学位論文要旨



No 117181
著者(漢字) 船本,鉄一郎
著者(英字)
著者(カナ) フナモト,テツイチロウ
標題(和) カタクチイワシの繁殖生態に関する研究
標題(洋)
報告番号 117181
報告番号 甲17181
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2377号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 青木,一郎
 東京大学 教授 杉本,隆成
 東京大学 教授 渡邊,良朗
 東京大学 助教授 佐野,光彦
 東京大学 助教授 山川,卓
内容要旨 要旨を表示する

 カタクチイワシ(Engraulis japonicus)は,日本近海に広く生息するとともに,広く産卵も行う種である。そのため,日本周辺の本種は,漁場や産卵場の相対的なまとまりから大きく4つの系群(本州太平洋系群,九州太平洋系群,九州西岸系群,日本海系群)に区分されている。魚類の繁殖生態は生息環境に対応して様々な変化を示すことが知られているが,本種の繁殖生態に関する研究のほとんどは本州太平洋系群について行われてきたため,その他3系群の繁殖生態に関する知見は少ない。また,本種は資源水準が低い時代には内湾域やごく沿岸域において産卵を行うのに対し,資源水準が高くなると,卵や仔稚魚の分布パターンから,沖合域においても広く産卵を行うと考えられている。しかし,沖合域における本種の繁殖生態に関してはほとんど明らかになっていない。

 そこで本研究では,4系群に属する各個体群の繁殖生態を明らかにするとともに,資源高水準期に特徴的な産卵場である沖合域における本種の繁殖生態を解明することも目的とした。

1.相模湾におけるカタクチイワシの産卵生態

 相模湾に生息する本種は本州太平洋系群に属する。標本は1999年7月から2000年6月にかけて毎月一度,相模湾の佐島に設置された定置網によって採集した。各月のサンプルは体長組成に基づき,体長9cmもしくは10cmで小型魚と大型魚に区分した。排卵後0日目の濾胞を保有する雌の出現パターンから,小型魚の産卵期は6〜12月にかけての7ヶ月間に及んでいるのに対し,大型魚では5〜7月にかけての3ヶ月間に限られていることが明らかとなった。小型魚の相対肥満度(RCF)は1〜10月にかけて100以上の高い状態にあったのに対し,大型魚では6月にはすでに100以下の低い状態にあったため,大型魚の早い産卵終了は栄養状態の悪化によるものと考えられた。一方,大型魚の産卵が開始された5月および小型魚の産卵が終了した翌月である1月は,それぞれ水温が初めて15℃を上回った月および下回った月であった。このため,小型魚および大型魚を合わせると,相模湾の本種の産卵活動は水温約15℃以上という外的環境の制限を受けていると考えられた。

 小型魚および大型魚について推定した産卵頻度はそれぞれ0.26〜0.85および0.20〜0.60であり,それぞれ1.18〜3.85日間隔および1.67〜5.00日間隔で産卵を行っていた。また,小型魚および大型魚の産卵頻度はともに水温と有意な正の直線関係にあり,さらにそれらの関係間には有意な差は認められなかった。これは,相模湾の本種の卵形成速度は体サイズや年齢ではなく,水温の影響を受けていることを示している。

 産卵期に採集された雌を用いて推定した相模湾の本種の成熟体長は5.8cmであり,さらに排卵後0日目の濾胞を保有する最も小型の雌の体長も5.9cmであった。したがって,本州太平洋系群はこれまで考えられてきた8〜9cmよりもかなり小さい体長からすでに成熟および産卵を開始していることが判明した。

2.東日本沖合域におけるカタクチイワシの繁殖生態

 標本は1997年6月から2000年7月にかけて,東日本沖合域の合計23地点(36°30′〜42°40′N, 141°30′〜162°20′E)において,中層トロールもしくは流し刺網を用いて採集した。採集位置から東日本沖合域の本種は本州太平洋系群に属していると考えられた。全標本の90%以上が体長10cm以上にあり,また成熟体長も10.0cmと推定されたため,東日本沖合域の本種に関しては体長による区分は行わなかった。

 排卵後0日目の濾胞を保有する雌が5.0〜17.9℃の水温下で採集されたことから,東日本沖合域の本種の産卵可能最低水温は5℃以下と推測された。

 東日本沖合域の本種について推定された産卵頻度は0.17〜0.90であり,東日本沖合域の本種は1.11〜5.88日間隔で産卵を行っていた。また,これら産卵頻度は水温と有意な正の直線関係にあった。さらに,この産卵頻度と水温との関係を相模湾の本種に関するそれと比較した結果,両者の傾きには有意差は認められなかったが,切片に関しては東日本沖合域の本種のそれの方が有意に高い値であった。推定された産卵頻度の最低値および最高値は,両海域の本種に関してほとんど同じ値であったため,東日本沖合域の本種は相模湾の本種がある水温下で示す産卵頻度をより低水温下において示していることが明らかとなった。

 各地点における卵巣抜き体重1g当たりの産卵数(SRBF)および体重1g当たりの産卵数(RBF)の平均値はそれぞれ431〜798および375〜671であり,全地点をまとめるとSRBFおよびRBFはともに水温と有意な正の直線関係にあった。一方,水和卵の卵径は水温と有意な負の直線関係にあったため,東日本沖合域の本種のSRBFおよびRBFと卵径との間には,水温を介したトレードオフの関係が成り立っていた。また,東日本沖合域の本種に関するRBFと水温との関係を,相模湾の本種に関して示されているそれと比較した結果,産卵頻度と同様,東日本沖合域の本種は相模湾の本種がある水温下で示すRBFをより低水温下において示していると考えられた。産卵頻度とRBFの結果を考え合わせると,東日本沖合域の本種は同系群に属する内湾域の本種がある水温下で示す産卵能力をより低水温下において示す,つまり,低水温下に適応した産卵能力を持つことが分かった。

3.若狭湾および大阪湾におけるカタクチイワシの繁殖生態

 若狭湾および大阪湾の本種はそれぞれ日本海系群および九州太平洋系群に属する。標本は1999年7月から2000年6月にかけて毎月一度,若狭湾西部海域および大阪湾東部海域において,定置網もしくは巾着網によって採集した。各月のサンプルは体長10cm(若狭湾)もしくは10.5cm(大阪湾)で小型魚と大型魚に区分した。小型魚および大型魚の産卵期は,若狭湾においてそれぞれ5〜8月および5〜7月,一方,大阪湾においてはそれぞれ6〜11月および4〜6月と推定され,両湾において大型魚の産卵のほうが早く終了する傾向が認められた。両湾の大型魚のRCFは産卵終了以後もしくは産卵終了時に100以下の低い状態にあったため,両湾の大型魚の早い産卵終了は,相模湾の大型魚と同様,栄養状態の悪化によるものと考えられた。また,若狭湾の小型魚のRCFも産卵終了以後100以下の低い状態にあったため,若狭湾の小型魚の早い産卵終了も栄養状態の悪化によるものと考えられた。一方,若狭湾および大阪湾の大型魚が産卵を開始した5月および4月は,相模湾の大型魚が産卵を開始した5月と同様,ともに水温が初めて15℃を上回った月であった。さらに,大阪湾の小型魚が産卵を終了した翌月である12月も,相模湾の小型魚が産卵を終了した翌月である1月と同様,初めて水温が15℃を下回った月であった。これらのことから,3系群に属する各内湾域の本種の産卵活動は,まず水温15℃以上という外的環境の制限を受けており,さらにその制限内において栄養状態という内的環境が満たされれば行われるという仕組みになっていることが示唆された。

 若狭湾の小型魚および大型魚の産卵頻度はそれぞれ0.20〜0.54および0.38〜1.00と推定され,それぞれ1.85〜5.00日間隔および1.00〜2.63日間隔で産卵を行っていた。同様に,大阪湾の小型魚および大型魚の産卵頻度もそれぞれ0.40〜0.80および0.40〜0.92と推定され,それぞれ1.25〜2.50日間隔および1.09〜2.50日間隔で産卵を行っていた。また,これら両湾の小型魚および大型魚の産卵頻度は,すべて水温とは有意な直線関係になかった。しかし,産卵頻度が最も高い値を示す産卵ピークは大阪湾の小型魚を除いて,夏季の6・7月に認められた。

 若狭湾および大阪湾の本種の成熟体長はそれぞれ8.5cmおよび7.4cmと推定され,相模湾の本種の成熟体長も合わせると,内湾域の本種の成熟体長は系群間においてかなりの変異性を示すことが明らかとなった。

4.九州北西岸沖におけるカタクチイワシの繁殖生態

 九州北西岸沖の本種は九州西岸系群に属する。標本は1999年7月に九州北西岸沖の合計7地点において中層トロールを用いて採集した。全標本の90%以上が体長10cm以上にあったため,九州北西岸沖の本種に関しても体長による区分は行わなかった。産卵頻度は0.67〜0.96と推定され,九州北西岸沖の本種は1.04〜1.49日間隔で産卵を行っていた。また,産卵頻度は水温ではなくRCFと有意な正の直線関係にあった。このため,九州北西岸沖の本種の卵形成速度は水温よりもむしろ栄養状態の影響を受けていると考えられたが,これには九州北西岸沖の本種の採集水温(19.8〜24.4℃)が高かったことや,体長−体重関係を比較した結果,九州北西岸沖の本種の栄養状態が相模湾や東日本沖合域の本種よりもかなり悪かったことなどが関与していると推測された。

 各地点におけるSRBFの平均値は339〜652であり,全地点をまとめると九州北西岸沖の本種のSRBFは水温およびRCFとともに有意な正の直線関係にあった。しかし,変数選択重回帰分析を行った結果,RCFのみがSRBFの予測に役立つ変数として選択された。一方,水和卵の卵径はRCFと有意な負の直線関係にあったため,九州北西岸沖の本種のSRBFと卵径との間には,RCFを介したトレードオフの関係が成立していた。また,GSIとRCFとの間にも有意な正の直線関係が認められたため,九州北西岸沖の本種は栄養状態によって卵径だけでなく,繁殖に費やすエネルギーの割合も変化させることによって産卵数を調節していることが明らかとなった。

 内湾域の本種の産卵活動が水温約15℃以上という外的環境の制限を受けていたのに対し,東日本沖合域の本種は15℃よりもかなり低水温下でも産卵を行っていた。東日本沖合域は他の内湾域よりもかなり北方に位置し,また親潮系冷水の影響も受ける海域である。そのため,東日本沖合域の本種の生活水温は,他の内湾域の本種よりもかなり低いと考えられるが,魚類はある水温に対して順化すると,その水温に合わせて産卵可能最低水温も変化する可能性が示唆されている。したがって,東日本沖合域の本種はその低い生息水温に低温順化しており,その結果産卵可能最低水温も低下した可能性が示唆される。さらに,東日本沖合域においては水温が低下するにつれ動物プランクトン量は増加する傾向が認められているため,東日本沖合域の親魚にとって,この低い産卵可能最低水温は十分な摂餌も行いながら産卵もできるという意義を持つ。また,内湾域の本種の成熟体長は系群間でかなりの変異性を示したが,東日本沖合域の本種は,これらどの内湾域の本種よりも大きい体長において成熟していた。移動にかかるコストは体サイズが大きくなるほど減少するため,より大きく成長してから成熟することは,生息海域の広さから移動距離が長いと推測される東日本沖合域の本種にとって,より早く大型になりより早く移動にかかるコストを減らす意義を持つ。以上のことから,東日本沖合域の本種は内湾域の本種よりも,より低水温および長距離移動に適応した繁殖生態を示していると推測される。これら本研究の成果は,本種の生活史戦略を理解する上で,重要な知見を与えるものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 カタクチイワシ(Engraulis japonicus)の繁殖生態に関する研究のほとんどは本州太平洋系群について行われてきたため,その他3系群の繁殖生態に関する知見は少ない。また,本種は資源水準が高くなると,沖合域においても広く産卵を行うと考えられているが、沖合域における本種の繁殖生態に関してはほとんど明らかになっていない。本研究では,我が国周辺海域に生息する4系群に属する各個体群の繁殖生態を明らかにするとともに,資源高水準期に特徴的な産卵場である沖合域における本種の繁殖生態を解明することも目的とした。

1.相模湾におけるカタクチイワシの産卵生態

 体長9cmもしくは10cmで小型魚と大型魚に区分した。小型魚の産卵期は6〜12月にかけての7ヶ月間に及んでいるのに対し,大型魚では5〜7月にかけての3ヶ月間に限られていた。大型魚の早い産卵終了は栄養状態の悪化によるものと考えられた。一方,小型魚および大型魚を合わせると,相模湾の本種の産卵活動は水温約15℃以上という外的環境の制限を受けていると考えられた。小型魚および大型魚の産卵頻度はともに水温と有意な正の直線関係にあり,さらにそれらの関係間には有意な差は認められなかった。

 本種の成熟体長は5.8cmであり,本州太平洋系群はこれまで考えられてきた8〜9cmよりもかなり小さい体長からすでに成熟および産卵を開始していることが判明した。

2.東日本沖合域におけるカタクチイワシの繁殖生態

 産卵頻度は水温と有意な正の直線関係にあった。さらに,この産卵頻度と水温との関係を相模湾の本種に関するそれと比較した結果,東日本沖合域の本種は相模湾の本種がある水温下で示す産卵頻度をより低水温下において示していることが明らかとなった。また、東日本沖合域の本種の産卵可能最低水温は5℃以下と推測された。

 卵巣抜き体重1g当たりの産卵数(SRBF)は水温と有意な正の直線関係にあった。一方,水和卵の卵径は水温と有意な負の直線関係にあったため,東日本沖合域の本種のSRBFと卵径との間には,水温を介したトレードオフの関係が成り立っていた。産卵頻度とSRBFの結果を考え合わせると,東日本沖合域の本種は内湾域の本種がある水温下で示す産卵能力をより低水温下において示すことが分かった。

3.若狭湾および大阪湾におけるカタクチイワシの繁殖生態

 体長10cm(若狭湾)もしくは10.5cm(大阪湾)で小型魚と大型魚に区分した。小型魚および大型魚の産卵期は,若狭湾においてそれぞれ5〜8月および5〜7月,一方,大阪湾においてはそれぞれ6〜11月および4〜6月と推定され,両湾において大型魚の産卵のほうが早く終了する傾向が認められた。水温と肥満度(RCF)の推移から,相模湾と同様に両湾域の本種の産卵活動は,まず水温15℃以上という外的環境の制限を受けており,さらにその制限内において栄養状態という内的環境が満たされれば行われるという仕組みになっていることが示唆された。若狭湾および大阪湾の本種の成熟体長はそれぞれ8.5cmおよび7.4cmと推定され,相模湾の本種の成熟体長も合わせると,内湾域の本種の成熟体長は系群間においてかなりの変異性を示すことが明らかとなった。

4.九州北西岸沖におけるカタクチイワシの繁殖生態

 産卵頻度は水温ではなくRCFと有意な正の直線関係にあった。これには九州北西岸沖の本種の採集水温が高かったことや,九州北西岸沖の本種の栄養状態が相模湾や東日本沖合域の本種よりもかなり悪かったことなどが関与していると推測された。九州北西岸沖の本種のSRBFはRCFと有意な正の直線関係にあった。一方,水和卵の卵径はRCFと有意な負の直線関係にあったため,九州北西岸沖の本種のSRBFと卵径との間には,RCFを介したトレードオフの関係が成立していた。

 東日本沖合域は他の内湾域よりもかなり北方に位置し,また親潮系冷水の影響も受ける海域である。東日本沖合域の本種はその低い生息水温に低温順化しており,その結果産卵可能最低水温も低下した可能性が示唆される。また,東日本沖合域の本種は,内湾域の本種よりも大きい体長において成熟していた。このことは,生息海域の広さから移動距離が長いと推測される東日本沖合域の本種にとって,より早く大型になり、移動にかかるコストをより早く減らす意義を持つ。以上のことから,東日本沖合域の本種は内湾域の本種よりも,より低水温および長距離移動に適応した繁殖生態を示していると推測される。

 以上、本論文は、日本周辺海域に生息するカタクチイワシの繁殖生態を比較し環境適応を明らかにしたもので、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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