学位論文要旨



No 117147
著者(漢字) 島本,直伸
著者(英字)
著者(カナ) シマモト,ナオノブ
標題(和) 鉄−コバルトシアノ錯体における電荷移動誘起スピン転移現象に関する研究
標題(洋)
報告番号 117147
報告番号 甲17147
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5288号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 橋本,和仁
 東京大学 教授 菊池,和朗
 東京大学 教授 宮野,健次郎
 東京大学 助教授 立間,徹
 東京大学 講師 大越,慎一
内容要旨 要旨を表示する

1.緒言

 近年、情報化社会がますます発達し、情報デバイスには更なる高速、大容量化が期待されている。そのような要請を満足させる技術のひとつとして光利用の技術が上げられる。物質、デバイスの研究からこの技術を概観すると、光を物質で制御、あるいは光で物性を制御するということが主要なテーマとなっている。そのような物質のひとつに磁性材料が挙げられる。そこで、本研究では磁性材料の中でも、分子を基本構造とした磁性体である分子性磁性体に着目した。分子性磁性体は、金属や酸化物などの一般的な磁性材料とは異なった機能性や特性を持たせることができる特徴をもっている。プルシアンブルー類似体の鉄−コバルト(Fe-Co)シアノ錯体は、シアノ(CN)基のC側にFeイオンがN側にCoイオンが結合した分子を基本構造として、それがFig.1に示すような3次元の面心立方(FCC)構造の結晶の分子性磁性体である。この3次元ネットワークの構造をもつことから分子性磁性体の中でも分子間に強い相互作用が働いている系であることが期待される。また、この結晶は2価と3価のFeイオンとCoイオンで構成されるため、結晶の格子間には電荷補償のためにアルカリイオンが注入されており、結晶のFe(CN)6欠陥部分にはH2O分子が結合している。光誘起磁化現象は、Fe-Coシアノ錯体K0.2Co1.4Fe(CN)6・zH2Oで発見された。その光誘起磁化現象のメカニズムは、次式(1)で示すように、光照射によるFeイオンとCoイオン間の電子移動に伴うスピン状態の変化によって起こっている。

本研究ではこの2つの状態を、主にFe2+-CN-Co3+成分からなる相をLT相、主にFe3+-CN-Co2+成分からなる相をHT相と定義する。Fe-Coシアノ錯体の基底状態は格子間に注入されているアルカリイオンの種類により制御されることが既に示されている。実際に、K0.04CO1.48Fe(CN)6・6.8H2OではHT相が基底状態、Cs1.00Co1.03Fe(CN)6・3.3H2OではLT相が基底状態となる。この違いは、主にFCC構造の結晶におけるFe(CN)6サイトの欠陥密度に起因するものと考えられる。この欠陥密度はCoイオンサイトの配位子場の強度を決定し、最終的にはLT相とHT相のエネルギーレベルを制御することになると考えられる。つまり、Fe-Coシアノ錯体の電子状態がLT相となるかHT相となるか、さらに電子移動誘起スピン転移の温度は、CoイオンとFeイオンの組成比(Co/Fe)で制御されるものと考えられる。

 本論文は、Fe-Coシアノ錯体でもNaxCoyFe(CN)6・zH2Oについて、その組成を積極的に制御することにより配位子場の強さをコントロールし、それによりスピン特性を実際制御できることを示し、さらに、双安定性を示す温度領域における強い相互作用を有する系に特異な光誘起スピン転移現象を見出しその特性について調べ検討を行った結果についてまとめたものである。

2.実験

 本研究におけるFe-Coシアノ錯体の合成では、式(2)で示される沈殿法により行った。NaxCoyFe(CN)6・zH2Oの組成の制御は、主に合成中のNaCl濃度(0〜5M)と反応液温度(RT〜75℃)で制御した。

これらの条件で合成した試料の元素分析結果をもとに決定した分子式をTable.1に示す。合成した化合物について、X線回折法、赤外線吸光分析(FT-IR)、紫外−可視光吸光分析(UV-Vis)によりそのキャラクタリゼーションを行った。磁気特性については、超伝導量子干渉素子(SQUID)磁束計を利用し測定を行った。

3.鉄−コバルトシアノ錯体の組成によるスピン特性制御

 化合物1,2,6のIRスペクトルをFig.2に示す。これらのスペクトルはFeイオンとCoイオンに結合したCN基の伸縮振動による吸収である。化合物1では2156cm-1と2089cm-1に吸収ピークがあり、それぞれFe3+-CN-Co2+とFe2+-CN-Co2+に相当する(Fig.2(a))。Fe2+-CN-Co2+は原料中に含まれている微量不純物のFe2+によるものと考えられる。このスペクトルより、化合物1はHT相である。一方、化合物6では、Fe2+-CN-Co3+の結合に相当する2122cm-1の吸収ピークがあり、LT相であることが分かる(Fig.2(c))。化合物2はそのIRスペクトルから、290KではFe3+-CN-Co2+サイトからなるHT相、50KではFe2+-CN-Co3+サイトからなるLT相となっており、温度によりその電子状態が変化することを示している(Fig.2(b))。結晶構造については、両相ともFCC構造であるが、格子定数はHT相では化合物1と同じ10.31A、LT相では化合物6と同じ9.98Aとなっていた。

 化合物1,2,6について、磁化率の温度依存性を調べた。その結果のXMT-TプロットをFig.3に示す。縦軸のXMT値はスピン数に比例する値である。化合物1と6は全温度領域でスピン数に変化はなく、それぞれHT相とLT相の状態を保っていることがわかる。一方、化合物2では、降温過程でT1/2↓=180Kで急激にスピン数の減少が起こっており、HT相からLT相へとスピン転移が起こっている。また、昇温過程では,T1/2↑=220KでLT相からHT相に戻る。これより、化合物2は、ΔT=T1/2↑−T1/2↓=40Kのヒステリシスを伴うスピン転移特性を示すことが分かる。これより、Fe-Coシアノ錯体のスピン転移には強い相互作用が働いているものと考えられる。また、化合物3-5では、3;T1/2↓=230K, T1/2↑=270K, ΔT=40K、4;T1/2↓=260K, T1/2↑=300K, ΔT=40K、5;T1/2↓=275K, T1/2↑=305K, ΔT=30Kとなっており、ヒステリシスを伴うスピン転移温度がCo/Fe値が小さくなるほど、高温側にシフトしていることがわかる。これは、Co/Fe値の減少に伴いFe(CN)6欠陥が少なくなり、Coイオンの配位子場が強くなるためLT相がより安定化されるためであると考えられる。

4.光誘起スピン転移現象

 スピン転移温度よりはるかに低い温度領域においては、多くの研究例と同様の光誘起磁化現象が確認された。Fig.4に化合物2の50Kにおける光照射による磁化率の変化を測定した結果を示す。光照射時間とともに徐々にLT相からHT相へと転移が起こっているのがわかる。この変化は0.5mW/cm2程度の微弱な定常光の照射でも起こることから、低温領域における光誘起スピン転移の実効的な閾値は極めて小さな値となっていることが示唆された。

 一方、本研究におけるFe-Coシアノ錯体は、スピン転移にヒステリシスを有することから、この温度領域において2つの安定状態が存在し、そこでも光誘起スピン転移現象が起こるものと考えられた。ヒステリシス領域における光誘起LT→HT転移の実験には、スピン転移のヒステリシスループが室温領域にある化合物5を使用した。そのスピン転移特性をFig.5に示す。元素分析の結果及びIRスペクトルより、室温(295K)における電子状態は、HT相でNa0.68CoIII0.39CoII0.81[FeIII(CN)6]0.53[FeII(CN)6]0.47・3.7H2O、LT相でNa0.68CoIII0.92CoII0.28[FeII(CN)6]・3.7H2Oであることが分かった。このLT相にパルスレーザー光(波長;λ=532nm,線幅;6nsec)を1パルスのみ照射を行い、そのときの電子状態の変化をIRスペクトルによりモニターした。295Kにおける光誘起LT→HT転移の光強度依存性を調べた結果をFig.5に示す。レーザー光強度45mJ cm-2 pulse-1に明確な閾値があり、閾値以下の光強度では照射パルス数を増やした場合でもLT相のまま変化がなかった。一方、閾値以上の光強度では1パルスの照射で完全にHT相になっていることが分かる。また、レーザー光強度45mJ cm-2 pulse-1の照射によるLT相からHT相への変換効率を計算すると、1光子あたり2組のFe2+-CN-Co3+分子をFe3+-CN-Co2+に変換していることに相当する。このように明確な閾値特性を示し、高い変換効率を示すことから、このヒステリシス領域での光誘起スピン転移は光励起と協奏的な相互作用が働いているものと考えられる。これは、レーザー光強度が弱い場合には励起された分子は少なく、LT相結晶中に多く存在するFe2+-CN-Co3+状態が安定状態となるためHT相への変換は起こらず、一方、レーザー強度が十分強い場合は多くの分子が励起されたFe3+-CN-Co2+状態となり、結晶内の相互作用により励起されてないFe2+-CN-Co3+分子に作用し結晶全体がLT相からHT相へ変換されたものと考えられる。

5.結言

 Fe-Coシアノ錯体NaxCoyFe(CN)6・zH2Oおいてヒステリシスを伴う電荷移動誘起スピン転移特性が確認され、この系は強い相互作用を持つ系であることがわかった。さらに、そのスピン転移温度は室温領域まで組成により完全に制御されることから、組成によりスピン特性を設計できる化合物であることを示した。また、ヒステリシス領域における光誘起スピン転移現象を見出すことができた。これは、光による励起と分子間に働く強い相互作用の複合的作用と考えられ、今後、基礎と応用の両面からの研究の発展が期待される。

 論文発表状況

1) N. Shimamoto, S. Ohkoshi, O. Sato and K. Hashimoto, "Photochromic Behavior Based on Spin Transition on a Cobalt-Iron Polycyanide", Mol. Cryst. Liq. Cryst., 344, 95-100 (2000); (full paper)

2) N. Shimamoto, S. Ohkoshi, O. Sato and K. Hashimoto, "Control of Charge-transfer Induced Spin Transition Temperature on Cobalt-Iron Prussian Blue Analogues", Inorg. Chem.(受理済み);(full paper)

3) N. Shimamoto, S. Ohkoshi, O. Sato and K. Hashimoto, "One laser pulse-induced cooperative charge transfer accompanied with spin transition in Co-Fe Prussian blue analog at room temperature", Chem. Lett.,(投稿中);(letter)

Figure 1 The structure of Co-Fe polycyanide

Table.1 Formula of Co-Fe polycyanide in this work.

Figure 2 IR spectra, (a) for compound 1,(b) for 2, (c) for 6.

Figure 3 The XMTVS T plots.

(a) for compound 1, (b) for 2, (c) for 6.

Figure 4. Photo induced spin transition from the LT phase to the HT phase.

Figure 5.The XMTVS T plots for compound 5.

Figure 6.The conversion fraction by one pulse laser irradiation with different power density.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、「鉄−コバルトシアノ錯体における電荷移動誘起スピン転移に関する研究」と題し、分子性磁性体である鉄コバルトシアノ錯体のスピン状態の組成による制御と光誘起スピン転移現象について研究したものであり、6章から成る。第1章では、序論として本研究の背景、第2章では、本研究における鉄-コバルトシアノ錯体の合成方法と分析方法、第3章では、組成によるスピン状態の制御とスピン転移特性、第4章では、低温領域における光誘起磁化現象、第5章では、ヒステリシス領域における光誘起スピン転移現象、第6章では、結論として本研究のまとめを述べている。

 第1章では、光と材料の観点から研究背景を述べ、光誘起相転移現象および分子性磁性材料の現在の研究動向を述べている。後半では、本研究で対象とした光磁性材料である鉄−コバルトシアノ錯体の組成によるその磁気特性の制御の可能性について説明を行っている。

 第2章では、本研究における実験手法をまとめている。まず、鉄−コバルトシアノ錯体の合成方法、元素分析結果とそれにより決定した化学式を示し、磁気特性などの分析手法について記述している。

 第3章では、鉄−コバルトシアノ錯体における組成制御によるスピン状態のコントロールに関して実験結果を示し、考察を行っている。まず、組成比Co/Fe=1.5ではFe3+(S=1/2)-CN-Co2+(S=3/2)、Co/Fe=1.15ではFe2+(S=0)-CN-Co3+(S=0)と典型的な2つの異なるスピン状態の化合物を作り分けられることを示している。これに対し、その中間の組成比の化合物について電荷移動誘起スピン転移現象が起こることを詳細に述べている。特にこの中間組成の化合物では、Fe3+-CN-Co2+とFe2+-CN-Co3+の二つのスピン状態間を電子移動を伴うスピン転移特性を持つことを示している。さらに、鉄−コバルトシアノ錯体の系では初となる約40Kの大きなヒステリシスを伴うスピン転移を示すことを見出している。スピン転移温度と組成の関系では、組成比Co/Feを1.37から1.20へと減少させることにより、ヒステリシスを伴ったままスピン転移温度が高温側にシフトすることを示し、鉄−コバルトシアノ錯体がそのスピン転移温度も組成により設計可能な化合物であることを明確に示している。

 第4章では、低温領域における光誘起転移現象に関する実験結果について述べられている。この低温領域の光誘起スピン転移現象は、主にKイオンを導入した鉄−コバルトシアノ錯体で既に多くのことが知られている。この章では、研究例の少ないNaを導入した系で同様の光誘起磁化現象を示したうえで、その転移過程における構造変化特性と光強度依存性、さらに光誘起スピン転移相から安定状態への緩和現象について実験結果に基づき述べている。特に、光強度依存性における定常光とパルスレーザー光を用いた比較実験で、光強度に対し明らかな量子効率の違い見出している。この現象では高強度の光照射で集団励起現象が起こっている可能性を示している。

 第5章では、ヒステリシスループ内での光誘起スピン転移現象について記述している。この現象は、光強度に対し明確で非線形的なしきい値特性を示している。さらに、しきい値近傍での量子効率が約200%と極めて高効率の現象であるなど、今まで知られている光誘起スピン転移現象とは全く異なる特性が示されている。この現象は高密度励起と分子間相互作用によるものと考えており、今後の新たな光誘起現象の分野への発展性が示されている。

 第6章では、本論文のまとめとして、鉄−コバルトシアノ錯体の系の研究において得た新たな知見として以下の3点を挙げている。(1)組成比Co/Feによるスピン状態およびスピン転移温度の制御。(2)Naイオンを導入することにより鉄−コバルトシアノ錯体で大きなヒステリシスを伴ったスピン転移特性の出現。(3)そのヒステリシス領域での光誘起スピン転移現象。

 本研究における、組成制御によるスピン状態およびスピン転移温度の制御は、分子磁性体における分子設計の一つの方法を確立したものといえる。さらに、ヒステリシス内における光誘起スピン転移現象は光による電子励起と分子間相互作用による協奏的現象として、新たな光誘起ダイナミックスの研究の発端となるものと考えられる。本研究内容は、分子性固体材料の基礎および応用の面における今後の発展に寄与するものとなっている。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク