学位論文要旨



No 117065
著者(漢字) 岩本,敏
著者(英字)
著者(カナ) イワモト,サトシ
標題(和) 半導体フォトリフラクティブ多重量子井戸素子の高機能化の研究
標題(洋)
報告番号 117065
報告番号 甲17065
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5206号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 志村,努
 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 黒田,和男
 東京大学 教授 荒川,泰彦
 東京大学 教授 中野,義昭
内容要旨 要旨を表示する

 フォトリフラクティブ効果は照射された光の強度分布に応じて材料の屈折率,吸収係数が変化する現象であり,低出力レーザーでも大きな光非線形性が得られることから,情報,計測分野などへの応用が期待されている。特に半導体フォトリフラクティブ多重量子井戸素子(Photorefractive Multiple Quantum Wells, PRMQW)は励起子に起因した大きな電気光学効果と半導体の大きなキャリア移動度のため,高速かつ高感度な実時間ホログラムの記録媒体として期待されデバイス研究が進められてきた。近年,この特長を活かし光情報処理,適応型光計測や光短パルス制御などへの魅力的応用が検討されている。しかしながら,これら応用研究の実用化や新たな応用の実現に向けて,より高機能な素子実現への要求が高まっている。PRMQWの一つの特徴は材料,構造を人工的に容易に変えることが出来る点にある。本研究はこの特徴を活かし,材料および構造を設計することでPRMQWの高機能化を目指したものである。

 主な研究内容は(1)材料設計による動作波長域の拡大,(2)構造設計による高機能化,および(3)作製した素子を用いた応用である。以下それぞれの概要を述べる。

(1)材料設計による動作波長域の拡大

 これまでPRMQWの研究は作製が容易なAlGaAs/GaAsMQWを用いて進められてきた。PRMQWでは励起子に共鳴した電気光学効果を利用するため,この材料系の感度波長域は800-850nmに限られる。そのため他の波長域で素子を利用するためには新たな材料系での素子研究が必要である。本研究では光計測,生体計測で有用な波長1μm近傍に着目した。InGaAs/GaAs MQWを用いて波長920-950nm, 1064nmで動作する素子をはじめて作製し,井戸層に平行に電界をかける配置(横配置)で良好なフォトリフラクティブ特性を得た。特に素子が安価で汎用性の高いレーザーの波長に感度を持つことは応用上重要なポイントである。波長1064nmは広く利用されているNd:YAGレーザーの波長であり,応用分野を手がけるグループから素子提供を求められるなど注目されている。

 波長1064nmに感度を持つ素子では,量子井戸の励起子共鳴波長を1064nmに合わせるために高いIn組成(〜25%)のMQWが必要であり,InGaAsとGaAsとの大きな格子不整合が素子作製上の問題となる。本研究ではMQWをその平均格子定数を持つバッファ層(Strain-Relief Buffer, SRB)上に成長することで,この問題を解決し波長1064nmで動作する素子を作製することに成功した。素子は有機金属気層成長法により成長し,フォトリフラクティブ効果の発現に不可欠な深いトラップ準位はプロトン打ち込みにより導入した。最大回折効率は0.1%@15kV/cm(1500V/1mm)であった。

 波長930-950nm,1064nmのいずれの素子においても回折効率はAlGaAs/GaAs PRMQWに比べて一桁近く小さい。これはInGaAs-GaAs間の格子不整合などの影響により,励起子吸収線幅が増大し,電気光学効果が小さくなっていることに起因する。

 回折効率の向上を目指し,量子閉じ込めシュタルク効果を利用する縦配置InGaAs/GaAs PRQW素子(950nm)も作製した。同じ波長に感度を持つ横配置の素子に比べ10倍近い回折効率が得られるものの,空間分解能は横配置の10分の1程度であった。高効率と高分解能の両立については"(2)構造設計による高機能化"の項で述べる。また高次回折光の時間波形から内部電場分布の時間発展の様子を考察した結果,内部電場の空間分布は正弦波状から方形波状へと,その変調度を下げながら変化していくことが明らかとなった。

(2)構造設計による高機能化

 縦配置の素子は電気光学効果を示すMQW部分とそれを挟む高抵抗クラッド層で構成され,低い駆動電圧(〜10-20V)で大きな光非線形性が得られるのが魅力である。本研究ではこの縦配置の構造を設計することで素子の高機能化を行った。具体的には,(a)クラッド層の設計による高分解能化,および定常的回折光発生,(b)結合量子井戸構造を用いた素子感度波長帯域の拡大を行った。

 (a)素子の高分解能化と定常的回折光発生

 縦配置の欠点であった低空間分解能を克服し,大きな回折効率と高い空間分解能を両立させることを目指した。特にキャリアトラップとして働くクラッド層が素子特性に与える影響を検討し,高分解能高効率素子実現への指針を得た。これまでクラッド層の影響を系統的に調べた例はなく本研究がはじめてである。素子は分子線エピタキシーを用いて成長した。量子井戸部分にはInGaAs/GaAs MQWを,クラッド層には低温成長したAlxGa1-xAs(500nm)を用いた。量子井戸部分の構造は同一で,クラッド層のAl組成xが異なる3つの素子(x=0, 0.3, 0.5)を作製・評価した。その結果,クラッド層のAl組成が小さいほど大きな回折効率を示し,高い空間分解能をもつことが明らかとなった(図1)。Al組成が大きくなるにつれてMQW部分とクラッド層の間のポテンシャル障壁は増大し,キャリアがMQW/クラッド界面のMQW側に蓄積される。MQW部分は半絶縁化されていないため,キャリアの面内移動は大きい。この面内移動により内部電場の変調度が低下し,効率および分解能が低下すると考えられる。また,GaAs(x=0)クラッド層を用いた素子では入射光強度によって縦配置特有の過渡的回折光から定常的回折光へと時間応答が変化すること,回折効率を最大にする最適入射光強度が存在するといった特異な現象が観測された。これはクラッド層に注入される暗電流の影響である。暗電流の影響を取り込んだ簡単なモデルを構築し,観測された時間応答,回折効率の光強度依存性を説明できることを示した。

 (b)素子の広帯域化

 光短パルスの時間波形を制御する技術は次世代光通信や電子状態などのコヒーレント制御などへの応用上,その重要度は高まっている。すでにPRMQWを用いた光短パルス制御は報告されているが,素子の帯域が狭い(〜5nm)ためパルス幅が制限されるのが問題であった。本研究ではMQW部分に結合量子井戸構造を持つPRMQWを新たに提案し,広帯域PRMQWが実現できることを数値計算と実験の両面から示した。まずAlGaAs/GaAs系を想定した数値計算により,適切な非対称結合量子井戸(Asymmetric Coupled Quantum Wells, ACQW)構造を用いれば従来の矩形量子井戸(Rectangular Quantum Well, RQW)構造に比べて感度波長帯域を大幅に拡げることが出来ること,高い回折効率が得られることを示した。これは結合量子井戸構造ではRQW構造に比べてより多くの励起子遷移がバンド端での電気光学効果に寄与できることをうまく利用した結果である。分子線エピタキシーにより,設計されたACQW構造を持つPRMQWを作製し回折効率のスペクトルを測定した(図2)。ACQW構造をもつ素子ではRQW構造の素子に比べて約3倍の回折効率スペクトル半値全幅(12nm)と回折効率(0.36%)が得られえた。

(3)応用

 本研究で作製した素子を用いて応用実験も行った。二光波混合を用いた適応型振動計測の実験では,横配置InGaAs/GaAs PRMQW(1064nm)を用いて,高出力Qスイッチレーザーの照射によりアルミニウムロッド中に励振された振動を測定した。測定結果のフーリエ解析から励振されたロッドの固有振動が計測されていることがわかった。このようなレーザー誘起振動(超音波)の計測は工業分野で特に注目されている技術であり,扱いが容易なNd:YAGレーザーを用いて適応型計測が簡便に行えるようになった意義は大きい。また画像処理の一例としてPRMQW(AlGaAs/GaAs)を用いた光相関演算も行った。PRMQWに書き込まれるホログラムは非常に薄いのでRaman-Nath回折が起こる。そのためシフトインバリアントな相関演算が実現できる。PRMQWは10mW/cm2程度の書き込み光強度で1ms程度の高速応答を示すため,低光強度で高繰り返しの光相関を実現できる可能性がある。

 本研究ではPRMQWが人工材料であることの利点を生かし,材料設計,構造設計による素子の高機能化を検討した。InGaAs/GaAs量子井戸を用いて,これまで実現されていない波長域での素子作製にはじめて成功した。特に波長1064nmに感度を持つ素子は,生体計測などの応用研究を手がけるグループから素子提供を求められるなど,その波及効果は大きい。また構造設計による素子特性の制御として,クラッド層の違いによる素子特性の変化を系統的に調べ,量子井戸部分とクラッド層の間のポテンシャルステップが素子特性を決める大きな要因となっていることを示した。また量子井戸部分に非対称結合量子井戸構造を用いて素子の感度波長帯域を拡大する方法をはじめて提案し,実験的にもその有効性を実証した。本研究で得られた結果は,今後の高機能PRMQWの作製において重要な指針を与えると考えられる。

図1:回折効率(▲)とカットオフ格子間隔(●)のクラッド層Al組成による変化カットオフ格子間隔が小さいほど分解能が高い

図2ACQW構造(●)とRQW構造(▲)の回折スペクトル

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「半導体フォトリフラクティブ多重量子井戸素子の高機能化の研究」と題し、InGaAs/GaAs系およびAlGaAs/GaAs系半導体多重量子井戸の励起子吸収による大きな電気光学効果を利用したフォトリフラクティブ素子の製作、およびその動作に関する解析とデバイス構造の改良による素子の高機能化に関する研究に関するものである。半導体フォトリフラクティブ多重量子井戸素子は、高速動作と大きなフォトリフラクティブ効果を両立させた、優れた素子である。本研究の主な成果は、これまでに無い波長域である0.9-1.06μmの波長域に感度を持つ、半導体フォトリフラクティブ多重量子井戸素子を初めて作製したこと、この波長域でさらに大きなフォトリフラクティブ効果を持つ、量子閉じ込めシュタルク効果を利用した素子を初めて作製したこと、結合量子井戸を利用することにより感度を持つ波長域を大きく広げたこと、およびこれらに付随する諸現象を実験的に明らかにしたことである。本論文は10章から構成されている。

第1章では本研究の背景、目的および論文の構成が述べられている。半導体フォトリフラクティブ多重量子井戸素子の開発の重要性、およびその製作技術の近年の進歩と、本研究のねらいについて述べられている。

第2章ではフォトリフラクティブ効果について、その原理について述べられている。結晶におけるフォトリフラクティブ効果のメカニズムとして広く受け入れられているバンド輸送モデルに基づき、フォトリフラクティブ効果発現の原理と、特徴について述べたのち、フォトリフラクティブ効果に基づく現象の基本過程である2光波混合および4光波混合について解説している。さらに従来のバルクフォトリフラクティブ材料について、その特徴が述べられている。

第3章では、半導体フォトリフラクティブ量子井戸素子に関して、まず量子井戸構造とそれにおける特徴的な電子状態・光学応答について述べられ、次にフォトリフラクティブ材料としての半導体量子井戸材料の特徴と、フォトリフラクティブ素子としての基礎として、利用する電気光学効果、3種類の基本的な素子構造について述べられている。ここで、なぜこの素子で高速性と大きな効果が両立できるのかが述べられ、この材料の重要性が強調されている。さらに半導体フォトリフラクティブ多重量子井戸素子における光波混合について、バルク素子との違いを中心に解説されており、吸収格子と屈折率格子が共存する場合の光波混合に関して述べられている。最後に過去の研究例が素子開発と応用に分けて紹介されている。

第4章では素子を作製する要素技術となる半導体薄膜成長技術と半絶縁化法について述べられている。成長法に関しては、実際の素子作製を行った分子線エピタキシー法(MBE)と有機金属気相成長法(MOVPE)が解説されている。フォトリフラクティブ効果の発現に不可欠な反絶縁化に関しては、加速イオンの打ち込みによる不純物ドーピングと、低温成長法によるトラップの導入法について述べられている。これらの方法は後の素子作製で実際に使われている。

第5章ではInGaAs/GaAs系材料を用いた横配置のフォトリフラクティブ多重量子井戸素子について、その作製と特性評価に関して述べられている。InGaAs/GaAs系材料においてフォトリフラクティブ効果の報告されたのは本論文がはじめてである。まず横配置の素子に関する動作の基本に関して、バンド輸送モデルに基づく解析が述べられ、次にInGaAs/GaAs量子井戸の特徴が、他の材料を用いた量子井戸素子との比較を交えて述べられている。さらに反絶縁化法としてプロトン打ち込みを採用した素子の作製と評価が述べられている。イオン打ち込みによる反絶縁化に関する評価、イオン打ち込み前後の励起子吸収スペクトルの比較、光波混合実験によるフォトリフラクティブ効果の測定が行われている。ついで、波長1.06μmに感度を持つ同じくInGaAs/GaAs量子井戸によるフォトリフラクティブ素子に関する作製と評価に関して述べられている。波長1.06μmに感度を持つフォトリフラクティブ多重量子井戸も、本研究がはじめての報告例である。感度を持つ波長を長波長側にシフトさせるため、In組成を増大させたが、これによりGaAsとの格子定数の不一致が増大し、そのままでは良好な量子井戸結晶を成長することができないが、これをひずみ緩和層の導入により解決した。この素子に関してもフォトリフラクティブ特性の評価を行い、良好な結果を得ている。最後に作製の容易さからこれまでに報告例の多いAlGaAs/GaAs系の素子との比較が行われ、更なる素子改良の指針が考察されている。最後にチタンイオンを打ち込んで絶縁化を行った素子の作製と諸特性の評価に関する結果が述べられている。

第6章では縦配置のInGaAs/GaAsフォトリフラクティブ多重量子井戸素子に関して述べられている。まず縦配置での動作原理および素子構成が述べられ、その素子特性として励起子吸収スペクトル、電気光学効果、フォトリフラクティブ効果に関する測定結果とその検討が行われている。横配置に比べて大きな回折効率が得られたが、時間的には過渡的な効果となっていることが述べられている。さらに屈折率格子の正弦波からのずれ、すなわち高次成分に関する評価が行われ、さらにロックインアンプによる時間平均回折効率の測定とその結果の検討が行われている。

第7章ではキャリアのトラップとなるクラッド層の設計による縦配置フォトリフラクティブ多重量子井戸素子の高分解能化と時間応答の制御について述べられている。まず縦配置の素子の空間分解能の決定要因に関して考察した後、量子井戸層とクラッド層の間のポテンシャルステップの影響についての考察が行われている。この考察に基づき、ポテンシャルステップの異なる素子を試作して実験的に素子特性への影響を調べている。その結果、ポテンシャルステップをゼロにすることにより、クラッド層内部にキャリアを導入し、そこでトラップすることにより、横方向のキャリアの拡散を押さえ、過渡的であった時間応答を定常的なものにし、さらに空間分解能も向上できることを見出した。モデル計算によるこの結果の裏付けも行っている。

第8章では結合量子井戸構造を用いたフォトリフラクティブ多重量子井戸素子の広帯域化について述べられている。まずこの素子のフェムト秒パルスの波形整形への応用を考えた際に必要とされる波長帯域幅の要求と、これまでの広帯域化への試みの報告例について述べた後、本研究のオリジナルである結合量子井戸を用いた広帯域化の概念について解説している。さらにこれに基づく素子設計の指針と実際の回折スペクトルのシミュレーション計算の方法に関して詳しく説明した後、数値計算による構造設計とその計算結果に関して述べている。その結果非対称結合量子井戸により単純な量子井戸素子に比べ2倍程度の広帯域化と同時に、回折効率も2倍程度大きくできることを明らかにした。さらにこの設計結果に基づき実際に素子を製作し、その評価を行っている。波長帯域に関しては設計値に近い値が得られており、実用上優れた素子を設計可能であることを示した。

第9章ではこれまでに製作した多重量子井戸素子を用いた応用システムの実験例が述べられている。これらの素子を用いた光相関演算および適応型振動計測の例が紹介されている。光相関演算に関しては、厚さが小さく結合係数が大きいという特徴が、振動計測に関しては、応答速度が速く、外乱の影響を除去できる、という特徴が生かされている。振動計測ではサブナノメートルオーダーの微小振動の計測をを実現した。

第10章では論文全体の総括が述べられている。

なお、補遺として本素子の内部量子効率の影響に関する考察が付け加えられている。

以上をまとめると、本論文では半導体多重量子井戸フォトリフラクティブ素子に関して、InGaAsという新しい材料組成による素子の感度波長域の拡大、および構造設計による素子の高分解能化と定常的な回折光の発生、さらに非対称結合量子井戸の導入による素子の広帯域化という、フォトリフラクティブ素子の高機能化を実現するための指針とその設計法および実験的な検証が示されている。本論文で示された高機能フォトリフラクティブ素子の実現の方法は、フォトリフラクティブ素子の実用化への方向性を示したという点で、光エレクトロニクスおよび物理工学への寄与は大きい。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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