学位論文要旨



No 117120
著者(漢字) 村松,伸哉
著者(英字)
著者(カナ) ムラマツ,シンヤ
標題(和) シリコン薄膜成長における基板表面水素被覆の効果 : 分子動力学法による解析
標題(洋) Effects of Hydrogen Coverage on Silicon Thin Film Growth Studied by Molecular Dynamics Simulation
報告番号 117120
報告番号 甲17120
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5261号
研究科 工学系研究科
専攻 化学システム工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 平尾,雅彦
 東京大学 教授 幸田,清一郎
 東京大学 教授 越,光男
 東京大学 教授 山口,由岐夫
 東京大学 助教授 渡邉,聡
内容要旨 要旨を表示する

 気相からのシリコン薄膜成長において、水素は様々な影響を与えることが知られている。しかし総合的に見た水素の役割については、詳しくは分かっていない。そこで本論文では、

 ・Hラジカルの照射によるシリコン基板表面の水素被覆の変化

 ・水素被覆の変化が、その後の表面反応、拡散に及ぼす影響

という2点に特に注目して、シリコン薄膜成長における水素被覆の役割を明らかにし、総括することを目的とする。そのためのアプローチとして、様々な水素被覆のシリコン基板に気相ラジカルを降らせる分子動力学(MD)シミュレーションを数多く行い、それらに基づいた定性的、定量的な解析を行った。

 今回のように、速い原子と遅い原子を含む系のMDシミュレーションでは、両者の時間刻みを独立に設定できるr-RESPAというアルゴリズムを用いることが有効であるが、このr-RESPAは安定性の面で問題があると言われている。そこで、そのような欠点を改良したMDのアルゴリズムを新たに開発した。各アルゴリズムに従って動かした原子の動きを図1に示す。遅い原子に関する更新について、r-RESPAでは座標と速度の更新頻度を少なくしているが、それに対し今回開発したアルゴリズムでは、速度の更新頻度のみを少なくし、座標はその速度に従って毎ステップ更新する。計算に要した時間を、エネルギーのぶれ、および本来の座標からのずれを示すパラメータに対してプロットした結果を図2に示す。これらのグラフは、ある計算精度を得るためにどれだけの計算時間が必要であるかを示している。図2に示すように、今回開発したアルゴリズムは、従来のアルゴリズムと比較して良い性能を示すことが分かった。

 次にこのアルゴリズムを用いて、水素被覆シリコン基板にHラジカルを降らせるMDシミュレーションを行った。水素被覆Si(001)面上の安定構造としては、monohydrideとdihydrideという構造が知られているが、Hラジカル照射中の基板のモデルとして、図3に示すような基板を考えた。この基板は、一様なmonohydride, dihydrideの基板、およびその基板に対しH原子を吸着させるか引き抜くかしたもので、結果的に、0.5原子層(ML)から2.5MLの水素被覆度に対応する局所的な構造が埋め込まれた形になっている。このような水素被覆の異なる6種類の基板を用意し、それぞれの基板にHラジカルを降らせることで、Hラジカルの照射によって生じる水素被覆の変化、およびその変化がその後の表面現象に与える影響を調べた。Hラジカルは、図3に示されているように局所構造の領域をメッシュ状に区切り、その格子点に向けて真上から降らせた。各原子には、300KでのMaxwell-Boltzmann分布に従った初速を与えた。ポテンシャルは、Si, H原子を扱えるように改良されたTersoff型ポテンシャルを用い、シミュレーションは各格子点に対し50回ずつ行った。Hラジカル照射による表面構造の変化を図4に示す。水素の吸着および引き抜きにより、ダングリングボンドや結合長の長いweak bondを含む、0.5ML, 1.5MLといった構造が生成された。また2.5ML構造の基板に対するシミュレーションにおいて、他の基板ではほとんど見られなかった現象が観測された。その様子を図5に示す。Hラジカルが2.5ML構造のbackbondへの挿入反応を起こし、Si-Si結合を切断している。各構造におけるSi-Si結合の長さを調べてみると、2.5ML構造のbackbondは他の構造に比べて長くなっていた。以上の結果から、水素被覆が過剰であることは、Si-Si結合を切れやすくする効果を持つことが分かった。各サイトにおけるHラジカルの吸着確率を図6に示す。1層目のSi原子の吸着確率を見てみると、0.5ML, 1.5ML構造の吸着確率が高く、これらの表面構造の反応性が高いことを示唆している。一方、より下の層の吸着確率を見てみると、水素被覆が高いほど基板内部への吸着確率が減少するという傾向が見られ、水素被覆にはHラジカルの内部吸着を阻害する効果があることが分かった。

 次にSiH4を原料ガスに用いたプラズマCVDを想定して、SiH3ラジカルを降らせるMDシミュレーションを同様の方法で行い、水素被覆がSiH3ラジカルの吸着、表面拡散に及ぼす影響を調べた。各サイトにおけるSiH3ラジカルの吸着確率を図7に示す。図7(b)は1.0ML構造の基板に対する結果、図7(a)はそこからH原子を1原子引き抜いた0.5ML構造の基板に対する結果である。両者の結果を比較すると、水素被覆は表面の活性を下げ、SiH3ラジカルの表面拡散を促進する効果があることが分かる。またダングリングボンドは、SiH3ラジカルのトータルの吸着確率を増加させ、吸着箇所を集中させる効果があることが分かった。

 次に密度汎関数法による電子状態計算を行い、MDシミュレーションで観測された表面構造の反応性を調べた。計算に用いたスラブモデルの例を図8に示す。このように、中心部分のみ水素被覆を変化させたユニットセルを作成し、最適化構造のエネルギーの値から、各構造の水素吸着、水素引き抜きに伴うエネルギー変化、および表面エネルギーを計算した。その計算結果を表1に示す。エネルギー変化はいずれも負の値を示しており、これらの反応が発熱反応であることを示している。さらにエネルギー変化の絶対値が大きいことから、Hラジカルを放出して元の構造に戻るような逆反応は起こりにくいと考えられる。また表面エネルギーの値を見てみると、0.5ML, 1.5ML, 2.5ML構造は、安定相である1.0ML (monohydride), 2.0ML (dihydride)構造に比べて、エネルギー的に高い状態にあり反応性が高い。しかし最適化構造である以上、その他の構造と比べれば安定なはずなので、これらの構造は準安定構造であると言える。

 以上の結果から本論文の結論をまとめると、0.5ML, 1.5ML構造といった、ダングリングボンドやweak bondを含む高活性かつ準安定な表面構造が、Hラジカル反応によって生成することが示された。従来はH引き抜き反応が重要視されてきたが、Hラジカルの吸着反応によってもこれらの構造が生成されたことから、シリコン基板の反応性は水素被覆の変動によって高められるのだと言える。さらに水素被覆は様々な形で表面現象に影響を与えており、またその効果が大きいということが分かった。水素被覆度が高いことの効果としては、具体的には、

 ・シリコン基板のSi-Si結合を伸ばし切れやすくする

 ・成膜種の表面拡散を促進する

 ・ラジカルの内部吸着を阻害する

といった効果が明らかになった、逆に、水素被覆が不完全でダングリングボンドが存在することの効果としては、

 ・成膜種の吸着確率を増大させる

 ・成膜種の吸着箇所を集中させる

といった効果が示された。

 このように水素被覆の様々な効果が示されたが、この中にはシリコン薄膜成長にとって有利に働く効果と、不利に働く効果とが存在するため、水素被覆は多ければ良いというものでも、少なければ良いというものでもない。すなわち、成長させようとする薄膜の形状に応じて、最適な水素被覆状態といったものが存在することが推測されるので、シリコン薄膜成長を制御するためには、従来の観点に加えて、水素被覆の制御という観点からも考えていく必要がある。水素被覆は直接制御できるパラメータではないが、基板温度や原料ガス組成といった実験条件を変化させることによって、間接的に制御できると考えられる。ただし、このことは同時に、他の実験条件が、水素被覆の状態を通じての影響も持つことを意味している。よって、実験条件を変化させる際には、この間接的な影響についても十分に考慮すべきである。

図1:各アルゴリズムに従った原子の動き。

小さな丸と大きな丸はそれぞれ速い原子と遅い原子を、矢印は各原子の速度ベクトルを示している。操作の前後の状態を灰色と黒で示してある。

図2:各アルゴリズムにおける計算時間、エネルギーのぶれ、本来の座標からのずれの関係。

図3:MDシミュレーションに用いたモデル基板を上から見た図。

一様に水素被覆されたSi(001)面に、1つの表面構造が埋め込まれている。各表面構造は0.5MLから2.5MLの水素被覆度に対応。

図4:Hラジカル照射による表面構造の変化。

Hラジカルの起こした吸着反応、表面水素の引き抜き反応により水素被覆が変化し、様々な表面構造が生成された。

図5:Trihydride生成のメカニズム。

白丸と黒丸はそれぞれH原子、Si原子を示している。2.5ML構造の近くに内部吸着されたHラジカルは、2.5ML構造のbackbondを切断した。

図6:各サイトにおけるHラジカルの吸着確率。

1600回のシミュレーション結果から算出した確率を、吸着サイトの深さ別に示してある。

図7:各サイトにおけるSiH3ラジカルの吸着確率。

値は400回のシミュレーション結果から算出したもの。斜線部はラジカルを降らせた領域を示している。

図8:電子状態計算に用いた表面構造のスラブモデル。

点線はユニットセルを示している。例としてmonohydrideに囲まれた1.5ML構造のモデルを示してある。底にあるダングリングボンドは全てH原子で終端してある。格子定数はa=10.8614A, c=24.4382Aに固定。

表1:各表面構造のHラジカル反応に伴うエネルギー変化および表面エネルギー。

単位はkJ/mol。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は"Effects of Hydrogen Coverage on Silicon Thin Film Growth Studied by Molecular Dynamics Simulation"(和訳:シリコン薄膜成長における基板表面水素被覆の効果−分子動力学法による解析)と題し、比較的低温でのシリコン薄膜成長においてシリコン基板表面の水素被覆が分子レベルで及ぼす影響を、分子動力学シミュレーションを多数回繰り返すごとによって、定性的、定量的に評価することを目的としたもので、全7章から構成されている。

 第1章では、シリコン薄膜成長における表面の水素被覆の効果に関して提案されている既往のモデルの紹介を含めて、本論文の背景、目的、方針について述べている。

 第2章では、本研究を遂行するために新たに開発した多重時間刻み分子動力学法について理論及び数値実験による検証によって説明している。従来の分子動力学法では水素とシリコンという質量の異なる原子を含む系のシミュレーションにおいて、水素原子の高速な動きに全体の時間刻みの大きさが制限されて計算速度の低下を招くため、このアルゴリズムは、その制限を緩和するために開発したものである。そして従来のアルゴリズムとの性能比較を行い、ある計算精度を得るために必要な計算時間が、このアルゴリズムを用いることにより短縮されることを明らかにしている。

 第3章では、Hラジカルを水素被覆Si(001)面に降らせるシミュレーションを行い、観測された各表面素反応について論じている。その際、水素被覆度の異なる基板のモデルとして、0.5原子層(ML)から2.5MLの水素被覆度に対応する5種類の表面構造を用い、それらの局所的な水素被覆変化に対する結果の違いを解析している。水素原子の吸着および引き抜きにより様々な表面構造が生成したが、その中でダングリングボンドを持つ0.5ML構造や、弱いSi-H結合を持つ1.5ML構造は高い吸着確率を示していた。このことから、これらの表面構造が水素被覆の増減に伴って生成されることで、基板の反応性が高まっていると結論づけている。また水素被覆の効果として、基板のSi-Si結合を切れやすくする効果、およびラジカルの内部吸着を阻害する効果もあることを明らかにしている。

 第4章では、SiH3ラジカルを水素被覆Si(001)面に降らせるシミュレーションを行い、観測された拡散、反応などの各表面現象について論じている。主として、反射、吸着、水素引き抜き反応が観測されたが、それぞれの反応確率を表面構造の種類ごとに求めた結果から、優先的に起こる反応の種類は表面構造ごとに異なること、ダングリングボンドが表面反応確率を非常に高めることを明らかにしている。吸着反応は、SiH3ラジカル自身の分解をしばしば伴っており、特にダングリングボンドを有するような構造に対しては、水素原子を表面に残しSiH2が脱離する水素吸着反応を起こしうるとの知見を示している。また表面拡散について、水素被覆がSiH3ラジカルの表面拡散を促進する効果を持つことを示している。

 第5章では、密度汎関数法によって前章までに議論した各表面構造のエネルギー計算を行っている。0.5ML, 1.5ML, 2.5ML構造が、高い反応性を有しながらも準安定に存在しうる構造であることを示し、さらに1.5ML構造と2.0ML構造が隣り合っている場合には、相互作用を起こしてさらに安定化するとの結果を示している。またSiH3ラジカルによる水素吸着反応が、0.5ML, 1.5ML構造に対しては発熱反応であることを明らかにしている。以上の結果は、前章までのシミュレーション結果と一致する結果であり、これらを示すことで分子動力学シミュレーション結果の妥当性を示している。

 第6章では、前章までで得られた結果を元に、実際の成長表面で起こっていると考えられる現象について考察を行っている。そして従来のモデルとの比較を交えつつ、薄膜成長プロセスの原料ガスへの水素添加による表面水素被覆の変化、およびその変化が後の表面現象に及ぼす影響について論じている。

 第7章では、本論文を総括し、そこから導き出される今後の展望を示している。

 以上要するに、本論文は、分子動力学シミュレーションというアプローチにより、シリコン薄膜成長時に基板表面で起きている現象のうち水素被覆が関わる現象、およびその反応機構に関する知見を与えると共に、表面水素被覆がそれぞれの現象に及ぼす影響を定量的に評価したものであり、化学システム工学及び材料プロセス工学の発展に寄与するところ大である。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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