学位論文要旨



No 117231
著者(漢字) 阿久津,仁美
著者(英字)
著者(カナ) アクツ,ヒトミ
標題(和) 嗅覚系を介した自律機能の調節機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 117231
報告番号 甲17231
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2427号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 助教授 桑原,正貴
 東京大学 助教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

 哺乳類は嗅覚情報を受容して個体の生存と繁殖のために利用している。例えば捕食者の匂いは生得的な警戒反応を発現させ,鋤鼻嗅覚系で受容される性フェロモンは繁殖行動を調節し,また群を形成する動物では個体間の匂い交換は順位制の基本的情報となり,繁殖をめぐる競合を回避する役割を果たしていることなどが推察されている。嗅覚情報の重要性は動物種によって異なるが,下等な哺乳類では嗅覚が主たる情報源であり,脳に占める嗅覚系の割合も大きい。哺乳類全体を通してみれば,嗅覚はあらゆる動物種に共通して保有されている原始的感覚と言えるが,嗅覚に関する研究は他の感覚系に関する研究と比較して遅れている分野であった。最近になってこの分野に画期的な進展が見られ,1991年に匂い受容体遺伝子が,さらに1995年にフェロモン受容体遺伝子がクローニングされ,嗅覚研究は受容機構の観点から分子生物学的手法を用いて急速に発展した。しかし嗅球以降の神経回路,つまり嗅覚刺激が記憶や情動,自律機能に与える影響のメカニズムに関しては,未だに不明な点が数多く残されている。

 緑葉に含まれる"みどりの香り"に代表されるような植物由来の香気成分は,草食動物にとっては餌そのものの,また肉食動物にとっては餌となる動物の存在を示す匂いとして受容されると考えられている。ヒトにおいては最近アロマセラピー作用を持つ物質としてこれらの香気成分に関心が持たれ,脳機能に対する影響についてMRIや脳磁場測定法といった非侵襲的手法を用いて研究が進められている。しかしこうした方法では微妙な生理的変化を解析することが困難であるため,匂い刺激の生体への作用について生理的・行動的指標を用いた動物実験系の確立が待たれていた。そこで本研究では,ラジオテレメトリーシステムによる自律機能の解析と行動観察を同時に行うことができる新たな研究手法を確立し,ラットにおける植物由来香気成分の影響を解析することを試みた。

 第1章は緒言であり,本研究の背景と目的について述べた。嗅覚研究においては現在,嗅覚受容体の再構築をはじめ,匂い受容の分子メカニズム,嗅球の糸球体における受容体の分布や嗅球から大脳への神経投射経路などについて多くの新知見が蓄積されつつあるが,一方で匂い暴露による個体への影響については未解明な点がまだ多く残されている。こうした状況を概説し,またストレス反応に対する匂い物質の影響を自律機能や行動を指標に評価する系を基本モデルに採択した理由について解説した。

 第2章では,まずラジオテレメトリーシステムを用いてラットのストレス反応のモニタリングを行った。このシステムでは覚醒・自由行動下のラットから自律機能を連続して記録することができるため,行動観察とあわせてストレス反応を評価するような実験系には特に有用である。送信機を腹腔内に留置する手術を施され休息状態にあるラットを,ホームケージから新奇環境である洗浄済みのケージに移し入れた後60分間の体温と心拍数を測定すると,stress-induced hyperthermiaと呼ばれる一過性の体温上昇と心拍数増加が観察され,ラットのストレス反応を高い再現性を持って誘起することができた。次に香気成分が安静時の自律機能や行動に与える影響を調べる目的で,ラットのホームケージに0.03%に希釈した匂い物質,すなわちラベンダーエッセンシャルオイル,みどりの香り(cis-3-hexenol, trans-2-hexenal),α−ピネンおよび対照区としてそれらの溶剤をそれぞれ200μl散布し,これらの匂いにラットを暴露した。この場合,ラットが飼育されている防音箱の扉を開けたことによる影響が体温と心拍に現れたものの,匂い物質による明確な効果は観察されなかった。次に本実験として,新奇環境ストレスを与える際に同時に匂い物質に曝露して,上述のストレス反応がどのような変化を示すかについて観察した。溶剤を暴露した場合および匂い物質を用いない2種類の対照群では,いずれもストレス反応に変化は見られなかったのに対して,0.03%のみどりの香りをケージに散布しておいた群ではstress-induced hyperthermiaから元の状態に復帰するまでの時間が短縮し,またα−ピネンではstress-induced hyperthermia反応そのものが著しく抑制された。これらのラットについて行動を解析すると,新奇環境ではいずれもsniffingを行う時間が延長し,activityが高まってrestingは短縮した。こうした行動学的反応については溶剤曝露と匂い曝露では明確な差が観察されず,また体温上昇の抑制作用が見られたみどりの香りやα−ピネンの曝露においても変化は認められなかった。これらの結果から,みどりの香りおよびα−ピネンはstress-induced hyperthermiaを抑制する作用を持つが,心拍数や行動的な反応には影響を及ぼさないことが明らかとなった。みどりの香りはラットにおいてストレス回復作用や痛覚閾値の低下効果などを持つことが報告されており,またα−ピネンを多く含むセダーエッセンスにはラットの休息を促進する作用のあることが示唆されている。今回の実験では,みどりの香りとα−ピネンに関して,体温上昇をともなうストレス反応に対する緩和作用が示された。

 匂い物質は濃度が変化すると動物に与える影響も異なることが知られている。そこで第3章では,ストレス反応の抑制作用が認められた2種類の匂い物質のうち,α−ピネンに着目して,ストレス緩和作用に関する最適濃度の検討を行った。用いたα−ピネンの濃度は0.003%, 0.03%, 0.3%の3種類である。ラットに新奇環境ストレスを負荷すると同時に,第2章と同じ方法で濃度の異なるα−ピネンを暴露した。体温変化を濃度ごとに溶剤暴露群と比較すると,0.003%および0.3%の群では溶剤を暴露した場合と比較して差異は見られなかったが,0.03%ではstress-induced hyperthermiaが著しく抑制されることが示された。心拍数については,0.003%と0.03%では溶剤曝露と変わらなかったが,0.3%において抑制作用が観察された。さらにラットの行動指標について解析したところ,溶剤とα−ピネンを暴露した群間において差は見られず,体温や心拍数に抑制が見られた濃度でも変化はなかった。これらの結果から,stress-induced hyperthermiaを抑制する作用は0.03%付近の濃度においてもっとも強いことが明らかになり,α−ピネンにおけるストレス緩和作用を発揮するための最適濃度が判明した。

 第4章では,このストレス反応抑制作用が引き起こされる脳内機構を検討する目的で,脳内数カ所の神経核におけるc-Fosタンパク質の発現を調べた。調べたのは嗅神経および鋤鼻神経の投射先である主嗅球および副嗅球,様々なストレス刺激による神経活動の促進が知られている室傍核,体温調節の中枢と考えられる視索前野,情動発現に重要な役割を果たす扁桃核,セロトニン神経を多数含む縫線核,およびノルアドレナリン神経を多数含む青斑核である。ラットに新奇環境ストレスを負荷すると同時に,溶剤あるいは0.03%濃度のα−ピネン曝露を行って,その後60分間の体温と心拍数の変化を測定した後,ネンブタールで深麻酔を施し,生理的食塩水および4%パラホルムアルデヒドにより全身を潅流固定した。脳を摘出し後固定および凍結保護処理をしてから,クリオスタットを用いて30μmの凍結切片を作成した。切片は抗c-Fosタンパク質抗体を用いて免疫組織化学染色を行った。その結果,第2および第3章の実験結果と同様にstress-induced hyperthermiaは0.03%α−ピネン曝露によって有意に抑制され,心拍数の増加には影響が見られなかった。こうした個体では,主嗅球および副嗅球でのc-Fos発現が観察され,また室傍核における発現はα−ピネン暴露によって有意に抑制されていた。一方,主・副嗅球も含めて,視索前野,扁桃核,縫線核,青斑核では,溶剤とα−ピネン曝露によるc-Fos発現量の明確な差異は見られなかった。これらの結果から,α−ピネンの受容は主に嗅覚系を介しており,またα−ピネンの暴露によって室傍核での神経活動が抑制され,このことがstress-induced hyperthermiaの抑制作用に関連するものと推察された。体温中枢である視索前野でのc-Fos発現にはα−ピネンによる影響が見られなかったことから,stress-induced hyperthermiaの抑制は視索前野以降の経路が制御されることによって起こる現象であることが推察された。このように本実験の結果からα−ピネンの受容経路が嗅覚系であること,さらにstress-induced hyperthermiaの抑制作用が視床下部室傍核を介していることが示唆されたことによって,匂い物質が与える自律機能的変化のメカニズムを解明するための新たな実践手段が示された。

 以上本研究では,テレメトリーシステムを用いて自由行動下のラットから自律機能の指標を連続的に測定し,このラットを新奇環境へ導入することによって,まずstress-induced hyperthermiaという自律機能的なストレス反応を観察することが可能となった。さらに植物由来香気物質は,平常時の暴露ではラットに明瞭な影響を与えないが,自律機能的なストレス反応に影響を与え,みどりの香りとα−ピネンがストレスを緩和する作用を持つことが示唆された。そのうちα−ピネンでは0.03%付近の濃度で最も強いストレス抑制作用が見られ,最適濃度の存在が明らかになった。こうした匂い物質は嗅覚系を介して受容され,おそらく視床下部から室傍核へ情報伝達が起こり,CRFなどの分泌が抑制されることによってストレス抑制作用が発現されるものと考えられた。今後は,本研究において開発したストレス評価系を応用し,例えば遺伝子工学的研究手法を組み合わせてシナプスを越えて伝達されるトレーサーを匂い受容体と共発現させるといった研究なども考えられる。こうした研究により,α−ピネンなど植物由来香気成分によるストレス反応抑制作用の脳内メカニズム解明と応用への取り組みが大きく進展するものと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 哺乳類は嗅覚情報を受容して個体の生存と繁殖のために利用しており、嗅覚はあらゆる動物種に共通して保有される原始的感覚といえよう。嗅覚研究は受容機構の観点から、分子生物学的手法を用いて急速な発展を遂げているが、嗅覚刺激が記憶や情動、自律機能に与える影響のメカニズムに関しては未だに不明な点が多く残されている。例えば、植物由来の香気成分はアロマセラピー作用を持つ物質としても関心が持たれているが、生理的作用やその機序は不明である。本研究は、自由行動下のラットを用いて自律機能の解析と行動観察を同時に行うことのできる新たな研究手法を開発し、植物由来の香気成分が生理機能に及ぼす影響と、その中枢作用機構について検討することを目的に行われたものである。本論文は以下のように5章から構成されている。

 第1章は総合緒言であり、これまで行われてきた哺乳類の嗅覚に関する研究が概観され、本論文の目的が述べられている。

 第2章では、まずラジオテレメトリーシステムを用いて、覚醒・自由行動下のラットから、自律機能および行動に関する諸種パラメターを連続して記録解析する実験系の開発と、基礎検討の結果が述べられている。送信機を腹腔内に留置されたラットを休息期にホームケージから新奇環境に移すことによって、stress-induced hyperthermiaと呼ばれる一過性の体温上昇反応が観察される。その際に、それぞれ0.03%に希釈したラベンダーエッセンシャルオイル、みどりの香り(cis-3-hexenol, trans-2-hexenal)、αピネンあるいは溶剤のいずれかを新奇環境に散布しておき、これらの香気成分がストレス反応に与える影響が解析された。その結果、みどりの香りおよびαピネンの二つの匂い物質に、stress-induced hyperthermiaを抑制する作用が見いだされた。

 続く第3章では、自律機能の示すストレス反応に対して抑制効果が認められた2種の香気成分のうち、より効果が明瞭であったαピネンに着目して、その効果をもたらす至適濃度に関する検討が行われている。すなわち、0.3%、0.03%、および0.003%の三段階の希釈濃度を用いて第2章と同様な実験が行われ、自律機能や行動に及ぼす影響が調べられた。その結果、stress-induced hyperthermiaを抑制するための至適濃度は0.03%であることが判明した。

 第4章では、αピネンによるストレス反応抑制の脳内メカニズムについて検討する目的で、第2章および第3章の実験結果に基づき、0.03%のαピネンの暴露により新奇環境でのstress-induced hyperthermia反応が抑制された場合に、脳内の様々な神経核において神経活動の指標となるFos蛋白の発現にどのような変化が現れるかが調べられている。すなわちテレメトリー装置を用いて新奇環境での体温上昇と、αピネンによるその抑制が確かめられた2群のラットについて、嗅球や視床下部などにおけるFosの発現が免疫組織学的方法によって比較検討された。その結果、視床下部室傍核におけるFos陽性細胞の数が、αピネンへの暴露によって有意に減少することが示された。

 第5章は総合考察であり、本研究で得られた結果を中心に既報の様々な知見を援用しながら、αピネンがストレス反応の減弱作用をもたらす中枢メカニズムを中心に、匂い物質が哺乳類の自律機能や行動に及ぼす影響についての考察が展開され、新たな作業仮説が提唱されている。

 以上、要するに本研究は、嗅覚系を介した自律機能の調節機構に関して神経行動学的な観点から検討を行ったものであるが、無拘束・自由行動状態の動物から自律機能と行動のパラメターを連続記録する新たなシステムを開発し、この研究モデルを用いて植物由来の香気成分が新奇環境への暴露という心理的ストレスによってもたらされる自律反応(stress-induced hyperthermia)を抑制する効果を持つことを明らかにし、さらにその中枢作用にも解析を進めるなど、得られた研究成果は今後の哺乳類における嗅覚研究に新たな道を切り開くための基盤的情報となりうるものであり、学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は申請者に対して博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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