学位論文要旨



No 117183
著者(漢字) 吉川,尚
著者(英字)
著者(カナ) ヨシカワ,タカシ
標題(和) 海洋における植物プランクトン群集の光合成光利用特性に関する研究
標題(洋)
報告番号 117183
報告番号 甲17183
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2379号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 助教授 福代,康夫
 東京大学 講師 武田,重信
 名古屋大学地球水循環研究センター 教授 才野,敏郎
 東京水産大学水産学部 教授 石丸,隆
内容要旨 要旨を表示する

 光エネルギーの固定は、光独立栄養生物である植物プランクトンの増殖を規定する最も重要な過程であり、その結果として生産される有機物は生態系全体の有機物循環の起点となり、海洋の物質循環の駆動エネルギーとなっている。このため一次生産を制御する生理的および環境要因の解明は海洋の生物生産における主要課題となっている。しかしながら、これまでの天然植物プランクトン群集についての一次生産の制御機構に関する研究は、有機物生産量と環境要因の関係を解析することに集中しており、一次生産過程を構成する諸要素、すなわち光エネルギーの固定について見ると、光合成色素による光エネルギーの吸収、励起転移、電子伝達、暗反応系での糖類の生産などの過程に対する環境要因の影響についてはほとんど知見が無い。このため環境変動に対する一次生産の応答を予測したり、海洋の生物生産過程をモデル解析するうえで障害となっている。また、リモートセンシングによる海色探査や水中測器によるクロロフィル蛍光からの一次生産の推定手法の開発が近年、急速に進められているが、このためにも上記の諸要素に関する知見が必須となっている。

 本研究は、これまで知見の乏しかった海洋における植物プランクトン群集の光合成光利用特性、すなわち植物プランクトン群集の光吸収特性、光合成量子収率および光合成一光曲線の諸係数の時空間変動を明らかにすること、次いでそれらに対する環境要因の影響を解明し、海洋の一次生産制御過程に新たな視座を与えることを目的とした。とくに北太平洋亜寒帯域の生物生産の制御要因であることが指摘されている鉄濃度の影響に重点を置いた。さらに、光合成の光利用特性に関して得られた知見を基に水中蛍光光度計の係留により一次生産を長期モニタリングするための手法を開発した。さらにこの手法をワカメ養殖海域に適用して栄養塩利用で競合する植物プランクトンと養殖ワカメの一次生産を評価した。得られた結果の概要を以下に整理する。

1.外洋域における植物プランクトン群集の光合成光利用特性

 観測は夏季の北太平洋亜寒帯域、三陸沖、日本海および東シナ海で行った。

 北太平洋亜寒帯域は、表層水中の栄養塩濃度が高いにも関わらずクロロフィルaが低い、いわゆるHNLC海域である。観測が行われたのは西部環流域に比べて東部環流域の表層水温が高くクロロフィルaが低かったエルニーニョ期と、東西で差異が認められなかったラニーニャ期であったが、光合成の光利用特性は両時期で大きく異なった。エルニーニョ期では西部環流域で東部環流域に対し表層水の光合成−光曲線の立ち上がり勾配が高く、最大量子収率も高い傾向が認められた。一方、最大光合成速度には東西差は見られなかった。一方、ラニーニャ期では、東西の環流域で立ち上がり勾配、最大量子収率および最大光合成速度とも違いは無かった。いずれの時期にも最大光合成速度は亜寒帯域での従来の報告値の範囲であったが、最大量子収率は硝酸塩や水温から期待される値に比べて著しく低かった。観測海域では表層水中の鉄濃度が0.22nM以下と低く、光合成の電子伝達系の効率が低下している可能性を認めた。

 三陸沖では、暖水塊、暖水舌、冷水舌と水温、栄養塩条件の異なる水塊において観測を行った。最大光合成速度は暖水舌において冷水舌や暖水塊と比較し高い値を示す傾向があり、暗反応の温度依存性を反映したものと考えられた。一方、立ち上がり勾配は鉛直的に変化し、表層で下層より低い値を示す傾向にあり弱光環境への適応が示唆された。

 日本海では、全域で表層に対馬暖流由来の高温、低塩分水が存在し、特に南側、沿岸側でその影響が強くなる傾向にあった。表層では海域による光合成光利用特性の違いは小さかったのに対して、30-40mに存在したクロロフィル極大層では、最大光合成速度、立ち上がり勾配および最大量子収率が水温に依存して海域毎に大きく変動し、鉛直的な変化が顕著であった。

 東シナ海では東シナ海陸棚水と貧栄養な黒潮水で観測を行った。表層では両海域で光合成光利用特性に有意な差はみられなかった。一方、クロロフィル極大層では東シナ海陸棚水と黒潮水で立ち上がり勾配、光飽和定数、最大量子収率に有意な差が認められ両海域の一次生産力の違いに光利用特性が影響していることが分かった。

2.沿岸域における植物プランクトン群集の光合成光利用特性の季節変動

 岩手県大槌湾において冬−春季(1-4月)、晩春(5月)、夏季(7-8月)において週2回の頻度で観測を行い、光合成光利用特性の季節変動について調べた。冬−春季は、表層と亜表層で光合成光利用特性に差は見られず、水柱の上下混合を反映したものであった。光吸収係数および最大量子収率は顕著な経時変化を示し、植物プランクトンのブルームの消長にともなうクロロフィルa濃度に対応して変化した。晩春および夏季では水温成層が発達し、最大光合成速度、光飽和定数は表層で亜表層より高かった。最大光合成速度、光飽和定数には水温依存性が認められ、水温の上昇にともない増大した。観測期間を通して最大量子収率と光吸収係数には季節による差異は無かった。

 水柱の一次生産力すなわちクロロフィルaベースの一次生産は各季節間および各季節内で大きく変動したが、光利用効率の経時変化よりはむしろ海面光量の変動を反映したものであった。

3.植物プランクトン群集の光合成光利用特性に対する鉄濃度の影響

 北太平洋亜寒帯域の観測により光合成活性が低い鉄濃度の影響により低下していた可能性が示唆された。そこで、ラニーニャ期の東西の両環流域およびベーリング海において表層水に塩化第二鉄を1-2nM添加して2日間培養を行い、鉄濃度が光合成光利用特性に与えている影響について調べた。鉄添加系ではコントロールに対してほとんどの測点で最大光合成速度、立ち上がり勾配および最大量子収率が増加し、鉄不足により光合成活性が低下していたことが明らかとなった。また光合成色素分析から、特に珪藻類の色素合成が鉄不足により制限されていたことが示唆された。水柱一次生産力は、鉄添加系でコントロールに対し2日間の培養で平均1.2倍増加した。鉄添加によりもたらされる生物量の増加を考慮すると、鉄濃度の上昇に伴う水柱一次生産力の増加はさらに大きいものと考えられる。

4.自然蛍光法による一次生産力の連続モニタリング

 植物プランクトンが吸収した太陽光エネルギーの一部は光合成に使われず自然蛍光として海水中に放出されることから、その裏返しとして吸収した光エネルギーと自然蛍光から光合成活性を見積もることが可能である。この方法では、光吸収係数、光合成および蛍光の量子収率、光飽和定数が見積に必要であるが、環境変動の激しい沿岸域ではこれらの諸係数も大きく変動するためこれまでこの方法は沿岸水には適用できないとされてきた。そこで、岩手県大槌湾で得られた結果をもとに沿岸域での自然蛍光法を検討した。

 まず、光吸収係数はクロロフィルaに伴い変化することを明らかにし、両者の関係を定式化した。次に、光合成と蛍光の量子収率の比の最大値は、冬−春季ではクロロフィルa、晩春−夏季ではクロロフィルa、水温に依存して変化していることを見いだした。さらに光飽和定数が冬−春季では変動は小さく一定と見なせ得ること、晩春−夏季では水温、光履歴に依存することを明らかにした。これらの結果をもとに自然蛍光法から一次生産を見積もるためのアルゴリズムを開発した。沿岸域では、植物プランクトン組成と現存量が大きく変動することが係数を決定する上で問題となっていたが、クロロフィルaを説明変数とした定式化によりその影響を組み込むことができた。この方法から得られた一次生産は14C取り込みから求めた一次生産と良い相関を示した。

5.岩手県大槌湾における植物プランクトンおよび養殖ワカメの一次生産力

 ワカメなどの海藻養殖では収量は海水中の栄養塩濃度に大きく依存する。このため天然の植物プランクトン群集と栄養塩消費において競合する。この観点から本研究で開発した自然蛍光法により求めた植物プランクトンの一次生産量と、養殖ワカメのそれと比較した。観測はワカメ養殖が行われる冬−春季にかけて行った。

 養殖ワカメの一次生産は穿孔法によるワカメ葉体の成長速度から得た一次生産と漁協による湾内ワカメ収穫量の記録から見積もった。観測期間中の養殖ワカメの一次生産は、総計49.5 tonne Cであり、これは植物プランクトン一次生産の約38分の1と低いことが明らかとなった。一方、養殖ワカメの一次生産のうち19%が末枯れとして湾内の粒子態有機物の供給源となっていることが明らかになり、溶存態として排出される有機物とともに湾内の食物網に重要な役割を果たしていることが明らかになった。

 以上、本研究によりこれまで知見の乏しかった植物プランクトン群集の光合成光利用特性の時空間分布とその変動要因が明らかになり、北太平洋亜寒帯域では全体的に低い鉄濃度により光合成活性、一次生産力が低下していたことが示された。さらに、自然蛍光法により外洋域に加え沿岸域においても一次生産の連続モニタリングが可能になった。一次生産の光生物学的モニタリング手法として励起蛍光法の開発が進められているが、自然蛍光法では消費電力がより小さく、センサー部の劣化を受けにくいため長期係留手法として適しており、今後海洋における利用がすすむものと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 植物プランクトンは海洋における主要な一次生産者であり、海洋生態系全体の物質循環の起点であるため、その一次生産力は生物海洋学の最も重要な研究課題の一つである。しかしながら、従来の知見は一次生産量の時空間変動に集中しており、その制御機構に関しては不明の点が多い。特に、環境変動に対する一次生産の応答過程を解析するために必要な植物プランクトン群集の光合成光利用特性については大西洋の一部と北米西岸に知見が限られており、全球的な研究の展開が急務となっている。本研究は、海洋における植物プランクトン群集の光合成光利用特性として植物プランクトン群集の光吸収特性、光合成量子収率および光合成−光曲線の諸係数を取り上げ、北太平洋における変動様態を明らかにし、それらと環境要因との関連を明らかにすることを第一の目的とした。次いで、その成果をふまえて培養法によらずに光生物学的な観測から一次生産力を連続モニターする手法を確立したものである。

 北太平洋亜寒帯域では1997年と1999年の夏季に観測を行い、前者では西部環流域では東部環流域に対し表層水の光合成−光曲線の立ち上がり勾配および最大量子収率が高いことを認め、最大光合成速度には東西差が無いことを示した。一方1999年には立ち上がり勾配、最大量子収率および最大光合成速度とも東西の環流域間で差異が無いことを示した。1997年がエルニーニョ期、1999年がラニーニャ期であったことから、両年に認めた地域的違いの有無を海洋構造と関連づけて論じた。さらに、両時期とも最大量子収率は硝酸塩や水温から期待されるのに比べて著しく低く、この原因として表層水中の低鉄濃度による影響である可能性を示した。

 これを検証するために1999年に鉄添加培養実験を行った。その結果、1〜2nMの鉄添加を受けて、最大光合成速度、立ち上がり勾配および最大量子収率が速やかに増加することを認め、これらが天然海域では鉄律速を受けていること、珪藻類の色素合成が鉄不足により制限されていること、水柱一次生産力が鉄制限にあることを明らかにした。

 さらに三陸沖暖水塊周辺域、日本海、東シナ海における観測により光合成の光利用特性には海域毎に異なる特徴を示すことを明らかにした。特に、水柱が成層して有光層底部に亜表層クロロフィル極大層が形成されると、最大光合成速度、立ち上がり勾配および最大量子収率が表層群集とは大きく異なり、これらは弱光環境への光合成の適応として解釈した。

 岩手県大槌湾では、植物プランクトン群集の光合成光利用特性を通年にわたり解析し、季節変動を明らかにした。すなわち最大光合成速度、光飽和定数は、晩春−夏季が冬−春に比べて高くこれは水温依存性であること、これに対して最大量子収率と光吸収係数には季節による差異が無いことを示した。水柱が成層する晩春−夏季では最大光合成速度と光飽和定数が表層で亜表層より高くなることを示した。これらの結果をもとに同湾における水柱一次生産力の季節変動が光利用効率の経時変化よりはむしろ海面光量の変動を反映したものであることを示した。

 大槌湾における光合成光利用特性の知見から光生物学的な一次生産モニター手法を検討した。検討対象として太陽光励起下での植物プランクトン生体内蛍光、すなわち自然蛍光によるモニター法を検討した。この方法はすでに外洋域での適用事例はあるが、沿岸域や内湾域では環境変動が激しく植物プランクトン組成が大きく変化するため適用が困難とされていた。精力的な現場観測と実験から、自然蛍光からの推定に必要な諸係数、すなわち植物プランクトン光吸収係数、光合成と蛍光の量子収率の比の最大値およびその光飽和定数がクロロフィルa、水温、光履歴に依存することを明らかにし、自然蛍光法から一次生産を見積もるためのアルゴリズムを開発した。同湾における一次生産の連続モニタリング実証試験に成功し、さらに日本海および相模湾における実証試験の結果、大槌湾で得たアルゴリズムが他海域でも有効であることを認めた。

 以上、本研究で得られた植物プランクトン群集の光合成光利用特性の時空間分布とその変動要因に関する成果は西部北太平洋からの初めての知見として重要であり、海色リモートセンシングによる全球的一次生産把握手法の開発ための基盤知見としても貢献は大きい。さらに自然蛍光法による一次生産モニタリング手法の確立は、沿岸域の生物生産モニタリングの新たなアプローチを提供するものである。このように本研究は海洋の一次生産研究を大きく前進させ、基礎的にも応用的にも極めて学術的価値が高い。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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