学位論文要旨



No 117178
著者(漢字) 内田,元
著者(英字)
著者(カナ) ウチダ,ゲン
標題(和) テンジクダイの生活史に関する研究
標題(洋)
報告番号 117178
報告番号 甲17178
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2374号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 青木,一郎
 東京大学 教授 会田,勝美
 東京大学 教授 小川,和夫
 東京大学 助教授 佐野,光彦
 東京大学 助教授 山川,卓
内容要旨 要旨を表示する

 低次の栄養段階に属する小型魚類は、栄養網を通じて小型の無脊椎動物と、水産上有用魚類を多く含むより高次の栄養段階に属する大型魚類との間を結ぶという重要なニッチを占めている。浅海域の生態系を適切に保全、管理していくためには、これら小型魚類の生態について理解することが必要である。そこで本論文では、沿岸性小型魚類で、各海域で底生魚介類群集中優占種となっているテンジクダイの生態について詳しく理解するために、大都市に隣接する閉鎖性内湾で環境条件の似た東京湾と大阪湾、本種の分布の最北限に位置する新潟県沿岸域に生息する3つの個体群を対象として、その生活史と繁殖生態について明らかにする。

1.材料と方法

 東京湾の標本は、1996年5月〜1998年9月と2001年7月〜8月にそれぞれ、横浜市漁業協同組合柴支所に所属する5トンの小型底曳網漁船と神奈川県水産総合研究所所属のうしお丸で採集したものを用いた。大阪湾の標本は、1999年10月〜2000年9月に泉佐野市場で購入したものを、また、新潟県沿岸域の標本は、1999年6月〜2001年10月に日本海区水産研究所所属のみずほ丸で採集したものを用いた。

2.テンジクダイの生活史とその地理的変異

 年齢査定には耳石(右側の扁平石)を用いた。透明帯の形成完了時期が、本種の産卵開始期にほぼ一致していたため、透明帯を年輪として用いることができた。耳石径と全長の関係式から、各輪紋形成時の推定体長を逆算し、個体群ごとに、雌雄間で各輪紋形成時の逆算体長の比較を行ったところ、新潟県沿岸域の個体群では雌雄差が見られなかったのに対し、東京湾の個体群では1、3歳時に、大阪湾の個体群では1歳時に雄に比べ雌の方が有意に大きな値を示していた。また、この逆算体長には個体群間で違いが見られ、東京湾の個体群は、他の個体群のものに比べより大きいという傾向を示していた。逆算体長に、von Bertalanffyの成長式を当てはめたところ、以下のような式が得られた。東京湾−雄:Lt=86.6[1−exp{-1.12(t+0.01)}];雌:Lt=118.5[1−exp{-0.37(t+1.03)}]、新潟県沿岸域−雄:Lt=94.7[1−exp{-0.50(t+0.88)}]、雌:Lt=85.0[1−exp{-1.23(t−0.07)}]。tは年齢、Ltはt歳時の全長を表す。計数できた年輪数をもとに、最高年齢は東京湾の個体群で3歳、大阪湾の個体群で2歳、新潟県沿岸域の個体群で5歳と推定された。実際に採集した標本のうち最大のものは、東京湾の個体群のもので112.2mm、大阪湾の個体群のもので101.3mm、新潟県沿岸域の個体群のもので106.0mmであった。

 生殖腺重量指数(GSI:生殖腺重量/体重×100)と生殖腺組織像をもとに、本種の産卵期は東京湾と大阪湾で7〜10月、新潟県沿岸域で7〜8月と推定された。全ての個体群は、雌雄ともに満1歳で成熟していた。卵巣内に排卵を示す空濾胞とともに、第一次〜二次卵黄球期の卵母細胞が形成されていたことから、雌は多回産卵を行っていると考えられる。成熟雌と口内保育個体を多く得ることのできた東京湾の個体群を対象にした調査により、バッチ産卵数(y)と全長(mm)(x)、口内保育卵数(y)と全長(mm)(x)の関係はそれぞれy=286.83x−11330(r2=0.56, n=24)、y=0.0003x3.93(r2=0.72, n=25)と表すことができた。

 胃内容物重量指数(FI:胃内容物重量/体重×100)は平均で、東京湾のもので1.6、大阪湾のもので0.84、新潟県沿岸域のもので0.66と、東京湾の個体群に比べ、大阪湾と新潟県沿岸域の両個体群のFIはかなり低い値を示した。全ての個体群で主要な餌生物は小型長尾類であったが、東京湾の個体群は、他の個体群に比べ極めて高い割合でエビジャコを捕食していた(%F:59.2%,%W:56.2%,RI:3327)。産卵期に高い割合でみられる雄の卵食を除けば、全個体群の食性に季節変化及び全長による違いはともに認められなかった。

 以上、本研究によって明らかとなった本種の成長と再生産に関する生活史の多様性が、単に周囲の環境によって引き起こされた表現型の可塑性によるものなのか、それとも遺伝子型の違いに基づくものなのかは、飼育実験が困難であることもあり、今回実証することはできなかった。しかし、いずれにせよ、新潟県沿岸域の個体群と他の個体群との間で産卵期の長さと最高年齢との間に明確なトレードオフがみられたことは、新潟県沿岸域の個体群が、年間の繁殖への投資量を減じることにより死亡率を低下させ、かわりに最高年齢を延ばすという戦術をとることによって、そこの海域環境に適応して生活していることを示している。これに対し、東京湾と大阪湾との個体群を比較した場合、東京湾の個体群の方が成長がよく寿命も長いというように、いずれの生活史特性間にもトレードオフは認められなかったが、これは餌環境を含め、東京湾の方が大阪湾に比べ本種の生息場所として好適であることを示唆している。

3.テンジクダイの繁殖生態

 雄が卵の保護を行う生物では、雄によるEntire Brood Cannibalism (EBC)が頻繁にみられる。それを引き起こす第一の要因として雌の生産する卵塊のサイズが挙げられる。つまり、保護によって支払われるコストが、得られる利益を上回ってしまうほど卵塊のサイズが小さい時、雄は保護をやめそれを食べてしまう。本種の雌は、正常な卵とともに卵黄を含まない異常な卵(ダミー卵)を同時に形成することにより、雄の口内容積よりも大きな卵塊を生産することに成功していた。これは、エネルギーをかけることなく見かけ上大きな卵塊を生産することにより、雄のEBCを防ぐ雌の戦略と考えられる。ダミー卵は、排卵時に、卵黄胞期のステージから一気に吸水することによって、正常な卵よりもわずかに小さい卵径にまで達しており(ダミー卵:0.40〜0.50mm, 正常な卵:0.50〜0.70mm)、バッチ産卵数にしめるその割合は平均で東京湾のもので17.7%、大阪湾のもので32.3%、新潟県沿岸域のもので32.4%であった。

 しかし何故、本種の雌のみでこのような戦略が選択されてきたのであろうか?これには、本種に特有の社会構造が大きく影響していると考えられる。通常、テンジクダイと同じく群れで生活する同科魚類では、雌雄間での繁殖への投資量の違いのために、雄に比べ雌の死亡率の方が高い。さらに、卵巣に高い確率で線虫が寄生しており、線虫に寄生された雌は正常に産卵することができなくなると考えられる。この2点のために、群れで生活する同科魚類では、実効性比は雌ではなく雄に大きく偏っている。これに対し、本種では雌の死亡率の高さも卵巣への線虫の寄生も全く認められなかった。各個体群の実効性比(繁殖可能な雄/繁殖可能な雌)について調査したところ、新潟県沿岸域を除く東京湾と大阪湾の両個体群では雌に偏っていることが明らかとなった(東京湾:0.76, 大阪湾:0.85, 新潟県沿岸域:1.23)。このような社会構造、つまり、雄にとって複数の産卵可能な雌が容易に、そして同時に手に入る状況では、雄はある雌の卵塊を食べ、すぐに別の雌と番い、その卵塊を保護するというやり方で利益を得ることができる。もし、雌が少しでも条件のよくない、すなわち、サイズの小さい卵塊を産もうものなら、雄はすぐに餌としてそれを食べてしまい、別のより大きなサイズの卵塊を産む雌と番おうとするであろう。そこで、極めて高い確率で起こりうる雄のEBCを防ぐための手段として、ダミー卵の生産という本種特有の雌の戦略が進化してきたと考えられる。新潟県沿岸域の個体群の実効性比は雄に偏っていたが、これは例外的に短い産卵期を示す本個体群に特有のものであり、分布の北限という環境に適応した結果であろう。このような社会構造のもとで、この戦略をとることは適応的ではないが、この戦略は種として獲得した形質で、本個体群ではそれが発生的制約として発現していると考えられる。

 結果的に、雄は、口内に収まりきれない卵を口内保育中に餌として食べていた(Partial Brood Cannibalism : PBC)。胃内でみられる卵は、東京湾の個体群でバッチ産卵数の平均29.9%、体重の6.3.%に相当していた。このことから、雄はPBCを行うことにより、口内保育中かなりのエネルギーを得ていると考えられる。実効性比が雌に偏っている東京湾と大阪湾の両個体群で、雄よりも雌の方が成長がよいという傾向がみられたが、これは、雄がより多大なエネルギーを得るために、より多くの卵を生産することのできる大型の雌と好んでペア産卵を行おうとするMale mate choiceの結果生じているのかもしれない。

 ただし、PBCによってかなりのエネルギーを得ているとしても、雄にとって口内保育に伴うコストは依然として大きいと考えられる。孵化卵数が厳密に雄の口内容積に規定される本種にとって、雄が成長することにより得られる適応度上の利益は大きい。産卵期に、全ての個体群の雄で大型個体ほど高い割合で卵食がみられたが、これは大型個体ほど高い頻度で口内保育を行っていることを間接的に示している。雄は、限られたエネルギーを小型のうちはコンディションの維持、成長へ、そして大型になってからは繁殖、つまり口内保育へと高い割合で配分することにより適応度を高めていると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 低次の栄養段階に属する小型魚類は、栄養網を通じて小型の無脊椎動物と、水産上有用魚類を多く含むより高次の栄養段階に属する大型魚類との間を結ぶという重要なニッチを占めている。本論文は、沿岸性小型魚類で、各海域で底生魚介類群集中優占種となっているテンジクダイを対象に、閉鎖性内湾である東京湾と大阪湾、本種の分布の最北限に位置する新潟県沿岸域に生息する3つの個体群を対象として、その生活史と繁殖生態について明らかにすることを目的とした。

1.テンジクダイの生活史とその地理的変異

 耳石を用いて年齢と成長を推定した。新潟県沿岸域の個体群では成長に雌雄差が見られなかったのに対し、東京湾の個体群では1、3歳時に、大阪湾の個体群では1歳時に雄に比べ雌の方が有意に大きな体長を示していた。また、成長には個体群間で違いが見られ、東京湾の個体群は、他の個体群のものに比べより大きいという傾向を示していた。計数できた年輪数をもとに、最高年齢は東京湾の個体群で3歳、大阪湾の個体群で2歳、新潟県沿岸域の個体群で5歳と推定された。

 生殖腺重量指数と生殖腺組織像をもとに、本種の産卵期は東京湾と大阪湾で7〜10月、新潟県沿岸域で7〜8月と推定された。全ての個体群は、雌雄ともに満1歳で成熟していた。成熟雌と口内保育個体を多く得ることのできた東京湾の個体群を対象にした調査により、バッチ産卵数と全長、および、口内保育卵数と全長の関係式を得た。

 胃内容物重量指数は、東京湾の個体群に比べ、大阪湾と新潟県沿岸域の両個体群でかなり低い値を示した。全ての個体群で主要な餌生物は小型長尾類であったが、東京湾の個体群は、他の個体群に比べ極めて高い割合でエビジャコを捕食していた。

 以上のように、新潟県沿岸域の個体群と他の個体群との間で産卵期の長さと最高年齢との間に明確なトレードオフがみられたことは、新潟県沿岸域の個体群が、年間の繁殖への投資量を減じることにより死亡率を低下させ、かわりに最高年齢を延ばすという戦術をとることによって、そこの海域環境に適応して生活していることを示している。これに対し、東京湾と大阪湾との個体群を比較した場合、東京湾の個体群の方が成長がよく寿命も長いというように、いずれの生活史特性間にもトレードオフは認められなかった。これは餌環境を含め、東京湾の方が大阪湾に比べ本種の生息場所として好適であることを示唆している。

2.テンジクダイの繁殖生態

 本種の雌は、正常な卵とともに卵黄を含まない異常な卵(ダミー卵)を同時に形成することにより、雄の口内容積よりも大きな卵塊を生産することに成功していた。これは、エネルギーをかけることなく見かけ上大きな卵塊を生産することにより、雄のEntire Brood Cannibalism (EBC)を防ぐ雌の戦略と考えられる。ダミー卵は、排卵時に、卵黄胞期のステージから一気に吸水することによって、正常な卵よりもわずかに小さい卵径にまで達しており、バッチ産卵数にしめるその割合は平均で東京湾のもので17.7%、大阪湾のもので32.3%、新潟県沿岸域のもので32.4%であった。

 各個体群の実効性比(繁殖可能な雄/繁殖可能な雌)について調査したところ、新潟県沿岸域を除く東京湾と大阪湾の両個体群では雌に偏っている傾向があった。このように、雄にとって複数の産卵可能な雌が容易に、そして同時に手に入る状況では、雄はある雌の卵塊を食べ、すぐに別の雌と番い、その卵塊を保護するというやり方で利益を得ることができる。そこで、極めて高い確率で起こりうる雄のEBCを防ぐための手段として、ダミー卵の生産という本種特有の雌の戦略が進化してきたと考えられる。

 雄は、口内に収まりきれない卵を口内保育中に餌として食べていた(Partial Brood Cannibalism : PBC)。胃内でみられる卵は、東京湾の個体群でバッチ産卵数の平均29.9%、体重の6.3.%に相当していた。

 産卵期に、全ての個体群の雄で大型個体ほど高い割合で卵食がみられたが、これは大型個体ほど高い頻度で口内保育を行っていることを間接的に示している。雄は、限られたエネルギーを小型のうちはコンディションの維持、成長へ、そして大型になってからは繁殖、つまり口内保育へと高い割合で配分することにより適応度を高めていると考えられる。

 以上、本論文は、テンジクダイの生活史の地理的変異並びに口内保育と関連して本種が持つ特異的な雌雄の繁殖戦略を明らかにしたもので、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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