学位論文要旨



No 117027
著者(漢字) 北澤,大輔
著者(英字)
著者(カナ) キタザワ,ダイスケ
標題(和) 数値シミュレーションによる超大型浮体式構造物の海洋生態系への影響に関する研究
標題(洋)
報告番号 117027
報告番号 甲17027
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5168号
研究科 工学系研究科
専攻 環境海洋工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤野,正隆
 東京大学 教授 磯部,雅彦
 東京大学 教授 山口,一
 東京大学 助教授 佐藤,徹
 東京大学 助教授 林,昌奎
内容要旨 要旨を表示する

 海上に超大型浮体式構造物を設置する場合、それが周辺の海洋生態系に及ぼす影響について事前に調査しておく必要がある。この様な環境影響調査を行う場合、生態系モデルを用いた数値シミュレーションによる方法は有効な方法のうちの一つであると考えられており、以前より浮体の設置による流れ場の変化や太陽光の遮蔽効果などに関する数値シミュレーションが行われている。しかし、浮体周囲の生態系の実海域計測データが極めて少ないため、観測結果と計算結果との比較による数値モデルの検証は充分に行われていない。この様な経緯から、本研究室を含む大学研究員グループは、数値モデルの妥当性検証のためのデータ取得を目的として、東京湾横須賀市追浜沖に係留されたPhase-I浮体(長さ:300m・幅:60m・深さ:2m・喫水:0.5m)とPhase-II浮体(長さ:1000m・幅:60〜121m・深さ:3m・喫水:1m)周囲の海洋環境計測を行った。その結果、特にPhase-II浮体直下において付着生物の活動による影響と思われる水質の変化が見られ、付着生物による新しい生態系の創出効果が思いの外大きいことが明らかとなった。従って、本研究では、この様な浮体直下における水質変化を再現することに重点を置くこととし、以下に示す3つの目的を設定した。

・ まず、東京湾に生態系モデルを適用した数値シミュレーションを行い、現状の生態系の再現性について検討する。ただし、観測結果と計算結果との直接的な比較により生態系モデルの検証を行うために、極力現実に近く、時々刻々変動する境界条件を用いた数値シミュレーションを行う。

・ 付着生物モデルを組み込んだ生態系モデルを用いてPhase-I浮体、あるいはPhase-II浮体を設置した数値シミュレーションを行い、浮体直下で観測された水質の変化を再現する。

・ Phase-I浮体・Phase-II浮体・仮想の超大型浮体式構造物を設置した数値シミュレーションを行い、浮体周辺海域の水質の変化・付着生物の活動に関するフラックス・湾内の物質循環への影響について予測する。

 本研究で用いる生態系モデルは、海水の流れや水温・塩分などを計算する物理モデルと、化学物質の濃度や生物量を計算する化学・生物モデルとから構成される(図1(a))。さらに、化学・生物モデルは、海水中の生態系を対象とした浮遊系モデルと、堆積物中の生態系を対象とした底生系モデルとに大別される。一方、浮体による影響を考慮に入れる場合には、浮体底面における摩擦・熱や塩分などのフラックスの遮断・付着生物の活動を組み込んだ数値シミュレーションを行う。図1(b)に付着生物モデルの詳細について示す。付着生物はプランクトンや懸濁態有機物を濾過・摂取し、糞や擬糞を排出する。また、付着生物の排泄やその死体の分解に伴って、栄養塩類が排泄され、酸素が消費される。

 まず、浮体を設置した計算を行う前に、付着生物モデルを含まない生態系モデルを用いた数値シミュレーションを行い、現状の生態系の再現性について検討する。一例として、Phase-II浮体が設置されていた1999年11月1日から2000年10月31日までの期間を対象として、数値シミュレーションを行った結果を示す。図2に計算対象期間の浮体外(Station E)におけるクロロフィルa量の時系列を示す。ただし、2000年5月以前は浮体外でクロロフィルa量の計測が行われていないため、浮体下(Station C)における計測結果を示している。夏季に見られるクロロフィルa量の大きな変動は充分に再現されていないものの、年間変動については観測結果と計算結果とでおおよそ対応している。その他の変数についても観測値と計算値との比較を行った結果、物理モデルの変数については年間変動から数日スケールの変動まで再現され、化学・生物モデルの状態変数については数日〜数週間スケールの変動は充分に表現されないものの、年間変動についてはおおよそ再現されることが明らかとなった。

 次に、水質が悪化しやすい夏秋季を対象として、生態系モデルに付着生物モデルを組み込んだ数値シミュレーションを行った。浮体近傍の水質の変化に関する詳細な情報を得るため、浮体周辺海域を細かい格子で分割し、その外側の海域を粗い格子で分割する局所格子細分化法を用いた。図3に、2000年9月12日のPhase-II浮体下(Station C)と浮体外(Station E)におけるクロロフィルa量・リン酸態リン・アンモニア態窒素の鉛直分布を示す。この時期は植物プランクトンの光合成が比較的活発であるために、浮体外においては表層でクロロフィルa量の値が大きく、海面下8m付近から深くなるにつれてクロロフィルa量の値が急激に小さくなる。逆に、光合成に利用される栄養塩については、表層で濃度が低くなり、底層で濃度が高くなる鉛直分布を示している。一方、浮体下においては、浮体底面から海面下5m付近までにおいて、クロロフィルa量が減少し、リン酸態リンとアンモニア態窒素の濃度が上昇する様子が再現されている。これは、主に浮体底面に付着している生物が植物プランクトンなどの懸濁態有機物を摂取し、リン酸態リンやアンモニア態窒素を排泄するためである。また、付着生物による酸素消費速度については、観測値が7.1〜65.6gO2/m2/day(付着生物1gCあたりでは104.7〜147.2mgO2/gC/day)であるのに対し、計算値は平均して27.7gO2/m2/day(付着生物1gCあたりでは125.2mgO2/gC/day)であり、観測されたデータの範囲に含まれている。従って、Phase-II浮体直下で観測された水質の変化が、付着生物モデルを組み込んだ数値シミュレーションによって再現され、付着生物モデルの有効性が示されたと考えてよい。ただし、付着生物の機能をさらに正確に把握するためには、浮体直下の水質変化の計測のみではなく、付着生物の濾過・摂取速度や栄養塩の排泄速度などのフラックス調査も併せて行う必要がある。

 さらに、Phase-I浮体・Phase-II浮体と追浜沖・羽田沖に設置された仮想の超大型浮体式構造物(長さ5km・幅1km・喫水3m)の海洋生態系への影響を予測した。その結果、浮体直下では主に付着生物の存在によって化学的酸素要求量と溶存酸素量が減少した。富栄養化海域である東京湾においては、通常化学的酸素要求量の増加と溶存酸素量の減少が懸念されているため、化学的酸素要求量と溶存酸素量の減少は、それぞれ海洋生態系への正の影響・負の影響であると考えることができる。また、浮体の設置による全リンや全窒素の濃度変化は比較的小さいものの、それらの構成に注目してみると、リン酸態リンやアンモニア態窒素は増加し、有機態のリン・窒素は減少している。表層の栄養塩濃度の上昇が湾内の光合成を促進させる可能性も考えられたが、浮体周辺海域で植物プランクトンが増加する様子は見られなかった。これは、表層における栄養塩濃度の上昇が直接的に光合成速度の増大に結びつかないか、あるいは光合成が促進されたとしても、生産された有機物が再び付着生物に利用されるためであると考えられる。一方、付着生物に関するフラックスと湾内の他の地点における類似のフラックスとを比較したところ、単位面積あたりの付着生物量が非常に多いこともあり、付着生物に関するフラックスはかなり大きいことが示された。また、追浜沖と羽田沖に仮想浮体を設置した数値シミュレーション結果より、海水の流れが遅い海域では浮体の影響が大きくなることも示された。

 以上の検討内容をまとめると、本研究では以下の様な結論が得られた。

・ 極力現実に近い境界条件の下で数値シミュレーションを行い、観測結果と計算結果との直接的な比較を行ったところ、東京湾における現状の水質は生態系モデルによりほぼ再現されることが分かった。ただし、数日〜数週間スケールの変動については充分に再現されておらず、光合成過程のモデル化などに改良を加える必要があると考えられる。

・ 付着生物モデルを組み込んだ数値シミュレーションを行ったところ、浮体直下における水質の変化が再現され、付着生物モデルの有効性が示された。ただし、付着生物モデルの精度をさらに向上させるためには、浮体直下の水質変化の計測のみではなく、付着生物の濾過・摂取速度や栄養塩の排泄速度などのフラックス調査を行う必要がある。

・ Phase-I浮体・Phase-II浮体や仮想の超大型浮体式構造物を設置した数値シミュレーションを行ったところ、浮体直下では付着生物による有機物の浄化作用が見られるが、同時に溶存酸素量の減少も見られた。また、付着生物の活動に関するフラックスは、湾内の他の海域における類似のフラックスに比べて非常に大きくなっていた。さらに、浮体による影響の程度は浮体の規模や設置海域によって異なることが明らかとなり、浮体の設置条件については十分に検討する必要があると思われる。

 今後の課題としては、生態系モデルや付着生物モデルの精度を向上させるとともに、付着生物の海底への落下に伴う底質の変化についての調査を進めていく必要がある。また、超大型浮体式構造物の海洋生態系への影響について調査する場合、現状の生態系を基準とするのではなく、望まれる生態系を基準として影響を定量的に予測し・評価につなげていくことが重要であると考えられる。

図1 沿岸の生態系モデル(a)と付着生物モデル(b)

図2 1999年11月1日から2000年10月31日までのPhase-II浮体東端におけるクロロフィルa量の時系列変動

図3 浮体下(Station C)と浮体外(Station E)におけるクロロフィルa量・リン酸態リン・アンモニア態窒素の鉛直分布(2000年9月12日)

審査要旨 要旨を表示する

 超大型浮体式構造物を埋立方式に替わる人工島として利用する場合、浮体がその周辺海域の海洋環境に与える主な影響として、浮体による海水流動場の変化、大気と海洋間の運動量・熱・塩分・酸素等のフラックスへの影響、さらには浮体に付着する生物による浮体近傍の水質の変化、ならびに、付着生物の海底への脱落に伴う底質および海底直上の水質の変化などが指摘されてきた。わが国では平成7年度から開始された超大型浮体式構造物に関する研究開発(以降、メガフロート・プロジェクトと略称する)では、浮体による種々の環境影響が詳細に検討されたが、浮体に付着した生物による影響については、多くの検討課題が残された。このような背景をもとに、本研究では、超大型浮体式構造物が海洋生態系に与える影響、とくに、浮体に付着した生物が周辺海域の水質や物質循環に及ぼす影響を正確に捉えることに重点を置き研究が実施された。

 超大型浮体式構造物の海洋環境の事前検討には、浮体周囲の海水流動ならびに生態系の挙動を数値モデルで記述しこれを数値的に解く、いわゆる数値シミュレーションの手法が有力な方法として、従来からも利用されてきたが、その結果の妥当性について十分な検証が行われてきたとは言い難い。また、浮体に付着する生物を的確にモデル化し、浮体周囲の水質の計測結果と詳細に比較し、その妥当性を検証した例は皆無に近い。したがって本研究では、浮遊生態系、底生生態系に加え、さらに付着生態系を新たに導入し、これらを同時に考慮することにより、超大型浮体式構造物周辺の生態系の挙動予測の精度が向上することを検証している。検証には、上記メガフロート・プロジェクトでの実海域実証実験に使用されたフェーズI浮体(長さ300m、幅60m、深さ2m、喫水0.5m)、フェーズII浮体(長さ1000m、幅60〜121m、深さ3m、喫水1m)周辺で実施された計測結果が使用されている。

 本論文は6章で構成されている。第1章は緒言で、研究の背景、および研究の目的が述べられている。

 第2章「数値モデル」は、本研究で用いられた生態系モデルは海水流動を記述する物理モデル、海面から海底直上までの水柱環境と海底の堆積物中の底生環境を記述する化学・生物モデルで構成されること、さらには海面上での浮体の挙動と付着生物を記述する浮体モデルの説明に充てられている。とくに、本研究の中心である付着系を記述するモデル(付着生物モデル)は、従来の底生系モデルで考慮されてきた底生生物のうち、本研究での主たる検討対象であるムラサキイガイを中心とした付着生物と、ほぼ同様の生活様式を持つ生物のモデル化を参考に定式化されている。このように構築された生態系モデルには多くのパラメータが含まれているが、本研究での検討は専ら東京湾を浮体の設置海域と想定しているため、東京湾の生態系に適用可能なパラメータの推定結果をまとめている。

 第3章「生態系モデルの検証」は、第2章に述べられた生態系モデルの有効性を、前記メガフロート・フェーズIおよびIIの浮体周辺で実施された水温、塩分の海洋物理場、溶存酸素、クロロフィルa、栄養塩などの化学・生物場の観測結果と生態系モデルのいわゆるリアルタイム・シミュレーションの結果を比較することにより検証している。塩分の計測値にはセンサー部への生物付着による精度低下があり十分な検証はなされていないが、水温については年間変動や風の吹送による数日スケールの変動、さらには日射や潮流による半日ないしは1日周期の変動が、数値シミュレーションによって良好に再現されることを示した。

 一方、クロロフィルaや窒素・リン・珪素の栄養塩などの年間変動は数値シミュレーションによって概ね良好に再現されたが、たとえばクロロフィルaの数日スケールで起こる急変現象は十分には再現されなかった。また、同様のことは溶存酸素についてもいえ、リアルタイム・シミュレーションの精度を上げるために、栄養塩の連続計測を行い栄養塩濃度の変動とクロロフィルaの変動のメカニズムをさらに検討すべきであることなど、今後の課題を整理している。

 第4章「浮体モデルの検証」では、第2章で定式化された浮体モデルをメガフロート・フェーズIおよびII浮体設置海域に適用した数値シミュレーション結果と実際の計測結果との直接的な比較により、浮体モデルの検証を行った結果を述べている。とくに、浮体に付着した生物の活動による浮体直下の水質の変化と付着生物の落下による底質の変化を、モニタリングによって定量的に検討した例はほとんどないため、フェーズII浮体周辺海域の海洋環境計測では浮体直下の水質の詳細な鉛直分布の調査を行っている。その結果、浮体直下に置いて、クロロフィルaと溶存酸素が減少し、リン酸態リンとアンモニア態窒素の濃度が上昇することが認められるとともに、これらの現象が数値シミュレーションによって良好に再現できることが述べられている。また、付着生物の現存量やモデル化に関して感度解析を行い、付着生物の定式化の方法とシミュレーションによる予測結果との関係について検討を行っている。その結果、付着生物の活動は周辺海域の餌料濃度や溶存酸素量によって制限されることが示され、海洋生態系における付着生物の機能を正確に見積もるためには、付着生物の動態と周辺海水の性質とを関連づけたモデルを用いる必要があることを指摘した。

 第5章「超大型浮体式構造物の海洋生態系への影響」では、前章までの検討でその有効性が検証された生態系モデルを用いた数値シミュレーションによって、内湾に設置された超大型浮体式構造物が海洋生態系に与える影響を評価するに際しては、浮体の設置による諸物質の変化量に着目するのみならず、浮体の設置によって新たに生ずる化学・生物過程に伴うフラックスの評価や浮体の設置に伴う湾内の物質循環の変化(具体的には湾内の炭素循環)も評価の対象とすることの重要さを主張している。具体的な評価例として、メガフロート・フェーズIおよびIIの浮体のみならず東京湾内の2個所を設置海域として想定した仮想の超大型浮体式構造物(長さ5km、幅1km)についても検討結果を示している。

 第6章「結言」は、本研究で得られた知見を総括するとともに、今後の課題を整理している。

 以上、本論文は、今後に具体化が予想される超大型浮体式構造物がその周辺海域の海洋環境に与える影響を数値シミュレーションによって評価する手法を展開したもので、その成果は極めて有用である。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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