学位論文要旨



No 117095
著者(漢字) 渡邉,秀典
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,ヒデノリ
標題(和) 皮質−海馬記憶システムに関する研究
標題(洋)
報告番号 117095
報告番号 甲17095
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5236号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 近藤,駿介
 東京大学 教授 中澤,正治
 東京大学 教授 大橋,弘忠
 東京大学 教授 岡,芳明
 東京大学 教授 合原,一幸
 東京大学 教授 古田,一雄
内容要旨 要旨を表示する

1 研究背景

 記憶はヒトのあらゆる認知活動を根底で支える、極めて重要な機能である。しかし、この機能が脳においてどのような情報処理機構で発現されるかは詳細にはわかっていない。そのため各分野で記憶の情報処理機構の解明を目指して研究が行われている。

 脳損傷の症例等から日々の出来事の記憶、即ちエピソード記憶には、海馬及びその周辺部位が関わることが示唆されており、海馬はエピソードの一時的な貯蔵庫であると考えられている。しかしながら記憶の最終的な貯蔵庫は皮質領域であると考えられる生理学事実や海馬への感覚入力は皮質が起源である解剖学的知見から、記憶機能の発現を海馬及びその周辺部位だけに帰するには無理がある。特にエピソードの入力に対し既に貯えられている記憶を参照し、新規情報は学習するという機能は、皮質領域から海馬を含めたシステムで説明される必要がある。

 そこで我々は新規情報学習機能を発現する皮質−海馬モデルを提案する。過去におけるいくつかの新規情報学習機能を示すニューラルネットワークモデルについては、実際の脳構造と詳細には未対応[1]であったり、外部からの制御信号で学習機能が発現される[2]。本研究では、解剖学的な脳構造を参考に皮質−海馬モデルを構築し、このモデルが外部からの制御信号なしに自動的に入力情報から新規情報のみの学習することを目的とする。

2 皮質−海馬モデル

 皮質(以下CX)から海馬にかけての解剖学的構造と投射経路[3]を参考にしてCX、嗅皮質(以下EC)、CA1、DG/CA3で構成されるモデルを構築した(図1)。各層を形成するニューロンは全て興奮性で、その内部ダイナミクスは連続時間型モデルを用いて表す。以下で、本研究の特徴が最も現われるEC浅層ニューロンのダイナミクスについて説明する。

2.1 EC浅層モデル

 皮質−海馬のモデル化にあたり、CXからECへの入力経路について、CX内の特定の領域からECの特定の領域に投射し、このCXからECへの投射は興奮性ニューロンと共にECの抑制性介在ニューロンにも終止すると仮定する。この抑制性介在ニューロンは近傍の興奮性ニューロンに結合し、興奮性ニューロンに抑制性の膜電位変化(IPSP)を与える。

 上記の仮定に従い、CX-EC経路の終止領域であるEC浅層(E1)をモデル化した。浅層における興奮性ニューロンiは、CXからの出力xiCX、及び、EC深層(E2)における興奮性ニューロンiからの出力xiE2を受け取り、膜電位(興奮性シナプス後電位、Excitatory Postsynaptic Potential、EPSP)aiを増加させる。浅層における興奮性ニューロンiと深層における興奮性ニューロンiの相互に結合しており、ECにおける興奮性のニューロン活動を維持する。CXからの抑制性ニューロンの投射については、抑制性介在ニューロンのダイナミクスを省略し、その応答をECの興奮性ニューロンiへの抑制性入力による膜電位(抑制性シナプス後電位、Inhibitory Postsynaptic Potential、IPSP)biで表す。つまり、あるCXニューロンが発火した場合、EC浅層の特定の領域内の興奮性ニューロンと抑制性ニューロンはともにCXニューロンからの入力を受ける。抑制性ニューロンはそのCXからの入力により、確実に発火するとし、同じCXニューロンからの入力を受けるEC浅層ニューロンに抑制性の出力を与える。

 ニューロンの発火条件は、EPSPとIPSPの差分aiE1(t')−biE1(t')が閾値θE1とニューロンの発火後の応答特性を表す不応性riE1(t')の和より大きくなると、ニューロンは発火し、スパイクxiE1を出力する。以上のEC浅層ニューロンのダイナミクスは次式である。

 ここで、dは、各添字が示す領域間のスパイク伝達遅延時間、w、winhiは、各添字が示す領域をつなぐ興奮性のシナプスの結合強度と抑制性ニューロンのシナプスの結合強度、γはニューロンの不応性の強度である。

 尚、他層のニューロンにおいては抑制性ニューロンからの入力b(t)を除いて、同様の内部ダイナミクスに従う。

2.2 学習則

 電気生理実験から、記憶の基礎過程とされるシナプスの伝達効率の変化について、長期増強(long term potentiation、LTP)と長期抑制(long term depression、長期抑制)が海馬において特徴的に観測されている。そこでシナプスの伝達効率の変化について最近の生理学的知見を参考にして本研究では以下で示されるようなシナプス結合強度変化ΔwijがCA3-CA1間のシナプスで起こり、外部からの入力パターンが学習される。

 ここでニューロンjからのスパイクがニューロンiに到着する時刻をtpre、ニューロンiの発火時刻をtpostとして、その時間差をΔt(=tpre-tpost)と定義した。T+とT-はLTP及びLTDの効果の時間減衰時定数減衰で、A+とA-は、シナプス結合強度変化値の最大値と最小値である。

T図4:新規パターンを入力した場合のニューロンの平均発火率

3 シミュレーション結果と考察

 シミュレーションに当たり、EC浅層ニューロンにおいてIPSPの時間減衰はEPSPのそれよりも速い(Tb>T)とした。

 また記憶パターンについてはCX層においてランダムに選ばれた25個のニューロンで構成される既知パターンと新規パターンの2つを用意する。既知パターンについては25個のCXニューロンが相互に結合される。またこれらのパターンの入力については1単位時間内にCX層の各ニューロンに一様ランダムな分散で一度のみ与えられる。確実にニューロンを発火させるために、入力強度は閾値以上とし、入力時刻は同じニューロンへの入力でも1単位時間内で一様ランダムに毎回ゆらぐ。

3.1 既知パターンの入力

 このモデルのCXに既知パターンを一度のみ入力した。図2で示されるようにCXの活動度は高くなる。その理由は、CXでは、入力されたニューロンがそれぞれシナプスで結合されているため、各々に出力スパイクを受渡し、既知パターンが連続して想起されるからである。一方、ECにおけるニューロンはほとんど活性化されず、またECから入力を受けるCA1とDG/CA3においてもニューロンは発火しない傾向をもつ。

 この場合E1ニューロンは連続した興奮性入力と同時に抑制性入力を受ける(図3)。E1ニューロンにおいて、IPSPの時間減衰はEPSPより遅いので、連続した興奮性、抑制性の入力を受けた場合、EPSPの効果よりIPSPの効果は積算され、ECの活動は抑えられる。

T図5:新規パターンを入力した場合のEC#35ニューロンの内部状態

3.2 新規パターンの入力

 新規パターンとしてCXにランダムパターンを一度のみを入力した場合、CXニューロンは相互結合が少ないので、閾値に発火に至る程のスパイクを受けることができず、CXでは活動を維持できない(図4)。一方、ECとECから直接入力を受けるCA1とDG/CA3におけるニューロンは既知パターンを入力した場合と比べて発火する傾向を持つ。

 その理由は、CXの不活性化によってE1ニューロンは連続した興奮性と抑制性の入力を受けないので、IPSPの効果は積算されないからある(図5)。従いE2ニューロンからの興奮性入力を浅層ニューロンが受けた時、E1ニューロンは発火に至る。このE1ニューロンの発火はEC内のループ結合によりECを持続的に活性化させる。ECの活性化によってDG/CA3とCA1ニューロンも発火を繰り返し、新規パターンが海馬に学習される(図6)。

3.3 考察

 本モデルでは新規情報の学習機能において各脳部位ごとに役割を分離し、ECでは既知と新規の情報の判断、皮質では既知パターンの想起、海馬では新規パターンの学習を行なった。つまり新規パターンを入力した場合では主に海馬が活動をし、逆に既知パターン入力した場合では、CXが活動をした。ところで、新規と既知の情報提示における脳の活動変化をfMRIを使って計測した実験[4]では、新規の情報提示下において海馬は皮質よりも提示前と比べ活性化され、逆に皮質は海馬よりも既知の情報提示下において活性化されることが報告されている。この事実は海馬と皮質は、脳への入力情報が新規か既知かの違いについてその活動を影響し合うことで機能を分化している可能性を示唆する。このfMRIを使った結果に対して、本モデルにおける既知パターンを入力した場合と新規パターンを入力した場合の部位ごとの活動の相違は、一つの解釈を与えられる。

 また今回のシミュレーションでは記憶の定性的性質を示すため、スパイクの伝達時間について単純化して全て1単位時間と設定した。しかし実際の脳部位間の活動伝搬については部位間のスパイク伝達時間が一定とは考えられない。特にEC-DG/CA3-CA1-ECのループによる活動の伝搬時間、EC内部のループによる活動の伝搬時間、既知パターンを入力した場合におけるCXニューロンの活動時間は各々異なると思われる。その個々の活動時間の相違がシステム全体のダイナミクスに及ぼす影響については、理論モデルにおいて追求するべき課題である。

4 結論

 本研究では、脳解剖学的知見に基づいた皮質−海馬モデルを提案し、このモデルが新規パターンのみの自律的な学習機能を計算機実験によって示した。本モデルの最大の特徴は、CXからECへの投射に特異な結合を仮定した点である。この仮定により生理的に妥当であり、かつ過去の皮質−海馬モデルよりも、シンプルな回路でその新規情報学習機能を説明できた。但しこの仮定は生理的に確認はされていないので、脳における新規情報学習機能に関する生理実験が求められる。

 脳の記憶において新規情報の獲得機能の発現の説明するために本モデル構築されたが、認知心理学的に観測される記憶については、エピソード記憶を始め様々な記憶の形態がある。本モデルの構造は非常にシンプルなので、その改訂によって、様々な記憶機能が説明されることを今後期待する。

参考文献

[1]Carpenter, G. A. and Grossberg, S. "A massively parallel architecture for a self-organizing neural pattern recognition machine" in "Pattern recognition by self-organizing neural networks", The MIT press, 316-382, 1991

[2]Omori H. and Ohmori T. "Model of neocorticohippocampal memory function segregation by difference of memory time constants" Trans. IEICE J77-D-II, 1882-1890, 1994

[3]Amaral, D. G. and Witter, M. P., "Hippocampal formation", in "The rat Nervous system", Academic Press. 443-493, 1995

[4]Saykin, A. J., et al. "Functional differentiation of medial temporal and frontal regions involved in processing novel and familiar words : an fMRI study", Brain, 1963-1971, 1999

図1:解剖学的知見を参考に構築した皮質−海馬モデル

CX:大脳皮質、EC:嗅皮質、CA1:海馬CA1領域、DG/CA3:海馬歯状回及びCA3領域、PP:貫通繊維。丸は興奮性ニューロン、四角は抑制性ニューロンを示す。ECは浅層(E1)ニューロンと深層(E2)ニューロンからなる2層構造であり、それぞれが垂直に相互結合している。PPについてEC浅層ニューロンからDG/CA3ニューロンへは疎でランダムな投射をし、E1ニューロンはそれぞれ特定のCA1ニューロンに投射する。

図2:既知パターンを入力した場合のニューロンの平均発火率

既知パターン入力後50単位時間内のニューロンの発火回数を計測し、単位時間当たりの発火頻度を算出した(n=100、±1S.D.)。

図3:既知パターンを入力した場合のEC#15ニューロンの内部状態

(a)CXからの興奮性入力による興奮性の膜電位(EPSP)の変化。CXからの興奮性入力は、時刻0.5、1.8、2.8、3.8に行なわれる。時刻2.5における興奮性入力はEC深層ニューロンからのスパイクによる。(b)EC内の抑制性ニューロンからの抑制性入力による抑制性の膜電位(IPSP)の変化(c)ニューロンの閾値と不応性の変化

新規パターン入力後50単位時間内のニューロンの発火回数を計測し、単位時間当たりの発火率を算出した(n=100、±1S.D.)。

(a)CXからの興奮性入力による興奮性の膜電位(EPSP)の変化。CXからの興奮性入力は、時刻0.2に行なわれる。時刻2.2、4.2における興奮性入力はEC深層ニューロンからのスパイクによる。(b)EC内の抑制性ニューロンからの抑制性入力による抑制性の膜電位(IPSP)の変化。(c)ニューロンの閾値と不応性の変化

図6:学習後、不完全なパターンを入力した場合のニューロンの発火パターン

四角はニューロンの発火、破線は新規パターンを構成するニューロンインデックスを示す。不完全なパターンの入力として新規パターンを構成するCXニューロンのうち7割のニューロンを発火させる。発火時刻は0.0±0.5内で一様ランダムとした。

審査要旨 要旨を表示する

 記憶はヒトの認知活動を支える極めて重要な機能である。しかし、この機能を発現する脳の情報処理機構については、なお未解明な部分が多い。「皮質−海馬記憶システムに関する研究」と題する本論文は、脳の記憶機能の一つである新規情報を獲得する機構を考察して、皮質と海馬間の投射関係に関する生理学的知見を踏まえつつこの記憶現象を発現できる神経機構モデルを検討して成案を得て、計算機シミュレーションによってその妥当性を検討しているもので、全体は5章から構成されている。

 第1章は本研究の動機を述べてから、認知心理学、生理学、情報科学の分野における記憶研究を紹介している。そして、新規と既知の情報を提示した際の脳の活動状況を磁気共鳴映像法を使って計測した実験事実などから、長期記憶は大脳皮質でなされること、海馬は中間記憶機能、即ち脳に入力された情報が皮質に貯蔵されるまでの期間その情報の皮質における想起を支援する機能を有すること、したがって新規情報を獲得するための情報処理機構はこれら二つを要素とするシステムとして構築されるべきことを述べている。

 第2章は、生理的に妥当なモデルを構築するために、海馬の解剖学的な構造と内外部との投射関係について調査した結果を取りまとめている。

 第3章は、得られた解剖学的知見を参考に、新規情報の獲得機能を発現せしめる脳内回路を明らかにするために、この機能を発現するのに必要でないと思われる部位や投射を可能な限り省略して到達した、大脳皮質(以下ではCXと記す。)、嗅内野(以下ではECと記す。)海馬CA1(以下では単にCA1と記す。)、歯状回(以下ではDGと記す。)/海馬CA3(以下では単にCA3と記す。)の4領域の働きと関係をモデル化した皮質−海馬モデルの設計を述べている。このモデルにおいては、各領域は連続時間型ニューロンモデルで与えられ、CXからECへの投射末端は興奮性ニューロンのみならず抑制性ニューロンにも結合し、この抑制性ニューロンから入力を受けるECの興奮性ニューロンでは興奮性入力よりも抑制性入力の効果が大きく、かつ長時間持続すると仮定している。

 第4章はモデルの計算機シミュレーションを行った結果を述べており、本モデルに新規のパターンを入力した場合にはCA1、DG/CA3間の結合の可塑性によりパターンが一時的に保持され、続いてこのパターンの一部が与えられたときには、海馬に駆動されて皮質上に完全なパターンが再現(想起)されること、一方、皮質のニューロン間の結合にパターンが埋め込まれている状態では皮質のニューロンの活動のみによってパターンの想起が行われることから、このモデルは入力パターンの新規性の有無によりモデルの振舞いが異なり、新規情報を表現するパターンは自律的に中間記憶として獲得されることが示されたとしている。そして、この相違はECの興奮性ニューロンの活動に抑制性入力が及ぼす効果によることを明らかにして、その生理学的妥当性について考察し、この効果の存在の確認を目的とする生理実験が脳の記憶機能の解明に有用な結果をもたらすとして、今後この種の実験が行われるべきとしている。

 第5章は結論で、以上に得られた知見と提案を要約するとともに、ここで考案したモデルは今後さらに変更を加えていくことにより、他の様々な記憶機能の解明にも役立つことが期待できるとしている。

 以上を要すれば、本論文は、生理学的知見を踏まえて脳の新規情報の獲得機能を説明する皮質−海馬モデルを提案し、シミュレーションによってその妥当性を示すことにより、ヒトの情報処理機構の理解を増進する手がかりを得ることに成功しているものであり、採用されたモデル構築のアプローチを含めて、マクロレベルのシステムの振舞いを微視レベルの現象の統合化が産み出すものとして体系化していくことを目指すシステム量子工学の発展に寄与するところが少なくない。よって本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認める。

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