学位論文要旨



No 117217
著者(漢字) 黒木,豊
著者(英字)
著者(カナ) クロキ,ユタカ
標題(和) 麹菌Aspergillus oryzaeの液胞膜ATPaseに関する研究
標題(洋)
報告番号 117217
報告番号 甲17217
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2413号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北本,勝ひこ
 東京大学 教授 五十嵐,泰夫
 東京大学 教授 依田,幸司
 東京大学 助教授 堀内,裕之
 東京大学 助教授 中島,春紫
内容要旨 要旨を表示する

 麹菌Aspergillus oryzaeは、我が国で清酒や味噌、醤油などの伝統的な醸造に古くから利用されている産業的に重要な微生物であり、我々の食文化に欠かすことのできない日本を代表する微生物である。また、麹菌の持つ極めて高いタンパク質分泌生産能が注目され、酵素生産などのバイオテクノロジーの分野においても幅広く用いられている。麹菌が生産するアミラーゼやプロテアーゼなどの産業的に重要な多種類の酵素、その遺伝子やプロモーター、並びにそれらの分泌生産に関わる研究が活発に進められてきた。しかし、一方、麹菌は有性世代をもたないことから、交配による遺伝学的解析が不可能であり、その高い有用性にもかかわらず分子生物学的な基礎研究は十分とはいえなかった。

 1998年に、麹菌A.oryzaeのEST(Expressed Sequence Tags)解析プロジェクトが私の所属する研究室を含む日本の複数の研究グループにより開始された。液体培養や固体培養などの様々な条件で培養した菌体から調製したmRNAよりcDNAライブラリーを作製し、塩基配列の解析を行うものであった。現在までに合計約17,000のESTの塩基配列が決定され、約6,000のクラスターに分類されている。すなわち、麹菌の持つ約10,000の遺伝子のうち約60%の遺伝子の部分配列情報が利用可能となっている。さらに、2001年8月に麹菌A.oryzaeの全ゲノム解析が製品評価技術基盤機構により開始され、2002年初めには、ドラフト配列が決定される予定である。

1.A.oryzaeのEST解析

 麹菌A.oryzaeは、生育可能なpH域が3〜12と広く、長い歴史をもつ清酒用種麹の製造過程では木灰添加によるアルカリ性環境により、ほぼ純粋な分生子生産が達成されている。木灰添加の意義は灰のアルカリ度による雑菌繁殖の抑制、木灰に含まれるカリウムやリンなどの無機物による麹菌発育促進作用、麹菌の分生子着生を阻害する酸性化合物の中和などと考えられており、これらの手法は微生物学的に実に巧妙で我が国独自のものである。しかし、アルカリ性環境における麹菌の生育状況および遺伝子の発現制御については現在までほとんど明らかにされいない。そこで、アルカリ性環境下で生育した麹菌A.oryzaeより調製したcDNAから1,500あまりのクローンについてEST解析を行った。他の培養条件下で解析されたESTとの比較検討を行った結果、アルカリプロテアーゼやアルカリフォスファターゼなど以外に酵母の液胞膜ATPaseのVMA1、VMA3、VPH1遺伝子と高い相同性を持つ配列がアルカリ性環境で強く発現していることを見い出した。本研究では、これらの遺伝子をクローニングし、構造及び機能について解析を行った。液胞膜ATPaseはATPのエネルギーを使って、液胞、リソソーム、エンドソームなどのオルガネラ内部酸性化を保つために重要な役割を担うプロトン輸送性ATPaseである。酵母の液胞膜ATPaseは13種類のsubunitから構成され、細胞質側の親水性subunit群V1ドメインと膜内在性の疎水性subunit群V0ドメインが結合してProton pompを形成する。Vma1p、Vma3p、Vph1pはそれぞれV1 subunit A、V0 subunit c、V0 subunit aに相当する。

2.A.oryzae vmaA遺伝子のクローニングと構造解析

 酵母の液胞膜ATPaseサブユニットのVma1pホモログをコードする遺伝子をA.oryzaeよりクローニングし、vmaAと命名した。A.oryzaeのESTで得られた配列をプローブとして、A.oryzaeゲノムライブラリーからプラークハイブリダイゼーションを行い、得られたクローン及び対応するcDNAについて塩基配列を決定した。その結果、1つのイントロンを含み605アミノ酸からなるタンパク質をコードする遺伝子(vmaA)を見い出した。予想されるVmaAアミノ酸配列はNeurospora crassaのVma1pと71%、Saccharomyces cerevisiaeのVma1pと69%、HumanのATP6A2と49%の相同性を有していた。また、他の生物種の液胞膜ATPaseと同様に、A.oryzae VmaApにはATP結合領域が保存されていた。以上より、A.oryzae vmaA遺伝子が液胞膜ATPase subunit Aとして機能していると考えられた。

 S.cerevisiaeのVma1pは利己的遺伝子VDE(VMA1-derived endonuclease)が挿入された形で翻訳され、プロテイン・スプライシングにより成熟化することが知られている。A.oryzae VmaApにVDEは存在しなかったが、vmaA遺伝子中の推定上のホーミング位置付近には、切断に必須の配列が保存されていることを見い出した。

 培地のpHによるvmaAの転写量をノーザン解析により検討した。A.oryzae野生型RIB40株を、酸性、中性、アルカリ性で培養し、菌体からtotal RNAを調製した。

vmaA cDNAをプローブとしてノーザン解析を行い、他の培養条件下と比較してアルカリ性条件下で強く発現していることを見い出した。

 vmaA遺伝子cDNAの全長をS. cerevisiaeのvma1破壊株において発現させたところ、アルカリ性pHおよび高Ca2+培地における生育感受性の相補が観察された。

 次に麹菌におけるvmaA遺伝子の機能について解析するため、A. oryzaeのvmaA遺伝子破壊株を作製し、その表現型について観察を行った。硫酸塩資化に関与するsC遺伝子をマーカーとして、A. oryzae染色体上のvmaA遺伝子を相同組み換えによって破壊し、PCRおよびサザン解析により、vmaA遺伝子破壊株の取得を確認した。vmaA遺伝子破壊株の寒天培地上での生育を野生株と比較したところ、vmaA破壊株は特にアルカリ性培地での生育が強く阻害され、pH9.0以上では生育できないことを観察した。顕微鏡観察では、アルカリ性培地で菌糸の直径が細くなることや液胞が小さくなっていることを見い出した。

3.A.oryzae vmaC遺伝子のクローニングと構造解析

 液胞膜ATPase Vma3pホモログをコードする遺伝子をA. oryzaeよりクローニングし、VmaCと命名した。A.oryzaeのESTで得られた配列を基にゲノムライブラリーからプラークハイブリダイゼーションを行い、vmaC遺伝子を単離した。対応するcDNA塩基配列との比較から5つのイントロンを含み161アミノ酸からなるタンパク質をコードすると推定された。予想されるVmaCpアミノ酸配列はN. crassaのVma3pとは81%の相同性を示し、S. cerevisiaeのVma3pとは78%、HumanのATP6Cとは70%の相同性、また植物のArabidopsis thaliana AVA1pとは63%の相同性を有していた。また、他の生物種の液胞膜ATPaseと同様に、A. oryzae VmaCpにもDCCD binding siteが保存されていた。これらのことから、A.oryzae vmaC遺伝子が液胞膜ATPase subunit cとして機能していると考えられた。

 A. oryzae VmaCpのアミノ酸配列のハイドロパシー分析により、VmaCpは疎水性の4回膜貫通タンパク質であると推定された。さらに、vmaC遺伝子の転写量をノーザン解析により検討したところ、vmaA同様アルカリ性培養条件下で強く発現していることが見い出された。

 vmaC遺伝子のcDNAをS. cerevisiaeのvma3破壊株において発現させたところ、アルカリpHおよび高Ca2+培地における生育感受性を相補した。しかし、VMA3遺伝子と高い相同性を有するVMA11遺伝子の破壊株のアルカリ性pHおよび高Ca2+感受性を相補しなかった。

 相同組換えによってvmaC遺伝子破壊株を作製し、その表現型について観察を行った。野生株と比較してアルカリ性培地におけるvmaC破壊株の生育は抑制されていたが、pH10.5の培地上でも生育可能であった。顕微鏡観察により、アルカリ性培地で生育するvmaC破壊株の液胞の膨張が認められた。

4.A.oryzae vphA遺伝子のクローニングと構造解析

 液胞膜ATPase Vph1pホモログをコードする遺伝子をA.oryzaeよりクローニングし、vphAと命名した。A.oryzaeのESTで得られた配列を基に前述と同様の手法によりvphA遺伝子を単離した。vphA遺伝子は6つのイントロンを含み854アミノ酸からなるタンパク質をコードすると推定された。予想されるVphApアミノ酸配列はN.crassaのVph1pと72%、S.cerevisiaeのVph1pと67%、Schizosaccharomyces pombeのVph1pとは66%の相同性を有していた。

 vphA遺伝子のcDNAをS. cerevisiaeのvph1破壊株に発現させたところ、アルカリ性pHおよび高Ca2+培地における生育阻害を相補した。しかし、VPH1遺伝子と高い相同性を有するSTV1遺伝子の破壊株のアルカリ性pHおよび高Ca2+感受性は相補しなかった。

 まとめ

 本研究ではA.oryzaeの液胞膜ATPase V1 subunit A、V0 subunit c、及びV0 subunit aをコードすると推定されるvmaA、vmaC、vphA遺伝子をクローニングし、解析を行った。vmaA、vmaC遺伝子破壊株は共に野生株と比較して生育が遅いことが観察された。vmaA破壊株の生育pH範囲はpH5.0〜8.5でアルカリ性側での生育が強く抑制されるのに対し、vmaCの破壊株はpH5.0〜10.5で生育可能であった。さらに顕微鏡により双方の破壊株の表現型を観察したところ、アルカリ性培地でvmaA破壊株は菌糸直径及び液胞の縮小が見られたが、vmaC破壊株では逆に液胞の膨張が認められた。酵母においては液胞膜のHomotypicな膜融合に際して、液胞膜ATPaseのV0ドメインが融合の開始部位の形成に関与すると報告されている。これらの破壊株を使用することにより、液胞形成に関するV1ドメインとV0ドメインの果たす役割を解明することが可能と思われる。

1.Kuroki, Y., Juvvadi, R. P., Arioka, M., Nakajima, H., Kitamoto, K. Cloning, expression and functional characterization ofvmaA, the gene encoding a 69-kDa catalytic subunit of the Vacuolar H+-ATPase from Aspergillus oryzae (submitted)

2.Kuroki, Y., Juvvadi, R. P., Arioka, M., Nakajima, H., Kitamoto, K. Molecular cloning and functional analysis of vmaC, the gene encoding a 16-kDa proteolipid subunit of the Vacuolar H+-ATPase from Aspergillus oryzae (submitted)

審査要旨 要旨を表示する

 麹菌Aspergillus oryzaeは、我が国で清酒や味噌、醤油などの伝統的な発酵食品に古くから利用されている産業的に重要な微生物であり、麹菌の持つ極めて高いタンパク質分泌生産能が注目されている。また、酵素生産などのバイオテクノロジーの分野においても研究が進んでいるものの、基礎生物学的観点からの研究は遅れている。本研究は、麹菌A. oryzaeのアルカリ性での生育に関するものであり、4章からなる。

 第1章では、A.oryzaeのアルカリ性でのEST(Expressed Sequence Tag)解析に関して述べている。A. oryzaeは生育可能なpH域が3〜12と広く、長い歴史をもつ清酒用種麹の製造過程では木灰添加によるアルカリ性環境により、ほぼ純粋な分生子生産が達成されている。しかし、アルカリ性環境における麹菌の生育状況および遺伝子の発現制御については現在までほとんど明らかにされていない。そこで、アルカリ性環境下で生育したA. oryzaeより調製したcDNAから約1,500のクローンについてEST解析を行い、他の培養条件下で解析されたESTとの比較検討を行った結果、酵母液胞膜ATPaseのVMA1、VMA3、VPH1遺伝子と高い相同性を持つ配列がアルカリ性環境で多く発現していることを見出した。液胞膜ATPaseはATPのエネルギーを使って、液胞などのオルガネラ内部酸性化のために重要な役割を担うプロトン輸送性ATPaseである。

 第2章では、A.oryzae vmaA遺伝子のクローニングについて述べている。酵母の液胞膜ATPaseサブユニットのVma1pホモログをコードする遺伝子をA.oryzaeよりクローニングし、vmaAと命名した。さらに、得られたクローン及び対応するcDNAについて塩基配列を決定した。その結果、3つのイントロンを含み605アミノ酸からなるタンパク質をコードする遺伝子(vmaA)を見い出した。また、他の生物種の液胞膜ATPaseと同様に、A. oryzae VmaApにはATP結合領域が保存されていた。以上より、A. oryzae vmaA遺伝子が液胞膜ATPase subunit Aとして機能していると考えられた。培地のpHによるvmaAの転写量をノーザン解析により検討したところ、他の培養条件下と比較してアルカリ性条件下で強く発現していることを見い出した。vmaA遺伝子cDNAの全長をS. cerevisiaeのvma1破壊株において発現させたところ、アルカリ性pHおよび高Ca2+培地における生育感受性の相補が観察された。次に麹菌におけるvmaA遺伝子の機能について解析するため、vmaA遺伝子破壊株を作製し、その表現型について観察を行った。vmaA破壊株は特にアルカリ性培地での生育が強く阻害され、pH9.0以上では生育できないことが観察された。顕微鏡観察では、アルカリ性培地で菌糸の直径が細くなることや液胞が小さくなっていることを見い出した。

 第3章では、A. oryzae vmaC遺伝子のクローニングについて述べている。酵母Vma3pホモログをコードする遺伝子をA.oryzaeよりクローニングし、vmaCと命名した。対応するcDNA塩基配列との比較から5つのイントロンを含み161アミノ酸からなるタンパク質をコードすると推定された。また、他の生物種の液胞膜ATPaseと同様に、A.oryzae VmaCpにもDCCD binding siteが保存されていた。A. oryzae VmaCpのアミノ酸配列のハイドロパシー分析により、VmaCpは疎水性の4回膜貫通タンパク質であると推定された。さらに、vmaC遺伝子の転写量をノーザン解析により検討したところ、vmaA同様アルカリ性培養条件下で強く発現していることが見い出された。vmaC遺伝子のcDNAをS. cerevisiaeのvma3破壊株において発現させたところ、アルカリpHおよび高Ca2+培地における生育感受性を相補した。A. oryzae vmaC遺伝子破壊株を作製し、その表現型について観察を行ったところ、野生株と比較してアルカリ性培地におけるvmaC破壊株の生育は抑制されていたが、pH10.5の培地上でも生育可能であった。

 第4章では、A. oryzae vphA遺伝子のクローニングについて述べている。液胞膜ATPase Vphlpホモログをコードする遺伝子をA. oryzaeよりクローニングし、vphAと命名した。vphA遺伝子は6つのイントロンを含み854アミノ酸からなるタンパク質をコードすると推定された。vphA遺伝子のcDNAをS. cerevisiaeのvph1破壊株に発現させたところ、アルカリ性pHおよび高Ca2+培地における生育阻害を相補した。しかし、VPH1遺伝子と高い相同性を有するSTV1遺伝子の破壊株のアルカリ性感受性は相補しなかった。

 以上、本研究はA. oryzaeのアルカリ性で発現している遺伝子の解析から得られた知見をもとに、液胞膜ATPaseの主要なサブユニットをコードする遺伝子を単離、解析したものであり、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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