学位論文要旨



No 117187
著者(漢字) 松田,裕子
著者(英字)
著者(カナ) マツダ,ユウコ
標題(和) EUにおける農地支払制度の構造と機能 : ドイツ・バイエルン州に関する事例研究
標題(洋)
報告番号 117187
報告番号 甲17187
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2383号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 生源寺,眞一
 東京大学 教授 岩本,純明
 東京大学 教授 谷口,信和
 東京大学 助教授 小田切,徳美
 東京大学 助教授 中嶋,康博
内容要旨 要旨を表示する

 本論文では,条件不利地域に対する補償金(LFA補償金),農業環境政策の助成金(環境助成金),92年CAP改革で導入された支持価格の引下げに対する補償支払(耕種作物プレミアム)の3つの農地支払制度を分析対象としている.本論文では,まず3つの制度の詳細な分析を行なった上で,理論上興味のある問題を抽出して分析している.以下では,後者について述べる.

 EUの農業政策体系において,農地支払という政策手段はいまや大きな比重を有しているが,制度の運用においては,土地を支払のベースとしているがゆえに発生する次の二つの問題を指摘できる.

 一つは,土地の質的差異に起因する支払の過剰と不足の問題であり,とりわけ便乗効果と表現される過剰支払として顕在化する.現行の制度の下では多くの場合,一定の地域の中では面積当たり支払単価が同一であるという意味で,一律の農地支払が行なわれている.しかし,農業生産は土地を形成する様々な因子によって影響を受け,このことが栽培可能な作目の種類の相違等を生み出すことを考慮すると,農地支払制度の運用においては,品質及び位置に差異があるという土地の特質を無視することができない.また,こうした差異を考慮しないとすれば,それは様々な問題を引き起こすものと考えられる.

 本論文では,こうした見地から,便乗問題が草地助成措置において顕著に発現することを論じている.農業環境プログラムへの参加による逸失所得の水準は,助成措置の適用される農地における代替的利用の有無に依存する.各経営は,いくつかの選択的用途から得られる地代を比較考量して,助成措置の下で得られる地代と助成金の合計額が,それ以外の最適な用途に利用したならば得られたであろう地代(即ち,助成措置に参加した場合の機会費用)を上回る場合に参加するであろう.言い換えれば,少なくとも最適な用途の地代とプログラム参加の下での地代の差額分(即ち,助成措置への参加による逸失所得)が助成金によって補償されない限り,草地助成措置に参加する経済的誘因は働かない.

 しかし,参加による逸失所得は土地間,従って経営間で均一でないから,一律支払の下では逸失所得の補償の度合いが異なるという意味において,支払の実質格差が生じることは避けられない.とりわけ自然条件の制約から耕地としての利用が不可能な限界草地では,農地を粗放的草地として利用するより他に経営上の選択肢はない.これに加えて無視できないのは,草地助成措置が要件としている営農,即ち「合法的農業(ordnungsgemaBe Landwirtschaft)」が,通常の限界草地ではこれまでも守られてきていることである.従来から草地助成措置の要件に沿った様式で営農が行なわれているということは,この助成措置に参加しても追加的な要件が発生しないことを意味する.よって,これら二つの理由から,限界草地における参加による逸失所得はゼロと見なすことができる.従って,限界草地においては環境助成金の全額が追加的な所得となり,便乗効果が発生する.

 二つめの問題は,農地支払による借地料の上昇であり,これは転嫁効果として論じられる.但し,農地支払はその効果の方向のみについて言えば,確かにha当たり粗利潤(DB),ひいては借地料を押し上げる効果を持つが,農地支払は無償で受給できるわけではない.夫々の制度は夫々異なる支払基準を持っており,支払基準に関わる土地の条件や営農上の遵守要件を考慮に入れる必要がある.農地支払による粗利潤の変化は,その制度の種類によって異なり,かつまた農地間ないし地域間でも異なる.これらの違いは,借地料に対する農地支払の作用も異なることを意味するであろう.

 農産物価格と農地支払は何れも借地料の規定要因の一つとなるが,92年改革以降,農地支払によって,土地が本来の帰属所得とは別の新たな粗利潤決定要素を有するようになったことが確認される.即ち,価格支持下では,土地及びその他の生産要素(資本,労働)が粗利潤の100%を決定していたのに対して,農地支払下ではこれらは粗利潤総額の40%以下にしかならず,粗利潤の60%以上が耕種作物プレミアムによって決定されているのである.

 また,農地支払は価格支持よりも透明な施策である.というのは,単位生産物に対する助成である価格支持に比べて,農地支払はそれがha当たり粗利潤及び土地純収益に寄与する大きさを,農地の借り手・貸し手双方が容易に把握できるという性質を持つからである.言い換えれば,農地支払については情報の非対称性が存在しない.現実の農地賃貸借が相対交渉によって行なわれていることを考慮すると,農地支払が貸し手に与える心理的な影響もまた無視することはできない.かくして,農地支払の支払額は土地の価値を規定する明瞭な政策として認識され,こうした農地支払の透明性は,貸し手が土地そのものの価値があたかも上昇したかのように錯覚するという形で借地料に影響を及ぼす.

 さて,農地支払によってもたらされる粗利潤の増大に伴い,農地賃貸借市場における農地需要曲線は上方にシフトする.また,農地支払は環境規制としての面積拘束性を有しており,この点も農地需要を増大させるものと考えられる.農地支払の透明性の高さと相まって借地料が上昇すると,これに付随して次の二つの問題が生じる可能性がある.

 一つは転嫁効果の問題であり,農地の所有者と利用者が異なる場合には,農地支払の便益の少なくとも一部は借り手の耕作者でなく貸し手の土地所有者に帰属する可能性がある.農地支払は土地に強くリンクした粗利潤決定要素を付与する点で,農地市場に及ぼす作用は他の施策よりも大きいと考えられる.そして,農地支払を前提とした農地需要の増加によって土地不足が引き起こされる場合には,借地料の上昇により強い転嫁効果が発現する.

 ここで強調しておきたいのは,農地支払の借地料及び所得分配への影響を論じる上では,農地市場の構造及び農地供給の弾力性の相違を考慮することが不可欠である点である.条件不利地域では草地利用を主体とした肉牛・乳牛経営等が立地するが,生産条件の不利性ゆえに,常により粗放な代替的用途への転換の可能性が開かれており,農地供給が弾力的となるケースを想定することができる.一方,非条件不利地域では,土地条件が良好なほど耕地として利用される割合が高く,主業経営の存立が可能であるため,農地供給はその賦存量において非弾力的となる場合が多い.

 本論文のモデル分析によれば,農地支払の転嫁効果が発生するのは,農地供給が借地料に関して完全に非弾力的な場合である.土地所有者が農業経営と一致する限りでは,農地支払によって納税者から農業経営に対する所得移転が生じるが,農地の所有者と利用者が異なる場合は,農地支払の分配上の便益は農業経営ではなく,土地所有者にのみ帰属する.従って,主業経営が借地による規模拡大を図っており,農地の貸し手の多くが農業部門に属さない(即ち,借地が非農家の所有下にある)場合には,農地支払の便益の多くは農業経営以外の経済主体に帰着することになる.なお,地域全体で発生する転嫁効果の大きさは,農地支払による借地料の上昇幅と,全農地に占める借地の比率に依存する.

 一方,農地供給が借地料に関して完全に弾力的な場合は,農地支払によって,貸し手に帰属する余剰に変化はないが,借り手に帰属する余剰は増大する.しかし,農地支払がない場合の農地としての利用面積が社会的に最適であれば,農地支払は農業経営に過剰な農地の利用を促進する方向に作用することを意味している.言い換えれば,農地支払による収益性の底上げがあるため,農業経営にとっては社会的に最適な農地利用を超える生産を促す誘因が与えられるが,最適な農地としての利用面積よりも右方の領域では機会費用が真の限界便益を表す需要曲線を上回るため,社会的には代替的用途に振り向けられる方が望ましい.にも関わらず,限界便益が機会費用を下回る領域で農業生産が行なわれるがゆえに,両者の差に相当するだけの死荷重が生じる.

 これら二つのケースは,農地支払が借地料及び所得分配に及ぼす影響は,農地市場の構造及び農地供給の弾力性の相違によって異なることを示している.そして,ここから,いま一つの問題,即ち借地料の上昇が大規模経営層の収益性にマイナスの影響を与え,ひいては構造改善にブレーキをかける可能性を指摘できる.

 借地料の上昇は借り手にとって費用の増加をもたらすため,借地比率が上昇するにつれ,農地支払の収益性改善効果が低下する.概して非条件不利地域では,農地供給が非弾力的で転嫁効果が発現しやすいこと,経営規模の大きい主業経営ほど経営面積に占める借地比率が高いことを考慮すると,農地支払による借地料の上昇は規模拡大を図る成長経営の発展を阻害する可能性が高い.

審査要旨 要旨を表示する

 92年の共通農業政策改革を境に、EUの農業政策は域内市場価格の支持を柱とする消費者負担型農政から、各種の直接支払を組み合わせた財政(納税者)負担型農政へと大きな転換を遂げている。このような政策展開は、その理念と手法の両面でわが国の農政にも強い影響を与えている。本論文は、さまざまな直接支払のなかから、農地を支払いのベースとする3つの代表的な制度(条件不利地域補償、環境助成、耕種作物プレミアム)を取り上げて、その機能の特性と問題点を経済学の観点から吟味したものである。制度の詳細な構造と問題点を実態に即して明らかにするために、ドイツのバイエルン州における政策運用がケーススタディの対象とされた。

 序章では、3つの制度に関する論考を中心に既往の研究論文をレビューし、問題の焦点を直接支払の便乗効果と転嫁効果のふたつに設定した。続く第1章は制度の経済分析に必要な理論的な準備である。すなわち、生産関数分析のフレームワークのもとで、第1に土地の質的な差異と経済的な序列の関係をあらためて整理し、第2に農地の需給関係と地代支払力の規定要因を定式化した。これらの準備によって、制度上は異なる系譜に属する3つの直接支払の機能と問題点を、差額地代論と立地論の観点から統一的に把握することが可能になる。

 第2章から第4章では、3つの直接支払のそれぞれについて、制度の農政上の位置づけと運用の詳細な実態が明らかにされる。条件不利地域補償を対象とする第2章では、農地評価指数による対象農場の限定と支払単価の設定の問題を中心に、農地の経済的序列をベースに支払を行う政策的な意図とその達成の度合いについて評価している。続く第3章では、環境助成金の主要なメニューである農耕景観プログラムを取り上げて、その制度分析を試みている。条件不利地域補償とは対照的に一律支払いを基本とする環境助成の場合、受給の条件によって環境改善の追加的なコスト負担がないかぎり、政策の目的を超えた所得移転が生じる可能性が指摘される。第4章は、耕種作物プレミアムの制度分析である。耕種プレミアムはセットアサイドを条件とする地域一律支払として設計されているが、地域の設定に依存して支払の過不足が生じること、またそれが一定の政策的な意図のもとに行われている点を明らかにしている。

 第5章と第6章は、本論文の理論面での成果である。まず第5章では、農地の経済的な序列を考慮しない一律支払によって生じる便乗効果について、その発生メカニズムと政策的な意義を論じている。環境支払と一部の耕種作物プレミアムでは便乗効果を避けることができず、政策目的の達成効率が低下している。しかしながら、支払基準の細分化は取引費用の増蒿という追加的なコストを伴う。この点は、例えばニーダーザクセン州の耕種作物プレミアムのケースで確認された。また、耕種プレミアムに随伴する所得移転は、実質的に条件不利地域を優遇する役割を果たしている。転嫁効果を論じた第6章では、農地供給の価格弾力性が低い条件良好地域のケースと、弾力性の高い条件不利地域のふたつについてモデル分析を行っている。農地支払は、粗利潤の上昇と情報の対称性などの要因を介して農地需要曲線の上方シフトをもたらすが、条件良好地域の場合にはこのシフトが農地に帰属する分配分の増加につながること、対照的に条件不利地域では農業経営への分配分の増加と耕境の拡大がもたらされることが示される。すなわち、転嫁効果は非弾力的な農地供給に特有の現象であり、構造政策上の副作用も無視できない。

 以上を要するに、本論文はEU農政の代表的な3種類の直接支払について、地代論・立地論の観点から統一的な分析を試みることによって、その政策上の含意を明らかにしたものである。3つの直接支払の制度分析は、既往の研究文献の水準を超える深みをもった情報を提供しており、わが国の政策立案にとっても有益なレファランスとなるものと判断される。また、3つの制度の横断的な分析はこの分野では初めての試みであり、今後の研究展開に重要な礎石を築き上げたものと評価される。このように本論文の成果は学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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