学位論文要旨



No 117076
著者(漢字) 向山,敬
著者(英字)
著者(カナ) ムカイヤマ,タカシ
標題(和) ストロンチウム・フェルミ同位体のレーザー冷却、トラッピングに関する研究
標題(洋)
報告番号 117076
報告番号 甲17076
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5217号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 助教授 三尾,典克
 東京大学 教授 久我,隆弘
 東京大学 助教授 香取,秀俊
 電気通信大学 教授 清水,富士夫
内容要旨 要旨を表示する

 量子力学によると同種粒子は区別できず,粒子の持つドブロイ波長と同程度の距離に同種粒子が存在するような条件下では,多数の粒子系の振る舞いは粒子の量子統計性を強く反映したものとなる。冷却された中性原子気体はその弱い相互作用から,粒子の量子統計性に関わる現象を調べることのできる理想的な系として注目されており,その大きな成果として1995年に87Rb,23Na,7Liにおいてボーズ凝縮が観測されたことは記憶に新しい。ボーズ粒子の量子縮退状態が実現できた次に,自然な成り行きとしてフェルミ粒子による量子縮退状態(フェルミ縮退)の実現が興味を持たれ始めている。しかし,フェルミ同位体原子の場合には量子統計性から,量子縮退近傍の超低温条件下では粒子間の衝突が禁止され,量子縮退に到達する唯一の手段となっている蒸発冷却法が適用できないという問題が生じる。現在では異なる磁気副準位にいる原子との衝突やボーズ同位体との衝突を利用して蒸発冷却を行うことが現在の主流となりつつあるが,本研究はストロンチウムのフェルミ同位体である87Srを用いて,従来のように磁場トラップを用いずにレーザー冷却のみによってフェルミ縮退を実現するべく原子の冷却,トラップを実現することを目的とした。

 ストロンチウムはアルカリ土類金属原子であり,1S0→3P1という禁制遷移を持つ。この禁制遷移は自然幅が7.6kHzと狭く,この遷移を用いたドップラー冷却を行うことによって原理的には光子の反跳温度(約440nK)まで冷却できる。この限界温度は,105個の原子が400Hzの振動周波数のトラップに捕獲されたという状況におけるフェルミ温度TF〓1.6μKよりも低く,レーザー冷却のみによってフェルミ縮退を実現できる可能性を示している。また,この狭い自然幅は,量子縮退が起こるくらい高密度な条件下で問題となる自然放出光の再吸収,いわゆる輻射トラップを抑制できる点でも都合が良く,レーザー冷却のみによる量子縮退の実現に適した系であると言える。

 しかし,87Srでは,レーザー冷却の際に通常必ずといって良いほど良く用いられている磁気光学トラップの手法がそのまま適用できない。通常,磁気光学トラップの機構はF=0→F=1の遷移をモデルとして説明されるが,Fが大きい場合に磁気光学トラップが同様に機能するかどうかは自明ではない。特にF>1という状況においては,原子がすべての磁気副準位にいる場合に復元力が働くという条件を定式化すると,F→F+1の遷移について基底状態のゼーマンシフト係数(以下g因子と呼ぶ)をgl,励起状態のg因子をguとして,

という条件が成り立つことが必要となる。これは具体的には図1(b)に示すようにσ+光に対する共鳴とσ-光に対する共鳴が空間的に分離されることを表現したものであり,実際アルカリ金属原子種ではおおむね満足されている条件である。しかし,核スピンを持つアルカリ土類金属の禁制遷移のように基底状態のg因子が核スピンの磁気モーメントのみで決まるために励起準位のg因子に比べて3桁ほど小さい系では,上述の不等号を満たさない。これは上記のように,σ+光とσ-の共鳴位置が空間的に分離されていないために光による輻射圧が復元力として働かないことを意味する。このような系に磁気光学トラップを適用するためにはトラップの機構と磁気副準位の関係を詳細に議論し,新しい機構を開発する必要がある。

 本研究では,ストロンチウム・フェルミ同位体の磁気光学トラップを実現するために,1S0→3P1遷移の中の1S0(F=9/2)→3P1(F=11/2)の遷移のClebsch-Gordan(CG)係数を上手く利用したトラップの機構を考案した。上記のように87Srではσ+とσ-の両偏光に対して同時に共鳴してしまうことが問題であった。しかし,σ+とσ-の両偏光に対する吸収確率はCG係数に依存する。つまり,両偏光が同時に共鳴していてもCG係数の差が大きければ,CG係数の大きい方の偏光を選択的に吸収することになる(図2)。この選択性が復元力として働くようにすればトラップが実現できる。本研究において考案したスキームでは,原子が基底状態の磁気副準位間を頻繁に移り動く必要があるが,禁制遷移では遷移強度の小ささゆえにこの状態間のポンピングが十分な頻度で起こらない。そこで1S0(F=9/2)→3P1(F=9/2)遷移に共鳴したレーザーの光モラスを,1S0(F=9/2)→3P1(F=11/2)遷移による磁気光学トラップと同時に行うことを考えた。3P1(F=9/2)のゼーマンシフト係数はF=11/2励起状態に比べて1/5程度と小さいため,F=9/2→F=9/2のレーザーの吸収確率が原子の空間的な位置にあまり依存せず,常に光を吸収放出している状態(光モラス)を作ることができる。この定常的な光の吸収放出過程が磁気副準位間のポンピングの役割をすると同時に,モラスとしてのドップラー冷却効果も期待できる。

 このトラップの安定性をモンテカルロシミュレーションによって検証をし,このスキームが機能することを示した。さらに実際に実験を行い,この方法が有効に働くことを示した。トラップ原子数は6×105個,到達最低温度約2.0μKであった。図3にトラップ原子数の2つのレーザーの離調に対する依存性を示す。トラップされる原子数がF=9/2→F=9/2のレーザー(Stirring laser)の離調の変化に対して急峻に変化すること,F=9/2→F=11/2のレーザー(Trapping laser)の離調の変化に対して鈍感であることが見て取れる。これはF=9/2→F=9/2のレーザーが光モラスとして働いていることを示し,ドップラー冷却の最も効率良く起こる離調(飽和広がり〜100kHz)においてトラップ原子数が多いことを示している。またF=9/2→F=11/2のレーザーは通常のトラップ光として働き,その離調が原子の運動方向を折り返す位置を決めるだけでトラップ効率には影響しないことを示している。また,トラップからの蛍光の時間変化を測定することでトラップの減衰時間が測定でき,F=9/2→F=9/2とF=9/2→F=11/2の2本のレーザーのそれぞれがない場合に減衰時間が30msecと77msecであるのに対し,両方のレーザーを利用することでトラップ寿命が410msecとなるという結果が得られた。トラップ寿命が長くなるということは単純にレーザーが増えたことで入射されている光の強度が強くなったという効果ではなく,2本のレーザーを用いることでトラップの安定性が向上したことを示す結果である。

 また,更なる原子の冷却と高密度化のため,磁気光学トラップ中の原子を光双極子トラップに導入した。光トラップレーザーによって作られるポテンシャルの深さが10μKと深いため,そのようなトラップ中で7.6kHzという狭線幅の遷移による冷却を行おうとしてもシュタルクシフトの空間依存性が大きいために効率良く冷却することができない。ストロンチウム原子の場合には光トラップレーザーの波長を選ぶことで禁制遷移の基底状態と励起状態のシュタルクシフトを符号を含めて同じにすることができ,光トラップ中でも原子の位置に関わらず遷移周波数が変わらない状況を実現することができた。また,トラップの位置は厳密には磁場が完全に0になっていないため(残留磁場〜10mG),異なる磁気副準位にいる原子では遷移周波数が異なり,効率的な冷却ができないという事情がある。そのため偏極するためのレーザーを入射して原子の磁気副準位をmF=9/2にそろえて冷却条件を単一化し,効率的な冷却を行った。図4に原子温度の冷却レーザー周波数に対する依存性を示す。最低温度で400nKを達成することができた。これは冷却波長の689nmに対応する反跳で決まる温度限界であり,禁制遷移によるレーザー冷却によって得られる最低温度が実現できたことになる。トラップ周波数,原子数を測定することによりフェルミ温度を見積もることができ,フェルミ温度は140nKとなった。これよりフェルミ温度と原子温度の比はT/TF〜2.8となった。

 本研究において行ったレーザー冷却による量子縮退の実現に向けた研究の特徴は,高速の量子縮退の実現という点である。通常の蒸発冷却の方法では量子縮退に至るまでに10sec〜100secという時間がかかるのに対して,本研究でのレーザー冷却のみによる実験では300msec程度で温度限界まで到達できている。高速の量子縮退の実現はそれを用いた応用を考える際に,SN比の高い信号を得られるという意味で重要である。さらに,本研究で目標としたレーザー冷却によるフェルミ縮退の実現は,蒸発冷却法と異なりフェルミ温度でスケールされるような温度限界が存在しない。よって原子数を増やすことができればT/TFをいくらでも改善できる可能性を持っている。このことはフェルミ同位体原子によるクーパー対の形成の実験などT/TFをできるだけ小さくしなければならない場合などにも有効であると考えられる。

図1:アルカリ金属原子種における磁気光学トラップ

図2:光ポンピングを利用した磁気光学トラップ

図3:トラップされた原子数の2本のレーザーの離調に対する依存性の実験結果

図4:光トラップ中の冷却された原子の成分の温度の冷却周波数依存性

審査要旨 要旨を表示する

 レーザー冷却法はレーザー光と原子の相互作用を巧みに利用して、原子の速度分布を極限的に抑制する技術である。これは周波数標準などの精密分光や超低速の原子が示す物質波を利用する原子波工学などの応用も期待されている。また、極低温に冷却された原子の密度を上げると、原子の量子統計性を反映した集団の量子現象が発現する。その典型例はボース統計に従うアルカリ原子において1995年に観測されたボースアインシュタイン凝縮である。レーザー冷却法は1997年、中性原子のボースアインシュタイン凝縮は2001年のノーベル物理学賞に選ばれるなど、この一連の研究は物理学の分野で最も注目されているものの一つであり、現在世界中で活発に研究が進められている。本論文は,ストロンチウム・フェルミ同位体である87Srについて,そのスピン禁制遷移を利用したレーザー冷却法,トラッピングの手法を開発し、高密度極低温の原子集団を従来にない方法で効率よく生成する手法を開拓したものである。

 特に、レーザー冷却遷移の上準位と下準位のゼーマン効果の大きさが著しく異なる場合にレーザー冷却トラップを効率よく行う為に、光ポンピング法を用いて磁気量子数分布を変えることでドップラー冷却効果を高める方法を考案し、それを実証した点は非常に独創的である。さらにこの手法で冷却された原子を、量子縮退実現に向けて光双極子トラップを用いて高密度化を行い,光トラップ中で禁制遷移によるレーザー冷却の限界温度である400nKを達成し,T/TF〜2.8という量子縮退に近い状況を実現した。

 以下に各章の内容を要約する。

 第1章:序論としてこの研究の背景である中性原子の量子縮退に関するこれまでの実験を紹介し,本研究の位置付けを行っている。特に全光学的手法による量子縮退実現が期待できる系であるストロンチウム原子を用いた実験についてその特徴を述べ,87Srのレーザー冷却を行う際の問題点や解決策を含めた本研究の概要を述べている。

 第2章:87Srのレーザー冷却を行う動機づけとして,冷却87Srガスを用いて期待される実験について述べている。特に自然幅7.1kHzといった弱い遷移や準安定状態などアルカリ土類金属原子の特徴である準安定状態を利用した実験について述べている。

 第3章:レーザー冷却,トラップの一般的手法について述べている。特に磁気光学トラップについて,それが効率良く働くための上下準位のg因子についての条件を議論している。磁気光学トラップにおいて,遷移の上下準位のg因子が同じオーダーの大きさのときに効率良く機能することを一般的に示し,87Srのように,(i)上下準位のg因子が大きく異なる,(ii)基底状態のFがF>1,(iii)狭い自然幅(γ〜7.1kHz),という性質を持つ系に対して非常に効率が悪いことを示している。また,磁気光学トラップの安定性と遷移強度,磁場勾配の間の関係について述べている。

 第4章:第3章で議論した問題点に対する解決策として,通常の磁気光学トラップが適用可能な系では十分な復元力が得られるために議論の対象にならない光ポンピングの現象に着目し,この光ポンピングによって生じた磁気量子数分布の偏りを利用したトラップの手法を考案した。光吸収による遷移の確率は遷移間のクレプシュ・ゴーダン係数の2乗に比例し,このクレプシュ・ゴーダン係数の差を原子が復元力の方向に向かって光吸収の偏光選択性が生じるようにすることができれば効率良いトラップが可能となる。本研究ではg因子の比較的小さい3P1(F=9/2)を利用し,1S0(F=9/2)→3P1(F=9/2)遷移に共鳴したレーザーを入射することで禁制遷移のような遷移強度の弱い遷移でも効率良く光ポンピングが起こるようにした。さらに量子化軸と垂直方向の光吸収による磁気モーメントの反転を議論に加えることで,動的に復元力を与える構造になっていることを示した。

 第5章:本研究に必要な光源の構造や周波数安定化の方法についての説明を行っている。また周波数安定化の対象としてのストロンチウムセルと,トラップの際の磁場を作るためのコイル,原子源についての説明を述べている。

 第6章:第4章で提案した手法を用いて実際に実験を行った結果を述べている。磁気光学トラップ中の原子の蛍光を観測することにより,ポンピング用のレーザーとトラップ用のレーザーの2本が入射されてはじめて効率良いトラップが実現できることを示した。またトラップ原子数の,それら2本のレーザーの離調に対する依存性を調べることでそれぞれのレーザーの役割がはっきりわかれていることが示された。また,禁制遷移の磁気光学トラップでのトラップ原子数の増大のために作成した原子線コリメータや準安定状態にたまった原子のポンピングの効果について述べている。

 第7章:量子縮退を目指した更なる冷却と高密度化のために光トラップに原子を導入して行ったレーザー冷却の実験の結果を述べている。自然幅が7.1kHzと非常に弱い遷移であるために,最適な冷却条件下では冷却に数十ミリ秒かかることが示されており,重力下では冷却の際に光トラップで原子をトラップしておくことが本質的に重要であることがモンテカルロシミュレーションによって示されている。また,フェルミ縮退を目指して原子の磁気副準位をそろえてレーザー冷却を行い,禁制遷移の冷却限界である反跳温度400nKを実現し,T/TF〜2.8に到達している。本研究では常温の原子から始めて500ミリ秒程度で上記の温度に到達しており,従来の蒸発冷却法による量子縮退の生成とくらべて1〜2桁短い時間で量子縮退近傍に到達することに成功している。

 第8章:本研究で得られた結果がまとめられ,今後の研究の課題と展望が述べられている。

 以上のように,本研究で著者は,87Srに適用可能な磁気光学トラップの手法を確立した。この研究は量子縮退したフェルミ気体の物理の研究や新しい時間標準の開発などに大きく貢献しうる研究である。これは物理工学の発展への貢献が大きいと認められる。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認める。

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