学位論文要旨



No 117170
著者(漢字) 宇田川,彰久
著者(英字)
著者(カナ) ウダガワ,アキヒサ
標題(和) トラフグに寄生する単生類へテロボツリウムの孵化幼生の行動特性と分散・伝播機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 117170
報告番号 甲17170
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2366号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小川,和夫
 東京大学 教授 塚本,勝巳
 日本獣医畜産大学獣医畜産学部 教授 今井,壮一
 東京大学 助教授 奥野,誠
 独立行政法人水産総合研究センター養殖研究所 室長 良永,知義
内容要旨 要旨を表示する

 近年、種苗生産技術の確立に伴ってトラフグ養殖は目覚しい成長を遂げているが、安定的生産を可能にするための最大の障壁は感染症である。単生類ディクリドフォラ科のHeterobothrium okamotoi Ogawa, 1991がトラフグの鰓に寄生して吸血することにより貧血を引き起こすヘテロボツリウム症は、トラフグ養殖に甚大な被害を与える疾病である。孵化した幼生は繊毛運動により遊泳してトラフグ鰓弁に到達する。その後、繊毛を落として寄生を開始し、吸血して成長し、鰓腔壁に移行して成熟する。成虫から産出された虫卵はフィラメントで互いに連結した長い糸状で、網生簀養殖では全て網地に絡まるため、いったんトラフグが寄生を受けると、感染環が生簀内で完結するようになる。しかし、生活環の遮断を検討する上で、感染期である孵化幼生の生物学的な研究はほとんどなされていない。そこで本研究では、孵化幼生の遊泳行動や水中での拡散・伝播の機序を明らかにすることを目的とした。また、遊泳・拡散が寄生戦略において果す役割を考察し、トラフグ養殖場における感染予防的観点からヘテロボツリウム症対策の提言を試みた。

1.孵化幼生の繊毛運動と遊泳行動の生物学的特性

1)繊毛運動と遊泳行動の一般的特性

 孵化幼生の運動をCCDカメラで記録し、遊泳パターンと遊泳能力の解析を行なった。繊毛運動は有効打と回復打から成っていた。遊泳は繊毛運動によって移動する遊泳期と繊毛運動はしているが前進しない静止期の2相が交互に繰り返され、孵化直後の幼生では、それぞれ5秒と13.5秒であった。遊泳期の時間は孵化後日齢と共に減少する傾向があった。遊泳はランダムな方向にらせん軌跡を描く前進遊泳で、孵化直後の幼生では、らせん幅径60μm、1ピッチ600μm、速度は4.0mm/secであった。規則正しい遊泳パターンは孵化後2日間は維持された。海水を満たした直径2cm、高さ15cmの円柱容器内では、孵化幼生は表層と底層、特に底層に局在してランダムな遊泳をしていたが、一部の幼生は中層を上下方向に遊泳していた。

2)行動反応と運動活性

 外部の刺激源(光、熱、重力、化学物質)に対する孵化幼生の走性や行動反応を調べた。Jenningsの簡易検出法やT迷路法を用いた実験では宿主の体表粘液や飼育水に対する走化性は認められなかった。同様に、走熱性・熱集合、走光性・光集合に対しても反応を示さなかった。鉛直に立てた密閉円筒管内において、遊泳する孵化幼生もNi2+で処理して繊毛運動を止めた孵化幼生も、ほとんどの場合、前端を下に向け、ほぼ同じ速度(8.3mm/min)で鉛直下方に移動した。一方、孵化幼生と同じ比重に調整した海水中では体軸の配向は変化しなかったが、海水と虫体との間に比重の違いがあると幼生は鉛直方向に移動(沈降、浮揚)を始め、それに伴って体軸が鉛直(上、下)方向に配向した。このことから、虫体が前部と後部で非対称なため、沈下する幼生に対する流体の粘性抵抗中心と体積中心の不一致に起因するトルクが配向を生み出していると考えられた。さらに、沈下する際には前端を重力方向に向けることから、体の前部と後部の間に比重差があり、沈下することで前部を重力方向に配向させるトルクも関与するものと思われる。

 明条件から暗条件にすると、直後の数秒(2〜8秒)間、孵化幼生は鉛直上方に遊泳した。この行動反応は光刺激をトリガーとした驚動反応であり、光源の強さに関係しなかった。反応時にはランダムな方向から鉛直上方に遊泳方向を変え、平常時の速度(2.7mm/s)よりやや速い速度(3.0mm/s)で上昇遊泳した。この反応時には繊毛打の波形が大きくなり、頻度も増加した。

2.孵化幼生の水平方向、鉛直方向への移動力と拡散性

1)水平分布と分散性

 30cm間隔にバルブを取り付けた内径3cm、長さ90cmの円筒柱管を水平に保ち、海水を満たした管内に拡散した孵化幼生の経時的な水平方向への移動を調べた。実験開始1日後では孵化幼生の98%が60cm以内の移動範囲であった。実験開始から3日後までの移動距離も平均8.7cmに留まった。

2)垂直分布と分散性

 上述の柱管を鉛直に立て、上端から加えた孵化幼生の経時的垂直分布(上層、中層、下層)を調べた。孵化直後の幼生は徐々に下方に移動し始め、1時間後には30%が、3時間後には70%が下層に局在したが、上層に留まる幼生も12〜25%存在した。この傾向は24時間後でも維持された。幼生を下端から添加すると24時間後には80%が下層に局在した。下層に分布する傾向は孵化後日齢が進むと顕著になった。

3)孵化幼生の点源からの拡散性

 孵化幼生がどのように海洋のような開放的媒体内を分散していくのか、よく分かっていない。そこで、まず、大型シャーレ内での孵化幼生の分散過程を観察した。実験開始1時間でも添加点から8cm以上移動する幼生はなかった。また、拡散に方向性はなかった。次に、恒温水槽中で孵化幼生の添加点を底面から5、10、20cmに設定して2日後の水平分散を調べると、高さ5cmでは添加点直下から半径11cm以内の底部に留まったが、底面から20cmでは40cm以上移動する幼生も存在した。本実験で、鉛直移動が組み合わさることで孵化幼生の水平拡散距離が変わることが実証された。

4)流水下での孵化幼生の水平拡散

 内径16mmの柱管内に一定速度の水流を作り、その中で孵化幼生がどのように移動・分布をするのか調べた。水流が1mm/sec以上では、孵化幼生は水流とほぼ同じ速度で移動し分布を変えたことから、流動環境下では孵化幼生は海水と共に受動的に移動することが明らかになった。

3.移動・分散した孵化幼生の感染力と伝播可能な範囲の検討

1)物理的、生物的要因が感染力に与える影響

 養殖場での感染の実態を把握するため、光や潮流などの物理的な要因、もしくは生物学的要因(遊泳)によって分散した孵化幼生の感染力を測定した。光驚動反応の影響を明らかにするため、明期と暗期における感染率を調べると、明期でやや高い傾向はあるものの、照度の違いによる感染率に有意差は見られなかった。海水の流速の影響については、体表への感染率は流速が速いほど減少したが、鰓への感染率には差がなかった。垂直管の上部と底部に分布した孵化幼生の間にも感染力に違いは確認されなかった。H. okamotoiの吸血によって貧血した魚に寄生していた虫体由来の卵から孵化した幼生は、無症状魚の虫体から得た幼生に比べ、運動活性は低かったが、感染力に違いはなかった。

2)伝播可能な範囲の検討

 室内2.5t水槽(2m×2.5m×0.5m)内で孵化幼生の移動と感染との関係を求めるため、孵化幼生添加地点から0、30、60、90cm離れた供試魚の12時間後の感染率を調べた。寄生した孵化幼生の60%が添加点の底部に配置した魚であり、距離が離れるほど寄生数が指数関数的に減少した。また、12時間以内に90cm以上移動できることも分かった。右30cm、左30cmに配置した供試魚の感染数に有意な差はなかったことから、幼生はランダムな方向に放射状に拡散すると考えられた。

 次に、実際の海洋に近似した環境状態にするため、50m×60m×2mの野外プールを使用して孵化幼生を添加し、添加点(0m)及び2.5、5、10、20、30m離れた地点の上層(水面直下)、中層(水深1m)、底層(水深2m)に供試魚を10尾入れたケージを配置した。底層における感染数は添加点が顕著に高く、2.5m地点で添加点の半数に減少したが、それ以遠は減少せずに30mでも感染個体が確認された。上層と中層における感染数は底層に比べて極端に少なかった。この結果より、孵化幼生の集団は鉛直下方に移動することが明らかになった。実験を行なった72時間では風は無風もしくは微風で、積算平均水流は上層、底層とも1mm/min以下であったが、孵化幼生の水平方向の移動に大きく影響し、いずれの層においても添加点から30m離れた地点でも感染が認められた。しかし、上層と中層の感染強度は底層の4.5%と16.7%に留まった。

 H. okamotoiの孵化幼生は繊毛運動によってらせんを描きながら前進遊泳するが、遊泳期と静止期を交互に持つことや比重が海水より大きいこと、さらに体前部を重力方向に配向させることで下方に移動する特性があることを明らかにした。また、静止期を有することにより、遊泳力を長期間、維持することを可能にしていると考えられた。孵化幼生は積極的に宿主に向かって遊泳する機作を持たず、遊泳力も乏しいため海底付近を漂流しながら広範囲に分散していくと考えられた。この一見、消極的な行動特性は、天然トラフグの生態に即して宿主との接触機会をより多く得るように適応した結果と推察された。一方、刺激に対する定位運動は見られなかったものの、光刺激によって反重力方向に驚動反応を示した。この行動反応は孵化幼生が鰓腔内に入った時の鰓弁への付着など、宿主と接触した時に感染の機会を増やす効果をもつかも知れない。

 トラフグ養殖場においては、孵化した幼生の大半は時間と共に生簀の下に沈下するため、網に絡まった卵から孵化した幼生のうち、感染できるのはごく一部と考えられる。一方、表層に留まる孵化幼生も僅かながら存在し、風などによる表層水流によって移動すると考えられる。こうした孵化幼生は下方に移動する幼生と同等の感染力を有していたことから、生簀間の伝播に大きな役割を果している可能性もある。養殖場では、生簀内外の複雑な海水の流れが孵化幼生の感染に関わっているため、水流を考慮した生簀の配置をすることで感染機会を低下させることができると思われる。

審査要旨 要旨を表示する

 単生類ディクリドフォラ科のHeterobothrium okamotoi Ogawa, 1991がトラフグの鰓に寄生し、吸血により貧血を引き起こすヘテロボツリウム症は、トラフグ養殖に甚大な被害を与えている。孵化幼生は繊毛運動によりトラフグ鰓弁に到達して成長した後、鰓腔壁に移行して成熟する。虫卵が生簀網に絡まったまま孵化するため感染が重篤化しやすい。しかし、感染期である孵化幼生の生物学的な研究はほとんどなされていない。本研究は孵化幼生の遊泳行動や水中での拡散・伝播の機序を明らかにすることを目的とした。

1.孵化幼生の繊毛運動と遊泳行動の生物学的特徴

 遊泳は繊毛によって運動する遊泳期と繊毛運動はしているが前進しない静止期の2相が交互に繰り返されていた。遊泳期の時間は日齢と共に減少する傾向があった。遊泳はランダムな方向にらせん軌跡を描く前進遊泳で、孵化直後では速度は4.0mm/secであった。孵化後2日間は規則正しい遊泳パターンが維持された。海水を満たした高さ15cmの円柱容器内では、幼生は表層と底層、特に底層に局在する傾向があった。

 Jenningsの簡易検出法やT迷路法を用いた実験では宿主の体表粘液や飼育水に対する走化性は認められなかった。走熱性・熱集合、走光性・光集合に関しても反応を示さなかった。鉛直円筒管内では、遊泳する孵化幼生も繊毛運動を止めた幼生も、ほとんどの場合、前端を下に向け、ほぼ同じ速度(8.3mm/min)で鉛直下方に移動した。一方、孵化幼生と同じ比重に調整した海水中では体軸の配向は変化しなかったが、比重に違いがあると幼生は沈降または浮揚を始め、それに伴って体軸が鉛直(上、下)方向に配向した。このことから、虫体が前部と後部で非対称なため、沈下する幼生に対する流体の粘性抵抗中心と体積中心の不一致に起因するトルクが配向を生み出していると考えられた。さらに、沈下する際には前端を重力方向に向けることから、体の前部と後部の間に比重差があり、沈下することで前部を重力方向に配向させるトルクも関与するものと思われる。

 明条件から暗条件にすると、直後の数秒(2〜8秒)間、孵化幼生は鉛直上方に遊泳した。この行動反応は光刺激をトリガーとした驚動反応であり、光源の強さに関係しなかった。反応時にはランダムな方向から鉛直上方に遊泳方向を変え、平常時よりやや速い速度で上昇遊泳した。

2.孵化幼生の水平方向、鉛直方向への移動力と拡散性

 孵化幼生は水平方向には3日後でも平均8.7cmしか移動しなかった。円筒管の上端から加えた孵化幼生は、1時間後には30%、3時間後には70%が下層に局在したが、上層に留まる幼生も12〜25%存在した。この傾向は24時間後でも維持された。幼生を下端から添加すると24時間後には80%が下層に局在した。下層に分布する傾向は孵化後日齢が進むと顕著になった。

 また、大型シャーレ内でいろいろな高さから孵化幼生を添加する実験で、鉛直移動が組み合わさることで水平拡散距離が変わることが実証された。1mm/sec以上の水流があると、孵化幼生は水流とほぼ同じ速度で移動し分布を変えたことから、流動環境下では孵化幼生は海水と共に受動的に移動することが明らかになった。

3.移動・分散した孵化幼生の感染力と伝播可能な範囲

 明条件と暗条件においたトラフグに孵化幼生を感染させたところ、照度の違いによる感染率に差はみられなかった。また、流速下では体表への感染率は流速が速いほど減少したが、鰓への感染率には差がなかった。垂直管の上部と底部に分布した孵化幼生の間にも感染力に違いは確認されなかった。貧血魚に寄生していた虫体由来の卵から孵化した幼生は、健康魚の虫体から得た幼生に比べ、感染力に違いはなかった。

 室内2.5t水槽を用いた感染実験では、寄生した孵化幼生の60%が添加点の底部に配置した魚であり、距離が離れるほど寄生数が指数関数的に減少した。また、12時間以内に90cm以上移動できることも分かった。

 次に、水深2mの野外プールで感染実験を行なった。孵化幼生添加点の底層における感染数が顕著に高かった。実験期間中、水流はごく弱かったが、添加点から30m離れても感染が成立した。上層と中層における感染数は底層に比べて極端に少なかった。この結果より、孵化幼生の集団は鉛直下方に移動し、さらに水流によって流されることが明らかになった。

 トラフグ養殖場においては孵化幼生の大半は時間と共に生簀の下に沈下するため、感染できるのはごく一部と考えられる。一方、表層に留まる孵化幼生は水流に乗って広い範囲に伝播する可能性がある。これを防ぐために人工的な水流を水槽内に作ることによって感染機会を低下できる可能性がある。以上の様に、本研究は単生類の寄生期である孵化幼生の行動の特性をin vitroおよびin vivoで詳細に検討したもので、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク