No | 117185 | |
著者(漢字) | 楊,健 | |
著者(英字) | Yang,Jian | |
著者(カナ) | ヤン,ジェン | |
標題(和) | 三陸沿岸産イシイルカに蓄積している微量元素 | |
標題(洋) | Trace elements in Dall's porpoise, Phocoenoides dalli, off the Sanriku coast of Japan | |
報告番号 | 117185 | |
報告番号 | 甲17185 | |
学位授与日 | 2002.03.29 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(農学) | |
学位記番号 | 博農第2381号 | |
研究科 | ||
専攻 | ||
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 微量元素に関する研究は、これまでヒトや実験動物で数多く実施されてきたが、海洋生態系の最高位に位置する鯨類では知見が少ない。微量元素の中には、鉄(Fe)、亜鉛(Zn)、銅(Cu)、セレン(Se)など栄養上不可欠の必須元素もあるが、水銀(Hg)、カドミウム(Cd)など公害を起こす強毒性の汚染元素も含まれている。 本研究では、イシイルカ(Phocoenoides dalli)76頭を調査し、14器官・組織について14種類の微量元素を分析した。これらのデータに基づいて、元素の体内分布、環境中から体内への取り込み、親から胎児への移行、細胞内分布の特徴を明らかにし、皮膚を使用した非捕殺的測定システムの有効性を検討した。 微量元素濃度の分析は、FeはF-AAS法、SeはHG-AAS法、総水銀とメチル水銀(MeHg)はCV-AAS法、Zn、Cu、マンガン(Mn)、モリブデン(Mo)、コバルト(Co)、クロム(Cr)、バナジウム(V)、ストロンチウム(Sr)、Cd、銀(Ag)、鉛(Pb)はICP-MS法を用いて行った。また、微量元素の細胞内分布を調査するため、-80℃で保存していた肝臓及び腎臓を遠心分離により核・ミトコンドリア画分、ミクロソーム画分、サイトソル画分に分画した。更に、サイトソル画分をSephadex G-75を用いたゲル濾過法で高分子量画分、メタロチオネイン(MT)画分、低分子量画分に分画した。得られた各画分中の微量元素の濃度は、上記の方法で測定した。また、MT異性体(iso-MT)はHPLC/ICP-MS法で分析した。 1.胎児及び出生後の個体における微量元素の体内分布 胎児と出生後の個体における微量元素の器官・組織分布は非均一であった。胎児の器官・組織では、Fe、Zn、Cu、Se、Mn、Sr、Hgの濃度は顕著であったが、他の元素の濃度はほとんど1μg/g dry weight以下であった。肝臓にはFe、Cu、Se、Hg、脾臓にはFe、皮膚にはZn、膵臓にはZn、Mn、骨にはSrが特異的に蓄積していることから、これらの器官・組織が各元素の重要な代謝部位であることが推測された。一方、出生後の個体の器官・組織ではFe、Zn、Cu、Se、Mn、Sr、Hgに加えて、Mo、Cd、Agも高濃度に蓄積していたが、他の元素はほとんど1μg/g dry weight以下の低濃度であった。特に、Feは肺と肝臓に、Cu、Mn、Mo、Hg、Agは肝臓に、Zn、Seは皮膚に、Srは骨に、Cdは腎臓に特異的に蓄積していた。微量元素の体内分布と元素間の相互関係から、以下のような特徴が推察された:(1)肺と肝臓に高濃度のFeが蓄積したのは、イシイルカの高い呼吸率や潜水能力と関係がある、(2)皮膚に高濃度のZnとSeが蓄積したのは、外傷や太陽の紫外線の被害を防ぐための機能に関係がある、(3)HgとCdが肝臓と腎臓にそれぞれ高濃度に蓄積していたにもかかわらずイルカが正常な行動をしていたのは、これらの臓器がHgとCdに対して解毒の機能を持っている。本研究の結果は、肝臓では水銀が脱メチル化により無機水銀(InHg)に変化し、セレンと結合して無毒化するメカニズムがあること及び腎臓ではCdの濃度がZnの濃度とよく相関したため、CdとZnは共にMTと結合して解毒化するメカニズムがあることを支持した。 以上の結果から、胎児期の微量元素濃度の分布は、汚染元素より必須元素が主で、胎児の発育の要求に対応したものであるが、出生後の個体の分布は、水棲生活に適応する必須元素の要求だけではなく、汚染元素の解毒も反映したものと思われる。 2.微量元素の環境中からの取り込みと親から胎児への移行 イシイルカ体内への微量元素の蓄積は、餌を通じて環境中から取り込む経路と、胎盤を通じて親から胎児への移行による経路が考えられる。そこで、それぞれの経路について検討した。まず、出生後の個体と胎児における各種微量元素の負荷量を調べた。次に、出生後の個体における微量元素濃度を、体重と負荷量から算出した。この値を報告された海水中微量元素の濃度と捕食していた魚やイカの微量元素濃度と比較し、イシイルカの海水からの生物蓄積係数(BAF)及び餌からの生物濃縮係数(BMF)を推定した。BAF値は微量元素により大きく異なっていることが分かった。多くの必須元素では数百倍から一万倍以上にまで蓄積していたが、汚染元素では数千倍であった。一方、BMF値は0.1-27と低く、微量元素が餌となる魚やイカにも高濃度に濃縮されていることが示唆された。更に、イカからイシイルカへのSrのBMF値が10-12に対し、魚からのBMF値は0.2-1の低いレベルであった。魚からのCdのBMF値は2-26と高値を示したのに対し、イカからの場合は0.1-0.4であった。従って、餌生物の組成はイシイルカにおける特定微量元素の取り込み量に大きく影響するものと考えられる。 次に、微量元素の親から胎児への移行を検討した。全ての元素の総負荷量に対する各元素の割合は、Fe、Zn、Cu、Sr、SeとMnで他の元素より大きかったことから、これらの元素が他の元素に比較して優先的に胎児へ移行することが示唆された。また、汚染元素であるHg、Cd、Agはそれぞれ親の肝臓、腎臓、肝臓に高濃度に蓄積していたにもかかわらず、胎児の対応する臓器中の濃度はかなり低かった。このため、親の体内には、移行を制限するメカニズムがあることが予想される。本研究ではさらに、妊娠個体の臓器・血液及び胎児の血液における微量元素の濃度を比較し、二つの制限メカニズムの存在を推定した:(1)特定の臓器に優先的に蓄積することにより、血中濃度を低下させ、移行を防ぐ、(2)胎盤が移行の「障壁」として働く。妊娠個体の肝臓のHgとAg、腎臓のCd、骨のPbの濃度は血液中のそれより数十倍から数百倍も高いことから、これらの臓器は元素を濃縮することにより血中濃度を低く保つものと考えられる。また、妊娠個体と胎児の血液における汚染元素の濃度差の比較から、Hg、Cd、Agの移行には胎盤が「障壁」として機能しているが、Pbに対しては胎盤が有効な「障壁」とならないことが推察された。 BAF値が著しく高いのはイシイルカが栄養段階の最高位に位置することを反映しており、BMF値があまり高くないのは捕食している魚とイカの特異的な微量元素濃度に影響されるものと考えられる。また、イシイルカの親から胎児への微量元素の移行は非常に選択性があると思われる。 3.肝臓、腎臓における微量元素濃度の細胞内分布 微量元素の代謝或は解毒に重要な意味を持つ微量元素濃度の細胞内分布に関する研究は、鯨類では極めて少ない。本研究では、イシイルカの肝臓・腎臓におけるZn、Cu、Se、Mn、V、Hg、Cd、Agの細胞内分布(核・ミトコンドリア画分、ミクロソーム画分、サイトソル画分)を調査した。その結果、肝臓と腎臓で微量元素濃度の細胞内分布が異なることが明らかとなった。更に、胎児と出生後の個体においても差異が認められた。肝臓では、出生後の個体において、大部分のCdがサイトソル画分に存在していた。この傾向はZn、Cu、Mnでも認められた。HgとSeは主に核・ミトコンドリア画分に蓄積していた。一方、胎児の場合は、肝臓では、多くのZn、Se、Mn、V、Hg、Cdがサイトソル画分に存在していた。CuとAgは主に核・ミトコンドリア画分に局在していた。腎臓では、出生後の個体も胎児もすべでの元素がサイトソル画分に主に蓄積していた。これらの結果により、肝臓・腎臓には、各微量元素の代謝或は解毒に関与する特異な細胞内分画が存在することが明らかになった。 更に、必須元素の恒常性の維持や汚染元素の毒性の抑制と深く関係するMTが、サイトソル画分への微量元素の局在性と関係があるかどうかを調べた。その結果、出生後の個体の肝臓と腎臓にはCdの解毒、胎児の肝臓と腎臓にはCuの代謝に重要な役割を果しているMTの存在が明らかになった。他の元素はMTではなく、主に高分子量画分または低分子量画分に存在した。HPLC/ICP-MS法により得られた出生後の個体のMTの保持時間と胎児のMTの保持時間は異なることから、成長段階により異なったiso-MTが、微量元素の代謝、解毒に関与している可能性が示唆された。 以上の結果から、微量元素はイシイルカの肝臓・腎臓の細胞画分に均一に分布するのではなく、特定の細胞内画分がそれぞれの元素の代謝或は解毒に対して重要な役割を果していることが推察された。 4.生物学や生態毒性学分野における非捕殺トレーサーとしての有効性 海棲哺乳動物の生物学や生態毒性学の研究の重要性は認識されつつあるが、その保護・管理及び倫理的な視点から非捕殺的モニタリング法の開発が望まれている。ここでは、三陸沿岸産リクゼンイルカ型系(PT系統群)と日本海−オホーツク海産イシイルカ型系(JD系統群)の両系統群の個体の皮膚における微量元素が、非捕殺トレーサーとして年齢推定、体内の水銀濃度の推定、系統群判別に有効であるかどうかを検討した。その結果、両系統群において歯のセメント質に見られる成長層数から査定した年齢と皮膚中のHg濃度との間に有意な正の相関が認められた。また、サンプル数が豊富なPT系統群においては、皮膚中のHg濃度と肝臓中のHg濃度との間に有意な正の相関が見られた。さらに、両系統群に属する個体の皮膚における微量元素濃度を用いて主成分分析を行った結果、PT系統群とJD系統群を判別することが可能であった。 イシイルカは船首波に乗る習性があるので、野外で皮膚を採取することが可能である。従って、バイオプシーサンプルにおける皮膚の微量元素が、生物学や生態毒性学分野における非捕殺トレーサーとして有効であると考えられる。 以上のように、本研究は、海棲哺乳類であるイシイルカにおける微量元素の体内分布、環境中から体内への取り込み、親から胎児への移行、肝臓・腎臓における細胞内分布の特徴を明らかにした。更に、皮膚における微量元素は非捕殺トレーサーとしてイシイルカの汚染状況などを知る上で有効であることも明らかになった。今後は、各系統群のイシイルカに蓄積する微量元素の特徴を比較すると共に、より多くの器官・組織における微量元素の細胞内分布を調査し、元素の代謝或は解毒に関与する無機化合物・蛋白質を同定し、その生理学的機能を研究する必要がある。 | |
審査要旨 | 微量元素に関する研究は、これまでヒトや実験動物で数多く実施されてきたが、海洋生態系の最高位に位置する鯨類では知見が少ない。微量元素の中には、鉄(Fe)、亜鉛(Zn)、銅(Cu)、セレン(Se)など栄養上不可欠の必須元素のみならず、水銀(Hg)、カドミウム(Cd)など公害を起こす強毒性の汚染元素も含まれている。 本論文は、日本近海に生息しているイシイルカ(Phocoenoides dalli)76頭を調査し、14器官・組織について14種類の微量元素を分析したデータに基づいて、元素の体内分布、環境中から体内への取り込み、親から胎児への移行、細胞内分布の特徴を明らかにし、皮膚を使用した非捕殺的測定システムの有効性を検討したもので、次の4章からなる。 第1章では、イルカにおける微量元素の研究及び問題点が紹介され、本研究の目的とその意義について述べている。 第2章では、イシイルカの生物試料及び使用した微量元素の分析方法に言及し、各組織における微量元素の湿重当り濃度から乾重当り濃度への換算方法を提示している。 第3章では、本研究で得られた結果と議論を記述している。胎児と出生後個体では、組織別の微量元素の濃度は非均一に分布しており、各元素は特定の組織に特異的に蓄積していることを報告している。胎児では、必須元素であるFe、Zn、Cuは高濃度に蓄積しているが、汚染元素であるHg、Cdの濃度は低く、出生後個体では、必須元素と汚染元素ともに高濃度に蓄積していることを明らかにしている。出生後個体では、肝臓中の水銀が脱メチル化により無機水銀(InHg)に変化しセレンと結合して無毒化されるメカニズムがあること、及び腎臓中のCdとZnがともにMTと結合して解毒化されるメカニズムがあることを推察している。胎児の微量元素の蓄積は主に発育の要求に対応したものであるが、出生後個体ではその蓄積は必須元素の要求だけではなく、汚染元素の解毒も反映したものと推察している。イシイルカの海水からの生物蓄積係数(BAF)及び餌からの生物濃縮係数(BMF)を推定している。両値の比較から、イシイルカにおける特定微量元素の取り込み量は餌生物の組成に大きく影響を受けるものと推察している。全ての元素の総負荷量に対する各元素の割合の比較から、Fe、Zn、Cu、Sr、Se、Mnが他の元素に比較して選択的に胎児へ移行することを明らかにしている。汚染元素のHg、Cd、Agはそれぞれ親の肝臓、腎臓、肝臓に高濃度に蓄積しているにもかかわらず胎児ではかなり低いことから、親の体内にはこれらの元素の移行を制限するメカニズムがあるのではないかと推察している。妊娠個体の臓器・血液及び胎児の血液における微量元素の濃度の比較から、次の二つの制限メカニズムの存在を推定している:(1)各微量元素が特定の臓器に特異的に蓄積することにより、その元素の血中濃度を低下させ移行を防ぐこと、(2)胎盤が特定の元素の移行の「障壁」として働くこと。イシイルカの肝臓・腎臓におけるZn、Cu、Se、Mn、V、Hg、Cd、Agの細胞内分布(核・ミトコンドリア画分、ミクロソーム画分、サイトソル画分)を調査し、肝臓と腎臓では微量元素濃度の細胞内分布が異なることを明らかにしている。必須元素の恒常性の維持や汚染元素の毒性の抑制と深く関係するMTが、出生後個体の肝臓と腎臓ではCdの解毒に、胎児の肝臓と腎臓ではCuの代謝に重要な役割を果していることを明らかにしている。HPLC/ICP-MS法により得られた出生後個体のMTの保持時間と胎児のMTのそれが異なることから、成長段階により異なったiso-MTが、微量元素の代謝、解毒に関与していることを示している。皮膚や肝臓に蓄積している微量元素濃度と生物学的情報の比較から、年齢と皮膚中のHg濃度の間に正の相関があること、皮膚中のHg濃度と肝臓中のHg濃度の間に正の相関があること、三陸沿岸産リクゼンイルカ型(PT系統群)と日本海−オホーツク海産イシイルカ型(JD系統群)の両系統群の判別が可能であることを報告している。 第4章では、上記の研究成果を踏まえ、微量元素の濃度分布、相互関係、負荷量、組織と細胞画分レベルでの制御パターンからイシイルカの水中適応の特徴について総括するとともに、非捕殺方法で採取した皮膚のデータからイシイルカの生物学や生体毒性学の分野での新しい展開について総合的に考察している。 以上要するに、本論文はイシイルカにおける微量元素の体内分布、環境中から体内への取り込み、親から胎児への移行、細胞内分布の特徴を明らかにし、皮膚を使用した非捕殺的測定システムの有効性を検討したもので、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認める。 | |
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