学位論文要旨



No 117075
著者(漢字) 水野,大介
著者(英字)
著者(カナ) ミズノ,ダイスケ
標題(和) 複素電気泳動易動度測定法の開発とそのマイクロレオロジーへの応用
標題(洋)
報告番号 117075
報告番号 甲17075
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5216号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 講師 木村,康之
 東京大学 教授 早川,禮之助
 東京大学 教授 西,敏夫
 東京大学 教授 高木,堅志郎
 東京大学 教授 田中,肇
 東京大学 助教授 伊藤,耕三
内容要旨 要旨を表示する

【背景】

 水溶液中のコロイド粒子は、低分子イオンの吸着、あるいは解離により電荷を帯び、反対符号の電荷を持つ低分子イオンがその周囲を取り巻いている。このような帯電した表面、界面の電気物性はコロイド分散系の性質を決める点で重要である。そのため、これまでに様々な直流電場を用いた電気泳動易動度測定法によるコロイド粒子の表面電位の計測がなされてきた。また分子種による直流電気泳動易動度の差を利用した蛋白質やDNA等の荷電性生体高分子の分離、分析法は、近年のバイオテクノロジーの根幹を支える技術として広く利用されている。

 それに対して本研究では正弦波電場を印加した試料の電気泳動を広い周波数域で測定するシステムを開発した。印加電場が角周波数ωの正弦波電場の場合、易動度は印加電場E0cos(ωt)に対する位相遅れδを含んだ複素易動度μ*(=μexp(iδ))として表される。このμ*の周波数スペクトルを測定することにより表面電位のみならず、コロイド粒子界面の電気的ダイナミックスや生体高分子の分離の機構に関するより詳細な知見を得ることが可能になる。さらに本研究では、電気的な特性がよく分かっている粒子をプローブとして用いることで、その逆数に比例する量として周囲の媒質の局所的な粘弾性的な性質(マイクロレオロジー)を得ることができた。

【開発したシステム】

 本研究では複素電気泳動易動度を求めるのに、動的光散乱法を用いた。一般に動的光散乱法では測定試料にレーザー光を入射し、散乱光の強度揺らぎを特定の方向で検出する。コロイド粒子分散系にレーザー光を照射した際、散乱ベクトルqをもつ方向に散乱された光の電場ESはES=ES0Σnexp{i(qrn−ωIt)}で与えられる。ここでES0は一粒子による散乱振幅、ωIは光周波数、rnは各コロイド粒子の重心位置である。また交流電場印加下でのrnの時間変化は、ブラウン運動に伴うランダムな変位cと電気泳動による変位x=μE0sin(ωt+δ)/ωの和で与えられる。ここでE0は印加電場の振幅、ωは角周波数である。散乱電場は入射光から分け取った参照光電場ELに対してこの変位分だけ位相変調されているので、これをヘテロダイン検出したときの信号強度ELES*+EL*ESは、cos{q(c+x)}=ΣnJn(z){cos(qc)cos{n(ωt+δ)}−sin(qc)sin{n(ωt+δ)}}に比例する。ただしz=qμE0/ω、qは散乱波数、Jn(z)はn次のBessel関数である。ここでcos(qc),sin(qc)はブラウン運動に伴い平均値0のまわりでランダムに変動するため、その相関時間1/Dq2(Dはコロイド粒子の拡散定数)たてば複素易動度の情報は失われてしまい、長時間積算することによりS/Nを向上させることができない。また、電場を印加した試料中に生じる電場や温度の不均一性のためにコロイド粒子は容易にドリフト運動するため、このドリフト運動に伴う信号強度の大きな揺らぎの中から複素電気泳動易動度の情報を抽出することができない。以上の理由で散乱光のパワースペクトルや相関関数を直接的に計測することにより複素易動度を求めることは困難であった。そこで本研究では1次と2次高調波の信号成分J1(z)sin(qc)sin(ωt+δ)、J2(z)cos(qc)×cos(2ωt+2δ)をバンドパスフィルターを用いて抜き出し、これをアナログ2乗演算した。これによりブラウン運動やドリフト運動に影響されない成分1/4J1(z)2cos(2ωt+2δ)、1/4J2(z)2cos(4ωt+4δ)をロックイン検出することができる。複素易動度の位相遅れδはロックインの出力として直接得られ、また絶対値μは1次と2次高調波信号の強度の比として得られる。複素易動度測定系の概略図を図1に示す。この手法は測定時間を延ばすことでノイズが除去されるためS/Nが大幅に向上し、従来困難であった高周波域や、散乱の強い媒質中での測定も可能である。また現状では測定周波数は50kHz以下に限られているが、これは単に用いる機器の性能によって制限されているにすぎず、原理的にはMHz域の測定も十分に可能である。

【荷電コロイド粒子の複素易動度スペクトルの測定】

 開発したシステムのテストを兼ね、球状コロイド粒子の複素電気泳動易動度スペクトルを測定した。粒径0.6μmのラテックス粒子を水溶液中に分散させた希薄溶液を用いた測定例を図2に示す。図中の破線は大塚電子製ELS-800を用いて測定した直流易動度であり、複素電気泳動易動度の低周波域における値にほぼ一致している。また10kHzを超える周波数域と100Hz近辺に緩和挙動(位相遅れ)が観測された。

 外部電場を印加すると、コロイド粒子の周辺(電気2重層)に存在する逆符号の低分子イオン(カウンターイオン)の分布が偏って分極するため、印加電場と逆向き方向の電場が生じる。その結果コロイド粒子が感じる実効的な電場が低周波域で減少するために複素易動度の緩和が観測される。理論的には電気2重層の分極の仕方には殆ど独立とみなすことのできる2つのメカニズムが存在すると予測されている。一つめは図2の10kHz以上の高周波域に観測された緩和挙動に対応しており、これは電気的特性に不均一が存在する試料において一般的に存在する、Maxwell-Wagner緩和と呼ばれる界面分極機構である。もう一つはカウンターイオンのdiffusiveな輸送によるいわゆる濃度分極であり、これは100Hz近辺に観測された位相遅れに対応している。図の実線は2つのデバイ緩和を仮定したあてはめ曲線である。観測された高周波緩和の緩和強度は理論的な予測よりも大きく、これまでコロイド粒子表面に強く吸着されているため動かないと考えられてきたずり面よりも内側に存在するカウンターイオンが、実は高周波域で導電性に寄与していることを示している。従来の誘電緩和法による希薄コロイド試料のMaxwell-Wagner効果の測定では、水溶液の誘電率、導電率と比較して緩和強度が大変小さいため、この"anomalous surface conduction"と呼ばれる現象の存在の有無を決定することができなかった。それに対して複素易動度スペクトルの測定を行えば希薄試料でも高周波緩和を明瞭に観測することができる。

【複素電気泳動易動度測定法を用いた複雑流体の局所粘弾性測定】

 生体をはじめとする複雑流体中の蛋白質やその他の分泌物は複雑な内部構造を持つ周囲の媒質との局所的相互作用のもとで形成されるポテンシャル中を輸送される。プローブとして用いる微小粒子の運動特性を観測することによって求められる周囲の溶媒の局所的な粘弾性は、マイクロレオロジーとよばれ、こうした場の輸送特性を直接的に定量化したものである。

 実際には動的光散乱や顕微鏡観察により粒径が既知であるプローブ粒子のブラウン運動を観察することで、アインシュタイン−ストークスの関係から周囲の溶媒の局所的な粘性が求められてきた。しかしながらこうした方法は基本的に直流粘性測定であるため、粘弾性スペクトルという輸送物との相互作用の強さに関わる物性の計測が行えない。また、光の回折限界やバルクの溶媒からの散乱等の問題により、通常はミクロン以上という大きな粒子がプローブとして用いられるため、得られる結果はレオメータを用いて測定される通常のマクロ粘性と本質的に異なるものではない。

 それに対して本研究で開発した複素易動度測定法を用いればこのような問題を解消する新しいマイクロレオロジーの測定を行うことができる。つまり電気的特性が既知であるコロイド粒子をプローブとして用いれば、その複素易動度に反比例する量として周囲の溶媒の粘弾性を求めることができる。いわばelectrophoretic microrhologyと呼べるこの手法は散乱光の交流電場応答成分のみを抽出するため、1)複素粘弾性の周波数スペクトルと拡散定数が両方得られる、2)散乱の強い媒質中でもナノスケールの微小粒子をプローブとすることが可能である、3)泳動振幅に至ってはナノメートル未満ですむため測定試料に余計な擾乱を与えない、等の利点がある。特に、周囲の溶媒の内部構造(例えば高分子溶液における絡み合い点間距離)の大きさよりも小さな粒子をプローブとした際には、レオメータを用いて測定されるマクロ粘弾性とは本質的に異なった物性が観測されると期待される。

 本研究では、非イオン性界面活性剤2分子膜からなるラメラ構造を持つ複雑流体中にコロイド粒子を分散させてその複素易動度スペクトルの測定を行った。非イオン性界面活性剤が形成するラメラ相は膜どうしのぶつかりあいによる立体斥力によってその構造が安定化されており、濃度と、膜の曲率弾性率により定まる2つの大きさの構造が存在する。1つめは膜間隔と膜のぶつかりあい距離であり、これらは本研究で用いた曲率弾性率が熱エネルギー程度の極めて柔らかい膜ではほぼ同じ程度の長さであることが知られている。従って膜厚δおよび膜濃度φを用いてδ/φと簡単に見積もることができる。さらに長距離の空間スケールでラメラは配向の相関を失い、折れたたまれた構造をとることが電子顕微鏡等を用いた観察により確認されている。本研究で用いた試料では膜の曲率弾性率から見積もられる理論的な配向の相関長は約500nm程度であると考えられる。試料としてはC12E5、ヘキサノール、水の3成分からなるラメラ相に半径21nmの粒子をプローブとして分散させたものを用い、ラメラ相の膜間隔は50nm〜130nmと、プローブ粒子の粒径よりも大きい界面活性剤濃度域で測定を行った。

 界面活性剤濃度が4.7%のときの測定例を図3に示す。複素電気泳動スペクトルには2つの明確な緩和が観測された。実線は2つの単一緩和を仮定した当てはめ曲線である。用いたプローブ粒子自身は水中で緩和挙動を示さないため、これらの緩和は溶媒とプローブ粒子の間の何らかの相互作用により、プローブ粒子の周囲に実効的なポテンシャルが形成されているために起きている。そこで観測された易動度スペクトルからポテンシャルの空間スケールを見積もったところ、低周波緩和では配向の相関長に、高周波の緩和では膜間隔(ぶつかり合い距離)にほぼ一致した。つまり緩和をひきおこすポテンシャルの起源はラメラ相における膜構造による立体障害であり、高周波域では膜の間で自由にゆらいでいたコロイド粒子が中間周波数域では膜のぶつかり合い距離にトラップされつつポテンシャルをとび超えながら運動するようになり、最も低周波の領域では配向の相関長程度の領域にほぼ完全にトラップされるため、易動度がゼロにまで緩和している。

 本研究ではさらに測定結果の詳細な解析により、高周波緩和のメカニズムは2分子膜の間に挿入されたコロイド粒子の周囲に生じる歪み場と密接な関係があることが分かった。ラメラ相の膜間に微小粒子が導入されると、その浸透圧によりラメラ相に歪み場が形成される(図4)。この歪み場のプロフィールを計算すると、膜に平行方向の歪み場の大きさは膜間隔とほぼ同じであることが分かる。従ってコロイド粒子はこの歪み場の内部では自由に運動することができるのに対して、さらに長い距離を運動するためには周囲の歪み場を引きずらなければならないために高周波緩和が生じていることが分かった。

 他方、低周波の緩和のメカニズムに関しては目下のところ必ずしも明確でないが、恐らくラメラ相に生じる欠陥構造の性質と関係があると予測している。

図1 複素易動度測定系の概略図

図2 希薄溶液中におけるコロイド粒子の複素易動度スペクトル

図3ラメラ中に分散したコロイド粒子の複素電気泳動易動度スペクトル

図4コロイド粒子の周囲に形成される歪み場

審査要旨 要旨を表示する

 水溶液中のコロイド粒子や高分子電解質は電荷を帯び、その周囲を反対符号の低分子イオン(カウンターイオン)が取り巻いている。これらマクロイオンの電気泳動易動度は交流電場を印加した際には位相情報を含む複素量として定義される。本研究の目的はこの複素電気泳動易動度を広い周波数範囲で計測可能なシステムを開発することで、従来にない新しい電気的緩和スペクトロスコピーを行うことにある。これにより水溶液中における荷電性界面の静的構造やカウンターイオン雲の揺らぎに伴って生じる多彩な動的電気現象のメカニズムを解明することが可能となる。また複雑流体中に分散したコロイド粒子の輸送特性は周囲の媒質の局所的な粘弾性特性をも反映している。従って複雑流体中に分散したプローブ粒子の複素易動度を計測することで、その逆数に比例する量として周囲の媒質のミクロスコピックスケールの粘弾性特性(マイクロレオロジー)を求めることができる。本論文は"複素電気泳動易動度測定法の開発とそのマイクロレオロジーへの応用"と題し、上記の認識に基づき行った研究成果をまとめたものである。

 まず第1章では、水溶液中における荷電性粒子や高分子の電気泳動易動度を交流電場下において複素量として測定することの意義、および本研究の目的を説明している。

 第2章では、動的光散乱法を応用することで開発された広帯域複素電気泳動易動度測定法に関して詳しく述べている。散乱光に参照光を混合して検出するヘテロダイン法による動的光散乱測定を行うと、信号強度は散乱体の変位の正弦関数となる。交流電場下におけるコロイド粒子の変位はブラウン運動と電気泳動の和であるが、本研究では測定信号を電場周波数の整数倍の中心周波数を持つバンドパスフィルターを通した後、アナログ2乗演算することによって、ブラウン運動やドリフトの影響を完全に除去することに成功した。その結果、電場応答成分のみがロックインを用いて高感度検出されることになり、0.1〜100kHzの6桁にわたる複素電気泳動易動度の広帯域測定が初めて実現された。しかも高周波側の測定限界は、使用した測定器の性能により制限されているにすぎず、原理的には1MHzを超える測定も十分に可能であることが示された。

 第3章では開発したシステムを用いて球状荷電コロイド粒子分散水溶液の測定を行った結果が述べられている。得られた易動度スペクトルには緩和挙動が観測されたが、これは外部電場の印加により荷電コロイド粒子の周囲を取りまくカウンターイオンの分布が偏る結果、低周波域でコロイド粒子の感じる実効的な電場強度が減少するために起きていると考えられた。従って、観測された緩和のメカニズムに依存しない量である易動度の高周波極限値が、原理的に正しいコロイド粒子の表面電位を与えることが明らかとなり、従来の直流電気泳動測定法に対する開発したシステムの優位性が確認された。また、易動度の高周波極限値から得られた表面電位は約300mVと極めて高い値を示した。従って、カウンターイオンはコロイド表面に水素結合と同程度の強い吸着力で吸引され、デバイ長よりもはるかに狭い領域に局在する。その結果、粒子表面には薄いフィルム状の高導電層が形成されていると考えることで、観測された複素電気泳動易動度の緩和現象を定量的に整合性よく説明することができた。

 第4章では、開発したシステムを用いて行ったその他の測定例に関してまとめている。直径10μmの巨大コロイド粒子の電気泳動易動度を測定し、高周波域で慣性の効果による易動度の減少を観測した。また、光が透過しない濃厚試料において、試料内で多重回散乱された光を検出することで複素電気泳動易動度を求めることが可能であることを示した。さらに、交流電場下において電場の1次信号の揺らぎの相関関数を計算することでコロイド粒子の拡散定数の測定にも成功した。

 第5章では開発した複素電気泳動測定法を用いて、非イオン性界面活性剤2分子膜からなるラメラ構造をもつ複雑流体中に膜間隔よりも小さなプローブ粒子を分散させてその複素電気泳動易動度スペクトルの測定を行った結果が示されている。界面活性剤濃度を変化させて測定を行い、各濃度で膜構造に伴う立体障害による2つの緩和挙動を観測した。易動度から換算される摩擦係数および緩和時間から、高周波の緩和がラメラ相の膜間隔程度の空間スケールを持ったポテンシャルにより、また低周波の緩和はラメラ構造の配向の相関長程度のポテンシャルによって引き起こされていること明らかになった。

 2分子膜は絶縁体であるため、導電性を持つ水相とRC直列等価回路を形成する。このため複素易動度スペクトルを計測した周波数域においてプローブ粒子には膜と垂直方向には電場がかからないことを誘電緩和測定により明らかにした。従ってコロイド粒子の易動度の緩和はいずれも膜に平行方向の運動が抑制されるために起きることが明らかとなった。

 これらの事実を踏まえ高周波緩和の緩和強度の界面活性剤濃度依存性を解析した結果から以下のような高周波緩和の機構を提案した。膜の間に分散したコロイド粒子はブラウン運動により2分子膜と衝突を繰り返すため、ラメラ相はコロイド粒子の周囲だけ局所的に広がって歪み場を形成する。コロイド粒子はこの歪み場の中では自由に揺らぐことができるが、さらに長い距離を運動するにはこの歪み場を引き摺らなければならない。その結果、低周波側でコロイド粒子の易動度が低下したものと考えられる。

 他方、低周波緩和より低周波域で易動度は殆どゼロにまで減少しているが、これはプローブ粒子がこの周波数域では完全にポテンシャル中にトラップされているためと考えられる。実際、プローブ粒子の拡散定数測定から、粒子が感じている直流粘性率は水の1万倍以上もあることが明らかとなった。また、低周波緩和を引き起こすポテンシャルの大きさが配向の相関長程度であったことから、この緩和はラメラ相の欠陥構造に強く依存していると予測された。

 最後に、第6章では本研究によって得られた成果についてまとめを行っている。

 以上、本論文では広帯域の複素電気泳動易動度測定法を新たに開発するとともに、開発したシステムを用いて、1)カウンターイオンに取り囲まれた荷電コロイド粒子自身のダイナミクスや、2)逆にコロイド粒子との密接な相互作用のもとで決定される、周囲の媒質の局所的な粘弾性特性、等に関する極めて有意義な知見を得ており、物性工学の進展に寄与するところが大きい。よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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