学位論文要旨



No 117080
著者(漢字) 林,隆介
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,リュウスケ
標題(和) 両眼視覚情報処理とその神経回路モデルに関する研究
標題(洋)
報告番号 117080
報告番号 甲17080
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5221号
研究科 工学系研究科
専攻 計数工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 館,章
 東京大学 教授 合原,一幸
 東京大学 教授 武田,常廣
 東京大学 教授 満渕,邦彦
 東京大学 講師 前田,太郎
内容要旨 要旨を表示する

本研究は人間の両眼視機能の情報処理過程を心理実験および脳波計測実験により解明し,その神経回路モデルを構築することを目指した.両眼視機能で興味深いのは,両眼間で類似した画像が水平方向にわずかにシフトして入力された場合,画像間の対応から両眼視差が検出され,両眼立体視が知覚されるのに対し,両眼間で全く異なる画像が入力されると左右眼のどちらか一方だけが排他的に知覚され,しかも時間経過と共に知覚が交代する視野闘争が生じることである.さまざまな研究から両者の密接な関係が示唆されるが,両眼立体視と視野闘争は統一的な両眼視機構の枠組みで語られることはまれで,それぞれ異なる心理現象として独立に研究されてきた.両眼立体視過程が外界の三次元構造復元という明らかに有用な視覚機能を担い,その機構がかなり解明されつつあるのと比べ,視野闘争はその機能すら明確に理解されていない.視野闘争の機構については,知覚の抑制機構が「両眼間」で生じるという仮説と両眼に提示された「刺激表象間」で生じるという仮説がこれまで対立してきた.現在では両者のメカニズムがどちらも関与すると考えられているが,二つを整合的に説明する仮説やモデルは提案されていない.

 両眼立体視と視野闘争現象をつなぐ鍵として,日常の三次元視覚体験で遮蔽状況により生じる両眼間非対応領域の存在が注目される.この非対応領域は文字通り両眼間で対応がなく,したがって両眼視差が定義されないにも関わらず,視野闘争が生じず,奥行きが背景面に定位される.この両眼間非対応領域が,両眼立体視過程の中で果たす役割を明らかにできれば,両眼立体視の理解をより完全なものにするだけでなく,両眼間非対応の極端な条件で生じる視野闘争現象も同じ枠組みで説明できると考えられる.

 両眼立体視に関連して,近年の生理学研究によってV1の視差選択性細胞は両眼視差を両眼視差エネルギーモデルに従って符号化していることが明らかになった.そこで,両眼視差エネルギーモデルで記述できる両眼視差検出過程が,両眼間で非対応な画像入力に対し,どのような応答を示すか調べることを研究の端緒とした.

 両眼立体視機能を研究するにあたってCorrelated Random-dot stereogram(C-RDS)を用いることが,両眼視差検出過程を選択的に調べる手法として有効である.さらに,視野闘争刺激として,両眼間で画像コントラストが反転したAnticorrelated RDS(A-RDS)と両眼間でパターンがランダムなUncorrelated RDS(U-RDS)があり,両眼画像の競合過程を調べるのに有用である.そこで,両眼視差エネルギーモデルがC-RDS, A-RDS, U-RDSに対しどのような応答を示すかをシミュレーションし,その妥当性を心理実験によって検証することとした.

 シミュレーション結果が示唆したのは,A-RDSがその視差に対応する視差検出細胞を選択的に抑制する性質があるのに対し,U-RDSは全ての視差検出細胞を一様に活性化するということである(図1参照).このことから,次のような新しい錯視現象の存在が予測された.すなわち,A-RDSを長時間凝視し順応した後,U-RDSを提示すると順応時に用いたA-RDSが交差視差か非交差視差かによって,U-RDSが注視点より手前あるいは奥の奥行きに知覚されるという現象である.A-RDSへの順応期間中,抑制された視差検出細胞は,U-RDSの提示により他の細胞より相対的に強く活動し,奥行き知覚を生成すると予想される.心理実験はこの錯視の存在を実証し,そのメカニズムがモデルに基づく仮説と一致することを明らかにした.

 ところで,この錯視が特異的なのはA-RDSもU-RDSも視野闘争知覚を示し,一定の奥行き知覚が生じないにもかかわらず,その残効が一定の奥行き知覚を生じる点にある.このように,順応刺激には明確な視知覚が意識されないにも関わらず,残効として明確な知覚が生じる現象は,視知覚において意識にのぼるものが何かを解明する手掛かりを提供すると考えられる.

 両眼視差エネルギーモデルはV1の単一神経細胞の応答を記述したモデルであり,心理実験が明らかにしたことは,人間の両眼視過程においても両眼視差エネルギーモデルが記述する情報処理が利用されているということである.しかし,人間の両眼視知覚と直接関連した脳活動現象が同様のモデルで説明できるかは検証されていない.そこで,人間の脳機能計測手法として脳波計測をとりあげ,RDS刺激提示時の視覚誘発電位(VEP)を計測することでこの検証を行った.実験では刺激の提示位置,視差量と両眼間の画像相関を統制し,パラメータ変化に伴うVEP反応の時間変化を調べた.

 C-RDS提示時のVEPの頂点潜時は刺激の提示位置に依存して大きく変化し,かつ交差視差の方が非交差視差より潜時が常に短いことが明らかになった.さらに,A-RDSを提示した場合,非交差視差の方が交差視差より潜時が常に短くなり,C-RDS提示時と視差依存性が逆転することが明らかになった.以上は両眼視差エネルギーモデルの予測と一致する結果であり,両眼立体視と視野闘争の過程がV1の視差選択性細胞を共通の神経基盤にしていることの直接的な証拠であるといえる.

両眼立体視と視野闘争が異なる知覚現象として表象される以上,両者を区別するメカニズム,たとえば両眼画像間の非対応検出する機構を想定することが妥当である.前述の両眼視差エネルギーモデルの応答をみると,両眼間で異なる画像入力に対して特定の視差検出細胞が選択的に強く活動することはなく,全ての細胞が一様に活動する応答パターンを示す.過去の心理実験によれば,両眼間非対応領域が遮蔽に基づく幾何光学条件に従って安定した奥行きに知覚されるには非対応画像の入力眼情報が必要であると示唆されている.そこで,本研究では両眼間非対応の検出細胞が左右両眼にそれぞれ存在すると仮定し,非対応検出細胞の受容野中心において,視差検出細胞群が一様にしか活動しない場合,当該の網膜位置を両眼間非対応であると判定することとした.このような両眼間非対応検出細胞はV1にみられる眼優位コラム単位の細胞群出力を統合することで神経回路的に十分実装可能であると考えられる.

 以上の知見に基づき,両眼視のモデルとして,両眼視差エネルギーモデルにより視差と非対応の初期検出を行ったのち,両眼視差検出細胞,左眼非対応検出細胞,右眼非対応検出細胞の三種類の細胞を設定した協調的な神経回路モデルを提案した.モデルはMarr&Poggioの協調的アルゴリズム(1976)を拡張した形式をとり,外界の三次元構造の復元を物理法則に従った拘束条件により推定する計算理論的アプローチを採用した.用いた拘束条件は一意性の条件(網膜上の一点は二つ以上の奥行きに定位されない),凝集性(滑らかさ)の条件,遮蔽条件を基本とした.この他,遮蔽によって生じる両眼間非対応領域は常に奥行き不連続部位に存在することから,奥行き推定の際に非対応領域では凝集性条件に基づく奥行き補間プロセスを切断する(ラインプロセス)こととした.さらに,「左眼からのみ見える」かつ「右眼からのみ見える」点は原理的に存在しえない.そこで左右眼の非対応解釈は相互に排他的であるとし,両眼間競合条件を設定した.そして,非対応領域の奥行きを非対応検出細胞と両眼視差検出細胞の同時活動により表現するモデルを提案した.

 提案した両眼立体視の神経回路モデルは,RDSや自然画像のステレオグラムに対し,適切な両眼視差を検出するだけでなく,両眼間で非対応な領域も検出し,その領域が遮蔽の幾何光学条件を満たす場合,適切な奥行きに定位することが確認された.本来,両眼視差が定義されない非対応領域が安定した奥行きに知覚されるという現象を再現したといえる.

 一方,両眼間で画像が全く異なる視野闘争刺激をモデルに入力した場合,左眼非対応領域と右眼非対応領域が交互に振動的に出現することが明らかになった.すなわち「左眼からしか見えない領域」と「右眼からしか見えない領域」が交互に出現することを意味しており,まさに視野闘争の現象を再現しているといえる.このことから,視野闘争現象は遮蔽条件を満たさない両眼間非対応入力に対し,両眼立体視システムの奥行き推論過程が示す錯誤現象であると解釈できることが明らかになった.

 視野闘争のメカニズムとしては,これまでに両眼間の競合と刺激表象間の競合が関与すると指摘されているが,本研究の神経回路モデルは左右眼の非対応検出細胞を想定している点で両眼間競合のメカニズムを説明する一方,両眼視差検出細胞との協調的な奥行き推論過程を実現している点で高次の刺激表象レベルのプロセスにも対応できる.特に両眼間の非対応検出法として,両眼視差エネルギーモデルの眼優位コラム単位の出力を扱うことで,従来,両眼間の競合過程には「単眼性細胞」が関与するというドグマの解消に成功し,二つに分離して捉えられていたメカニズムのハイブリッドな解釈を可能にした.ここに視野闘争現象は両眼立体視機能の中で統一的に解釈されたといえ,両眼視覚情報処理は両眼視差検出と左右眼の両眼間非対応検出処理によって包括的に記述できると考えられる.

図1:両眼視差エネルギーモデルの出力結果.

a)A-RDSに対する応答.b)U-RDSに対する応答.c)残効現象のシミュレーション.

図2:RDS刺激に対するVEPの陽性ピーク潜時.

a)C-RDSに対する応答.b)A-RDS, U-RDSに対する応答.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「両眼視覚情報処理とその神経回路モデルに関する研究」と題し、5章からなる。

 両眼立体視と視野闘争現象は、これまで独立な視覚現象として研究されることが多かった。本論文は、奥行き配置が遮蔽に基づく幾何光学的な制約条件を満たす場合、奥行き不連続部に生じる両眼間非対応領域では、視野闘争が生じずに奥行きが知覚される現象に注目し、遮蔽によって生じる両眼間非対応領域の奥行き知覚の情報処理過程を心理実験および脳波計測実験により解明し、両眼視差検出と、両眼間で異なる画像入力が行われた際に生じる視野闘争との関係を論じ、両者が共通の神経基盤に基づく知覚現象の異なる側面であるという仮説のもと、両眼視現象全般を説明しうる包括モデルを提案し、その神経回路モデルを構築したものである。

 第1章は序論で、両眼視覚情報処理の中でも視野闘争現象のメカニズムが未だ多くの点で未解明であること、さらに遮蔽によって生じる両眼間非対応領域の奥行き知覚を通して、視野闘争と両眼立体視が密接に関わることを現在までの先行研究から明らかにして、両眼間非対応画像の情報処理解明をとおして両眼立体視や視野闘争など両眼視現象全体を包括的に扱うことのできる神経回路モデルを提案するという本研究の目的と立場と意義を明らかにしている。

 第2章は、「心理実験に基づく解明」と題し、大脳視覚一次野(V1)の視差選択性細胞の応答を的確に記述することで知られる両眼視差エネルギーモデルを取り上げ、このモデルに両眼間で非対応な画像を入力することで、視差選択性細胞がどのような応答をするのかをシミュレーション実験で調べ、その結果から、新たな錯視現象の予想を導き、それを実際の心理実験により実証することを通して、両眼間非対応入力の処理機構について考察し、その考察に基づいて、両眼間の刺激非対応を検出する機構に関する提案を行っている。すなわち、両眼視差エネルギーモデルが、C-RDS(Correlated Random-Dot-Stereogram)、A-RDS(Anti-correlated RDS)、U-RDS(Uncorrelated RDS)に対しどのような応答を示すかをシミュレーションしたところ、A-RDSがその視差に対応する両眼視差細胞を選択的に抑制する性質があるのに対し、U-RDSは全ての両眼視差細胞を一様に活性化するという結果を得て、このことから、全く新しい錯視現象の存在を予測している。その予測は、A-RDSを長時間凝視し、順応した後、U-RDSを提示すると順応時に用いたA-RDSが交差視差か非交差視差かによって、U-RDSが注視点より手前あるいは奥の奥行きに知覚されるという現象である。実際の心理実験を行って、この錯視の存在を実証し、それがA-RDSへの順応期間中、抑制された両眼視差細胞は、U-RDSの提示により他の細胞より相対的に強く活動し、そのため、実験のような奥行き知覚を生成するという仮説から説明できることを明らかにしている。なお、この錯視が特異的なのはA-RDSもU-RDSも視野闘争知覚を示し、一定の奥行き知覚が生じないにもかかわらず、その残効が一定の奥行き知覚を生じる点にある。このように、順応刺激には明確な視知覚が意識されないにも関わらず、残効として明確な知覚が生じる現象はこれまで報告されておらず、従って、この現象は、視知覚において意識にのぼるものが何かを解明する一つの手掛かりを提供しうる錯視現象であると主張している。

 第3章は「脳波計測実験による検証」と題し、神経細胞の生理学と心理学の溝を埋めるべく、脳波計測法を用いた実験を行い、人間の知覚活動に伴う神経活動の電気生理反応を手掛かりに両眼視覚情報処理のメカニズムにアプローチしている。すなわちRDS提示時の視覚誘発電位(VEP)波形では、後頭部に限局した潜時200ms付近に生じる陰性ピークと、後頭部からより前頭部に広がる、潜時300ms付近に生じる陽性ピークが顕著な活動として確認され、各反応の頂点潜時は刺激の提示位置、視差量に依存して大きく変化し、中心視野と周辺視野、交差視差と非交差視差で処理機構が大きく異なることを明らかにしている。さらに、A-RDSを提示した場合、両眼視差エネルギーモデルが示唆するように、RDS提示時と反応潜時の視差依存性が逆転することが明らかになっている。モデルはまた、両眼間で非対応な画像入力がある場合、さまざまな両眼視差細胞が一様に活動することを示唆するが、同様の傾向をU-RDS提示時のVEP反応により確認している。以上の結果は、両眼立体視と視野闘争の過程が両眼視差エネルギーモデルで記述されるV1の両眼視差細胞を共通の神経基盤にしていることの直接的な証拠であるといえると主張している。

 第4章は「両眼視の神経回路モデル」と題し、両眼視差エネルギーモデルのシミュレーション、心理学、電気生理学の実験結果に基づき、両眼間非対応入力の処理機構モデルの実装とこれを組み込んだ三次元構造復元の神経回路モデルを提案している。なお、両眼間非対応な画像入力は遮蔽が起こる状況で必ず生じるという事実に注目し、遮蔽関係に基づく幾何光学的制約条件が実装された三次元構造復元のモデルとなっている。提案した両眼立体視モデルがさまざまな両眼視現象を説明できるだけでなく、両眼間で全く異なる画像が入力した場合、視野闘争現象をも再現できることを示して、このモデルにより従来論争が繰り広げられていた視野闘争のメカニズムが、両眼立体視のメカニズムの中で統一的に説明できることを示している。

 第5章は結論で、本論文をまとめ、今後を展望している。

 以上これを要するに、本論文では、従来、独立な視覚現象として研究されることの多かった両眼立体視と視野闘争現象を、両眼視差検出と左右眼の両眼間非対応検出処理によって包括的に説明するモデルを提案し、その妥当性を心理学的実験と脳波計測データから検証したものである。この両眼間非対応領域の奥行きを遮蔽の制約条件に基づき推定する両眼立体視の神経回路モデルは、従来の多くのモデルが対応できなかった奥行き不連続の処理を計算理論から導かれる制約条件によって解決している。さらに、このようなモデルが通常の両眼立体視知覚以外に、視野闘争現象をも再現できることを明らかにしており、脳科学や神経工学の発展に寄与できると考えられ、計測工学及び脳神経科学に貢献するところが大である。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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