学位論文要旨



No 117071
著者(漢字) 中村,芳明
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,ヨシアキ
標題(和) STMプローブ励起原子・分子反応に関する研究
標題(洋) Atomic and Molecular Reactions Induced by STM Probe Excitation
報告番号 117071
報告番号 甲17071
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5212号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 前田,康二
 東京大学 教授 藤原,毅夫
 東京大学 教授 市川,昌和
 東京大学 助教授 福谷,克之
 東京大学 助教授 長谷川,幸雄
内容要旨 要旨を表示する

 電子線や光を照射することにより物質の電子系を励起すると、原子・分子反応を誘起できる場合がある。この現象を使って新構造をもった物質を創造しようという研究の一貫として、走査トンネル顕微鏡(Scanning Tunneling Microscope=STM)の探針(プローブ)から試料表面にトンネルキャリアを注入することで一種の電子励起状態を引き起こし、原子・分子反応を誘起する方法−プローブ励起法−について、現象とその機構を解明するための研究を行った。プローブ励起法は究極の空間分解能を有する超微細加工技術の可能性を秘めているだけでなく、学術的基礎研究を行うのに非常に有利な特徴−電子励起後に同じ探針を用いて直接その場観察が可能であること−をもっている。すなわち、励起後に何がどうような反応を起したのか現象の物理的実体を原子レベルで直接知ることができ、反応機構を明らかにする上で非常に有利である。

 探針が誘起する原子・分子反応は今まで探針−試料間の電界効果によって説明されることが多かったが、最近になってプローブ励起効果が考えられるようになってきた。プローブ励起効果の機構の1つとして、電子(正孔)を表面原子の反結合性軌道(結合性軌道)に注入し、結合の不安定化を誘起し、原子反応が引き起こすというものが考えられる。電界効果は、サンプルバイアスに対し単調増加しトンネル電流に対しては特に依存性を示さないのに比べ、上述のプローブ励起機構の場合は、効果はサンプルバイアスに対して単調に増大せず反結合性準位(結合性準位)に対応して極大を示し、また反応速度はトンネル電流に比例するなどの特徴を示すはずである。そのため、反応のサンプルバイアス依存性、トンネル電流依存性を測定し、走査トンネル分光(Scanning Tunneling Spectroscopy=STS)で測定した局所状態密度と比較することにより反応機構を明らかにすることができる可能性がある。いっぽう微細加工への応用の観点から、プローブ励起によって誘起される原子・分子反応の空間的広がりに注目した。従って、以下に述べる全ての物質系に対して、(1)反応の原子的実体、(2)サンプルバイアス依存性、(3)トンネル電流依存性、(4)局所状態密度、(5)反応の空間的広がりを調べることにより、プローブ励起原子分子反応の機構と応用上の問題点を明らかにすることを目的とした。

 塩素吸着シリコン表面は応用上重要な表面であり、盛んに研究されている。代表的なシリコン表面である(111), (100)面に光を照射するとシリコン原子が塩素によってエッチングされることが報告されているが、未だ原子レベルの反応機構はわかっていない。本研究では塩素吸着したSi(111)-(7×7)およびSi(100)-(2×1)表面でプローブ励起によって誘起される原子反応機構を調べた。

 C60クラスタは光や電子線を照射すると重合し、その反応生成物は有機溶媒に不溶となる。この特徴とクラスタサイズが約7Aと非常に小さいことから超高解像度電子線レジスト材料として有望視されている。しかしながら、電子線照射反応とその反応機構はわかっておらず、長年研究されている光重合機構に関しても電荷移動励起子によって重合が誘起されているのではないかといわれているだけである。レジスト材料を想定した基板物質のもシリコン他種々のものが考えられる。そこで、Si(111)-(7×7)面および高配向性グラファイト(HOPG)上に堆積したC60結晶薄膜について、プローブ励起法を用いC60クラスタ重合が起こるか否か、その機構、空間分解能を高めるための方策を明らかにすることを目的として実験を行った。

 全ての実験は超高真空中(5×10-11 Torr程度)、室温で行った。Cl吸着Si(111)-(7×7)表面上のプローブ励起実験はSTM探針として主にPtIr探針を用いたが、他の実験はW探針を用いた。

 Cl吸着Si(111)-(7×7)表面でSTM探針から電子、正孔注入を行うとCl原子拡散と脱離が誘起されることが見出された。主な反応は拡散であることからCl原子拡散を重点的に調べた。このCl原子拡散は電子注入においてはサンプルバイアスVS=+4.0V付近で、正孔注入においてはVS=−2.0V付近で、それぞれ効果が最大となった。この2つのバイアス下のCl原子拡散速度はいずれの場合もトンネル電流に比例した。このサンプルバイアス依存性、トンネル電流依存性の結果から、このCl原子拡散効果は探針−試料間の電界効果ではなく、電流注入効果によって生じていることがわかった。STS測定を行ったところ、VS=+4.1V付近にはCl原子由来の局所状態密度(LDOS)ピークが存在し、いっぽうVS=−2.0V付近にはCl原子由来のピークは存在しないがSi表面バンド由来のLDOSピーク(S3)が存在することが分かった。Schluter [1]らの計算結果から、VS=+4.0V付近のCl原子由来のLDOSピークはSi-Cl反結合性軌道に相当すると考えられる。このことは、電子はSi-Clの反結合性軌道に直接注入され、Si-Cl結合の不安定化を誘起し、拡散に至るというモデルを示唆する。しかし、この効果の空間的広がりを調べるべく、探針を試料表面の一点に固定して電子或いは正孔注入を行った結果、いずれのばあいも効果は注入点から10nm程度広がることがわかった。また、電流注入効果はステップを越えては広がらず、この広がりはCl原子被覆率に依存しなかった。電子注入のばあいの空間的広がりには特徴的な方位依存性が、また広がり効果の注入点からの距離依存性にはサンプルバイアスに依存した振動構造が見出だされた。以上の事実は、次のようなプローブ励起塩素原子拡散機構、すなわち(1)電子はまずSi表面バンドに注入され、(2)バンド中をコヒーレントに伝播し、(3)共鳴的に反結合性軌道に局在し、(4)Si-Clボンド伸長振動を誘起し、(5)拡散が起こる、というモデルでよく説明される。正孔注入効果については、(1)正孔はまずSiバックボンド由来の表面バンドに注入され、(2)バンド中を伝播し、(3)塩素吸着サイトのバックボンドに局在し、(4)バックボンドの伸長振動を介してSi-Clボンドの伸縮振動を誘起し、(5)拡散が起こる、というモデルで説明される。

 Si(100)-(2×1)表面についてプローブ励起塩素移動現象を調べた結果、電子或いは正孔注入を行うとCl原子が隣接吸着サイト間をジャンプすることが見出された。この効果はVS=+1.25V、VS=−0.75V付近で効果最大となり、このピークバイアスではCl原子ジャンプ頻度はトンネル電流に依存した。このことからこの効果は電界効果ではなく、電流注入効果によって生じていることがわかった。また、STS測定の結果VS=+1.25V付近にはCl由来のLDOSピーク、VS=−0.75V付近にはSiダイマーのπボンド由来の表面バンドLDOSピークが存在することがわかった。Cl由来のLDOSピークは他の報告より、Si-Cl反結合性軌道であると考えられる。STM画像を詳査した結果、Cl原子から離れた場所で電流注入したときでもCl原子ジャンプが誘起されること、すなわち効果は電流注入点から広がることがわかった。広がり効果の異方性を調べるため、ダイマー列方向に沿って探針を走査することによりキャリアを注入した場合とダイマー列に直角に探針を走査することによりキャリア注入した場合を比較した結果、正孔注入の場合はダイマー列に沿って注入したほうがジャンプ頻度が大きくなるのに比べ、電子注入の場合は顕著な異方性が見出されなかった。これは、正孔はダイマーのπボンド由来の異方性が強い表面バンドに注入され、電子はSiのバックボンド由来の異方性が弱い表面バンドに注入されるためであるとして、よく説明できる。以上のことから、Si(100)-(2×1)表面におけるプローブ励起塩素原子ジャンプ機構は、(1)電子或いは正孔がまずSi表面バンドに注入され、(2)バンド中を伝播し、(3)共鳴的に反結合性軌道或いはCl吸着サイトに局在し、(4)ジャンプが誘起される、というモデルで説明できる。

 Si(111)-(7×7)表面に数層堆積したC60薄膜に電子注入を行うと薄暗いコントラストのC60クラスタが生成されることが分かった。これらクラスタには内部構造が観察され、下層のクラスタと重合して回転凍結したC60クラスタであると解釈できる。重合は待機、成長、飽和と三段階を経て進み、また、場所による依存性が非常に強いことがわかった。これらの結果は、重合に伴うクラスタ間隔の減少にともなう内部応力の発生、クラスタ間隔を縮めるような圧縮的内部応力による重合の促進効果を考えるとよく説明できる。内部応力の空間的ばらつきを避け再現性のある測定を行うために、C60クラスタと基板との相互作用が弱く内部応力の均一な薄膜が成長できることを期待して、HOPG上にC60薄膜を成長させた結果、ミスフィット転位もなく均一なC60薄膜を得ることに成功した。C60/HOPG薄膜における重合効率は、ばらつきが小さいばかりでなく、Si基板上のC60薄膜よりかなり低いことがわかった。C60/HOPG薄膜についてトンネル電流依存性を測定した結果、飽和に達する前の重合効率は電流に比例する結果となった。また、サンプルバイアス依存性は、VS=+2.2V付近にスレッショルドを示すことがわかった。STS測定の結果、VS=+1.2V付近にC60結晶のLUMOバンドが存在すること、VS=+2.2V付近にはLUMO+1バンドに対応すると考えられるLDOSピークが見出された。注入電子が緩和する際電荷移動励起子をオージェ励起して重合が誘起されるというモデルは、スレッショルド付近での電子が緩和する際放出可能なエネルギー最大1eVが電荷移動励起子の生成エネルギー2.3-3.2eVには不十分であることから、排除される。C60クラスタはアルカリ金属ドーピングにより負イオン化すると重合しやすくなるという事実を考慮すると、STM探針から注入された電子がC60クラスタを負イオン化し、重合することが考えられる。しかし、電子注入効果の空間的広がりを調べるために薄膜の一点に探針を固定して電子注入を行った結果、C60/Si(111)-(7×7)薄膜では注入点より10nm程度、C60/HOPG薄膜では数nm程度、重合現象が広がって起こることを見出した。Si(111)-(7×7)表面上の塩素原子拡散のばあいと異なり電流注入効果はステップを越えても広がるが、積層欠陥を越えては広がらないことがわかった。このことは注入された電子がC60の結晶バンドを三次元的に伝播することを意味している。以上の結果は、(1)電子がC60結晶の三次元バンドに注入され、(2)バンド内伝播し、(3)C60クラスタに局在して負イオン化し、(4)重合する、というモデルで説明できる。広がり効果を抑制するには(1)均一な薄膜(2)広がりを妨げる欠陥をいれた薄膜、或いはアモルファス薄膜、(3)クラスタ間隔の広い膜を用いるべきであることを提案した。

[1] M. Schluter and M. L. Cohen, Phys. Rev. B17 (1977) 716.

審査要旨 要旨を表示する

 物質の電子系を励起すると固体であっても原子・分子反応が誘起されることがある。この電子励起原子・分子反応を利用して、通常の方法では実現しないような人為的構造を作成する技術や新物質の創成を目指した研究が、近年盛んに行われるようになってきた。本研究では、走査トンネル顕微鏡(STM)探針(プローブ)からのトンネルキャリア注入によって独特の電子励起状態を作り出して反応を誘起できる現象−プローブ励起効果−に着目し、同じSTM探針による原子レベルその場観察の利点を生かして、現象を基礎的に明らかにしようとしたものである。またキャリアはSTM探針から試料の局所的な場所に注入されているにもかかわらず、多くの物質系でその注入効果が空間的に広がる事実を初めて見出した。本論文では、このプローブ励起の広がり効果を共通項にして、塩素吸着シリコン表面とC60薄膜について、プローブ励起原子・分子反応の発現条件を明らかにし、また走査トンネル分光(STS)測定によって得られる表面電子構造(局所状態密度)の知見と合わせて、それぞれの系での微視的機構を明らかにすることを目的としている。本論文(英文)は9章からなっている。

 第1章では、序論として、電子励起原子・分子反応に関する研究の学術的・応用的意義について述べられ、特にプローブ励起原子・分子反応の特徴や利点が記述されている。

 第2章では、本論文の背景および必要となる基礎知識−STMの原理、電子励起原子分子反応機構に関してこれまで提案されている種々のモデル、プローブ励起とその機構、研究対象物質系の特徴−が述べられている。2.1.節ではSTMの原理であるトンネリング現象について、2.2.節では電子励起原子分子反応機構に関して従来得られている知見を概説している。特に、励起寿命、反応の駆動力、励起の局在化が電子励起原子分子反応の機構を考えるうえで重要であることが述べられている。2.3節では、プローブ励起効果について考えうる機構が挙げられ、各々の機構において期待されるトンネル電流依存性やサンプルバイアス依存性の特徴がまとめられている。2.4節で、本論文の研究対象である塩素吸着シリコン表面(Si(111)、Si(100))とC60薄膜に関して、これら物質系の研究意義を説明している。

 第3章では、第2章に記された背景にもとづき、本研究の目的が述べられ、具体的な課題と課題解決のための戦略がまとめられている。

 第4章では、本研究で用いた実験装置について述べられている。

 第5章は、Si(111)-(7×7)表面上で誘起される塩素原子拡散現象に関するもので、トンネル電流依存性からこの現象がSTM探針からのキャリア注入効果によって誘起されること、Si-Clの反結合準位への電子注入と表面バンドへのホール注入によって現象が起こることを示す特徴的なバイアス依存性が観測されること、を実験的に明らかにしている。さらに、キャリア注入効果が試料表面を2次元的に広がること、電子注入については広がり効果に異方性が見られ、また注入点からの距離に対する減衰曲線に振動構造が観測される事実を述べている。これらの挙動は探針から注入された電子波束が表面バンド中をコヒーレントに伝播すると考えることで定量的にも解釈できることが示されている。

 第6章では、Si(100)-(2×1)表面上でも塩素原子のホッピング運動がSTM探針からのキャリア注入によって誘起されることが示されている。この系においても、Si(100)表面バンド構造の強い異方性を反映してホール伝播の異方性が見出されている。注入電子は表面バンド伝播後、Si(111)-(7×7)表面と同様にSi-Clの反結合準位へ局在しホッピング運動を誘起することを明らかにしている。

 第7章では、C60薄膜にSTM探針から電子注入することにより起こるC60クラスタ重合現象に関するもので、やはり注入電子の広がり効果が見られことを示している。しかし塩素吸着シリコン系とは異なり、キャリア伝播は3次元的に起こり、これがC60結晶の3次元電子バンド伝播によるものであることが主張されている。このため、クラスタ間隔を広げることによりバンド伝播を抑制したり、バンド伝播を阻害する結晶欠陥を導入することにより、この広がり効果を抑えることができることが実験的に示されている。

 第8章では、本研究で調べたすべての系に共通するキャリア注入の広がり効果を統一的に理解するために、Si(111)-(7×7)上の電子注入効果については理論的解析が、その他の系については広がり効果の特徴整理が行われたのち、いずれの系においても広がり効果はキャリアが注入されるバンドの特徴(次元性、異方性、バンド巾など)を反映することが指摘されている。

 第9章では、本論文がまとめられている。

以上を要するに、本論文は、塩素吸着シリコン系、C60薄膜においてプローブ励起(電流注入効果)によって原子分子反応が起こること、いずれのばあいもキャリアが注入点から広がったのち反応が起こること、を実験に示し、注入キャリアのバンド内伝播を考慮した微視的機構を提案したものである。

 本論文は、STMプローブ励起による原子・分子反応の微視的機構を明らかにしただけでなく、プローブ励起を用いた超微細加工の空間分解能を低下させることになる励起広がり効果の存在ををはじめて明らかにし、物理的原因を検討することによりその抑制法を示した点で、物理工学の発展に寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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