学位論文要旨



No 117130
著者(漢字) 田辺,資明
著者(英字)
著者(カナ) タナベ,ヨシアキ
標題(和) 遷移金属錯体上でのニトリルの新規化学変換
標題(洋) Novel Transformation of Nitriles on Transition Metal Complexes
報告番号 117130
報告番号 甲17130
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5271号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 石井,洋一
 東京大学 教授 荒木,孝二
 東京大学 教授 溝部,裕司
 東京大学 助教授 橋本,幸彦
 東京大学 講師 金原,数
内容要旨 要旨を表示する

【1】緒言 高原子価金属へ配位したニトリルは,シアノ基がσ−ドナーとして機能し,より求核攻撃を受けることが知られている.一方で,電子豊富な低原子価錯体に配位したニトリルはシアノ基がπ−アクセプターとして機能し,金属側からの強い逆供与を受ける結果,遊離ニトリルや高原子価ニトリル錯体とは異なった反応性が期待される.しかしながら低原子価ニトリル錯体は例も少なく,そのような錯体上でのニトリルの反応は充分な研究がなされてこなかった.

 一方ニトリルの配位型式は通常末端窒素でのend-on配位であり,ニトリルを架橋配位子とする錯体に関する研究のほとんどはポリニトリルを配位子として利用するものであった.これに対しシアナミドNCNH2およびそのアニオン(NCNH-,NCN2-)は,金属原子を含む共役系を形成できる点,両末端の窒素原子がともに配位原子となって多様な配位構造を取りうる点など,多核錯体を構築する場合の架橋配位子として一般のニトリルとは異なった特徴を持つと考えられる.しかしその多核錯体の合成研究はこれまで非常に限られており,その反応性もほとんど未知である.

 以上のような背景から本研究では,有機合成化学,錯体化学のいずれにおいても重要な化合物群であるニトリルに着目し,反応基質としてのニトリル,および架橋配位子としてのニトリルの二つの観点から遷移金属錯体上でのニトリルの配位挙動と化学変換に関する研究を行った.

【2】ニトリルのシアノ炭素のプロトン化反応 Mo(0)窒素錯体[Mo(N2)2(dppe)2](1)から配位子交換によって合成できるMo(0)ニトリル錯体[Mo(N2)(NCR)(dppe)2](2:R=Me,Ph)は,HCIやHBF4との反応で,従来求電子剤に対して不活性であると考えられてきたニトリル配位子のシアノ炭素への2度のプロトン化が進行し,対応するMo(IV)カチオン性イミド錯体[MoX(NCH2R)(dppe)2]+(3+:X=Cl,F)を与えた(Scheme 1).同様の反応はW(0)上でも進行した.またα,β−不飽和ニトリルの錯体[Mo(N2)(NCCH=CHR)(dppe)2](R=Me,Ph)ではシアノ炭素とβ−炭素へのプロトン化が進行してMo(IV)カチオン性アルケニルイミド錯体[MoX(NCH=CHCH2R)(dppe)2]+(X=Cl,F)が生成した.プロトン化が2度まで起こることはMo, Wの強い電子供与能を反映したものであり,ニトリルの化学変換として他に例を見ない.

【3】ニトリルのC≡N三重結合の解裂反応 1とプロトン性のCH基を有するニトリルであるNCCH2COPhの反応を室温下で検討したところ,ニトリルC≡N結合の解裂によるビニルケトンPhCOCH=CH2の生成を伴いながら,Mo(IV)(ニトリド)(ニトリルエノラート)錯体[Mo(N)(NCCHCOPh)(dppe)2](4a)が生成することを見出した.一方1に対し2倍モルのNCCH2COButを室温で反応させたところ,Mo(II)(アルキリデンアミド)(ニトリルエノラート)錯体[Mo(NCHCH2COBut)(NCCHCOBut)(dppe)2](5b)が生成した.5bをベンゼン中還流させると,[Mo(N)(NCCHCOBut)(dppe)2](4b)が得られ,同時にButCOCH=CH2が生成することも確認された.4bは1とニトリルを直接ベンゼン中還流下で反応させることでも得られることから,5bはC≡N結合解裂反応における中間体であることが示された(Scheme 2).

 1と種々のβ−ケトニトリルNCCH2COR(R=But, C6H4X-p;X=OMe,Me,H,Cl,COOMe)に関して1H NMRと31P NMRにより詳細に反応を追跡した結果,いずれも対応するアルキリデンアミド錯体と考えられる中間体(5a,bおよびその置換体)を経て反応が進行していることが分かった.同時に1→5,5→4の各反応が各々の出発錯体の濃度に対して1次であること,および5→4の反応における1次同位体効果(kH/kD=2.7 for R=But)や反応速度のニトリルの芳香環置換基に関するハメット則依存性(p=1.42)も確認された.以上からニトリルC≡Nの切断は,(1)Mo(0)錯体上で求電子攻撃に対し強く活性化された配位ニトリルのシアノ炭素が,第2のニトリル分子のα−水素によりプロトン化を受けて5を生成する段階,(2)5の分子内のアルキリデンアミド配位子上でプロトンシフトにより6を生成し,その後C-N結合が切断されてビニルケトンと4を生成する段階,の2段階の反応機構で進行しているものと結論づけられた(Scheme 3).このような室温でのニトリルC≡N結合の解裂反応は前例のないものであり,低原子価ニトリル錯体の特徴があらわれたものとして興味深い.

【4】ビス(ニトリルエノラート)錯体の合成とニトリルの水素化カップリング プロトン性のCH基を有するニトリルであるNCCH2PO(OEt)2を過剰量,1とトルエン中還流させると,Mo(II)(アルキリデンアミド)(ニトリルエノラート)錯体[Mo{NCCHPO(OEt)2}{NCHCH2PO(OEt)2}(dppe)2](7)が選択的に得られた.一方1と2倍モルのニトリルを室温下で反応させた場合には,主生成物として常磁性のMo(II)ビス(ニトリルエノラート)錯体[Mo{NCCHPO(OEt)2}2(dppe)2](8)が,副生成物として5員環メタラサイクル構造の常磁性Mo(II)エンジアミド錯体cis-[Mo(NHCR=CR)NH}(dppe)2](9;R=CH2PO(OEt)2)が単離された(Scheme 4).9はニトリル2分子が水素化カップリングした生成物と見なせることから,8と9の両錯体の生成はニトリル配位子間での形式的な水素移動による不均化が進行した結果と考えられる.

【5】Mo(I)ビス(ニトリル)錯体の合成 以上のニトリルの反応性は,Mo(0)中心上へのニトリルの配位活性化に由来する.低原子価Mo錯体としてはMo(I)錯体も考えられるが,その合成法はほとんど未開拓であった.これに対し本研究では,1を過剰のアセトニトリル存在下,1倍モルの[Cp2Fe][OTf]で酸化することにより,常磁性のMo(I)ビス(ニトリル)錯体[Mo(NCMe)2(dppe)2]+(10+)が得られることを見出した.置換ベンゾニトリルNCC6H4X-pでも類似の錯体が単離された.一連のMo(I)ビス(ニトリル)錯体のCV測定では,2つの可逆な酸化波と1つの可逆な還元波(E1/2/V=-1.22,-0.09,+0.86for11+)が観測されており,Mo(0)/Mo(I)/Mo(II)/Mo(III)のほぼ同じ構造を持つ錯体の存在が示唆される(Figure 1).実際10+を[Cp2Fe][OTf]でさらに酸化することでMo(II)ビス(ニトリル)錯体[Mo(NCMe)2(dppe)2]2+(112+)が得られた(Scheme 5).単核の錯体で中心金属の酸化還元に基づく3段階の可逆な酸化還元が起きるのは珍しく,σ−ドナー,π−アクセプター両方の性質を兼ね備え,低原子価錯体,高原子価錯体のいずれをも安定化できるニトリル配位子の特徴が現れたものと考えられる.

【6】シアナミド架橋4核イリジウム錯体の合成 シアナミド架橋多核錯体については後周期金属,とりわけIrについてその合成を検討した.Ir(III)2核錯体[Cp

IrCl2]2と2倍モルのNa(NCNH)を反応させると,4つのNCNH配位子が4つのIr間を架橋した4核16員環錯体[Cp

IrCl(μ2-NCNH-N,N')]4(12a)が得られた.その構造の詳細は,12aのヨウ素アナログ[Cp

IrI(μ2-NCNH-N,N')]4(12b)のX線解析により明らかにしたが,架橋NCNH配位子の構造はカルボジイミド(1-)型(N-=C=NH)よりもシアナミド(1-)型(N≡C-N-H)の極限構造の寄与が大きいといえる.12aは4倍モルのPPh3で処理することにより,単核NCNH錯体[Cp

IrCl(NCNH)(PPh3)](13)へ変換された.また12aを4倍モルのNEt3で処理することにより,NCNH配位子の脱プロトン化が進行し,カルボジイミド(2-)型の架橋配位子(N-=C=N-)3つとシアノイミド(2-)型の架橋配位子(N≡C-N2-)1つからなる,C3対称に引き伸ばされたIr4核キュバン状錯体[Cp

Ir(μ3-NCN-N,N,N')3(IrCp

)3(μ3-NCN-N,N,N)](14)が得られた.一方12aを10倍モルのNEt3で処理した場合は,14とともにIr間金属結合を有する2核錯体[Cp

Ir(μ2-NCN-N,N)]2(15)が生成した.14はさらにキシレン中還流により骨格変換が進行し,Ir4核キュバン状錯体[Cp

Ir(μ3-NCN-N,N,N)]4(16)を与えた(Scheme 6).4核錯体14,16のCV測定ではそれぞれ2つ(E1/2/V=+0.30,+0.66),1つ(E1/2/V=+0.63)の可逆な酸化波が観測された.これらの多様な構造の錯体群はいずれも類例構造のない新規のものであり,またこれらの構造間での特異な骨格変換も明らかとなった.このことはシアナミドの配位化学の発展の可能性を明らかにした点で意義深い.

Scheme 1.

Scheme 2.

Scheme 3.

Scheme 4.

Figure 1.Cyclic Voltammogran for 10+.

Values relative to SCE, measured at a Pt electrode, in 0.2 mol/L (NBu4)(BF4)/CH2Cl2.

Scheme 5.

Scheme 6.

審査要旨 要旨を表示する

 ニトリル錯体は古くより多くの研究があるが,そのほとんどは比較的高原子価のニトリル錯体に関するものである.一方,電子豊富な低原子価錯体に配位したニトリルはシアノ基がπ電子アクセプターとして機能し,金属側からの強い逆供与を受ける結果,遊離ニトリルや高原子価ニトリル錯体とは異なった反応性が期待されるが,低原子価ニトリル錯体は例も少なく,そのような錯体上でのニトリルの反応は充分な研究がなされてこなかった.またシアナミドおよびそのアニオンは,金属原子を含む共役系を形成できる点,両末端の窒素原子がともに配位原子となって多様な配位構造を取りうる点など,多核錯体を構築する場合の架橋配位子として一般のニトリルとは異なった特徴を持つと考えられるが,その多核錯体の合成研究はこれまで非常に限られており,その反応性もほとんど未知である.本論文は以上のような背景のもと,有機合成化学,錯体化学のいずれにおいても重要な化合物群であるニトリルに着目し,反応基質としてのニトリル,および架橋配位子としてのニトリルの二つの観点から遷移金属錯体上でのニトリルの配位挙動と化学変換に関する研究をまとめたものであり,7章より構成されている.

 第1章では序論として,有機化学におけるニトリルの合成と反応,ニトリル錯体の構造と錯体上でのニトリルの反応性,ニトリルおよび関連架橋配位子を含む錯体とその材料特性について概観し,本研究の背景と目的を述べている.

 第2章ではモリブデンおよびタングステン(0)のニトリル錯体と酸との反応について述べた.これらの錯体では種々のニトリル配位子のシアノ炭素へ2度のプロトン化が進行することを示し,その反応機構を推定した.

 第3章ではプロトン性メチレン基を有するニトリルであるβ−ケトニトリルのモリブデン(0)錯体上での変換反応について述べている.すなわち,モリブデン(0)窒素錯体と種々のβ−ケトニトリルを室温下で反応させた場合には,ニトリルのC≡N三重結合の解裂が進行し.ビニルケトンとモリブデン(IV)(ニトリド)(ニトリルエノラート)錯体が生成することを見出した.またピバロイルアセトニトリルを用いることにより本反応の中間体であるモリブデン(II)(アルキリデンアミド)(ニトリルエノラート)錯体の単離に成功した.さらに反応のNMRによる詳細な追跡により反応速度定数,熱力学的定数などを決定し,同位体効果,置換基効果などの結果とあわせて反応機構を明らかにした.本反応はニトリルの変換反応として全く類例のないものであり,遷移金属錯体によるニトリルの変換反応として重要な知見である.

 第4章ではモリブデン(0)錯体上でのシアノメチルホスホン酸エステルの反応性について述べている.モリブデン(0)窒素錯体と2倍モルのシアノメチルホスホン酸エチルの室温での反応により,常磁性モリブデン(II)ビス(ニトリルエノラート)錯体と,ニトリル2分子が炭素間で水素化カップリングした5員環メタラサイクル構造の常磁性モリブデン(II)エンジアミド錯体が得られることを示し,両錯体の生成はニトリル配位子間での形式的な水素移動による不均化が進行した結果であると推定した.

 第5章では従来例の少ないモリブデン(I)ニトリル錯体の合成を検討した結果を述べている.モリブデン(0)窒素錯体を1倍モルのフェロセニウム塩で酸化しながらニトリルを反応させることによって一連の常磁性モリブデン(I)ビス(ニトリル)錯体を合成することに成功し,その物理化学的性質を明らかにした.さらに本錯体の酸化還元を検討し,モリブデン(0),モリブデン(II)のビス(ニトリル)錯体への誘導を試みた.

 以上第2章から第5章までが反応基質としてのニトリルという観点からの低原子価錯体上におけるニトリルの配位挙動と化学変換に関する研究であるのに対し,第6章では架橋配位子としてのニトリルという観点からのアプローチを行い,特にシアナミド架橋配位子に関する新規多核錯体の合成を検討した.すなわち,ペンタメチルシクロペンタジエニルを補助配位子とするイリジウム(III)2核錯体とシアナミド水素ナトリウムの反応を出発とし,アミンの添加や加熱によって,シアナミド(1-)配位子またはシアノイミド(2-)配位子によって架橋された種々の多核錯体が段階的に得られることを見出した.とりわけ4つのシアナミド(1-)配位子が架橋した4核16員環錯体,4つのシアノイミド(2-)配位子が架橋した4核キュバン型錯体など,ここで得られた4核錯体はいずれも前例のない構造を有していた.このように一連の新規構造の多核錯体の合成に成功し,またそれらの骨格変換反応を見出した点は,シアナミド架橋錯体の新しい可能性を示したものとして価値が高いものと言える.

 第7章では,第2章から第6章までの研究について総括し,今後の研究の展望を述べている.

 以上のように本論文では,低原子価ニトリル錯体の反応性の検討からシアノ炭素への求電子反応に基づいた各種のニトリルの変換反応を見出し,特に室温でのニトリルC≡N三重結合の解裂反応という前例のない反応についてその反応機構を含めた詳細を明らかにすることに成功した.またニトリルの一種であるシアナミドが多核錯体構築のための新規配位子としてきわめて有効であることを示し,新しい構造を持った多核錯体系の開発に道を開くことができた.これらの成果は有機金属化学,錯体化学,有機合成化学上,きわめて重要な知見である.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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