学位論文要旨



No 117164
著者(漢字) 西村,直記
著者(英字)
著者(カナ) ニシムラ,ナオキ
標題(和) キャピラリー電気泳動を利用した植物の浸透圧調節物質の分析と植物の耐塩性
標題(洋)
報告番号 117164
報告番号 甲17164
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2360号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大久保,明
 東京大学 教授 森,敏
 東京大学 教授 米山,忠克
 東京大学 教授 山根,久和
 東京大学 助教授 西山,雅也
内容要旨 要旨を表示する

 塩類土壌は地表面の7%,耕作地の5%を占めており,灌漑地の20%は二次的な塩類化を受け,灌漑計画の50%は塩類化のおそれがあるといわれている.一方で,人口の急激な増加とそれに伴う食糧危機は21世紀の最大の課題である.これらの解決のために塩類土壌に適応した耐塩性作物の選抜・作出が求められている.そのために塩ストレス下で植物がどのようにして生育しているかを知る必要がある.この手がかりの1つは適合溶質と呼ばれる低分子の有機化合物と無機イオンによる細胞内の浸透圧調節にある.

 多くの植物や細菌は細胞内の浸透圧を維持するためにベタインやいくつかの遊離アミノ酸および糖類などを利用しており,これらの適合溶質は塩や乾燥などの浸透圧ストレスにより誘導されることが知られている.本研究では,このうち広く存在するグリシンベタイン(GB)をはじめ,ベタイン関連化合物やアミノ酸に注目した.これらの物質をキャピラリー電気泳動により簡便に高分離分析する方法を開発し,その方法を用いて多くの植物種における適合溶質の分布を明らかにし,その誘導と耐塩性の関係を解明することをめざした.さらに,有用作物の中で合成酵素欠損のためにGBを合成できないダイズにGBを投与することにより効率的に耐塩性を付与する実用的な方法について検討した.

ベタイン類および遊離アミノ酸のキャピラリー電気泳動による分析法の開発

 キャピラリー電気泳動は極めて高い分離能をもつだけでなく,取り扱いが容易でランニングコストも安いという特長がある.そのため,近年多くの分離モードが開発され,無機イオンから有機高分子化合物まで多くの分析が可能となり,各種生体成分の分析に極めて有効な分析法となっている.本研究では,これらの特長を生かし,ベタイン類および遊離アミノ酸の簡便で高分離な同時分析法を開発した.

1)誘導体化法の開発 ベタイン類を感度よく分析するために,GB,β−アラニンベタイン(AB),プロリンベタイン(PB),2−ヒドロキシプロリンベタインを誘導体化して同時分析する方法を検討した.ベタイン類は一般に分子内に4級アンモニウム基とカルボキシル基をもち分子内塩を形成する物質であり,そのカルボキシル基をp−ブロモフェナシルブロミド(PBB)を用いてエステル化した.キャピラリーはフューズドシリカキャピラリーを用い,検出波長は254nm,測定時間は15分から25分とした.植物試料は80℃で乾燥後に粉砕を行い,ベタイン類は水により抽出した.抽出液にPBBのアセトニトリル溶液を添加し80℃で90分間加熱した.反応液を遠心エバポレーターで乾固した後,泳動液を加えて上清を分析試料とした.泳動液はpH3.0に調整した100mMリン酸ナトリウム溶液を用いたが,ABエステルとPBエステルが分離できなかったため,添加剤としてポリエチレングリコール4000を4%加えることにより,両者の分離が可能となった.検出下限はGBで0.05mM程度であった.この結果,中国河北省三河平原の塩類土壌地帯で採取した植物種18種のうち7種からGBが,アルファルファからはPBが検出できた.

2)直接同時定量法の開発 誘導体化法はベタイン類の分析には適用可能であったがアミノ酸の誘導体化には不適当であったため,ベタイン類とアミノ酸の同時定量をする直接分析法を検討した.そこでベタイン類およびアミノ酸の短波長における直接検出を試みた.ベタイン類として上記の他にトリゴネリンおよび関連化合物としてジメチルスルホニオプロピオン酸塩(DMSP)を用い,アミノ酸20種にヒドロキシプロリンを加えて標準試料とした.泳動液pHを電気浸透流がほとんど生じないpH2.0から2.5の間で検討した結果,pHの上昇とともに全体的に泳動時間が遅くなった.これはアミノ酸のもつカルボキシル基のpKaがこの付近にあることによって分子の電荷の状態が変化したためであると考えられた.ベタイン類と多くのアミノ酸の分離が良好であったpH2.25を用いて以下の分析を行った.本法における検出下限はGBやProで0.1mM程度であったが,きわめて簡便にベタイン類および遊離アミノ酸の同時分析が可能となった.さらに,いくつかの植物種についてGBを誘導体化法,Proをアミノ酸分析計による定量値と比較し,測定値がほぼ一致することが確かめられた.これより直接同時定量法は植物中の浸透圧調節物質の定量に有効であることが示された.

3)試料の前処理法の検討 植物からのベタイン類およびアミノ酸の抽出効率を確認するため,オオムギおよびコムギの新鮮試料,凍結乾燥試料および熱乾燥試料を用意し,抽出溶媒としてメタノールークロロホルム−水の混合溶媒系による抽出,80%エタノール抽出および水抽出を比較した.その結果GBの抽出効率は,試料の乾燥処理や抽出溶媒によらずほぼ一定であった.アミノ酸としてプロリン(Pro)の測定値を比較したところ,新鮮試料に比べて熱乾燥試料で大きな減少が見られたが,凍結乾燥試料を用いることによって解決することができた.

塩類土壌地帯で採取した植物試料中のベタインなどの溶質と耐塩性

 実際の塩類土壌地帯である中国河北省において植物試料の採取を行った.試料は80℃で熱乾燥後,誘導体化法を用いて試料中のGB含量を測定し,炎光光度法を用いてナトリウム,カリウム含量を測定した.コムギについて葉,稈,穂について分析を行ったところGBは葉で一番多く検出され,土壌中塩濃度の高いところで多くなっていることがわかった.68試料,35種の分析の結果,40試料,16種からGBが検出された.ナトリウムを蓄積する植物の多くからGBが検出されたことからGBは主要な浸透圧調節因子であること,これに対してナトリウムを蓄積しない植物の多くからはGBが検出されず,これらは塩を排除することにより塩ストレスに対抗しているものと考えられた.

ストレス下で栽培した植物の溶質と耐塩性

 塩ストレスによるベタイン類および遊離アミノ酸のなどの誘導を調べるためビート(Beta vulgaris),ワタ(Gossypium indicum),オオムギ(Hordeum vulgare),コムギ(Triticum aestivum),アルファルファ(Medicago sativa),ダイズ(Glycine max),ソバ(Fagopyrum esculentum)のポット栽培を行った.植物は約1ヶ月間ストレスを与えないで培養した後,250mM塩化ナトリウム水溶液で灌水することによって塩ストレスを負荷し,1週間後に試料採取を行った.この結果,ビートおよびワタにおいては塩ストレスによりGBが特異的に誘導されており,オオムギ,コムギではGBと遊離アミノ酸が,アルファルファではPBと遊離アミノ酸が増加していた.それに対してダイズとソバにおいては,GBは誘導されず遊離アミノ酸が増加していた.ベタイン類を誘導していた5種では塩ストレスによりクロロフィル量の増加が観察されたが,GBを誘導しない残りの2種においてはクロロフィル量が減少するとともに塩化物イオンの顕著な増加が見られた.これらの植物種の中でビートは塩生植物,ワタやオオムギは耐性非塩生植物に,ダイズは感受性非塩生植物に分類される.これらより耐塩性植物における浸透圧調節は主にGBによるものとGBまたはPBと遊離アミノ酸によるものがあることを見いだした.

品種間における溶質の誘導の差異と耐塩性

 品種間における溶質の誘導の差異と耐塩性の関係を調べるため,幼植物時または発芽時の耐塩性がわかっているオオムギ36品種について乾燥ストレスをかけた条件とかけない条件で栽培しその幼植物のGBおよびPro濃度を調べた.この結果,乾燥ストレスによりGB,Proともに増加する傾向が見られた.幼植物時の耐塩性に関して耐塩性の強い品種群は弱い品種群よりもGB含量が高い傾向が見られた.このことより,GBはオオムギにおける幼植物時の耐塩性に関係している可能性が示された.

グリシンベタイン投与と耐塩性

 さらに,GB投与と耐塩性の関係を調べるためGB合成能のないダイズに対して塩ストレス下でGB投与を行った.GB投与法を検討し,GBを根から効果的に吸収させるため徐放性GB顆粒を作成し,土壌中に埋めて使用した.徐放性GB顆粒はGBを粘土と混合し直径3mm程度の球形に成形し,プラスチック被覆したもので,10%のGBを含み,水中では2〜3週間かけてGBを徐々に放出する.ダイズは1週間育苗後プランターに移植し,GB投与区では1株当たり5gずつGB顆粒を根の直下に投与した.さらに1週間後に150mMまたは300mMの塩化ナトリウム溶液で灌水することにより塩ストレスを与えた.3週間後の地上部重を測定したところ,GBは葉に蓄積され,塩ストレス300mM区において塩ストレスによる生育の抑制がGB投与区で緩和されていた.このことにより徐放性GB顆粒の塩ストレス緩和への有効性が示された.そこで,中国河北省の塩類土壌地帯で圃場実験を行ったが,相次ぐ異常気象などで明確な結果を得ることができなかった.実際の塩類土壌におけるGB投与の有効性を検討することは今後の課題である.

まとめ

 本研究において,植物体中のベタイン類および遊離アミノ酸のキャピラリー電気泳動用いた簡便な高分離同時定量法を開発した.この方法を用いて実際の塩類土壌地帯の植物試料および塩ストレス下で栽培した植物試料について,植物種によりベタイン類,遊離アミノ酸,塩の蓄積にいくつかのパターンがあることを示した.本法は耐性種や耐性品種の選抜に有効利用することが期待される.さらに,徐放性GB顆粒の植物の耐塩性増強への有効性が示されたが,今後,実際の塩類土壌地帯での応用をめざしていく.

審査要旨 要旨を表示する

 塩類土壌は地表面の7%、耕作地の5%を占めている。一方で、人口の急激な増加とそれに伴う食糧危機は21世紀の最大の課題である。これらの解決のために塩類土壌に適応した耐塩性作物の選抜、作出が求められており、植物の塩ストレス耐性機構を知る必要がある。この手がかりの1つは適合溶質と呼ばれる低分子の有機化合物と無機イオンによる細胞内の浸透圧調節にある。本研究では、浸透圧調節物質のうち広く存在するグリシンベタイン(GB)をはじめ、ベタイン関連化合物やアミノ酸に注目した。これらをキャピラリー電気泳動により簡便に高分離分析する方法を開発し、その方法を用いて多くの植物種における適合溶質の分布を明らかにし、その誘導と耐塩性の関係を解明することをめざした。さらに、有用作物の中で合成酵素欠損のためにGBを合成できないダイズにGBを投与することにより効率的に耐塩性を付与する実用的な方法について検討した。

 ベタイン類を感度よく分析するために、GB、β−アラニンベタイン(AB)、プロリンベタイン(PB)、2−ヒドロキシプロリンベタインを誘導体化して同時分析する方法を検討した。ベタイン類は、p−ブロモフェナシルブロミド(PBB)を用いてエステル化した。泳動液はpH3.0に調整した100mMリン酸ナトリウム溶液を用いたが、ABエステルとPBエステルが分離できなかったため、添加剤としてポリエチレングリコール4000を4%加えることにより、両者の分離が可能となった。

 次に、ベタイン類とアミノ酸の同時定量をする直接分析法を検討した。ベタイン類およびアミノ酸は短波長における直接検出を行った。ベタイン類として上記の他にトリゴネリンおよび関連化合物としてジメチルスルホニオプロピオン酸塩(DMSP)を用い、アミノ酸20種にヒドロキシプロリンを加えて標準試料とした。泳動液pHをpH2.0から2.5の間で検討した結果、pH2.25においてベタイン類と多くのアミノ酸の分離が良好であった。本法によりきわめて簡便にベタイン類および遊離アミノ酸の同時分析が可能となった。

 植物からのベタイン類およびアミノ酸の抽出効率および乾燥処理について検討したところ、GBの分析では乾燥法を問わず、水で抽出可能であることが分かった。ベタイン類およびアミノ酸の同時定量においては新鮮試料の代用として凍結乾燥試料が使用でき、水抽出も可能であることが示された。

 本法を用いた中国河北省の塩類土壌地帯で採取した植物試料のGB分析の結果、約半数の試料からGBが検出された。ナトリウムを蓄積する植物の多くからGBが検出されたことからGBは主要な浸透圧調節因子であること、これに対してナトリウムを蓄積しない植物の多くからはGBが検出されず、これらは塩を排除することにより塩ストレスに対抗しているものと考えられた。

 塩ストレスによるベタイン類および遊離アミノ酸のなどの誘導を調べるため植物を塩ストレス下で栽培し分析を行った。この結果、塩ストレスによりGBが特異的に誘導する植物種、GBまたはPBと遊離アミノ酸が増加する植物種、遊離アミノ酸が増加する植物種が見られ、これらの誘導パターンと耐塩性の関係が示された。

 品種間における溶質の誘導の差異と耐塩性の関係を調べるため、幼植物時または発芽時の耐塩性がわかっているオオムギ36品種について乾燥ストレスをかけた条件とかけない条件で栽培しその幼植物のGBおよびPro濃度を調べた。この結果、GBはオオムギにおける幼植物時の耐塩性に関係している可能性が示された。

 GB投与と耐塩性の関係を調べるため、GB合成能のないインゲンおよびダイズに対して塩ストレス下でGB投与を行った。GB投与法を検討し、GBを根から効果的に吸収させるため徐放性GB顆粒を作成し、土壌中に埋めて使用した。この結果、徐放性GB顆粒の塩ストレス緩和への有効性が示された。そこで、中国河北省の塩類土壌地帯で圃場実験を行い、GBが植物に吸収され、クロロフィルを増加させることを確認した。実際の塩類土壌におけるGB投与の有効性を検討することは今後の課題である。

 以上、本論文は、植物体中の浸透圧調節物質のキャピラリー電気泳動用いた簡便な高分離同時定量法を初めて開発し、植物種によりベタイン類、遊離アミノ酸、塩の蓄積にいくつかのパターンがあることを発見している。この分析法は、塩類土壌地帯における植物分析に耐えうるものであり、耐性種や耐性品種の選抜に有効利用できるものと考えられる。さらに、GB投与という独創的なアプローチによる植物の耐塩性増強への有効性を示しており、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものであると認めた。

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