学位論文要旨



No 117009
著者(漢字) 田中,健太郎
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,ケンタロウ
標題(和) 摩擦振動安定性におよぼす潤滑膜分子の影響
標題(洋)
報告番号 117009
報告番号 甲17009
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5150号
研究科 工学系研究科
専攻 機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松本,洋一郎
 東京大学 教授 田中,正人
 東京大学 助教授 丸山,茂夫
 東京大学 助教授 高木,周
 産業技術総合研究所 総括研究員 加藤,孝久
内容要旨 要旨を表示する

 最近の機械要素の微小化は必然の流れであり,それにともなって微小な領域での現象の理解が重要になってきている.しかし,その代表長さが数nmを下回る領域での現象には,従来の連続体であることを仮定した理論を適用することができない.このような領域での現象の一つに,超薄膜による潤滑がある.超薄膜とは膜の厚さに対して,膜分子の大きさが無視できなくなるような厚さの膜のことである.潤滑膜が連続流体であることを仮定しているReynoldsの潤滑理論はこのような,膜分子の大きさの影響が現れてくるような領域では適用することができない.

 磁気記録装置のヘッドとディスク間でおきる現象は,まさにその超薄膜潤滑が起こりうる領域にある.磁気記録装置では,その記録密度を向上するために媒体の磁性層と磁気ヘッドの距離(磁気スペーシング)をできるだけ小さくする必要がある.近年の記録密度の向上にともなって,この磁気スペーシングを小さくするために,ヘッドの浮上量が年々低下し現在では10nm程度に達している.さらに記録密度を向上させるためには,現在の完全浮上方式のヘッドでは限界に近づきつつあり,ヘッドとディスクの間欠的な接触あるいは常時接触を許容する設計が不可欠であると言われている.ところでディスク表面には,摩耗と摩擦抵抗の低減のために厚さ2nmの潤滑膜が塗布されており,一本の潤滑剤分子の大きさは,回転半径で約5A程度である.ヘッドがディスクに接触する時にはこの潤滑膜を介したヘッドとディスク間のしゅう動,すなわち超薄膜による潤滑状態にあることが想定される.浮上量10nm以下でのヘッドの安定走行を実現するためには,この超薄膜潤滑下でのトライボロジー特性を明らかにすることが必要不可欠である.

 これまで,超薄膜潤滑のトライボロジー特性については,表面間力測定装置(SFA)等を中心とした低速度域(〜mm/s)での実験が主であった.この実験により固体面間の間隔が数nmを下回るような場合,挟まれた潤滑膜がバルクとは著しく異なる性質を示すことが明らかにされている.しかし,磁気記録装置の運転条件に近い速度(m/s〜)で測定が行われた例は少ない.そこで実際の磁気記録装置に近い運転条件でのトライボロジー特性を把握するために,高精度で跳躍振動と摩擦力の測定が行えるball on disk型摩擦試験装置を設計製作した.この装置ではエアスピンドルを用いた駆動系により,ディスクの回転ぶれを数μm程度に抑えつつ380〜5800rpmの回転速度を得ることができる.ヘッドに働く微小な摩擦力を測定するために,力を平行板バネを用いてたわみに変換し,そのたわみを高分解能の非接触式静電容量型変位計で測定することで微小な力を検出する.±2.1mNの範囲で分解能1μNで摩擦力を測定できる.ヘッドの跳躍振動はレーザドップラ振動計を用いて直接測定する.1V/μmの感度で100kHz以下の振動を測定できる.ヘッドは最も単純な直径1.5mmの球形ガラス(BK7)製スライダを用いた.スライダを支えるサスペンションには平行リンク方式を採用し,上下方向の振動以外は極力抑える設計とした.ディスクは実際の磁気記録装置に用いられているものと同じく,ガラス基板の上に磁性層,炭素保護膜(DLC)が積層されいるものを用いた.さらにディスクについては,潤滑膜の効果を知るために,厚さ2nmのPFPE (Perfluoropolyether)潤滑膜が塗布されたものと,潤滑膜の塗布されていないものを用意し比較した.Fig.1(a),(b)に2m/s(=760rpm)と10m/s(=3820rpm)で,押し付け荷重を増やしていった場合の跳躍量の時間平均値の変化の様子を示す.潤滑膜がない場合は,速度,荷重に関わらず跳躍量は小さい.潤滑膜がある場合,高速(10m/s)では振動が小さく,低速(2m/s)では荷重が小さいうちから振動が大きくなるという結果を得た.一般には,系に注入されるエネルギが増せば(速度が速くなれば),振動が大きくなる.あるいは潤滑膜があれば,その潤滑作用により振動が小さいのが常識であるがこれに反した結果となった.ヘッドに働く摩擦力を測定し,その摩擦係数の速度依存性を評価した(Fig.2).その結果,潤滑膜なしの場合には摩擦係数は速度に依存しないのに対して,潤滑膜がある場合は摩擦係数が速度の増加にともに低下していることが明らかになった.このような摩擦係数の速度依存性が負である系ではスティックスリップの発生する可能性があることが知られている.スティックスリップの発生によって摩擦振動が励起され,跳躍振動が大きくなる可能性は十分にある.また高速では振動の増大が観察されなかったが,これはすべり速度が速い場合にはスティックスリップが早期に減衰しているためと解釈することができる.

 以上のように,潤滑膜がある場合に低速でのみ振動が増大したのはスティックスリップの発生が原因であるという仮説を立てた.しかし,スティックスリップが実際に発生しているとしてもその周期は非常に早く,実験的にこの現象を直接観察するのは困難である.そこで,微小領域での動的な現象を捉えるのに適した分子動力学法による数値シミュレーションを行うことにより,固体面間に潤滑膜を挟んでしゅう動する場合に,潤滑膜が示す挙動,性質を明らかにすることを試みた.凝縮相での有機分子を扱うのに適したAMBER力場を適用し,実験で用いたものと同じPFPE潤滑剤分子を再現した.この潤滑剤分子を固体面間に配置し,一方の固体面に速度を与えてせん断した場合に発生する摩擦力,潤滑膜の挙動を調べた.その結果,膜厚方向の速度分布,数密度分布から,壁面近くで速度スリップが生ずることが分かった.壁面付近の潤滑膜分子は構造化し固体的に振舞う.一方,膜の中央付近の分子はすきまが広く比較的自由に動ける場合には流体的に振る舞い,速度勾配をもつ.従来,薄膜の粘性を評価する際には,せん断速度を間隔で割ったずり速度を速度勾配とみなして見かけの粘性係数を計算しているが,今回のように膜内の速度勾配が均一ではない場合はずり速度=速度勾配が成立しない.そこで,膜中央付近での速度勾配を用いて粘性係数を計算し,膜中央の粘性係数で粘性を評価した.その結果,すきまが狭くなる場合には粘性が増加する.また,粘性が速度勾配のべき乗に比例して低下することが明らかになった.これらの結果は2〜200m/sの速度でせん断した場合のシミュレーション結果であるが,SFAにより測定されている低速域(〜μm/s)でせん断した場合に薄膜が示す特徴と一致した.とくに,速度勾配の増加により粘性が低下する現象はShear thinningとして知られる現象である(Fig.3).図では,速度勾配の-0.99乗に比例して粘性が低下している.簡単にいって,これは摩擦係数の速度依存性が負である系であり,上述したように摩擦振動を増幅する可能性がある.さらにこの摩擦振動について詳しく議論するために摩擦力の時間変化を調べたところ,すきまが狭くなる(押し付け荷重が増加する)につれて,周期の長い振動成分が現れた.特にすきまが狭い場合には,摩擦力の増加(スティック)と,急激な減少(スリップ)の繰り返し(スティックスリップ)が起きることが観察された.このスティックスリップの特徴として,すきまが狭いほど周期が短くなる.また,同様に速度が増すほど周期が短くなり,さらに速度を増していき,一定の速度を越えると発生しなくなることが分かった.Fig.4にスティックスリップが発生してる場合の摩擦力の変化と,膜内のすべての潤滑剤分子の回転半径の平均値の変化を示す.回転半径は分子の拡がり具合を示すパラメータである.このグラフから明らかに,摩擦力が減少(スリップ)するとき回転半径が大きくなる.回転半径も摩擦力と同じ周期で変化している.このことから薄膜潤滑において押し付け荷重が大きく,強く圧縮された場合,潤滑膜分子の伸縮をともなう疎密の変化が起きる.密の場合は分子は圧縮されて縮み,この間に摩擦力は増加する.しかしこの状態には限界があり,この限界を超えると大きな摩擦抵抗を有していた密な構造が崩れる.構造が崩れると密な状態から疎な状態に分子が拡散し各分子の回転半径は大きくなる.この状態では摩擦抵抗が小さく摩擦力が減少する.疎な状態であれば,分子が動きやすく再び密な状態に構造化する.このような摩擦抵抗の周期的な変化により,スティックスリップに発展するという摩擦振動の発生機構を考えることができる.

 以上,実験およびシミュレーションにより,磁気記録装置のような高速で接触しゅう動する場合の超薄膜潤滑について,そのトライボロジー特性を評価し,潤滑メカニズムを考察した.その結果,潤滑膜を介在して接触しゅう動する場合には,潤滑剤分子の伸縮と疎密な状態の繰り返しによるスティックスリップが発生し,この摩擦振動がball on disk摩擦試験装置において観察される低速で跳躍振動が大きくなる原因であると結論した.

Fig.1(a) 760rpm

Fig.1(b) 3820rpm

Fig.2 The velocity dependence of the friction coefficient

Fig.3 The shear rate dependence of the viscosity at the center of the film

Fig.4 Friction force and radius of gyration

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「摩擦振動安定性におよぼす潤滑膜分子の影響」と題し,4章からなる.

 超薄膜潤滑は,マイクロマシンや磁気記録装置の分野で重要となりつつある.磁気記録装置の高密度大容量化にともなって,ヘッドとディスクのすきまは小さくなり10nm程度に達している.さらなる記録密度の向上のためには,ヘッドとディスクの接触しゅう動を許容した設計が必要であると言われている.ディスク表面には数ナノメータの厚さのフッ素系潤滑剤(perfluoropolyether, PFPE)が塗布されており,接触時にはこのPFPE潤滑膜を介したヘッド面とディスク面でのしゅう動,すなわち超薄膜による潤滑状態にある.このような超薄膜潤滑においては,いまだ明らかにされていない部分が多く,そのトライボロジーに関する知見を得ることが急務となっている.このような現状から,本研究は超薄膜潤滑において摩擦振動安定性を得るためのトライボロジーに関する知見を得ることを目的として行われたものである.

 第1章は「序論」であり,研究の背景と目的,本論文の構成について述べられている.また,磁気記録装置の現状、これまでの超薄膜潤滑に関する研究と,このスケールでの分子シミュレーションの有用性について述べている.

 第2章は「ball on disk型摩擦試験装置による摩擦実験」である.まず,実際の磁気記録装置と同じ運転条件でヘッドとディスクの接触しゅう動試験を行うために設計製作したball on disk型の摩擦試験装置の詳細について述べている.この装置により,高精度な跳躍振動と摩擦力の同時測定を可能にしている.この装置を用いてPFPE潤滑膜がある場合とない場合とでの振動状態,摩擦特性の違いを比較した結果,潤滑膜がない場合では,回転速度に関わらず跳躍振動は小さい.一方で潤滑膜がある場合には,高速回転時では振動が小さいが,低速回転時においては振動が大きくなることを観察している.一般に系に注入されるエネルギが大きいほうが(速度が速いほうが),振動が大きくなる.また,潤滑膜があるほうがその潤滑作用により振動が小さくなるのが常識であるが,実験の結果はこれに反するものとなった.この振動の増大はディスク表面の摩擦係数が負の速度依存性を持つために自励振動を発生しやすい系になっているためであると結論している.

 第3章は「分子動力学法による超薄膜潤滑のシミュレーション」である.まずシミュレーションの詳細について述べている.従来の連続体であることを仮定した理論が,個々の分子の影響が現れてくるようなスケールにある超薄膜の現象には適用できないことを示し,続いて,そのような分子スケールでの動的な現象を捉えるのに適している分子動力学法の概要,手法について説明している.次に,2nmの潤滑膜のディスク表面での状態について説明し,このディスク表面上での超薄膜潤滑に分子動力学法を適用するためのモデル化について述べている.

この分子動力学法によるシミュレーションの結果として,まず潤滑膜が流体的な振舞いをするような条件では,すべり速度の増加にともなって膜の粘性が減少する現象,shear thinningが起きることを明らかにしている.これは,潤滑膜を塗布したディスク表面の摩擦係数の速度依存性が負となることと関連している.また,潤滑膜が固体的な状態になるような条件では,壁面と潤滑膜の固着(スティック)とすべり(スリップ)の繰り返しによる摩擦力の周期的な増減,スティックスリップ現象が起きることを明らかにしている.

 第4章は「結論」であり,上述した内容を総括している.

 以上を要すると,今後,磁気記録装置のさらなる高密度大容量化の要求に応えるのに解決すべき超薄膜潤滑における摩擦振動安定性を得るためのトライボロジーに関する知見を得るために,実験およびシミュレーションを用いて研究を行っている.その結果,実験で観察される跳躍振動の増大が,分子動力学法によって明らかにされたshear thinning,スティックスリップという分子的な現象を原因とする摩擦振動のメカニズムによって引き起こされるということを示している.また本研究によって超薄膜潤滑に関する数多くの知見が得られており,今後さらなる発展が予想される微小機械の潤滑機構の設計に役立てられ,機械工学およびトライボロジーに寄与するところが大きい.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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