学位論文要旨



No 117230
著者(漢字) 佐藤,喜和
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,ヨシカズ
標題(和) 北海道浦幌地域におけるヒグマによる被害の発生機構に関する生態学的研究
標題(洋) An ecological study on human-bear conflicts in Urahoro, Hokkaido
報告番号 117230
報告番号 甲17230
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2426号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 樋口,広芳
 東京大学 教授 高槻,成紀
 東京大学 助教授 宮下,直
 岩手大学農学部 教授 青井,俊樹
 京都大学大学院農学研究科 講師 高柳,敦
内容要旨 要旨を表示する

 ヒグマ(Ursus arctos)は,ヨーロッパ,アジア,北アメリカの森林を中心に,ツンドラから砂漠地域にいたる広い範囲に分布している.本種は食肉目クマ科の大型獣で,その行動圏は数千平方キロにも及ぶこともある.このため,ヒグマの安定した生存には広い生息地が必要であるが,その分布域は人間による開発で1800年代半ば以降急速に縮小している.一方ヒグマは,ときに人間に危害を加える危険な存在でもあるため,有害獣として駆除され,世界中で個体数が減少傾向にある.このためすでに地域的絶滅が進行している欧米では積極的な保護が行われている.

 日本では,ヒグマ(U. a. yesoensis)は北海道のみに生息している.1800年代後半までは北海道全体に生息していたが,明治以降の開発により,生息地は縮小分断化した.現在,大きく5地域に分断されていると考えられており,そのうち1つは日本版レッドデータブックにおいて,絶滅の恐れのある地域個体群に指定されている.

 この現状に対し,1990年代に入ると狩猟や駆除制度の改正など,ヒグマを保護する方針が採られてきた.しかし,現在でも人身被害や,農業被害,市街地への出没などの被害が続いているため,その対策として有害駆除が行われている.また10月〜1月には狩猟が認められており,両者をあわせて年平均250頭が捕獲されている.

 北海道におけるヒグマによる被害は,1990年代以降特に増加していると指摘されており,その原因として,個体数の回復や,ヒグマの人馴れ,農地への依存度の増加,森林環境の悪化などの可能性が指摘されている.被害増加への対策としては,ほとんどが駆除による対策だけに頼っている.しかし,今あるヒグマ地域個体群を保全し,かつ被害を減らすためには,駆除に頼るだけの対策を見直し,科学的に管理する必要がある.そのためにはヒグマの個体数動向の把握や生態の解明,有効な被害対策の提言が不可欠である.

 これまで北海道におけるヒグマの研究は,ヒグマの生息密度が高い渡島半島地域と知床半島地域において行われてきた.しかし,近年の被害増加は,このようなヒグマの高密度地域に限らず,各地で報告されている.にもかかわらず高密度地域以外では,ヒグマの生態調査はほとんど行われていなかった.

 北海道東部では1990年代に入ってエゾシカ(Cervus nippon yesoensis)の個体数が急増しており,農林業被害が深刻な問題となっている.また,森林生態系においても,樹皮はぎや,林床植生の破壊,幼樹食害などが発生している.一方,シカの狩猟残滓の放置は大型海ワシ類の内陸部への進出を促し,シカ残滓内に残る鉛弾で鉛中毒が起きていることが報告されている.また,ヒグマがシカを採食する割合が増加したという報告もある.このことから,近年の北海道東部地域におけるシカ個体数増加とヒグマによる被害増加の同時性には,何らかの関係があることが予想される.

 以上のような背景から本論文は,近年ヒグマによる被害が増加しており,同時にエゾシカの個体数が増加している北海道東部を主な対象地域とし,ヒグマによる被害の発生機構を明らかにし,ヒグマ地域個体群の存続と被害減少に必要なことがらを検討した.本論文の構成は次の通りである.

 全道のヒグマ捕獲個体の胃内容分析によって,全道的被害の傾向を明らかにする.そのために,大量の試料を効率的に分析する方法の検討を行い(第2章),その方法を用いて北海道内の3つのヒグマ地域個体群について食性を明らかにする(第3章).次に,北海道東部地域における典型的被害増加地域である浦幌町において過去の調査記録との比較により,同町におけるヒグマの生息密度と食性がいかに変化したかを明らかにし,被害増加の原因が個体数の増加にあるのか,それとも食性の変化にあるのかを明らかにする(第4章).そして,電波発信器を用いた追跡によりヒグマの生息地利用様式を明らかにし,食性との対応を検討する(第5章).またDNA個体識別法により個体数推定と農地侵入個体の識別を行う(第6章).そして,生活の変化をもたらしたと考えられる環境要因の変化(森林・シカ・農業形態)を整理し,ヒグマの近年の行動の変化をもたらしている原因を考える(第7章).最後に,これらの結果から示唆される今後の管理方針について提案する(第8章).

 道内で捕殺されたヒグマの胃内容物分析から,3地域個体群(渡島半島地域,道東宗谷地域,日高夕張地域)の食性を調べた結果,3地域とも共通した季節変化が認められた.すなわち,春から初夏にかけて主に草本類,晩夏には農作物,秋には果実類を利用した.ただし北海道南西部の渡島半島地域では,廃棄物の利用割合が高いこと,東北部の道東宗谷地域では,1980年代には報告のほとんどなかったシカを年間を通じて採食していること,初夏にも高い割合で農作物を利用することが特徴的だった.

 北海道東部の浦幌町では,ヒグマによる農業被害が増加しており,現在は毎年被害が発生している.このため被害対策として行われる有害駆除数も近年増加している.同地域で,森林内のヒグマの糞密度を1978年と2000年で比較した結果,密度は大きく減少していることが明らかとなった.また糞分析の結果,1978年には利用されていなかった農作物が初夏から晩夏にかけて,シカが年間を通じて利用されていることが確認された.このことから,浦幌地域における近年の被害増加は,ヒグマの個体数の増加ではなく食性の変化によるものと考えられた.

 ヒグマを捕獲し電波発信機を装着することで,ヒグマの生息地利用を調べた結果,晩夏に農地を選択的に利用する個体の存在が明らかとなった.このことは糞分析による夏の農作物利用の結果とよく一致していた.

 野外でヒグマを捕獲することなく個体識別する方法として,体毛を回収するトラップと,毛根DNAを抽出し個体識別する方法を用いて,個体数推定と農地侵入個体の特定を行った.その結果,2000年には最低26頭のクマが調査地内を利用したことが明らかとなった.1km2あたりの密度に換算すると2.3-6.4頭となり,道内では中程度の密度と考えられた.また7頭の農地侵入が確認され,1頭のヒグマが複数の畑に侵入した証拠を得た.このことが,地域住民がヒグマによる被害はヒグマが増えたから増加したのだという印象を持つ原因となっていると考えられた.

 ヒグマの食性が変化し,夏の行動圏が農地依存的になった原因として,森林環境の変化,シカの個体数増加,農業環境の変化を検討した.広葉樹の伐採と針葉樹の植林は,1960-70年代にピークを迎えており,近年のヒグマによる被害増加と直接関係があるとは考えられなかった.一方道東地域におけるシカの個体数は1990年代に入り急増した.その結果,農業被害対策としての有害駆除数は浦幌町だけで年間2,000頭を越えた.また年間1,000頭程度の狩猟も行われている.駆除や狩猟後の死体は,必要な部位だけ採取され,残りは残滓として捕獲地点に放置されることが多い.特に年間を通じて行われている駆除は農地付近で多く行われており,農地付近に多数の残滓が放置されていると考えられる.シカの農業被害対策として行っている駆除が,ヒグマを農地付近へと誘引する原因となっている可能性が示唆された.一方過去20年間でヒグマの嗜好作物であるビートやトウモロコシの作付面積は増えていないが,農業従事者数の減少,大規模機械化経営により,農地単位面積あたりの労働時間が減少しており,このことがヒグマが農地侵入時に人間と会う頻度の低下につながったと考えられた.

 以上のことから,浦幌地域では,ヒグマの個体数は減少しているにもかかわらず,農地付近のシカ残滓の増加,農地侵入時に人と出会う頻度の低下などのためにヒグマの食性と生息地利用が変化し,被害が増加したと考えられた.このことは,現在行われているヒグマの駆除のように生息数減少を目標にした駆除では,被害がなくなるときにはヒグマが絶滅したときという結果を招きかねないことも示唆している.駆除は必要だが,その対象は被害をもたらす有害個体に限定すること,被害が起こりにくくするための対策が必要である.これに基づき,浦幌地域におけるヒグマによる被害の減少と地域集団保全のために,まず,有害個体の識別法として,農地侵入箇所から回収したヒグマの体毛からDNA個体識別する方法を,また許容駆除頭数を明らかにするために,ヘアトラップとDNA個体識別を用いた個体数推定法を提案した.次に,被害を減少させるために,ヒグマを農地付近へ誘引していると考えられるシカ残滓の適切な処理ついて提案した.

審査要旨 要旨を表示する

 ヒグマ(Ursus arctos)の生息域は,人間による開発により急速に縮小している.また個体数も減少傾向にあり,地域的絶滅が進行中の欧米では積極的保全が行われている.日本のヒグマ(U. a. yesoensis)は北海道のみに生息しているが,世界的傾向と同様生息地は縮小分断化し,生息数も減少している.この現状に対し,保全方針が採られてきたが,人身被害や農業被害などが続いており,駆除が行われ,狩猟とあわせて年平均約250頭が捕獲されている.

 北海道におけるヒグマによる被害は1990年代以降特に増加していると指摘され,原因として個体数の回復や農地への依存度の増加,森林環境の悪化などが指摘されている.被害増加への対策としては,ほとんどが駆除に頼っている.地域個体群を保全し,かつ被害を減らすためには,これを見直し,科学的に管理する必要がある.そのために個体数動向の把握や生態の解明,有効な対策の提言が不可欠である.

 北海道東部では1990年代に入ってエゾシカ(Cervus nippon yesoensis)の個体数が急増しており,農林業被害が問題となっている.一方,ヒグマがシカを採食する割合が増加したという報告もあり,近年のシカ個体数増加とヒグマによる被害増加の同時性には,何らかの関係があるものと予想される.

 以上のような背景から,本論文は近年ヒグマによる被害が増加しており,同時にエゾシカの個体数が増加している北海道東部を主な対象地域とし,ヒグマによる被害の発生機構を明らかにし,ヒグマ地域個体群の存続と被害減少に貢献することを目的としている.

 道内で捕殺されたヒグマの胃内容物分析から,3地域個体群の食性を調べた結果,共通した季節変化を認めた.すなわち,春から初夏にかけて主に草本類,晩夏には農作物,秋には果実類を利用したことを示した.

 北海道東部の浦幌町では,ヒグマによる農業被害が増加しており,有害駆除数も増加している.1978年と2000年のヒグマの糞密度にもとづく生息密度を比較した結果,密度は大きく減少していた.また糞分析の結果,1978年には利用されていなかった農作物とシカが増加していた.このことから,浦幌地域における近年の被害増加は,ヒグマの個体数の増加ではなく食性の変化によるものと考えた.

 次に,ラジオテレメトリー法でヒグマの生息地利用を調べた結果,晩夏に農地を選択的に利用しており,糞分析による夏の農作物利用の結果と符合することを示した.

 また,毛根DNAによる個体識別法により農地侵入個体の特定を行った結果,7頭のヒグマが農地に侵入したことと1頭が複数の畑に侵入した証拠を得た.このことにより,ヒグマが増加したのだという印象を与える原因となっていることを示した.

 以上のように食性が変化し,夏の行動圏が農地依存的になった原因として,森林環境の変化を検討した.森林伐採・植林のピーク(1960-70年代)は,ヒグマによる被害増加とずれがあることを示した.一方,シカ個体数は急増し,狩猟と駆除によって多くのシカ死体残滓が放置されることになった.特に駆除は農地付近で多く行われていることから,農地付近に多数の残滓が放置されるため,シカ駆除が,ヒグマを農地付近へと誘引する原因となっている可能性を示した.一方,過去20年間でビートやトウモロコシの作付面積は増えていないが,農地単位面積あたりの労働時間が減少したために,ヒグマの農地侵入を容易にしている可能性を指摘した.

 以上のことから,浦幌ではヒグマの個体数は減少しているにもかかわらず,農地付近のシカ残滓が増加し,農地に進入しやすくなったために食性と生息地利用が変化した結果,被害が増加したことを示した.そして現行の駆除を優先した被害対策を続けると絶滅の危険があることを指摘した.そして以下の提案をした.1)有害個体識別法として,ヒグマの体毛からDNA個体識別する方法は有効である,2)ヘアトラップとDNA個体識別による個体数推定を行えば,適正な駆除頭数算定が可能である,3)シカ残滓は適切に処理すべきである.

 以上,本論文は世界的に危機的状況にあるヒグマがわが国の北海道においては,増加はしていないにもかかわらず強度の駆除が行われていることの問題点を,ヒグマの食性,行動圏利用,ヘアトラップによるDNA解析による農耕地出没状況など新手法をとりこみながら指摘し,その問題解決案を提示したもので,応用動物科学や保全生物学に貢献するところが少なくない.よって審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた.

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