学位論文要旨



No 117074
著者(漢字) 藤間,卓也
著者(英字)
著者(カナ) フジマ,タクヤ
標題(和) 過冷却液体の広帯域誘電緩和スペクトロスコピー
標題(洋)
報告番号 117074
報告番号 甲17074
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5215号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 早川,禮之助
 東京大学 教授 西,敏夫
 東京大学 教授 田中,肇
 東京大学 助教授 伊藤,耕三
 東京大学 講師 木村,康之
内容要旨 要旨を表示する

 複雑系・複雑流体の特色のひとつに「異なる時空間スケールにおける物理現象の相関」があるが、これは系の複雑たる1つの大きな要因にもなっており、特にその相関の非線形性などが種々の興味深い現象の発現に大きく寄与していると考えられる。本研究では、特に時間スケールの異なるダイナミクスの相関に注目して高精度な広帯域誘電緩和測定系(1 Hz-20 GHz)を構築し、それによって広いタイムスケールのダイナミクスの詳細な挙動を追跡することを可能とした。用いる系としてはガラス形成系を採用した。この系は、単一成分系にもかかわらず異常緩和や複数の緩和モードをはじめとする複雑性を呈するため、比較的シンプルな複雑系として捉えられている。

 近年のガラス形成系のダイナミクスの研究おいて、ガラス転移温度(Tg)よりも比較的高い温度域(1.2Tg付近)が興味を集めている。この温度域では過冷却液体のダイナミクスが顕著に変化することが明らかになってきており、Dynamical Transition温度(≡TD)と呼ばれている。これまでに報告されているこの温度域での現象の例を次に示す。

 (1) 高温域では成立するDebye-Stokes-Einstein関係式がこのDynamical Transition付近において破綻し、拡散機構の変化を示唆する[1,2]。

 (2) 過冷却液体における大きなトピックである分子の協同運動性について、その強度が急激に増大し、協同運動領域(CRR)の大きさも増大する。

 (3) α緩和の緩和時間温度依存性が、τα=τ0iexp[Ci/(T-T0i)]で表される2つの異なるVogel-Fulcher-Tamann (VFT)則の間でクロスオーバーする。

 (4) Slow-β緩和、もしくはJohari-Goldstein modeとして知られる副緩和が冷却とともにα緩和から分岐・もしくは昇温と共にマージすることが、その緩和時間温度依存性から推測されている。

このように、TDでは過冷却液体の本質に関わると考えられている重要なトピックスに関わる現象が多数起こっており、従ってこの温度域が過冷却液体・ガラス形成系にとって何らかの本質的な意味を持つものであるという事が容易に推測され、注目を集めているのである。

 しかし上述の4つの現象のうち、(1)〜(3)に関しては明瞭な実験的確証が得られるのに対し、(4)はその限りではない。これは、Slow-β緩和の挙動が主にTg付近以下の温度域でのみ調べられおり、その緩和時間がArrhenius型の温度依存性を示すことが知られているが、その依存性を高温域へ外挿して議論された結果が(4)だからである。すなわち、分岐が起こるとされている温度域でのSlow-β緩和の挙動が直接的には調べられていないのである。さらに近年、NMRを用いた研究によって、Tg付近以下でのSlow-β緩和の起源が、周囲の分子に強く束縛された(cageにトラップされた)分子のLibrational modeであると主張されているが、その束縛が緩くなる高温域では緩和機構が変化し、緩和時間の温度依存性にも変化が生じることが容易に予想される。従って、上述(4)については詳細な検討が必要である。

 そこで我々は、1.2Tg付近およびそれ以上の温度域に特に注目し、Slow-β緩和の挙動および起源を探ることを目的として、広帯域誘電緩和測定(1 Hz-20 GHz)を行った。

 用いたサンプルは、低温でSlow-β緩和が明瞭に観察される物質(type-B)としてsorbitolおよびm-fluoroaniline用いた。これらは、まったく異なる分子構造をしている。これらの物質を真空中で融点より高い温度にて十分に融解させ、同時に水蒸気を除去する。その後、冷却速度−56.7 K/minにてTg付近まで急冷し、その後、十分にゆっくり(0.4 K/min)昇温しながら各測定温度にて等温的に測定を行った。

 これらの2サンプルについて、得られた誘電虚部スペクトルを示す(図1)。両物質について低温ではSlow-βのピークが明瞭に現れており、高温になるに従ってα緩和のピークとオーバーラップしていく様子がよくわかる。我々は、これらのスペクトルを最小2乗法を用いたカーブフィッティングによって解析した。関数としては、Havriliak-Negami typeとCole-Cole typeの和:

を用いた。まずsorbitolについて、この解析により得られた各パラメータの温度挙動を図2に示す。

 図2(a)では、2つの緩和時間と共に、Stickel解析[3]より求めたTA(α緩和の緩和時間温度依存性におけるArrhenius-VFTクロスオーバー温度)、TB(同じくVFT-VFTクロスオーバー温度)と、Tg(文献値)が示した。

 まず最も注目すべき結果は、Slow-β緩和時間の温度依存性である。従来、Tg付近以下で測定されていた結果によると、この緩和は低温から単一のArrhenius typeの温度依存性を呈し、それが高温でも持続すると考えられていた。それに基づいた依存性の外挿により、α緩和とSlow-β緩和のマージがTB付近であると考えられてきたのである。しかし、TB付近の高温まで直接的に測定・解析を行った結果、この緩和モードは低温でのArrhenius typeの温度依存性から外れ、より大きな活性化エネルギーをもつ温度領域を経て高周波側ヘシフトすることが明らかになった。ここで確認しておくべきは、310Kに代表されるTB付近の高温である。この温度域では従来、2つの緩和過程がマージすると考えられてきたが、図1(a)を見ても明らかなように緩和が2つ存在し、また図2(a)に示したフィッティング結果も一意的に得ることが出来た。つまりこの温度域では、2つの緩和は未だマージするのではなく、独立した緩和過程として別個に存在するということがスペクトル観察というプリミティブな手法のみからも示されるのである。

 さらに、このSlow-β緩和時間が高周波側ヘシフトした後、TB付近以上の高温においてはその温度依存性は、TA以上の高温・単純液体領域でのα緩和のArrhenius typeの温度依存性の延長線上に収束する様子を見せており、すなわちTAでの両緩和過程のマージを示唆している。この傾向は、図2(c)の緩和時間分布指数の温度依存性からも支持される。すなわち、Slow-β緩和時間の分布の指数であるαccがα緩和のそれであるαHNとマージするのがTA付近ではなく、TAに近いもっと高温の領域なのである。また、このような傾向は、m-fluoroanilineに関しても同様に得られている。(図3)

 また、Slow-β緩和が明瞭ではない、いわゆるExcess-Wingが見られるtype-Aの物質(glycerol)についても同様の測定・解析を行った。これは、近年提唱されている[6]ように、type-Aの物質が示すExcess Wingが緩和強度の弱いSlow-β緩和ではないかという主張に基づいている。フィッティング解析においては、Excess-Wingを含めてスペクトルの全領域は式(1)によって良く再現された。すなわち、type-Aの示すスペクトルでも2緩和としての解釈が十分に可能であることが示された。その結果、各緩和時間をはじめとする各パラメータの温度依存性について前述のsorbitol、m-fluoroaniline 2物質と同様の結果が得られた。

 さて、これらの得られたSlow-β緩和に関する結果を説明する分子論的描像として、我々はcageの融解効果を考える。そのためにまず、Slow-β緩和の温度依存性に関して、温度領域を3つに分割して考える:T〓Tg (region-I)、Tg〓T〓TB(region-II)、そしてTB〓T〓TA(region-III)。そして、各温度域でのSlow-β緩和の起源となる分子運動を以下のように推測する。

 まずregion-Iについては、cageのような周囲分子の強い束縛内での分子の小さい角度でのlibration的な運動性によるものであることが、NMRの結果から示されている[7]。次に、より高温のregion-IIにおいて注目すべきは、このSlow-β緩和が他領域においてより大きな活性化エネルギーを持つということである。これは、この温度域では上述のcageが溶け始めることで軟化し、分子がその柔らかくなったcageの「柵」にぶつかり・引っ掻きながら、より大きな角度で回転・もしくは隣のcageへと移ることができるようになるためと考える。この描像により、活性化エネルギーの増大が分子のぶつかり・引っ掻きによるエネルギー散逸により、また同時に、温度上昇に伴う緩和強度の増加が分子の可動角度の増大によるとして説明できる。そして最も高温のregion-IIIにおいては、周囲の「柵」の大部分が溶けてしまい、Slow-β緩和のタイムスケールにおいては分子が単純液体のような自由回転を出来るようになると考えるのである。

 以上のように、本研究ではガラス形成物質の過冷却状態におけるダイナミクスを広帯域誘電緩和法により調べた。その結果、Slow-β緩和は従来α緩和とマージすると考えられていたTB付近の高温において、活性化エネルギーの増大を伴いそして高周波側へその緩和時間をシフトさせることが明らかとなった。そしてさらに高温では、α緩和がTB以上の単純液体領域で示すArrhenius typeの温度依存性延長線上に収束し、TAでのα−βマージが起こるであろう事が示唆された。これらの結果を説明する分子論的なモデルとしては、cageの高温での融解・軟化による分子束縛強度の低下が妥当であると考えられる。また、異なる分子構造の物質およびことなるタイプ(type-A or type-B)に共通して見られることから、ガラス形成過程においてこれらの挙動が普遍的である可能性も示唆された。

References

[1] S. Corezzi, E. Campani, P. A. Rolla, S. Capaccioli and D. Fioretto, J. Chem. Phys. 111, 9343 (1999).

[2] E. Rossler, Phys. Rev. Lett. 65, 1595 (1990); J. Non-Cryst. Solids 131, 242 (1991).

[3] C. Hansen, F. Stickel, T. Berger, R. Richert and E. W. Fischer, J. Chem. Phys. 107, 1086 (1997).

[4] R. Nozaki, D. Suzuki, S. Ozawa and Y. Shiozaki, J. Non-Cryst. Solids 235-237, 393 (1998).

[5] A. Kudlik, S. Benkhof, T. Blochowicz, C. Tschirwits and E. Rossler, J. Mol. Structure 479, 201 (1999).

[6] U. Schneider, R. Brand, P. Lunkenheimer and A. Loidl, Phys. Rev. Lett. 84, 5560 (2000).

[7] M. Vogel and E. Rossler, J. Chem. Phys. 114, 5802 (2001).

図1 各温度における誘電虚部スペクトル。

(a)sorbitol、(b)m-fluoroaniline。グレーのプロットが実測データ、黒の実線は最小2乗法による2緩和関数を用いたフィッティング結果。

図2 カーブフッティング解析による、名パラメータの温度依存:(a)緩和時間、(b)緩和強度、(c)緩和時間の分布指数。

なお、各パラメータ名は式(1)中の表現に準ずる。

図3 m-fluoroanilineのスペクトルの解析により得られた各パラメータの温度依存。

(a)緩和時間、(b)緩和強度、(c)緩和時間の対称的な分布指数、(d)緩和時間の非対称的な分布指数。なお、各パラメータの名は式(1)中で用いた表現に準ずる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、複雑流体における一つの大きな特徴である「大きく異なる時間スケールにおける現象間の相関」に着目し、ガラス形成過冷却液体系を題材としたそのダイナミクスの研究をまとめたものである。具体的には、過冷却液体にとって本質的に重要な解明すべき10大課題の一つとして認識されているにも関わらず、これまで推論によってしか議論されてこなかったβモードの高温挙動に着目し、この系のダイナミクスの測定手法として高精度な広帯域誘電緩和法を構築する事により、その挙動をα緩和との関連の中で詳細に明らかにする事を目的とする。

 本論文は6つの章により構成され、各章の概要は以下の通りである。

 第1章では本研究の手法として用いられた広帯域誘電緩和法について述べられている。誘電緩和法の理論的な概要および用いた装置群の原理・解析法の選択による結果の精度の差などから、測定セルや温度制御システムなどの広帯域における高精度測定の鍵となる技術にいたるまでが説明されている。

 第2章では、複雑流体の典型例として、前述の広帯域誘電緩和測定システムを適用する対象とした過冷却液体が扱われている。その定義からはじまり、物性における静的性質および動的性質などがレビューされているが、非常に歴史の長いこの研究分野において古典とも言うべき知見から、最新の研究動向までが網羅されている。特にβ緩和に関しては、従来はガラス転移点以下の低温での挙動を高温側へ外挿して推論する事で、Dynamical Transition温度(TD)付近でα緩和と融合すると考えられてきた経緯などが述べられている。

 第3章では、具体的な実験のプロセスとして、まずサンプルとして用いたsorbitol、m-fluoroaniline、glycerolに関する説明、またそれらの測定における熱的履歴を中心とした実験手法が詳細に記述されている。そして後半の節では1Hz・20 GHzの超広帯域に及ぶ誘電緩和スペクトル測定結果を示している。この測定は、ガラス転移点付近の低温から、融点以上の高温領域まで、130・160Kの広い温度幅に渡って2Kおきの詳細な温度挙動が温度精度±0.1Kの精度で行われている。この測定結果は、緩和周波数から大きく隔たった信号強度の微弱な周波数領域に至るまで高精度な測定が実現されており、その周波数範囲および精度を加味すると、誘電緩和測定として世界最高レベルの水準を達成している。特にMHz帯域前後の周波数域に関しては、従来最も測定が難しい領域の一つであり、他周波数域との整合性が得られにくいという問題もあったが、本研究ではそれを完全に克服することに成功している。

 第4章では、第3章で得られた測定結果の解析およびそれに基づいた考察がなされている。考察は、緩和スペクトルを最小二乗法カーブフィッティングによって行うが、本研究においては、低温においてα緩和およびβ緩和の2つの緩和過程が存在し、それらが温度上昇に伴い融合していく挙動を追う。しかし、融合点に近づくと緩和ピークが次第に重なって解析を困難にする上、この現象の中心的舞台となるMHz帯域付近の測定能が従来は低かったために、この現象に関しては詳細な検討がなされず、より低温での挙動の外挿による推論のみがなされてきた。しかし、本論文では、MHz域を含む高精度の測定を実現し、解析においても1緩和性の破れを定量的に評価することでβ緩和の存在温度域を明確にした上で、β緩和過程の温度挙動をTD以上の高温に至るまで詳細に明らかにした。

 これにより、βモードの分子論的起源を探る上で極めて重要な、新しい知見を2つ得ている。即ち、βモードが従来の推測に反してTD以上の高温域でも存続する事、またそのTD付近において活性化エネルギーの増大を伴う急激な緩和時間の変化を示し、α緩和の挙動との連動性が存在する事、が明らかになったのである。

 さらにこれらの成果をもとに、β緩和の起源に関して分子運動論的なメカニズムのモデルを提唱するに至っている。すなわち、TD付近において起こるcage効果の軟化(融解)が、並進運動性を中心とするα緩和の温度挙動を変化させるだけでなく、β緩和の回転運動性も増大させると同時に軟化した周囲の壁を引っ掻くような運動過程を誘起し、それが活性化エネルギーの増大を引き起こすというものである。

 第5章では、本論文の結論が述べられており、本研究で明らかとなった、過冷却液体系における異なるタイムスケールのダイナミクス間における相関に関する知見の総括が述べられている。

 第6章では、本論文にまとめられた研究の今後の展望が述べられている。既に進行中のプロジェクトを含めて、複数の計画およびそれによって得られる事が期待される新しい知見について提案がなされている。

 以上のように本論文で著者は、複雑流体の典型例として過冷却液体をとりあげ、そのダイナミクスおよび分子論的なメカニズムの解明において極めて有意義な知見を得ている。これは、この分野の基礎学術的な発展のみならず、近年期待されている電気機能分野や光機能分野への応用において、その進展に寄与するところが大きい。よって、本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認められる。

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