学位論文要旨



No 117215
著者(漢字) 大村,真代
著者(英字)
著者(カナ) オオムラ,マサヨ
標題(和) マウス嗅上皮における匂い応答に関する研究
標題(洋)
報告番号 117215
報告番号 甲17215
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2411号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 片岡,宏誌
 東京大学 教授 長澤,寛道
 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 助教授 東原,和成
内容要旨 要旨を表示する

 序論

 哺乳類は、外界から入ってきた匂い物質を鼻腔内嗅上皮の嗅神経細胞で受容し、その情報を嗅球、嗅皮質といった中枢神経系へ段階的に伝達することによって匂いの識別を行っている。近年、マウスで約千種類といった多重遺伝子群を形成する嗅覚受容体ファミリーの機能解析が進み、嗅覚における匂い認識の分子機構が明らかになりつつある。第一に、嗅覚受容体は共通の構造をもつ複数の匂い物質を認識し、一方で、匂い物質も複数の受容体によって認識されるといった、匂い物質と受容体が複数対複数の対応関係をもつことが明らかになった。第二に、それぞれの嗅神経細胞は、千種類もの受容体の中から一種類のみを選択的に発現し、同一の受容体を発現する嗅神経細胞は特定の糸球体に投射する。第三に、各受容体は嗅上皮全体に均一に発現しているのではなく、嗅上皮を分ける4つのゾーンのうちいずれか1つのゾーンに選択的に発現している。以上のように、細胞レベル、分子レベルでの嗅覚受容体に関する知見が蓄積されていく一方で、ある特定の匂い物質が嗅上皮上のどのゾーンでいくつの嗅神経細胞によって認識されているか、という匂い応答細胞の鼻腔内での空間的な分布についての知見は少ない。そこで、本研究では、ある特定の匂いに応答する細胞を嗅上皮上で可視化する技術を確立すること、及び、その系をもちいて各ゾーンで匂い物質を認識する嗅神経細胞の数と分布を解析し、鼻腔内での空間的な匂い地図の作成を目的とした。

 実験と結果

 1.マウス嗅上皮生切片を用いた匂い応答測定系の確立

 嗅上皮組織は鼻甲介によって複雑に入り組んだ特殊構造をとっているため、測定に適した厚さの生の嗅上皮前額断切片を再現性良く作製することは困難であった。そこで、様々な日齢のマウスを用いて検討したところ、生後2日から4日齢のマウスで厚さ85-90μmの嗅上皮生切片を再現性良く作製することに成功した。次に、成熟マウスにおいて発現ゾーンが既に同定されている嗅覚受容体遺伝子のin situ hybridizationを行ない、新生児マウスにおけるゾーン特異的な嗅覚受容体遺伝子の発現のパターンを確認し、各ゾーンの境界線の同定を行った(図1)。

 匂い物質で刺激を受けた嗅神経細胞では細胞内Ca2+濃度の上昇が起こることが知られている。そこで、嗅上皮生切片にCa2+蛍光指示薬Oregon Green 488 BAPTA-1/AMを負荷し、共焦点レーザー顕微鏡を用いて、嗅神経細胞内Ca2+濃度変化を測定した。嗅神経細胞を脱分極させる高濃度KCl、アデニル酸シクラーゼ活性化剤フォルスコリンを与えたところ、一過性の細胞内Ca2+の上昇が観測されたことから、嗅上皮生切片の嗅神経細胞が切片作製時に損傷を受けていないことが示された。また、3種類の脂肪族直鎖アルデヒドの匂い混合溶液を与えたところ、いくつかの嗅神経細胞で応答がみられ、作製した嗅上皮生切片の嗅神経細胞が匂いに応答することが確認された。共焦点レーザー顕微鏡を用いた測定法は、単一嗅神経細胞レベルでの応答解析が可能だが、一度に多くの嗅神経細胞の応答を測定するには適さない。本研究では匂いの応答を組織レベルで解析することが目的であるため、より広範囲な嗅上皮で測定することが望まれる。そこで蛍光顕微鏡を用いて測定を行ったところ、50倍の低倍率においても嗅神経細胞の応答を捉えることができたので、今後、本アッセイ系を用いて嗅上皮生切片での匂い応答を解析することにした。

 2.匂い物質の濃度変化に伴うゾーン別応答細胞数の変化

 匂い物質の一種ヘプタナールの濃度変化に伴う応答細胞数の変化を調べたところ、濃度依存的な応答細胞数の増加がみられた(図2)。これは、単離した嗅神経細胞や嗅球における匂い応答実験において、匂い物質の濃度上昇に伴って応答細胞数が増加するという報告と一致する結果である。次に、応答細胞のゾーン分布の変化を調べたところ、0.3mM以下のヘプタナールにはゾーン1で多く応答がみられ、ヘプタナール濃度の上昇に伴い、他のゾーンにおいても応答が見られるようになり、特に、ゾーン2+3において応答細胞数の顕著な増加がみられた(図3)。以上の結果より、ゾーン1には比較的高親和性のヘプタナール受容体が存在しており、ゾーン2+3には高濃度の閾値を持ったヘプタナールの受容体が比較的多く発現していると考えられる。また、ゾーン4においても濃度上昇に伴う応答細胞数の増加がみられたが、ゾーン1、2+3と比較すると応答細胞数が少なく、ゾーン4にはヘプタナール受容体が比較的少ないことを示唆している。以上の結果は、ある特定の匂い物質に対して異なった閾値をもつ受容体が複数存在し、これらの受容体は嗅上皮上で特定のゾーンに偏って分布していることを示唆している。

 3.様々な匂い物質に対する応答

 ヘプタナール以外にリナリルアセテート(ラベンダーの香り)、ベンジルアセテート(ジャスミンの香り)、プロピオン酸(酢のような匂い)、フェニルエタノール(バラの香り)の5種類の匂い物質を用いて0.1mMと1mMにおける応答細胞数と分布について調べた。0.1mMから1mMに濃度を上げるといずれの匂い物質でもヘプタナールと同様に応答細胞数の増加が確認された。一方、応答細胞の数と分布は匂い物質によってそれぞれ異なった。1mMでヘプタナールはゾーン1、ゾーン2+3、ゾーン4の順に応答細胞が多かったが、リナリルアセテートはゾーン1、2+3で応答細胞が多くみられ、ベンジルアセテートとプロピオン酸は比較的ゾーン1に多く応答がみられた。フェニルエタノールは5種類の匂い物質の中で全体の応答数がもっとも多く、なかでもゾーン2+3での応答数が最も多く認められた。以上の結果より、匂い物質の種類によって匂い応答を示す嗅神経細胞の数と分布は異なり、各匂い物質に特有の嗅上皮における応答細胞分布パターンが存在することが明らかになった。

 4.匂い物質の官能基と応答細胞の分布との関係

 匂い物質の化学構造と匂い物質のもつ匂いの質の間には相関関係が認められることが多いので、匂い物質の官能基は応答する受容体の種類を決定する因子の一つと考えられる。そこで、3種のアルデヒドと3種のカルボン酸を用いて、共通の官能基を有する匂い物質に応答する細胞が、嗅上皮上でどのように分布するかを調べた。アルデヒドとして、ヘプタナール、ドデシルアルデヒド、ベンズアルデヒドの3種類を、カルボン酸としてプロピオン酸、ヘプタン酸、安息香酸の3種類を用いた。それぞれ0.1mMで応答測定をした結果、アルデヒド群においては応答数と分布に共通の傾向は見られなかったが、カルボン酸群は応答数がそれぞれ異なるものの、3物質ともにゾーン1でもっとも多く応答がみられた。これらの結果はアルデヒドの受容体は特定のゾーンに局在していないのに対し、カルボン酸を認識する受容体群はゾーン1に多く局在していることを示唆している。

 また、この実験で用いた6つの匂い物質は官能基以外にも共通の化学構造を有していたので、1つの匂い物質に対してだけではなく、2〜4種類の匂い物質に対して応答する細胞が観察された。特に、ヘプタナールとヘプタン酸(C7のアルキル鎖が共通)、ベンズアルデヒドと安息香酸(フェニル基が共通)、ヘプタン酸と安息香酸(カルボキシル基が共通)というそれぞれ共通構造をもった3つの組み合わせに応答する細胞が比較的多く観察された。ヘプタナールとヘプタン酸に応答する細胞は全ゾーンにおいて応答がみられ、各ゾーン間での応答細胞数に有意な差はみられなかったことから、C7アルキル鎖を認識する受容体は嗅上皮全体に分布していると思われる。また、ベンズアルデヒドと安息香酸両方を認識する細胞は比較的ゾーン1で多かったことから、ゾーン1にはフェニル基を有する化合物を認識する受容体が多く存在していると考えられる。ヘプタン酸と安息香酸に応答した細胞もゾーン1で多くみられ、ゾーン1にカルボン酸を特異的に認識する受容体が発現していることが示唆された。

 まとめ

 新生児マウスから嗅上皮生切片を作製し、カルシウムイメージングを行うことで、様々な匂いに応答する嗅神経細胞の分布、すなわち、嗅上皮における匂い地図の作成が可能なアッセイ系を確立した。本アッセイ系を用いて、匂い物質の濃度変化に伴う応答細胞の数と分布の変化を解析したところ、各ゾーンでの濃度依存的な応答細胞数の増加と、ある特定の匂い物質を異なる閾値で認識する受容体の嗅上皮上での分布を明らかにした。また、異なる匂い物質は嗅上皮上で異なる応答細胞分布パターンを示したため、匂い物質に特有の受容体を発現している嗅神経細胞のゾーン特異的分布が示唆された。匂い物質の官能基と応答細胞の分布の関係を解析したところ、カルボン酸については応答細胞がゾーン1に局在していることが明らかになった。

 今後、本アッセイ系を用いることで、匂い物質の化学構造とそれを認識する受容体の嗅上皮分布の相関関係についての詳細な解析や、匂い物質のもたらす生理的、心理的な効果と認識する受容体の嗅上皮分布の相関関係についての解析が可能であると考えられる。解剖学上、特殊な構造をもつ鼻腔空間における匂い情報入力の第一ステップを可視化することは、嗅覚における化学受容機構に新たな知見を提供することが期待される。

図1 マウス嗅上皮前額断切片

鼻腔(NC)は鼻中隔(S)を中心に、左右対称な形をしている。ここに外界から匂い物質が入ってくる。嗅上皮(OE)は嗅覚受容体のin situ hybridizationによってゾーン1から4までの領域に分けられるが、本研究では白、グレー、黒で示した3つのゾーン(ゾーン1、ゾーン2+3、ゾーン4)に分けて解析を行った。

図2 ヘプタナールの濃度変化と嗅上皮における応答細胞の増加

図1において四角で囲まれた領域を測定した結果である。黒い点は応答細胞を示している。この実験において、0.1mMでは5細胞、0.3mMでは9細胞、1mMでは23細胞、3mMでは44細胞に応答が確認され、ヘプタナールの濃度変化に依存して応答細胞の増加がみられた。

図3 ヘプタナールの濃度変化に伴う応答細胞数と分布の変化

各濃度に応答した細胞数を各ゾーン嗅上皮0.1mm2当たりの応答数に換算した。濃度依存的な応答数の増加は全ゾーンで見られた。しかし、各ゾーンで応答の数、増加量の変化は異なり、異なる親和性のへプタナール受容体が異なるゾーンに発現していると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 哺乳類は、外界から入ってきた匂い物質を鼻腔内嗅上皮の嗅神経細胞で受容し、その情報を嗅球、嗅皮質といった中枢神経系へ段階的に伝達することによって匂いの識別を行っている。多重遺伝子群を形成する嗅覚受容体は、各嗅神経細胞で一種類のみが選択的に発現し、嗅上皮を4つにわける領域(ゾーン)のいずれかに発現している。細胞レベル、分子レベルでの嗅覚受容体に関する知見が蓄積されていく一方で、匂い物質が嗅上皮上のどのゾーンでいくつの嗅神経細胞によって認識されているかという匂い応答細胞の鼻腔内での空間的な分布についての知見は少ない。本研究では、ある特定の匂いに応答する細胞を嗅上皮上で可視化する技術を確立すること、及び、その系をもちいて各ゾーンで匂い物質を認識する嗅神経細胞の数と分布を解析し、鼻腔内での空間的な匂い地図の作成を目的としたものである。

 序論では嗅覚研究に関する一般的な背景について概説している。次に、本研究の目的を述べたあと、使用した試薬と手法について詳細に記載されている。

 結果は、四章から構成されている。第一章では、新生児マウスから嗅上皮生切片を作製し、カルシウムイメージングを行うことで、様々な匂いに応答する嗅神経細胞の分布、すなわち、嗅上皮における匂い地図の作成が可能なアッセイ系を確立している。嗅上皮組織は鼻甲介によって複雑に入り組んだ特殊構造をとっているため、測定に適した厚さの生の嗅上皮前額断切片を再現性良く作製するために、様々な条件検討を行うことによって最適手法を開発している。第二章では、確立したアッセイ系を用いて、匂い物質の濃度変化に伴う応答細胞の数と分布の変化を解析し、各ゾーンでの濃度依存的な応答細胞数の増加と、ある特定の匂い物質を異なる閾値で認識する受容体の嗅上皮上での分布を明らかにしている。第三章では、様々な匂い物質を用いて測定したところ、嗅上皮上で匂いによって異なる応答細胞分布パターンを示し、匂い物質に特有の受容体を発現している嗅神経細胞のゾーン特異的分布を明らかにしている。第四章では、匂い物質の官能基と応答細胞の分布の関係を解析しており、カルボン酸については応答細胞がもっとも内側背側のゾーンに局在していることが明らかにしている。また、アルデヒド基をもつ匂い物質に関しては嗅上皮全体で応答がみられ、アルコール基をもつ匂い物質は、比較的外側腹側の領域に応答がみられたことを報告している。すなわち、本研究で開発した新規アッセイ系を用いて、匂い物質の化学構造とそれを認識する受容体の嗅上皮分布の相関関係についての解析や、匂い物質のもたらす生理的、心理的な効果と認識する受容体の嗅上皮分布の相関関係についても解析している。このように、解剖学上、特殊な構造をもつ鼻腔空間における匂い情報入力の第一ステップを可視化することに初めて成功している。

 最後に、本研究についての考察では、研究の意義、問題点、今後の課題を詳細に記している。

 以上、本論文では、マウスの嗅上皮生切片の作製技術を確立し、in situ細胞レベルでの嗅上皮匂い応答測定を初めて可能にした。この新手法を使って、嗅上皮における匂い応答細胞の分布を解析し、鼻腔空間の匂い地図と匂い物質構造との相関関係を明らかにした。本研究で確立した手法は、今後様々な嗅覚研究に応用されると思われ、嗅覚における化学受容機構の詳細な解明のために新たな道を切り開いたものであり、学術上、応用上、貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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