学位論文要旨



No 117102
著者(漢字) 小路,博信
著者(英字)
著者(カナ) ショウジ,ヒロノブ
標題(和) X線共鳴非弾性散乱による遷移金属化合物の電子状態の研究
標題(洋)
報告番号 117102
報告番号 甲17102
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5243号
研究科 工学系研究科
専攻 金属工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 七尾,進
 東京大学 教授 山本,良一
 東京大学 助教授 井上,博之
 東京大学 助教授 小田,克郎
 東京大学 助教授 渡邊,聡
内容要旨 要旨を表示する

1.緒言

 近年、新しい電子状態の研究手段として、X線共鳴非弾性散乱(RIXS)が注目を集めている。従来用いられてきたX線光電子分光(XPS)やX線吸収分光(XAS)が励起のみの一次光学過程であるのに対し、RIXSは励起と輻射遷移の二次光学過程である。そのため、一次光学過程の情報を含む上に、遷移過程の分離や電荷移動等の電子状態に関するより詳細な情報を含んでいる。しかし、強度が弱い上に励起エネルギーが可変のX線源が必要なため、放射光が登場するまでは実験が困難であった。そこで本研究では第一に種々の3d遷移金属化合物でRIXSのデータを蓄積し、共鳴領域での通常の蛍光とは異なる発光過程に関して知見を得ること、第二に実験上の制約の少なさを活かして、RIXSを実際の材料評価に応用することを目的とする。

2.実験原理・方法

 実験は高エネルギー加速器研究機構の放射光施設で行い、Fig.1に示す二次X線分光器を用いる。遷移金属のK吸収端近傍のエネルギーに単色化したX線を試料に入射させる事で遷移金属1s電子を4p準位まで励起させ、その後外殻又は他の内殻電子が1s正孔に遷移する際に放出されるX線を結晶で分光し、一次元位置敏感比例計数管で検出する。測定したX線は3pから1sへの発光(Kβ1,3)と、3dから1s及び4pと配位子2pの混成による分子軌道から1sへの発光(Kβ5)である。RIXSは蛍光と異なり励起光のエネルギーを吸収端に共鳴する事で、励起エネルギーと発光エネルギーの二変数のスペクトル関数となる。そのため、吸収端近傍で励起エネルギーを変化させるることでスペクトルにも変化が現れる。

3.遷移金属酸化物のKβ1,3

 二変数関数であるRIXSだが、実験の盛んになった現在においても殆どの場合が励起エネルギー固定又は発光エネルギー固定で行われており、励起エネルギーと発光エネルギーの二変数マップの測定例が非常に少ない。本研究の装置の特徴として一度に100eV程の範囲のエネルギーを測定できるので、種々の遷移金属化合物で二変数マップ測定を行った。

 紙面の都合上例としてFig.2にMnOのKβ1,3 RIXSを示す。一番下のスペクトルはXASであり、アルファベットはそれぞれのスペクトルを測定した際の励起エネルギーに対応する。励起エネルギーが吸収端より高い場合のスペクトルは蛍光と同じような形状で、高エネルギー側のKβ1,3と低エネルギー側のKβと呼ばれるサテライトが観測された。共に3p→1s発光だが3p-3d交換相互作用により分裂している。種々のMnの化合物における比較をFig.3(a)に示す。3d電子数5個のMnOにおいて分裂が最大となり、価数が大きくなる程Kβの強度と分裂幅が減少した。価数を変化させたV、Fe化合物でも同様の結果が得られた。

 再びFig.2に戻る。励起エネルギーが吸収端の下の方では発光強度がXASの強度に対応して減少していき、a〜jでは発光エネルギーのシフトも観測された。また、1s→3d励起(以下E2励起、通常の1s→4p励起はE1励起)が起こるプリエッジに共鳴させた場合(c〜j)は蛍光でのエネルギー位置にE2励起による新たなピークが立ち上がった。Mn化合物でプリエッジ共鳴の比較をFig.3(b)に示す。2価のMnOとMnF2はE1励起による発光のエネルギーがシフトしており、E2励起による発光と分離した。他の試料はピークシフトが見られず、2成分が重なっている。Fe化合物でも2価でのみ分離して測定された。CuのKαでも同様の報告がされており1、3d遷移金属では2価の場合はE1、E2励起の分離が可能という傾向が見られた。

4.E2励起発光の角度依存

 XASのプリエッジは3d電子状態を反映するため、その構造を解析することは重要な意義がある。プリエッジ共鳴のRIXSの角度依存性を測定すればE1励起とE2励起の依存性の違いから更に詳細な遷移過程による分離が可能と思われる。田口らはMnF2でE2励起によるKβ1,3の入射角依存性を計算で予言しているが2、実際に観測した報告はまだない。そこでMnO単結晶を用いて入射角、散乱角、方位角依存性を調べた。NaCl構造のMnOのMn3d軌道は結晶場によりOを避ける方向に伸びたt2g軌道とO方向に伸びたeg軌道とに分裂しており、5個の3d電子はフント則によりアップスピンのみである。そのためE2励起でもエネルギーによってt2gとegの選択が可能であり、発光の角度依存性も異なると考えられる。

 角度の定義はRef.2に従い、入射角依存性の測定では散乱角90°、方位角45°、散乱角依存性では入射角70°、方位角45°、方位角依存性では入射角45°、散乱角90°に固定した。

 E2励起によるKβ1,3の入射角依存性をFig.4に示す。実験では2つのピークが観測された。メインピークAはt2g励起の場合とeg励起の場合で強度変化、エネルギーシフト共に逆の角度依存性を示した。また、Bはt2g励起では殆ど変化が無かったのに対しeg励起ではエネルギーシフトが見られた。併せて田口らのMnF2での計算結果をFig.4に示す。全体の強度変化の傾向はよく一致しており、理論値を確認できた。ピークBの強度の不一致は実験ではE1励起成分が重なっているためである。

 散乱角依存性をFig.5に示す。入射角依存性と異なり、ピークAはt2g、eg励起共に同じ角依存性を示した。散乱角依存性が計算されている範囲の角度は装置の構造上測定できなかったので直接の比較はできなかった。

 ピークAの強度の方位角依存性の結果をFig.6に示す。t2gの場合0°で極大値をとり、90°周期を示した。t2g軌道の方向とX線の偏光ベクトルを考えると妥当な結果といえる。eg励起は大きくふらついたが、t2g励起と45°位相がずれた90°周期の強度変化を確認できた。eg軌道はt2g軌道と異なり<100>方向に伸びている事を反映している。

5.V酸化物のKβ5

 Kβ5には配位子との分子軌道からの遷移が含まれるため、化学状態分析手段として期待できる。しかしKβ5は更に強度が非常に弱いためKβ1,3以上に実験報告が少ない。そこで比較的強度の強いV酸化物でKβ1,3と併せてKβ5の測定を行った。強度が弱いため励起エネルギーは吸収端より充分高い5630eVに固定し、試料にVO、V2O3、V2O4、CaV2O5、NaV2O5、V2O5の粉末を用いた。

 各試料のKβ1,3をFig.7(a)に示す。Mnの結果と比べると変化が少ない。Kβ1,3とKβ'の分裂も小さく2つのピークが重なっており、Kβ1,3とKβ'の強度比も殆ど変わらない。Vの3d電子数がMnに比べて少ないために交換相互作用が小さいためと思われる。次に各試料のKβ5をFig.7(b)に示す。Kβ5は3d→1s発光とV4pとO2pの混成軌道からV1sへの発光の2成分からなるメインピークと、V4pとO2sの混成軌道からV1sへの発光によるサテライト(Kβ")が観測できる。こちらは価数によって大きく変化した。価数と発光エネルギーの関係をFig.8に、Kβ5とKβ"の強度比と価数の関係をFig.9に示す。発光エネルギーは価数が1違う毎に約1.6eVシフトする結果となり、強度比も価数によって系統的に変化した。

6.V酸化物触媒のRIXS

 以上のようにRIXSは電子状態の詳細な情報を担っているが、歴史が新しいために実際の材料評価への応用例は殆どない。そこでRIXSの応用の確立を目的とし、V2O5/SiO2触媒でメタノールからホルムアルデヒドへの選択酸化反応を行わせ反応前後のスペクトルを測定した。触媒焼成直後、メタノール吸着後、230℃で反応10分後、20分後、50分後でそれぞれRIXSの測定を行った。

 Figure 10(a)に入射光のエネルギーが5630eV、Fig.10(b)に5470eVの場合のKβ1,3を示す。吸収端より充分高いエネルギーの5630eVで励起した蛍光の場合は殆ど違いが現れなかったがプリエッジに共鳴させた5470eVではスペクトルに変化が現れた。発光強度はメタノールを導入した段階で大きく減少している。これはメタノールの吸着によってV=OからO-V-CへとVの配位状態が変化して混成が小さくなったことに対応していると思われる。

 反応が進むにつれピークの混成が更に小さくなったことによる強度の減少、ピークシフト、半値幅の増大が確認できた。ピークシフトは蛍光では見られていないことから、ケミカルシフトではなく4pレベルの低下に対応していると思われる。また、メタノール吸着状態では半値幅は変化していない事から、酸化反応によってV自身が還元されて4価の成分が現れたと考えられる。これは共鳴によって半値幅が狭くなったために測定ができたと思われる。

 次に入射光エネルギー5630eVにおけるKβ5をFig.11に示す。反応が進むにつれて4価のVが出来ることでピークがシフトした。また、ピークのエネルギーシフトだけでなくスペクトルの形状自体も変化しているが、形状の変化を説明するには分子軌道計算等による今後の発展に期待したい。

参考文献

[1]Y. Udagawa, H. Hayashi, K. Tohji and T. Mizushima, J. Phys. Soc. Jpn. 63, 1713(1994).

[2]M. Taguchi, J. C. Parlebas, T. Uozumi, A. Kotani and C.-C. Kao, Phys. Rev. B 61,2553(2000).

Fig.1 実験装置のレイアウト

Fig.2 MnO Kβ1,3 RIXS(最下段はXAS)

Fig.3 各試料のKβ1,3 RIXS入射光X線のエネルギーが(a)6554eV、(b)6538eV〓はE2励起によるKβ1,3

Fig.4 MnO Kβ1,3 RIXSの入射角依存性

(a)t2g励起実験結果 (b)eg励起実験結果 (c)t2g励起計算結果2 (b)eg励起計算結果2

Fig.5 MnO Kβ1,3 RIXSの散乱角依存性

(a)t2g励起 (b)eg励起

Fig.6 MnO Kβ1,3 RIXSの強度の方位角依存性

(a)t2g励起 (b)eg励起

Fig.7 入射X線エネルギー5630eVにおけるV化合物のKβ RIXS

(a)発光エネルギーが5400eV〜5440eV (b)発光エネルギーが5435eV〜5475eV

Fig.8 Vの価数とKβ5とKβ"の発光エネルギーの関係

Fig.9 Vの価数とKβ5とKβ"の強度比の関係

Fig.10 15wt%V2O5/SiO2のKβ1,3 RIXS

入射X線エネルギー(a)5630eV (b)5470eV

Fig.11 入射X線エネルギー5630eVにおける15wt%V2O5/SiO2のKβ5 RIXS

審査要旨 要旨を表示する

 X線共鳴非弾性散乱(RIXS : Resonant Inelastic X-ray Scattering)は、最近注目を集めるようになった電子状態の測定法である。これを用いることにより、従来のX線光電子分光やX線吸収分光では得られない新しい知見が得られることが期待されているが、歴史が新しいことや実験が行える施設が限られていること等のために測定や解析の面で未知の部分が多く存在し、測定例も少ないのが現状である。本研究はRIXSを種々の3d遷移金属化合物に適用して、スペクトルと電子状態の関係を詳細に検討・解析し、多くの重要な知見を得るとともに、黎明期にあるRIXSの重要性を明らかにしたものである。

 第1章は緒言であり、従来のシンクロトロン放射光を用いた電子状態研究手段と比較したRIXSの特徴とRIXSを用いた研究の歴史的背景を紹介するとともに、本研究の目的および本論分の構成について述べている。

 第2章ではRIXSの起源や概念、X線光電子分光およびX線吸収分光とのスペクトルの相関を簡潔に述べている。

 第3章ではRIXS測定に用いたシンクロトロン放射光とビームラインの仕様、本研究で用いた測定装置の特性、得られるデータの解析方法等を説明している。

 第4章では実験報告の少ないRIXSの基礎データを蓄積し、電子状態とRIXSの相関を調べることを目的として種々の3d遷移金属化合物で行ったKβにおけるRIXSの測定の結果を記述している。

 入射X線のエネルギーをK吸収端のpre-edgeに共鳴させた場合、3d電子数に関係なく2価の化合物でのみ1s→4p双極子励起によるKβ1,3ピークと1s→3d四極子励起によるKβ1,3ピークを分離できることが示されている。また、バナジウムのKβ5ピークでは価数によってケミカルシフトのみならずサテライトの強度が系統的に変化することを明らかにした。また、これまで行われてきた励起スペクトルと呼ばれる測定方法に改良を加え、理論計算のスペクトルとの比較の精度を上げることに成功している。

 第5章では、これまで理論予測だけで実験では証明されていない1s→3d四極子励起によるKβ1,3ピークの入射角、散乱角、方位角依存性をMnO単結晶を用いて検証し、初めて実測結果を得ることに成功している。また、測定結果を計算結果と比較することにより同じ四極子励起でもT2g軌道とEg軌道へ励起した際では異なる角度依存性を示すことを明らかにし、T2g励起とEg励起の発生割合の入射X線のエネルギー依存性に関する知見を得ている。この結果より、RIXSにおいてはK吸収端のpre-edgeから双極子と四極子の成分を分離できるだけでなく、この測定法がpre-edgeの構造の起源自体を調べる有力な手段であることが示された。

 第6章では実際の材料評価への応用方法を模索し、触媒材料に対する初のRIXS測定を行っている。試料としては多くの基礎データが得られている遷移金属化合物触媒であるV2O5/SiO2を採用し、メタノールの選択酸化反応前後におけるVの電子状態の変化を調べている。その結果、反応前にメタノールが触媒に吸着したことによってV4p軌道とO2p軌道の混成が小さくなることおよび反応が進むとV=Oの二重結合が壊れV-Oの単結合となりさらに混成が小さくなることをpre-edgeに共鳴した際のKβ1,3ピークの強度変化から明らかにしている。さらに、反応前のVは5価だが、反応中は4価のVができることでKβ1,3ピークの半値幅が広くなることを明らかにし、Kβ5ピークにおいては5価から4価に変化したことによるケミカルシフトを捉えることに成功している。

 最後に、RIXSを更に定量的な触媒評価法として使用するために今後改良すべき点を指摘している。

 第7章は総括である。

 以上要するに、本論文は、RIXS測定法を種々の3d遷移金属化合物に適用してスペクトルと電子状態の関係について多くの重要な知見を得るとともに、黎明期にあるRIXSの材料学研究における重要性を明らかにしたものである。よって本論文は、材料学の発展に寄与すること大であり、博士(工学)の学位請求論文として合格であると認められる。

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