の経済のほとんどを掌握することになる。シャムの社会的イデオロギーに関しては、当時近代化を絶対的に表明していた国においては、王(そしてエリートたち)がすべての中心であった。物質的近代化において、重要なプロジェクトは王やエリートが主導的な役割を果たした。彼らが世界を舞台に交流する最前線にいたからである。

 目新しい都市建築に加えて、複数の意味を纏った王宮の実現やレクリエーションや式典が取り入れられ、そこに土着の象徴的な意味を伝えるために伝統的な要素が挿入された。実際、新しく導入された要素とうまく融和する試みとして、それらの地方化という方法があった。なぜなら、ヨーロッパから輸入されたこれらの建築は外観においてはほとんど異質のものだったからである。それらがバンコクに置かれ、近代の広告塔であるだけでは十分ではなかったのである。君主と人民の新しい伝統が創出される必要があった。シャム人は輸入された要素を、その当地の意味とはまったく無関係に、自分たちの必要や要求にしたがって操作してきたと言うことができるだろう。ここで重要なことは、文明化されているように見える形態を手にするということであった。

 西洋建築の導入は、単にその形態を通してだけではなく、イデオロギーと実践を伴うものだった。非常に早い段階で、シャム人は優秀な中国人労働者とともに見よう見まねで西洋の形態を持つ建造物をつくっていた。その後、西洋人の建築家や技師が宮廷に仕えるようになって、西洋建築の学識が伝達されるようになった。シャムの建築実践に与えたもっとも大きな影響は、地方に西洋の建築ドローイングの技法が導入されたことであった。それによって、地方の伝統的な建築の認識や形態、建設法が完全に変化した。ここに初めて、伝統的なシャム建築が普遍的な建築言語によって伝達されるようになったのである。実際、外国人が政府に雇われなくなっていた1930-40年代の段階で、西洋人建築家に学んだシャム人が手がけたいわゆるタイ様式の建築が出現するきわめて重要な要因となった。

 西洋から近代的な文化を受容しながら、シャムは新しい要素を地方に根づかせなければならなかった。その際、それが持つ本来の意味とは無関係に、新しい形態だけが目的であった。当時の建築や都市は、近代化された制度や実践によって現れる近代的な機能をもたらす目的だけではなく、近代的に文明化された国家のイメージを描く目的もあった。それゆえに、現実の機能が単にその形態のみにある場合もあった。これに関して、近代建築の歴史は体勢において、近代の工業社会への賛同を確かめることのできる形態や建設の目録に注意を向けているのである。そうしたアプローチではけっして浮き彫りにされてこなかった問題点が、本論の全体にわたって検証されている。

 こうした視点と論考は、これまで十分に紹介され、考察されることのなかった、バンコックの都市と建築の近代化過程を説き明かすものであり、タイとイタリアにおける一次史料の発掘とその分析を含む叙述は見事である。実証性と叙述の巧みさを兼ね備えた本論文は、建築史研究、都市史研究に大きな寄与をなしたと考えられよう。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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