学位論文要旨



No 117128
著者(漢字) 武井,出
著者(英字)
著者(カナ) タケイ,イズル
標題(和) ルテニウム錯体による触媒的水素化とその関連反応に関する研究
標題(洋) Studies on Ruthenium-Catalyzed Hydrogenation and Related Reactions
報告番号 117128
報告番号 甲17128
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5269号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 溝部,裕司
 東京大学 教授 相田,卓三
 東京大学 助教授 橋本,幸彦
 東京大学 助教授 石井,洋一
 東京大学 助教授 工藤,一秋
内容要旨 要旨を表示する

 高活性・高選択性の追求という需要から均一系遷移金属触媒による有機合成反応はめざましく進歩しているが,近年種々の補助配位子を持つルテニウム錯体による高度に位置・立体選択的な新規触媒反応が数多く見出され,特にC=CおよびC=O二重結合に対する不斉水素化反応については他の金属を上回る成果が達成されている.

 一方,水素分子が原子間結合を保ったまま中心金属に配位している分子状水素錯体は,その特異な構造・反応性が注目されてきたものの,無機化学的なアプローチが主であった.本研究では分子状水素錯体の比較的高い酸性度に着目し,ほとんど前例のない有機合成への応用を検討した.すなわち水素分子をヘテロリティックに切断して基質の水素化分解に用いるという新しいタイプの触媒反応を見出した.

 また,性質の異なる二点で金属に配位するハイブリッド配位子としてオキサゾリニルフェロセニルホスフィン(窒素・リン配位),シクロペンタジエニルホスフィン(η5-Cp・リン配位)を有する光学活性ルテニウム錯体を新たに合成し,水素化の類縁反応である水素移動,ヒドロシリル化などによるC=O結合,C=N結合の直接,または間接的な触媒的不斉還元反応,さらにはC-C結合生成反応を高立体選択的に行うことに成功した.

 配位不飽和のルテニウム錯体[RuCl(dppe)2][OTf](2)は常圧の水素ガスと反応し,比較的高い酸性度(pKa=6.0)を示す分子状水素錯体[RuCl(η2-H2)(dppe)2][OTf](4)をほぼ定量的に与えることが知られている.常圧の水素雰囲気下,シリルエノールエーテル1aを触媒量の錯体2と反応させると,ケトン3aとMe3SiHがほぼ定量的に生成した(Scheme 1;A).これは一般的な水素化触媒であるウィルキンソン錯体RhCl(PPh3)3を用いた反応(Scheme 1;B)とは対照的な結果である.

 また,重水素ガスを用いて上記の水素化分解反応を行い,水素ガスから基質への直接的なプロトン移動を確認した.すなわち種々のシリルエノールエーテルからカルボニル基のα位に重水素が一つだけ導入されたケトンが生成した(Scheme 2).

 より詳細な反応機構について検討するために,以下の当量反応を行った.まずルテニウムヒドリド錯体[RuHCl(dppe)2] (5)と当量のMe3SiOTfとを水素雰囲気下,室温で反応させると4とMe3SiHがそれぞれ定量的に得られた(Scheme 3).次に,重水素雰囲気下で2から生成する[RuCl(η2-D2)(dppe)2][OTf]と当量のリチウムエノールエーテルとを反応させると,α位が重水素化されたケトンと[RuDCl(dppe)2]とが得られた(Scheme 4).

 これらの知見から考えられる触媒サイクルをScheme 5に示す.シリルエノールエーテル1aはルテニウム分子状水素錯体4の配位水素分子によりプロトン化され,ケトン3a,Me3SiOTf,およびルテニウムヒドリド錯体5を与える.次いでMe3SiOTfがヒドリドアクセプターとして働き,5からヒドリドを引き抜いてMe3SiHと2を与える.結果として配位水素分子はルテニウム原子上で段階的にプロトン(H+)とヒドリド(H-)とに変換されており,水素分子の触媒的なヘテロリティック解裂が実現していることは極めて興味深い.

 さらに,この新規水素化分解反応の不斉反応への応用を検討した.光学活性分子状水素錯体[RuCl(η2-H2){(S)-binap}2][OTf] (6)を新たに合成し,シリルエノールエーテル1cとの反応を試みたが,得られたケトン3cに不斉誘起は全く見られなかった.そこで6と当量のリチウムエノールエーテル7とをCH2Cl2中,-78℃で反応させたところ,ヒドリド錯体[RuHCl{(S)-binap}2]の生成を伴い,3cが75%の光学収率で得られた(Scheme 6).錯体上の不斉環境がケトンに反映されたことにより,両者の間に直接的な相互作用が起こっていることが証明される.これらの差異はリチウムエノールエーテルに対してはプロトン化反応が炭素原子上に起こり不斉環境が生かされるが(Scheme7;A),シリルエノールエーテルについては酸素原子上にプロトン化が起こり,生成したエノールが異性化してケトンを与えるためであると考えられる(Scheme 7; B).本系は水素をプロトン源として用いている点で新たな概念による不斉プロトン化反応であるといえる.

 生理活性を有する有機化合物の立体選択的合成法の開発は,医学・薬学的需要はもとより合成化学において最も重要な課題の一つであるが,なかでもプロキラルなケトンのエナンチオ選択的還元反応は,ビルディングブロックとして汎用性の高い光学活性アルコールを供給する手段として有効である.

 ケトン類の触媒的不斉ヒドロシリル化反応は,温和な条件で反応が進行し,加水分解により光学活性アルコールが得られる簡便な手法である.これまでルテニウム錯体の報告例は皆無であったが,フェロセン骨格の面不斉と,オキサゾリン環上の不斉点とを併せ持つリン・窒素二座配位子である,オキサゾリニルフェロセニルホスフィン配位子8を有するルテニウム錯体9を新たに合成し(Scheme 8),ヒドロシリル化反応への適用を試みたところ,共触媒存在下,加水分解処理ののち最高97% eeの立体選択性で対応するアルコールを得ることが出来た(Scheme 9;Table 1;runs 1-7).

 さらに錯体9は,イミン類の不斉ヒドロシリル化反応にも活性を示し,最高88% eeという高い立体選択性でイミン類を対応する二級アミン類へと変換することができた(Table 1; runs 8-10).

 続いて,より直接的な水素化反応である水素移動型還元反応をケトン類に対して試みた.

 i-PrOH中,触媒量の錯体9a,塩基としてi-PrONaを用いると,アリールアルキルケトン,ジアルキルケトンなどがアセトンの副生を伴いながら高収率かつ99%を超える立体選択性で対応する二級アルコールに変換された(Scheme 11; Table 2).

 さらに9はアセトン溶媒中,塩基としてi-PrONaを添加すると極めて高い立体選択性でラセミ体アルコールの不斉酸化反応を触媒し,i-PrOHの副生を伴い水素移動型還元反応とは逆の立体配置をもつ未反応のアルコールを速度論的分割により高回収率で与えることを明らかにした(Scheme 12; Table 3).不斉環境下における二級アルコールの両エナンチオマー反応速度比は最高350を上回ると見積もられ,49%の回収率でほぼ純粋なS体アルコールを得ることが可能であった.

 反応溶媒を変えるだけの操作でR体・S体双方のアルコールがほぼ完全な立体選択性で得られることは,有機合成的見地からも非常に意義深いといえる.

 光学活性一級アミンは生体関連物質の効率的合成において非常に有用であるにもかかわらず,一段階で得る手法はラセミ体の光学分割法を除きほとんどない.このためケトンから容易に誘導されるケトオキシムの不斉還元は魅力的な合成法であるが,その報告例はごく限られていた.そこでルテニウム錯体9をケトオキシム類に対する触媒的不斉ヒドロシリル化反応に展開した.

 ケトオキシム類に対して2 mol%の錯体9,共触媒として2 mol%のAgOTf存在下で反応が進行し,加水分解することにより最高89% eeの立体選択性で対応する光学活性一級アミン15が得られた(Scheme 13; Table 4).

 遷移金属シクロペンタジエニル錯体は,新規炭素−炭素結合生成反応を触媒するなど近年注目されているが,金属周りの立体環境の維持が困難であった.そこで,シクロペンタジエニル基とリンとで2座配位することにより不斉環境を整え得る配位子を分子設計し,新規ハイブリッド配位子(S)-(S)-PPFCpH(16)を合成した.この配位子16をsec-BuLiで処理し,RuCl2(PPh3)3と反応させると,ジアステレオ選択的に[RuCl(PPh3){(R)-(S)-PPFCp}] (17)が得られた(Scheme 14).

 17をNH4PF6存在下,フェニルアセチレンと反応させると塩素原子の置換反応が起こり,カチオン性ビニリデン錯体[Ru(PPh3)(=C=CHPh){(R)-(S)-PPFCp}][PF6] (18)が生成した.NMRからこの反応がジアステレオ選択的に進行したことを確認し,最終的にX線結晶解析で構造を決定した.さらに18とアリルアルコールを反応させると,β,γ−不飽和ケトンを立体選択的に得ることが出来た(Scheme 15).遷移金属ビニリデン錯体を不斉合成反応のキラルシントンとして用いた前例はなく,興味深い反応である.

Scheme 1

Scheme 2

Scheme 3

Scheme 4

Scheme 5

Scheme 6

Scheme 7

Scheme 8

Scheme 9

Table 1.Asymmetric hydrosilylation of ketones and imines with Ph2SiH2a

aAll reactions were carried out in the presence of catalyst (0.010 mmol) and additive using ketone 10 or imine 12 (0.50 mmol) and Ph2SiH2 (2 mmol) in ether (5 mL) at 0℃.

Scheme 11

Table 2.Asymmetric transfer hydrogenation of ketones catalyzed by 9a

aAll reactions of ketone (1.0 mmol) were carried out in the presence of 9 (0.5 mol%) and i-PrONa (2 mol%) in i-PrOH (50 mL) at r.t.. bAt 50℃.

Scheme 12

Table 3.Kinetic resolution of racemic sec-alcohols catalyzed by 9a

aAll reactions of racemic alcohol (1.0 mmol) were carried out in the presence of 9 (0.5 mol%) and i-PrONa (2 mol%)in acetone (10 mL) at r.t.. bThe ratio was estimated based on the final conversion and enantiomeric purity of the recovered alcohol. cAt 50℃.

Scheme 13

Table 4.Asymmetric hydrosilylation of ketoximes with Ph2SiH2a

aAll reactions were carried out in the presence of 9(0.010 mmol) using ketoxime 14(0.50 mmol) and Ph2SiH2 (2 mmol) in THF (5 mL). bDME was used in place of THF.

Scheme 14

Scheme 15

審査要旨 要旨を表示する

 遷移金属錯体触媒を用いた有機合成反応は,さらに高い活性と選択性を達成するために活発な研究が続けられている.ルテニウムについても種々の補助配位子を持つ錯体による新規触媒反応が数多く見出されており,特にC=CおよびC=O二重結合に対する水素化反応については他の金属を大きく上回る成果が達成されている.本論文は,触媒的水素化反応の1つの重要な中間体である分子状水素錯体を用いた新規水素化分解反応の開発と,本反応をさらに,性質の異なる二点で金属に配位するハイブリッド配位子を不斉源とした立体選択的な水素化およびその関連反応へと展開した結果について述べたものであり,全6章により構成されている.

 第1章は序論であり,遷移金属錯体を触媒とする均一系水素化反応について概観し,最近特に発展のめざましいルテニウム錯体による不斉水素化反応の詳細も述べられている.またその中間体の一つである,水素分子が原子間結合を保ったまま中心金属に配位している分子状水素錯体と,その特異な性質である水素分子のヘテロリティック解裂について述べている.さらにこれまでに報告されている立体選択的反応に有効な光学活性補助配位子についてもまとめている.

 第2章では,分子状水素錯体の比較的高い酸性度を利用した有機合成への応用を検討した結果をまとめている.すなわちルテニウム分子状水素錯体を効果的に用いることにより,水素分子を触媒的かつヘテロリティックに切断し,シリルエノールエーテルをケトンとシランとに水素化分解するという,従来とは異なったタイプの反応が起こることを見出している.この反応においては分子状水素錯体の酸性度(求電子性)と脱プロトン化後に生じるヒドリド錯体の求核性との間のバランスが極めて重要であることが明らかにされた.さらに光学活性なルテニウム分子状水素錯体を新たに合成することにより,当量反応ながらリチウムエノラートに対する不斉プロトン化反応を行うことにも成功している.

 第3章では,ルテニウム錯体によるケトン類・イミン類の触媒的不斉ヒドロシリル化反応について述べている.フェロセン骨格の面不斉と,オキサゾリン環上の不斉点とを併せ持つ新規なリン・窒素二座配位子を有するルテニウム錯体を設計・合成することにより,ケトン類の不斉ヒドロシリル化反応が,ルテニウム錯体については初めて達成されている.さらにこの錯体はイミン類の不斉ヒドロシリル化反応にも活性を示し,高い立体選択性で対応する二級アミン類へと変換できることも明らかになっている.

 第4章では,ケトン類とアルコール類の間での触媒的な水素移動型酸化還元反応について述べている.3章で述べたルテニウム錯体は,塩基共存下,2−プロパノール溶媒中で不斉水素移動型反応を触媒し,多彩なケトン類を高収率かつ99%を超える立体選択性で対応する二級アルコールに変換するだけでなく,アセトン溶媒中においてラセミ体アルコールの不斉酸化反応を触媒し,水素移動型還元反応とは逆の立体配置をもつアルコールを高回収率で与えることを明らかにしている.反応溶媒を変えるだけでR体・S体双方のアルコールがほぼ完全な立体選択性で得られることは有機合成的見地からも非常に意義深いといえる.

 第5章では,触媒的不斉ヒドロシリル化によるケトオキシム類の光学活性一級アミン類への変換反応について述べている.光学活性一級アミンは生体関連物質の効率的合成において非常に有用であるが,ケトンから容易に誘導されるケトオキシム類の不斉還元の報告例はごく限られていた.そこで3章,4章で用いたルテニウム錯体をケトオキシム類に対する触媒的不斉ヒドロシリル化反応に適用した結果,共触媒存在下で反応が進行し,加水分解することにより非常に高い立体選択性で対応する光学活性一級アミンが得られることを見出している.

 第6章では,シクロペンタジエニル基とリンとで二座配位するハイブリッド配位子を新たに合成し,これを有するルテニウム錯体を用いた立体選択的炭素−炭素結合生成反応について述べている.遷移金属シクロペンタジエニル錯体は一般的に金属周りの立体環境の制御が困難であったが,新規ハイブリッド配位子を有するルテニウム錯体を用いることで,アリルアルコールと末端アセチレンとの縮合反応についてその立体制御に成功し,生成したカチオン性ビニリデン錯体の単離と詳細な構造決定を行っている.

 以上のように本論文では,種々の補助配位子を有するルテニウム錯体の特異な性質を利用した水素化分解反応,ヒドロシリル化反応,および水素移動型反応など,水素とルテニウム錯体の相互作用を鍵反応とした各種触媒的基質変換反応を開発するとともに,反応機構についても多くの興味深い知見を得ることに成功している.これらの成果は有機金属化学のみならず,有機合成化学の進展に寄与するところ大である.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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