学位論文要旨



No 117106
著者(漢字) 長尾,彰英
著者(英字)
著者(カナ) ナガオ,アキヒデ
標題(和) 水素の可視化による鋼の遅れ破壊に関する研究
標題(洋)
報告番号 117106
報告番号 甲17106
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5247号
研究科 工学系研究科
専攻 材料学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅野,幹宏
 東京大学 教授 栗林,一彦
 東京大学 教授 柴田,浩司
 東京大学 教授 山本,良一
 東京大学 助教授 榎,学
内容要旨 要旨を表示する

 鉄鋼材料の高強度化に関してはこれまで多くの関連研究がなされてきているが、高強度鋼では部材の製造工程や使用時に鋼中に水素が侵入して破壊に至る遅れ破壊と呼ばれる問題が未解決となっている。この原因の一つとして、き裂の発生・伝播に関与する水素量の実験的評価がなされていないことが挙げられている。これは、EPMAなどの通常の分析機器では水素の分析が行えないことに加えて、鋼中の水素量が極微量であることや鋼中の水素の拡散係数が著しく大きいことから、鋼中における水素の局所的な分布を調べることが極めて困難であることに起因する。そこで本論文は、遅れ破壊のメカニズムの解明に向け、従来実験的に評価することができなかった遅れ破壊におけるき裂の発生に関与する水素量の評価を行うことを目的とした。

 そこでまず、各種の水素分析・可視化法について、遅れ破壊が発生する応力集中部近傍における局所的な水素分布を検出できるかどうか、また、水素検出に対する分解能・感度、定量性の有無などを比較検討した。その結果、試料表面に原子核乳剤を塗布し、試料から放出される水素原子と乳剤中の臭化銀との反応によって、水素原子の放出箇所を銀として可視化する手法である水素マイクロプリント法(HMT)を応用することによって、き裂の発生に関与する水素量の評価が可能になるのではないかと判断された。

 HMTは従来主として材料組織と対応させた水素の放出箇所の可視化法として用いられてきたが、文献調査や予備実験の結果から、水素放出箇所が再現性良く可視化できていない場合があることが判明し、実験結果の再現性が充分に信頼に足るレベルに達していないと考えられた。また、塗布した臭化銀粒子の直径は0.11μmであるものの、HMTにより観察された銀の粒子の直径が1μm以上の場合があることから、還元生成された銀粒子が移動・再配置していることが予想され、場合によっては試料表面から銀が脱離している可能性も考えられる。このようなことから、HMTはその定量性に関しても充分に信頼に足るレベルに達していないと判断された。そこで、本論文ではこのHMTを応用して、表面に放出される水素の分布から材料内部における水素分布の評価を行うことを可能とするため、最初にこのHMTの実験手法の改良を図って、再現性や定量性を向上させることとした。そのため、乳剤の希釈率およびHMTによる実験時における鋼の腐食抑制などに関する検討を行ってHMTの基礎的な実験手法を確立した上で、銀粒子が粗大化する要因の原因究明などに関連して定着処理に関する検討を行った。その結果、乳剤中の臭化銀粒子を保持しているゼラチンをホルマリンで硬膜してから定着処理を行うことによって、例えばパーライト組織を有する鋼を用いて水素放出箇所の可視化を行った場合、セメンタイト上から優先的に水素が放出されることを再現性良く示すことができるようになった。また、この定着処理法によって銀粒子の粗大化を抑制できるようになったことから、銀粒子の脱離を抑制できるようになったものと判断され、このことよりHMTを用いて放出水素量を評価する場合の定量性が向上したと判断された。

 次に、このように実験手法を改良したHMTによる実験結果の妥当性を示すため、応力集中部近傍に水素が集積する要因とされる応力勾配や塑性変形が水素の拡散に及ぼす影響をHMTによって調べられるかどうかの検討を行うこととした。そのため、四点曲げジグを用いて、いくつかのレベルの曲げ応力下で引張曲げ応力負荷面に放出される水素を可視化し、観察される銀の量の評価を行った。その結果、応力勾配の存在によって水素の拡散が促進されることや、運動転位によって水素の運搬が生じることなどをHMTによって確認することができ、HMTの実験結果が妥当であると判断された。

 このようにHMTの実験結果の妥当性を示した後、上記要因によって応力集中部近傍に集積すると考えられる水素の分布を調べるため、両側Vノッチ付き平板試験片を用いて、片面から試験片内部に水素を導入した後、引張定荷重を負荷し、荷重負荷開始時から除荷後の保持中まで材料表面に放出される水素を継続的にHMTによって捉えた。その結果の一例をFig.1に示す。Fig.1はノッチ底近傍における銀の分布をEDXによって線分析した結果であり、縦軸が銀の特性X線強度を、横軸がノッチ底からの距離を示している。この図からノッチ底近傍で銀の量が多くなっていることが認められる。定荷重を負荷しない場合には銀の特性X線強度は全面においてほぼ一様であることが確認されたため、Fig.1の銀の量の多い箇所は荷重負荷時にノッチ底近傍に水素が集積したことを反映しているものと理解される。このようにノッチ底の応力集中部近傍に水素が集積することをHMTを用いて初めて実験的に示すことに成功した。また、同様の試験法で遅れ破壊が生じた場合には、ノッチ底近傍に水素脆化特有の擬へき開破壊が生じ、その破壊域の大きいノッチ底の側に、より多くの水素が放出されたことから、水素が集積することによって破壊が発生することを示唆する実験結果も得ることができた。

 上記のノッチ底の応力集中部近傍における水素分布の可視化の際には、片面から水素を導入してその反対面に放出される水素を、荷重負荷開始時から除荷後の保持中まで継続的に捉えるという実験手法を採用した。このような実験手法の場合、材料内部の水素分布は板厚の中心に対して板厚方向で常に非対称であるため、材料表面に放出される水素分布から材料内部の水素分布を評価することは困難である。そこで次に、材料表面に放出される水素分布から材料内部の水素分布の評価を行うことを可能とするため、荷重負荷時における材料内部の水素分布を板厚の中心に対して板厚方向で対称として、除荷後に材料表面に放出される水素を捉えるという実験手法を採用して、ノッチ底近傍の応力状態が平面歪状態のときや、き裂が発生する前におけるノッチ底の応力集中部近傍の水素分布をHMTによって可視化した。その結果、ノッチ底近傍の応力分布が平面歪状態の場合には水素放出量の多い箇所の大きさがノッチ底近傍に発生する塑性域の大きさとほぼ対応することや、き裂発生前にはノッチ底近傍に水素が集積していることを示すことに成功した。

 今後、放出水素量と観察される銀量の定量的な評価や材料内部から材料表面への水素拡散放出挙動のシミュレーションなどを行うことが必要となるが、本論文は、鋼の遅れ破壊において材料内部で生じるき裂の発生および伝播に関与する水素量の評価を行うことへの道を初めて拓いたと言うことができよう。

Fig.1 定荷重負荷時におけるノッチ底近傍の水素分布の水素マイクロプリント法による可視化例

審査要旨 要旨を表示する

 鋼の遅れ破壊におけるき裂の発生は、応力誘起拡散や転位との相互作用によって応力集中部近傍に集積した水素によって生じるとされているものの、き裂発生に関与する水素量の評価が実験的になされた例はほとんどない。本論文は、鋼の試料表面に感光乳剤を塗布し、試料の表面から放出される水素と乳剤中の臭化銀との反応によって水素放出箇所を銀粒子として可視化する手法である水素マイクロプリント法(HMT)の実験手法を改良・応用することによって、き裂発生に関与する水素量の評価を試みた研究である。

 第1章では、鉄鋼材料特に高強度鋼と水素の関係についての従来の関係研究および水素分析・水素可視化法について纏めると共に、本論文の研究目的について述べている。

 第2章では、HMTの実験結果の再現性向上などを目的として、HMTの実験手法に関する3つの検討を行っている。まず、試料表面から放出される水素を有効・確実に捉えるために、試料表面全面に均一に臭化銀粒子を塗布することが可能となる乳剤の希釈率に関する検討を行い、2倍希釈が適切であることを見出している。次に、この方法では水溶液を用いるので試料の腐食発生に伴い水素の発生が問題となるが、乳剤の希釈時および定着液作製時に10mass%NaNO2水溶液を使用することによって、腐食発生を防止できることを明らかとしている。さらに、従来のHMT法では銀粒子の凝集・粗大化や試料からの剥離を生じて、結果の再現性の点で問題を残していた事を考慮し、これに関連すると考えられる定着処理に関する検討を行っている。乳剤中の臭化銀粒子と水素の反応後、銀粒子を保持しているゼラチンをホルマリンで硬膜してから定着処理を行うことによって、銀粒子の異常粗大化や銀粒子の剥離も抑えられ、金属組織と水素放出箇所の対応を含めてHMTの実験結果の再現性が著しく向上したとしている。

 第3章では、応力集中部近傍に水素が集積する要因とされる応力勾配や塑性変形による水素の拡散促進現象を、第2章で実験手法を改良したHMTによって調べられるかどうかを検討している。弾性域内および塑性域内の曲げ応力を負荷した応力勾配下において、引張応力が負荷されている面に放出される水素を可視化している。その結果、応力勾配下で水素の拡散が促進されることや運動転位により水素が運搬されることなどを確認している。

 第4章では、上記の応力勾配や塑性変形によって応力集中部近傍に集積する水素の様子を検討している。まず両側Vノッチ付き平板試験片を用いて試験片の片面から水素を導入後、その反対面に乳剤を塗布して引張定荷重を所定時間負荷し、除荷後所定時間保持する実験を行っている。その結果、ノッチ底の応力集中部近傍に水素が多く放出されることを示しており、応力集中部に水素が集積する様子を初めて実験的に捉えたとしている。更に、鋼が遅れ破壊した場合には、破面上のノッチ底近傍の領域に水素脆化特有の擬へき開破壊が生じ、その擬へき開破壊域のより大きい側のノッチ底近傍により多くの水素が放出されることを示している。これにより、き裂が水素の集積を伴いながら進展することを示唆する実験結果も得られたとしている。

 第5章では、試験片に水素を導入後に試験片表面全体に銅めっきをして所定時間保持することによって試験片内部の水素分布が一様となるよう第4章の実験手法を改良している。そしてその後、引張定荷重を所定時間負荷して水素濃化部を形成させ、除荷後に乳剤を塗布し、所定時間保持する実験を行っている。その結果、板厚中央部近傍の応力状態が平面歪状態の場合には、ノッチ底に認められた水素放出量の多い箇所の大きさと、ノッチ底近傍に発生した試料表面上の塑性域の大きさがほぼ対応したとしている。更に、鋼が遅れ破壊する時のき裂の発生状況をアコースティック・エミッションによって測定した上で、初期き裂が発生する前のノッチ底近傍における水素の集積の様子を調べ、初期き裂が発生する前にノッチ底の応力集中部近傍に水素が徐々に集積する様子を捉えたとしている。

 第6章は総括である。

 以上のように本論文は、鋼の遅れ破壊において材料内部で生じるき裂の発生に関与する水素量の定量評価を可能とする道を初めて拓いたと言うことができ、その成果は金属材料学に寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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