学位論文要旨



No 117177
著者(漢字) 木下,滋晴
著者(英字)
著者(カナ) キノシタ,シゲハル
標題(和) 珪藻Chaetoceros compressumの熱ストレス応答に関する分子生物学的研究
標題(洋)
報告番号 117177
報告番号 甲17177
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2373号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 教授 伏谷,伸宏
 東京大学 教授 阿部,宏喜
 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 助教授 落合,芳博
内容要旨 要旨を表示する

 珪藻は植物プランクトンの中では進化的には比較的新しい部類に入るものの、生存量および種類数において最も多く、水圏の第一次生産者として生態系に重要な位置を占めている。わが国の沿岸海洋域に一般的にみられるChaetoceros compressumもこのような珪藻の一種で、低温および高温、異なる塩分濃度といった種々の環境要因の違いにもかかわらず世界中に広く分布する。このような広い分布範囲を可能にした理由として、その高い環境適応能力が挙げられている。しかしながら、このような珪藻のもつ機能特性がどのような分子機構に基づくのかは全く明らかにされていない。近年、人間活動に伴う環境負荷が年々大きくなる傾向にあり、その対策が急務とされている。沿岸海洋環境においても各種のストレスが加えられている。したがって、沿岸海洋域の代表種で上述したような高い環境適応能力をもつ珪藻につき、そのストレス状態を正確に把握することは沿岸生態の保全にきわめて大切と考えられる。

 本研究はこのような背景の下、珪藻C. compressumを対象に、まず熱ストレスを加えた細胞からmRNAの発現パターンを調べ、対照の非熱ストレス付加細胞のそれと比較した。次に、両細胞群で差のみられた遺伝子をクローニングしてその同定を試みた。さらに、クローン化された遺伝子の特性とそのコードタンパク質の機能を調べるとともに、これらの成果を利用して現場で採取した珪藻のストレス状態の評価を試みたもので、得られた研究成果の概要は以下の通りである。

1.熱ストレスによる珪藻の遺伝子発現の変化

 20℃で培養したC. compressum対照区および30℃で15分間の熱ストレス付加後20℃で2時間培養した細胞群について、mRNA arbitrarily primed(RAP)RT-PCRによるフィンガープリントを比較した。その結果、発現変動を示す遺伝子を12個検出した。さらにノザンブロット解析で再現性を確認し、本種珪藻における熱ストレス誘導性遺伝子、HI-4、HI-5、およびHI-9をクローン化した。各遺伝子のcDNA断片についてBlast searchによる相同性検索に供した結果、HI-4 cDNA断片については相同遺伝子は検索されなかった。一方、HI-5 cDNA断片の演繹アミノ酸配列は種々のトリプシン様セリンプロテアーゼと相同性を示した。最も高い相同性を示したのはネコ蚤Ctenocephalides felisのCfSP-33で、相同領域のアミノ酸同一率は33%であった。またHI-9 cDNA断片の演繹アミノ酸配列は、嫌気性細菌Clostridium acetobutylicumのタイプIIIグルタミンシンセターゼ(GSIII)の相同領域と最も高いアミノ酸同一率40%を示した。GSIIIは近年新たに発見された分子種で、一部原核生物でのみ全一次構造が報告されている。珪藻では同じ中心目のSkeletonema costatumから真核生物に一般的なGSIIをコードする遺伝子sgsAがクローン化されているが、HI-9にsgsAと相同な領域は存在しなかった。

2.熱ストレス誘導性遺伝子HI-9の構造と翻訳産物の機能推定

 3'RACEによりHI-9 cDNAの3'側末端までの配列を明らかにし、RAP RT-PCRで決定された配列と合わせ、1,030塩基を決定した。コードするアミノ酸は294残基であった。HI-9遺伝子は珪藻の共生細菌由来であることも考えられたが、3'側末端にはポリAテールが存在し、当該遺伝子が真核生物の本種珪藻C. compressum由来であることが示された。演繹アミノ酸配列は前述のように種々の細菌由来GSIIIの相同領域と30%程度のアミノ酸同一率を示し、GSIIIに特徴的なC末端側の付加配列も存在した。またGSI、GSII、およびGSIIIの間で高度に保存されているregion IVおよびVについてのアミノ酸配列の比較から、HI-9は明らかにGSIII様の配列をもつことが示された。さらにGSIIIで高度に保存されているregion Dの一部配列もHI-9に存在した。GSIIIが真核生物である珪藻で存在した事実は分子進化の観点からも興味深い。なお、熱ストレスによるGSの発現誘導はいくつかの植物種で報告されており、熱ストレス耐性獲得への寄与が示唆されている。

3.熱ストレス誘導性遺伝子HI-5の構造と発現様式

 5'および3'RACEによる全長決定と、RT-PCRおよびゲノムDNAのクローニングにより、HI-5遺伝子から選択的プライシングを介して形成される2種の転写産物アイソフォーム、HI-5aおよびHI-5b mRNAの存在を明らかにした。HI-5a mRNAは4つのエクソンの転写産物から構成されていたが、HI-5b mRNAにはその他、第2イントロンがスプライシングを受けずに残されていた。

 ノザンブロット解析により、HI-5遺伝子転写産物の蓄積は30℃、15分間の熱ストレス付加直後に始まり、その後8時間まで増大することが示された。次に、HI-5aおよびHI-5b mRNA両転写産物を増幅するプライマー、さらにはHI-5b mRNAに特異的なプライマーを設計し、アクチンmRNAを内部標準とする定量的RT-PCRを行った。その結果、HI-5a mRNAは上述の熱ストレス付加により顕著に誘導され、その後8時間まで増大したが、HI-5b mRNAは構成的に発現していることが示された。また、HI-5b mRNAの発現量は熱ストレス付加後のHI-5a mRNAよりはるかに少なく、熱ストレス付加前のHI-5a mRNAと同レベルであった。以上のように、HI-5遺伝子の選択的スプライシングは熱ストレス依存的な制御を受けることが示された。

4.熱ストレス誘導性タンパク質HI-5の構造と機能

 HI-5aは427アミノ酸残基からなり、105-349残基にトリプシン様セリンプロテアーゼドメインを含んでいた。この中には触媒トライアドを形成する3アミノ酸、ヒスチジン、アスパラギン酸、およびセリンが存在し、その周辺構造も良く保存されていた。基質の切断部位の認識にはS1ポケットを必要とするが、その構成アミノ酸、すなわちグリシン2残基およびアスパラギン酸1残基はトリプシンのそれと一致した。一方、HI-5bは、mRNAに転写された第2イントロンに終止コドンが存在するため、構成アミノ酸残基数は311で、S1ポケットを構成するアミノ酸を含むC末端側領域が欠失していた。また、触媒トライアドを形成するセリン残基周辺領域にも変異がみられた。

 さらに、HI-5aプロテアーゼドメインおよびHI-5bの相同領域を大腸菌で発現させ、その機能解析を試みた。菌体内可溶性画分の発現タンパク質について、トリプシン様セリンプロテアーゼに特異的な阻害剤p-アミノベンズアミジンとの反応性を調べた。その結果、HI-5aプロテアーゼドメインは本阻害剤と結合したが、HI-5b相同領域は結合しなかった。

 既知の熱ストレス誘導性プロテアーゼはいずれもストレス条件下での細胞の生存に必須で、変性タンパク質の除去やストレス応答におけるシグナル伝達で機能する。HI-5aについてもこのような熱ストレス応答機構への関与が考えられた。一方、HI-5bはプロテアーゼドメインを欠き、熱ストレス誘導性も示さない。したがってHI-5bについては、そのmRNAがHI-5a mRNAの前駆体として存在している、あるいはプロテアーゼとは異なる機能を有し非ストレス時に機能する、という2つのモデルが考えられた。

5.現場試料を用いたマーカー遺伝子の検出

 現場試料中には珪藻以外の混在物が含まれることから、1細胞レベルで視覚的に遺伝子の発現を検出できるin situ hybridizationを適用した。まず、20℃で培養した細胞を対照とし、30℃で15分間の熱ストレス付加後20℃で2時間培養した細胞を分析した。その結果、HI-5遺伝子をマーカーとして、熱ストレスが付加された細胞を明確に識別できた。

 次に、現場試料の採取を九州のA発電所で行い、取水口周辺で採取した試料を対照に、高温接触後の放水路での試料を評価した。中心目珪藻では細胞質全体が弱く染色されたものが多く、放水路の試料は取水口周辺のものに比べて染色強度が高い傾向を示したが、その差は大きくなかった。なお、試料中には珪藻以外の細胞や無機物も多く含まれていたが、細胞染色の工程および結果の解析に支障はなく、in situ hybridizationの有効性が示された。対照的に羽状目珪藻はいずれの細胞も全く染色されず、珪藻の種類によってストレス状態の評価を区別する必要性が示された。

 以上、本研究により、珪藻C. compressumにつき、3つの遺伝子HI-4、HI-5、HI-9が熱ストレスによって転写量を増大させることが示された。さらにそのうちの2遺伝子HI-5およびHI-9が、それぞれトリプシン様セリンプロテアーゼおよびGSIIIをコードすることを明らかにした。興味深いことに、前者はHI-5遺伝子からの熱ストレス依存的な選択的スプライシングにより産生されることが示された。また、現場試料ついては、in situ hybridizationで中心目珪藻の熱ストレスを評価できる可能性を示した。以上のように、本研究は珪藻C. compressumにつき、熱ストレス応答の分子機構の一端を明らかにするとともに、現場的な熱ストレス評価の指針を示したもので、分子生物学および比較生化学、さらには環境保全学に資するところが大きいものと考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

 珪藻は海洋での現存量が最も多い第一次生産者として生態系に重要な位置を占めている。こうした珪藻の特性は、その高い環境適応能力によると考えられているが、関連する分子機構はほとんど明らかにされていない。近年人間活動に伴う環境負荷が増大し、沿岸海洋環境も各種のストレスにさらされている。したがって、沿岸域の代表種である珪藻につき、そのストレス状態を正確に把握することは沿岸生態の保全にきわめて大切と考えられる。そこで、本研究は珪藻C. compressumを対象に熱ストレスのマーカー遺伝子を探索し、その発現様式とコードタンパク質の機能を調べた。さらにその成果を利用して現場で採取した珪藻のストレス状態の評価を試みた。

 まず、20℃で培養したC. compressum対照区および30℃で15分間の熱ストレス付加後20℃で2時間培養した細胞群について、mRNA arbitrarily primed RT-PCRによるフィンガープリントを比較し、本種珪藻における熱ストレス誘導性遺伝子HI-4、HI-5、およびHI-9をクローン化した。HI-4 cDNA断片について相同遺伝子は検索されなかったが、HI-5 cDNA断片の演繹アミノ酸配列はネコ蚤Ctenocephalides felisのセリンプロテアーゼCfSP-33の相同領域と33%、HI-9 cDNA断片の演繹アミノ酸配列は嫌気性細菌Clostridium acetobutylicumのタイプIIIグルタミンシンセターゼ(GSIII)の相同領域と40%の同一率を示した。

 次に3'RACEによりHI-9 cDNAの3'側末端までの配列1,030塩基を決定した。演繹アミノ酸配列中にはGSIIIに特徴的なC末端側の付加配列が存在し、GSI、GSII、およびGSIIIの間で高度に保存されているregion IVおよびVについても、HI-9は明らかにGSIII様の特徴を示した。さらにGSIIIで高度に保存されているregion Dの一部配列もHI-9に存在した。これまでその存在が一部原核生物に限定されていたGSIIIが珪藻で存在した事実は分子進化の観点からも興味深い。なお、熱ストレスによるGSの発現誘導はいくつかの植物種で報告され、熱ストレス耐性獲得への寄与が示唆されている。

 HI-9同様、熱ストレス誘導性遺伝子としてクローン化されたHI-5については、5'および3'RACEによりcDNAの全長を決定し、HI-5が分子中央にトリプシン様セリンプロテアーゼドメインをもつ新規分子であることを示した。さらに、RT-PCRおよびゲノムDNAのクローニングにより、HI-5遺伝子から選択的プライシングを介して形成される2種の転写産物アイソフォーム、HI-5aおよびHI-5b mRNAの存在を明らかにした。アクチンmRNAを内部標準とする定量的RT-PCRにより、HI-5a mRNAは熱ストレス付加により顕著に誘導されるが、HI-5b mRNAは構成的に発現することが示された。HI-5aは分子中央にセリンプロテアーゼドメインを含み、基質の切断部位の認識に寄与するS1ポケットの構成アミノ酸はトリプシンのそれと一致した。一方、HI-5bではS1ポケットの構成アミノ酸を含むC末端側領域が欠失していた。大腸菌発現系を用いた機能解析では、HI-5aプロテアーゼドメインはトリプシン様セリンプロテアーゼに特異的な阻害剤p-アミノベンズアミジンと結合したが、HI-5b相同領域は結合しなかった。既知の熱ストレス誘導性プロテアーゼは変性タンパク質の除去やストレス応答におけるシグナル伝達で働き、HI-5aもこうした機能を担うと考えられた。HI-5bについては、そのmRNAが未成熟の前駆体として存在する、あるいはプロテアーゼとは異なる機能を有し非ストレス時に働く、という2つのモデルが考えられた。

 さらに、現場試料を用いたマーカー遺伝子検出法について検討し、単一培養した細胞を用いた予備実験で、HI-5 cDNA断片をプローブとしたin situ hybridizationにより熱ストレス付加細胞を明確に識別できた。現場試料の採取は九州のA発電所で行い、取水口周辺で採取した試料を対照に高温接触後の放水路での試料を評価した。中心目珪藻については、放水路の試料で取水口周辺のものに比べて染色強度が高い傾向を示したがその差は大きくなかった。一方羽状目珪藻は全く染色されず、珪藻の種類によってストレス状態の評価を区別する必要性が示された。

 以上本研究は、珪藻の熱ストレス応答に関わる分子機構の一端を明らかにするとともに、現場的な熱ストレス評価の指針を示したもので、分子生物学および比較生化学、さらには環境保全学に資するところが大きい。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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