学位論文要旨



No 117070
著者(漢字) 田尻,寛男
著者(英字)
著者(カナ) タジリ,ヒロオ
標題(和) 表面X線回折法による低温Si(111)−×−Ag構造の研究
標題(洋)
報告番号 117070
報告番号 甲17070
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5211号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 高橋,敏男
 東京大学 教授 前田,康二
 東京大学 教授 岡野,達雄
 東京大学 教授 雨宮,慶幸
 東京大学 助教授 長谷川,幸雄
内容要旨 要旨を表示する

 室温におけるSi(111)-√3×√3-Ag(以下、√3-Ag)表面構造は長年にわたる論争の末、高橋らの提案したHCT(honeycomb chained triangle)構造モデル[1]によって解明された。しかし、最近低温ではこの√3-Ag表面構造はHCTモデルではなく、鏡映線に関する対称性のくずれたIET(inequivalent triangle)モデルで説明できるとする第一原理計算とSTMによる観察が報告された[2,3]。図1左下の構造モデルがHCTモデルであり、図1右下の構造モデルがIETモデルである。図1において、灰色の大きな丸はAg原子を表し、その他の丸はSi原子を表している。IETモデル(空間群p3)にはその名前のとおり、単位胞内に大きさの異なるAg原子の三角形が二つ存在している。これは、HCTモデル(空間群p31m)のAg原子位置から単位胞の原点を軸にして、銀原子を回転させることに対応する。第一原理計算によれば[2]、この回転角は6度であると考えられているが、この低温構造についての詳しい報告はまだない。

 そこで、我々は表面X線回折法を用いて50K付近の低温における√3-Ag表面の構造解析を行った。実験はKEK(高エネルギー加速器研究機構)の放射光施設PF (Photon Factory)内のビームラインBL-15B2で行った。実験を行うにあたり我々は、ビームラインBL-15B2に試料作製用の超高真空槽を備えた表面六軸X線回折装置を設置、立ち上げを行った。超高真空槽内の到達真空度は1.5×10-10Torr以下であり、Taヒーターとクライオスタットにより、試料温度を50Kから1400Kまで制御可能である。試料作製は以下の手順で行った。Si(111)ウェハから16.5×16.5mm2の大きさに切りだした試料を用い、試料温度を1200℃付近まで加熱しSi(111)-7×7清浄表面を得る。その後、試料温度を500℃でアニールしながらAgを1ML (monolayer)蒸着することにより√3-Ag表面を得た。測定は主に室温と50Kにおいて行った。今回行った表面X線回折法における測定配置は、GIXD (grazing incidence x-ray diffraction)配置である。この配置では、注目する三次元表面構造について、試料表面に垂直な方向に投影した二次元構造についての情報が得られる。使用するX線の波長は0.86Åに選んだ。GIXD配置において、26点の等価でない分数次反射測定点を得た。測定結果から得られたPattersonマップを図1に示す。Pattersonマップとは、測定したX線反射強度のFourier変換をマッピングしたものであり、マップ上の正のピークは、注目構造に含まれる原子間ベクトルに対応する。図1左上が室温の測定結果、図1右上が低温(50K)での測定結果より得られたPattersonマップである。このように、室温においてAg-trimerを表すピークAが低温ではA、A'の2点にスプリットする。これは、図1右下のIET構造モデルにおいて、薄い灰色と濃い灰色の丸で表される回転方向の異なる二つのAg-trimerに対応づけられる。したがって、低温では二つのドメインを持つIET構造が実現していることがわかる。

 次に、最小自乗法により、構造パラメータの最適化を行った。その結果を図2に示す。横軸はAg-trimerの回転角θ、縦軸はGOF (the goodness of fit)を表すx2である。白丸が室温での測定データ、黒丸が低温(50K)での測定データの解析結果である。回転角θが0度の場合には、HCTモデルを表し、0度でない場合はIETモデルを表す。これによれば、室温の測定結果は、IETモデルよりも非等方的温度因子を考慮したHCTモデルでうまく説明されることがわかる。また、低温の測定結果は、明らかにAg-trimerの回転角が約6.4度のIETモデルでよく説明できることを示している。得られた構造パラメータを表1に示す。rは原点からの距離、θは各trimerの回転角である。表1から、室温ではAg原子は、その平均自乗変位からも分かるように、非等方的に熱振動している。このように、低温√3-Ag表面構造がIETモデルで説明できることを実験的に初めて示し、室温√3-Ag表面においてAg原子熱振動の非等方性に関する知見も得た。

 以上の構造解析の結果からわき上がる疑問は、この√3-Ag表面の低温から室温への相転移がどのようなものであるか、ということである。そこで、室温から低温(50K)までの反射強度の温度依存性を測定した。その結果を図3に示す。黒丸で示される通常の表面超構造からの反射(ブラッグ成分)に加え、150Kあたりから低温では白丸で示される半値幅の広い反射(diffuse成分)がロッキングカーブに現れた。これは、IETモデルに2つのドメインが存在することによるドメイン効果である。すなわち、IET構造の発現を示す。このdiffuse成分のfitting結果から相転移温度は150.6Kであることがわかった。diffuse成分の変化には温度上昇、下降による履歴現象はなく、√3-Ag表面の相転移は二次の相転移であることが推測される。ただし、diffuse成分の挙動は二次元Isingモデルで予想される結果とは異なる。したがって、低温相から高温相への相転移はIETモデルにおける2-stateによる秩序・無秩序相転移ではない。これは、室温データにより構造パラメータを最適化した際にも示唆されたことである。すなわち、基本構造は低温相ではIETモデル、高温相ではHCTモデルで説明されると考えられる。

 以上まとめると、表面X線回折法(特にGIXD法)により、低温√3-Ag表面構造はIET構造であることを実験的に初めて示した。また、低温相から高温相への相転移温度が150.6Kであることを見いだした。室温√3-Ag表面構造はIET構造における2-stateの無秩序状態ではないことを確認した。

[1] T. Takahashi, et al., Surf. Sci. 283(1993)17.

[2] H. Aizawa, et al., Phys. Rev. B59(1999)10923.

[3] N. Sato, et al., Surf. Sci. 442(1999)65.

図1 実験により得られた各温度におけるPattersonマップと対応する構造モデル。

説明本文参照。

図2 最小自乗法による室温、低温測定データの解析結果。

横軸は、Ag-trimerの回転角、縦軸はGOF(the goodness of fit)を表すx2である。説明本文参照。

表1 最小自乗法により得られた、各温度での構造パラメータ

図3 表面超構造(32)反射強度の温度依存性

横軸は試料温度、縦軸は反射強度。白丸、黒丸はそれぞれロッキングカーブに現れるbragg, diffuse成分の反射強度を表す。黒線はdiffuse成分のfitting曲線である。説明本文参照。

審査要旨 要旨を表示する

 表面の原子構造について正確な情報を得ることは、その表面電子状態、表面物性を理解する上での重要な基礎的事柄である。シンクロトロン放射からの高輝度X線を利用する表面X線回折(SXD)法は、表面構造を精密に解析できる有力な手法の一つとして認識されつつある。SXD法が威力を発揮した例として、室温におけるSi(111)-√3×√3-Ag(以下、√3-Ag)表面の構造解析が挙げられる。この表面は種々の表面構造解析手法を用いても、統一的な見解が得られず長い間論議を呼んだが、現在ではSXD法により銀が蜂の巣状連結三角形(HCT)構造をとるものと考えられている。ところが最近、低温ではHCT構造からの微小な原子変位によって説明される、非対称三角形(IET)構造が実現しているとする、第一原理計算と走査トンネル顕微鏡による報告がなされた。本論文は、SXD法を非常に有効に利用し、低温における√3-Ag表面の構造解析、および室温構造から低温構造への相転移の研究を行っている。

 本論文は6章からなる。以下に各章の内容を要約する。

 第1章では、本研究の背景が述べられており、特に現在までに得られている√3-Ag表面についての知見が述べられる。それをもとに、本研究の目的と本論文の構成について述べられる。

 第2章では、SXD法について、その原理と種々の測定法が説明されている。さらに、測定したX線回折強度から構造因子の絶対値を抽出するための補正因子が示され、表面構造解析を行う際の手順が述べられる。

 第3章では、本研究で使用した実験装置の詳細が述べられる。まず、SXD法による測定を行うに十分な自由度を備えた六軸表面X線回折装置について説明が行われる。次に、試料作製環境として必要な超高真空装置の性能が述べられ、試料温度を約50Kから約1400Kまで制御可能な試料マニピュレーターについて述べられる。この試料マニピュレーターは本研究の目的のために新たに製作されたものである。

 第4章では、試料温度約50Kの低温および室温における√3-Ag表面のSXD法による構造解析について述べられている。まず、実験結果が述べられ、表面のドメイン効果を考慮に入れた構造モデルについて考察がなされる。この考察に基づき実験結果が解析され、試料温度約50Kにおける√3-Ag表面構造はIET構造であることが示される。さらに室温における√3-Ag表面構造は銀原子の熱振動が異方性調和振動で表されるHCT構造で説明されることを示し、従来のHCT構造が原子の熱振動に関してさらに精密化されることを示した。SXD法において表面原子の熱振動異方性について議論を行ったという報告はほとんどなく、このことはSXD法の解析精度が従来と比較して大きく改善されたことを表している。さらに、異なる試料を用いた試料温度300K、215K、160Kにおける同様の実験について述べられる。その解析結果から銀原子の非調和性熱振動の可能性についても議論がなされる。

 第5章では、室温構造としてのHCT構造から、低温構造としてのIET構造への相転移についての実験と考察が述べられている。まず、SXD法による測定結果の温度依存性について述べられる。変位型、および秩序・無秩序型転移モデルによる考察の結果、実験結果について室温から低温への相転移は、銀三量体の基準位置からの回転角を秩序変数とする変位型転移で説明されることが示される。さらに、臨界現象を記述する臨界指数による解析が試みられ、臨界指数β=0.265、相転移温度Tc=150Kを得た。この結果をもとに、二次元系における秩序・無秩序型転移モデルの厳密解との比較、考察が行われ、結論として秩序・無秩序型転移の可能性が改めて否定される。

 第6章では、本論文のまとめと、√3-Ag表面構造にかかわる総合的な議論が展開されている。

 以上を要するに、本研究では試料温度約50Kの低温における√3-Ag表面についてSXD法による構造解析を行い、その構造がIET構造であることを実験的に初めて示し、他方、室温構造は銀原子の熱振動異方性を取り入れたHCT構造として精密化されることを示した。また、室温相から低温相への相転移は、HCT構造からIET構造への変位型転移であることを示し、臨界指数βおよび相転移温度Tcを実験的に決定した。このように、SXD法により精密な表面構造解析が可能であることに加え、他の解析手法では検出が困難であると思われる微小な構造変化を伴う表面相転移についても系統的な研究を行える可能性を示した、と言う点で物理工学の進展に寄与するところが大きい。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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