学位論文要旨



No 117072
著者(漢字) 野末,佳伸
著者(英字)
著者(カナ) ノズエ,ヨシノブ
標題(和) 放射光X線小角散乱法によるソフトマテリアルのナノ構造研究
標題(洋) Nano-Structure Study of Soft Materials with Synchrotron Small-Angle X-ray Scattering
報告番号 117072
報告番号 甲17072
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5213号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 雨宮,慶幸
 東京大学 教授 西,敏夫
 東京大学 教授 宮野,健次郎
 東京大学 教授 田中,肇
 東京大学 助教授 伊藤,耕三
内容要旨 要旨を表示する

 X線小角散乱法による研究は、物質のナノスケール構造情報を得るために今日まで盛んに行われてきたが、1980年代の放射光の出現によりその応用は従来の静的な構造解析から、相転移中の動的な構造解析、外場下などにおけるナノ構造の時間変化観察の方面で発展しつづけてきている。また最近では、X線広角散乱との同時時分割測定が最先端の構造変化観察法として脚光を浴びており、その応用例としては油脂の結晶多形転移、金属アロイでの析出過程、高分子の結晶化などをあげることができる。このようにX線小角散乱法は、ある一定のレベルで有用な情報を引き出すことが可能な、確立した実験技術として評価されている。しかしながら、他の実験手法に比べて得られる情報が少なく、X線小角散乱の結果だけでインパクトのある決定的な実験結果を生み出すことは必ずしも多くないのが現状である。その理由のひとつとして、X線小角散乱に用いるX線のビームサイズが約数100ミクロン〜数ミリ程度であり、ミクロンスケールの構造の空間分布を持つ系に対しても系全体の平均的な構造情報しか得られないことがあげられる。その他の理由としては、X線小角散乱という実験手法に最適な試料の系が、必ずしも応用されてきていなかったという点があげられる。そこで、我々は(1)時分割X線小角−広角散乱同時測定で得られる情報を最大限に活用できる興味深い試料系の探索、(2)次世代X線小角散乱法の開拓の一環としてのマイクロビームX線小角散乱の技術開発とその応用、をテーマとして研究を進めてきた。(1)については、具体的には脂質−ペプチド相互作用観察と高分子の再結晶化観察への応用を行った。(2)については、放射光を用いて生成した低発散角マイクロビームを、高分子ブレンド系が示すモルフォロジーのミクロンスケール構造空間分布観察へ適用した。

 ペプチド−脂質系に関しては、蜂毒の主成分であるメリチンというへリックス構造をとる両親媒性ペプチドが、脂質膜dimyristoylphosphatidylcholine (DMPC), dipalmitoylphosphatidylcholine (DPPC), distearoylphosphatidylcholine (DSPC), dioleoylphosphatidylcholine (DOPC)に対してどのような相互作用をしているかについて、特に脂質膜中でのメリチンの配向状態に焦点を絞って行った。脂質膜中でのメリチンの配向状態は、CDスペクトルや、FT-IRなどの様々な実験手法によって調べられてきたが、脂質膜の状態(例えば,水和量、多層性)によって配向状態が変化するため結論がいまだに出ていないという問題があった。ここで、特記すべきことは、天然の系に近い1枚膜でメリチンがどのように配向しているかが知りたいのに対し、現状では、実験手法上の制限から配向していない1枚膜ではメリチンの膜内配向状態を調べられなかったということである。そこで、われわれは、様々なペプチド/脂質比の試料を一枚膜リポソームの条件で生成し、そのX線小角散乱像からペプチドが膜に侵入することによる脂質膜の厚さの変化を観察して、その変化に対し膜弾性体理論を適用することで、ペプチドが脂質膜に対してどのように配向しているかについての重要な知見を得る手法を採用し、配向状態に関する知見を得ることに成功した。図1は、実験結果から得られた各脂質膜でのメリチンの配向状態である。この図からDSPC>DPPC>DMPCの順番でメリチンが脂質膜に対して貫通したチャンネル構造を作る割合が高いことが分かる。この不等号の関係は、脂質膜の疎水性領域の厚さとメリチンへリックス長のマッチングの程度と同じであることから、従来から指摘されてきたマットレスモデルで脂質膜とメリチンの相互作用の安定性を決定できることを示唆している。また、興味深いのは、DOPCでは、膜の厚さ自身はDPPCと同程度であるにも関わらず、メリチンの膜貫通性がDPPCよりもずっと低いことである。このことは、不飽和鎖を含むことで膜の炭素鎖の秩序が低くなり、炭素鎖の低秩序化を引き起こすメリチンの横たわり配向がエネルギー的に安定化するためであると予想される。

 もう一つの応用例は高分子結晶の再結晶化現象に関する研究である。温度ジャンプ結晶融解法とX線小角−広角同時測定法を利用することで、これまで明らかにできなかったDSCで観測されるPBSU(poly(butylene succinate))結晶の多重融解ピークの起源についての重要な情報を得ることに成功した。DSCなどで測定する緩やかな速度での融解では、仮に再結晶化現象が起こっていても融解現象との重ねあわせになるため、再結晶化で生じる構造変化などについての有益な情報はほとんど得られない。そこで、我々は、温度ジャンプを行って融解を一瞬で起こさせれば、融解と再結晶化を分離することができるだろう、と考え時分割X線小角−広角散乱同時測定を行い、純粋な再結晶化現象のみを観察することに成功した(図2)。再結晶化中のアブラミ指数が結晶化のときに比べて次元が1程度低くなっていることを観察することができた。また、2段階温度ジャンプなど再結晶化の熱履歴を操作することで、生成されるモルフォロジーが大きく変化することが分かった。

 マイクロビームX線散乱の実験は、古くは1955年から実験室X線管で行われており歴史のある実験手法であるが、X線強度を得るためにX線を集光しなければならず、実験室のX線では発散角の大きいマイクロビームしか生成できなかったが、近年の放射光と集光光学系の発展に伴い、発散角の小さいマイクロビームを生成することが可能になった。それに伴い、多くのマイクロビームX線広角散乱の実験結果が報告されてきたが、マイクロビーム小角散乱に関しては、まだその長所を生かした研究成果の報告がほとんどされていないのが現状である。そこで、我々はマイクロビーム集光光学系の下流にピンホールを挿入することで、小角散乱測定が可能な低発散角のマイクロビームを生成しマイクロビーム小角散乱実験を行った。

 マイクロビームX線小角散乱法の応用は、バンド球晶を形成するPCL(poly-(caprolacton))/PVB(poly(vinyl butyral))と、ある条件下で一方の球晶が他方の球晶に侵入するInterpenetrated Spheruliteを形成するPBSU/PVDCVC(poly(vinylidene chloride-co-vinyl chloride)系に対して行った。マイクロビームX線小角散乱法の応用方法は、大きく分けて(1)ビーム照射位置を固定してある場所での構造変化を観察する時分割測定、(2)ビームを走査して構造の空間分布を測定する方法、の2つの方法で行った。

 PCL/PVB系では、従来のX線小角散乱法の結果から、球晶内に、少なくとも2種類のラメラ構造が存在することが示唆されていたがその空間分布に関しての知見は全く得られてなかった。しかし、今回のマイクロビームX線小角散乱の結果から、2種類のラメラ構造のうち長い長周期のラメラが先に生成し、短い周期のラメラが後に形成することが時分割測定から明らかになった。さらに、走査X線小角散乱の実験から2種類の長周期構造は、平行な位置関係にはなく、互いにある角度をなしていることも明らかになった。これらの実験結果とこれまでに捩れ球晶に関して一般的に知られているラメラ面のS字状歪みモデルを合わせて、我々は、S字型空間分布モデルを構築した(図3)。このモデルは、S字の中心部分に長いラメラ構造が、S字の端に短いラメラ構造が分布しているとするモデルで、得られた時分割及び空間分割マイクロビームX線小角散乱の結果、および結晶の融解過程の観測結果を満足する。

 PBSU/PVDCVC系では、Interepenetrated Spheruliteの形成過程観察を中心に実験を行い、Interpenetrationがラメラレベルで起こっているのかフィブリルレベルで起こっているのかの検証を、マイクロビームX線小角散乱技術を用いて行ってきた。Interpenetarationについては、光学顕微鏡観察およびAFM観察から、少なくともPBSUラメラがPVDCVCのフィブリル間には侵入していることが示唆されていたが、ラメラレベルでの構造情報はこれらの手法では得ることができないため、結論を得ることができない状況にあった。しかし、時分割及び空間分割マイクロビームX線小角散乱法と従来のX線小角散乱を併用することで、Interpenetrated Spherulite形成過程でのラメラ構造の時間変化を観察することに成功した。従来の小角散乱の結果からは、PBSUのラメラ間にPVDCVCは含まれていないことが分かり、時分割マイクロビーム小角散乱からは、Interpenetrated Spheruliteの形成時にPBSUラメラの成長と共にフィブリル間干渉に起因する散乱強度が減少することが分かった。このことは、Interpenetrationを起こして侵入していったPBSUラメラはPVDCVCのフィブリル間で成長するが、PBSUのラメラ間にはPVDCVCのラメラは挿入されていない、ということを示し、Interpenetrationがラメラレベルでは起こっていないことを決定付けるものである。

 以上に示したX線小角散乱の実験結果は、「X線小角散乱」という実験手法が、実験系自体やマイクロビーム技術の応用などといった工夫次第で、決定的な実験プローブとなることを主張するのに十分なものであると考えている。特に、マイクロビーム小角散乱の空間分割測定は、現在のトレンドである時分割測定に対して、将来の実験手法のトレンドとなるものと期待され、本研究はその先駆けとして位置付けることができると思われる。

図1(左図) 脂質膜中でメリチンがチャンネルを形成している割合、(上図)メリチンの配向状態の模式図:(A)横たわり配向状態、(B)チャンネル状態

図2 X線小角(左)、広角散乱(右)同時測定によるPBSUの再結晶化過程の様子

図3 マイクロビーム実験から得られたPCL/PVBラメラ構造の空間分布モデル

審査要旨 要旨を表示する

 X線小角散乱法(SAXS)は、たんぱく質溶液、筋肉組織、高分子(結晶・相構造)、生体膜、油脂、金属アロイなどの様々な系に対して、そのナノ構造を調べることができる実験手法である。SAXSは、試料作成法が容易で非破壊的であることから、幅広い分野で応用されてきている反面、X線結晶構造解析などと比べた時のSAXSから得られる情報量の少なさが指摘されつづけている。その原因として、(1)散乱体の配向がランダムであること、(2)従来のX線ビームサイズが0.1-2mm程度であるためミクロンスケールで存在する構造の空間分布は平均化されてしまうこと、の2点が挙げられる。本論文のテーマは、「SAXSから如何に他の実験手法では得られない重要な情報を引き出せるかを追求する」、というものであり、論文中では、(A)近年盛んに行われつつあるSAXS/X線広角散乱(WAXS)同時測定法の応用と、(B)上述(2)の問題点を克服することができるマイクロビームX線回折法の技術開発とその応用、を展開している。

 本論文の構成は、Abstractに加えて、Chapter1-11までで構成される。Chapter1は、研究の導入部、Chapter2-5は、研究を理解するために必要な予備知識(Chapter2:SAXSについて、Chapter3:結晶性高分子について、Chapter4:生体膜について、Chapter5:X線光学系について)を、Chapter6-10は、具体的な実験結果について、Chapter11では研究の総括を述べている。実験結果に関しては、Chapter6-7では、結晶性高分子ブレンド系へのマイクロビームX線回折の応用を、Chapter8では、再結晶性高分子へのSAXS/WAXS同時測定の応用を、Chapter9-10では、生体膜−ペプチド混合系へのSAXS及びSAXS/WAXS測定の応用を展開している。

 Chapter6では、マイクロビームSAXS/WAXSの(1)時分割測定、及び(2)ビーム走査法による構造の空間分布測定、をポリε−カプロラクトン/ポリビニルブチラール(PCL/PVB)系に対して応用している。その結果、PCL/PVB内に存在している、2種類の厚さの異なるラメラ構造周期がS字型の歪んだラメラの断面内で空間分布しており、厚いラメラ周期が結晶化の初期にS字の中心部分として形成した後に、薄いラメラ周期がラメラの側方成長によってS字の端の部分に生成されていくモデルを構築することができた。また、PCL/PVB内で生じているラメラの捩れ構造が連続的ではなくステップ的に起こっていること、さらにその捩れ率を半定量的に見積もることに成功した。

 Chapter7では、Chapter6と同様にマイクロビームSAXS/WAXSを、ポリブチレンサクシネート(PBSU)/ポリ(ビニリデンクロライドービニルクロライド)共重合体(P(VDC-VC))ブレンドの相互貫入球晶観察へ応用した。その結果、PBSUのラメラ構造が、P(VDC-VC)のフィブリル領域に侵入成長していく様子を観察することができた。従来のAFMや光学顕微鏡、共焦点レーザー顕微鏡による結果では、PBSUのラメラが、P(VDC-VC)球晶のラメラ間、フィブリル間領域のどちらに侵入しているのか判断することができなかったが、マイクロビームX線回折の結果から、P(VDC-VC)のラメラ間ではなくフィブリル間へPBSUが侵入していく過程を明確に捕らえることができた。また、P(VDC-VC)のフィブリル間に成長するラメラは、PBSU球晶で生成するラメラに比べて、積層性が低いことが分かった。

 Chapter6,7の結果は、他の実験手法では事実上調べることが不可能であり、マイクロビームSAXS/WAXSの高分子ブレンド系への応用展開の可能性を示すのに十分な結果であった。

 Chapter8では、SAXS/WAXS同時測定法に試料の温度ジャンプ操作を組み合わせることで、PBSUの再結晶化機構を明らかにした。結晶性高分子の中には、等温結晶化した試料を融解していく過程で複数の吸熱ピークがDSCで観察される系が存在しているが、その機構は理解されていなかった。DSCの複数ピークを説明するモデルとして、(1)部分融解−再結晶化モデル、と(2)熱安定性の異なるラメラが結晶中に分布しているモデル、の2つが提案されてきたが、本実験結果から、どちらも再結晶化には、重要な役割を果たしていることが分かった。つまり、複数融解ピークの起源は、熱安定性の低いラメラの融解−再結晶化であり、融解−再結晶化も、(A)もともと存在していたラメラがほとんど融解して、生き残った微結晶が核になる再結晶化、と(B)部分的にラメラが融解して厚化する再結晶化、の2種類のモードが存在することが明らかとなった。

 Chapter9,10では、SAXS/WAXSを脂質膜−メリチン系に応用展開している。メリチンは、蜂毒の主成分ペプチドで膜に対して強く相互作用し、(1)ゲート電圧依存型チャンネル形成、(2)膜融合活性、(3)ディスクミセル化、などの様々な現象を引き起こすことが知られている。しかし、膜内でのメリチンの配向状態はいまだに理解されておらず、議論され続けている。Chapter9では、メリチンが引き起こす膜厚変化をSAXSで測定し、その結果に対して弾性体理論を適用してメリチンの配向状態を決定することに成功した。それによると、メリチンは、メリチン分子の長さに近い厚さを持った膜の場合にはチャンネルを形成するが、両者のミスマッチが大きい時には、膜表面に横たわっている状態が安定化することが分かった。Chapter10では、さらに、メリチンが脂質膜の相転移に及ぼす影響について、SAXS/WAXS測定により議論している。メリチンを添加することによって、ジミリストイルフォスファチジルコリン(DMPC)膜の相転移ピークは、大きくブロードニングし、しかもピークが2つに分裂することが知られているが、SAXS/WAXS測定の結果から、その起源は、ベシクルーディスクミセル転移の際に(1)ディスク中の脂質膜パッキングの無秩序化、(2)ディスクの崩壊とベシクルへの融合過程、の2段階で現象が起きていることによるものであるということが分かった。

 以上を要するに本研究で得られた成果は、物理工学およびX線計測学、高分子工学上非常に重要である。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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