学位論文要旨



No 117235
著者(漢字) 中村,優子
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,ユウコ
標題(和) コクサッキーウイルス感染細胞のプリオン蛋白質機能に関する研究
標題(洋) Functional Analysis of Prion Protein in the Cells Infected with Coxsackievirus B
報告番号 117235
報告番号 甲17235
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2431号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小野寺,節
 東京大学 教授 東條,英昭
 東京大学 教授 明石,博臣
 東京大学 助教授 松本,芳嗣
 東京大学 助教授 内藤,邦彦
内容要旨 要旨を表示する

 伝達性海綿状脳症(transmissible spongiform encephalopaties : TSE)は難治性神経変性疾患の一つであり、ヒトにおけるクロツフェルト・ヤコブ病、ゲルストマン・スライスラー・シャインカー病など、脳萎縮、神経細胞の脱落と皮質の海綿状変化を特徴とする疾患である。また、ヤギやヒツジにおけるスクレイピー、ウシにおけるウシ海綿状脳症などもTSEに分類される獣医学領域の重要疾患である。TSEはその発症に深く関与すると考えられるプリオン蛋白質(prion protein : PrP)にちなんでプリオン病とも呼ばれる。これらTSEの発症には遺伝的要因が考えられる場合と、感染性要因が疑われる場合とがある。特に後者においてはプリオン蛋白質が構造変化することにより病原性を獲得し(scrapie isoform of prion protein : PrPSc)、さらにはPrPScそのものが正常型プリオン蛋白質(cellular isoform of prion protein : PrPC)のPrPScへの変換を引き起こすと考えられている。TSEはこれら感染メカニズムの特異性さらには人獣共通感染症としての可能性などから、非常に注目されている疾患の一つである。

 TSE発症に関与するとされるPrPScについては、免疫学的、組織学的解析が数多く試みられ、知見が得られてきた。しかし、PrPScは凝集体を形成していると予想されており、その高次構造の解析は困難で、生化学的な性質は未同定のままとなっている。また、PrPScによるPrPC→PrPScの変換機構も未だ解明されておらず、TSE発症はPrPSc蓄積によるもの('gain of function'仮説)かあるいはPrPCの消失によるもの('loss of function'仮説)であるかも現在明らかとはなっていない。以上の理由から、PrPC研究は、TSEにおけるPrPScの機能解明への発展性の可能性からも重要であると考えられる。

 これまでの研究よりPrPCは種間において高度に保存されていることが判明しており、重要な役割を担っていることが予想される。また、神経細胞や免疫系細胞などに産生が認められることから、神経系におけるシグナル伝達や免疫システムにおける機能が予想される。その正常機能についてはやはり十分な解明がなされていないが、本研究において、ウィルス感染時におけるPrPCの機能関与を示唆する新たな知見を得た。

 近年、PrPCにRNA, DNAに対する結合能力があることが報告され、さらに、核酸存在下でPrPCが凝集体を形成することが報告された。これらの知見はPrPCが凝集体を形成し、PrPScへと変換する過程を解明する手がかりになる可能性があり、注目される。また、murine leukemia virusによるスクレイピー病態の促進など、TSEにおけるPrPとウィルスの関連を示唆する報告がある。しかし、ウィルス感染におけるPrPCの機能解析に主眼をおいた研究は未だなされていない。そこで本研究では、ヒト乳児期、幼児期に顕性感染として症状を呈し、脳炎や心筋炎の原因ウイルスとして知られるエンテロウィルス科コクサッキーウイルスB群(CVB)を用いた解析を試みた。

 まず第一章にて、プリオン遺伝子(prion protein : Prnp)欠損細胞がCVBに対し高感受性を示すことが確認され、またCVB検出系としての応用利用が可能であることが示された。さらに、CVB感染におけるPrPCの機能解析をより詳細にすすめることを試みた。まず、PrPCの機能を検討できるin vitroの系を確立するため、第二章にて、Prnp欠損不死化神経細胞株を用い、Prnp再導入株の構築を行なった。最後に、第三章にてこれら細胞株を用いたPrPCのCVB感染時における機能解析を試みた。

 まず、新生児Prnpノックアウトマウスおよび野生型マウスより脳初代培養を行い、CVB感染実験を試みた結果、ノックアウトマウス由来、野生型マウス由来細胞双方において細胞の円形化および剥離を主徴とする細胞変性効果(CPE)が観察された。しかし、Prnpノックアウトマウス脳初代細胞におけるCPEは野生型マウス脳初代細胞のものに比べ、早期に、より顕著に観察される傾向が認められた。CVBは生後1週間以内の新生児マウス脳における増殖が非常に効率的とされるが、これはCVBの主要なレセプターの発現がこの時期に高いことが一因と考えられている。上記結果は、Prnp欠損により幼児期マウス脳細胞におけるCVB感受性がさらに高くなる可能性を示唆する。また、CVBの分離同定においては、サル腎細胞の初代培養や乳飲みマウスへの接種が最良とされるが、その効率、コストを考慮すれば、CVB分離培養、同定に適した高感受性の細胞株の樹立が必須である。そこで、本章ではさらに、PrP欠損細胞のCVB高感度検出系への応用が可能か検討を行った。より安定したウィルス感染、および検出成績を比較検討するため、胎児Prnpノックアウトマウス海馬領域より樹立された細胞株,HpL3-4を用い、CVB分離、同定に使用されるヒトHEp-2, HeLa細胞とのCVB1-6に対する感受性の比較を行った。その結果、HpL3-4のTCID50値は、CVB1, 3, 4, 5感染においてHEp-2, HeLa細胞に比して有意に高く,また、そのCPEはHEp-2, HeLa細胞より早期に表れた。CVB感染HpL3-4細胞および上清中のウィルスカ価は、HEp-2, HeLa細胞の約10倍を示した。これらの結果よりHpL3-4では微量なウィルスサンプルの感染においてもより明瞭なCPEを得る事が可能であり、ウィルス分離の確立が高いことが示唆される。また、HpL3-4はCVB感染によりプラックを形成するため、より簡便なウィルスカ価測定が可能である。本章の結果よりPrnp欠損細胞株HpL3-4は、CVB分離、増殖に非常に有用であることが示された。また、胎児期、新生児マウスにおけるCVB高感受性が、CVBレセプター発現量の高さだけではなく、Prnpの発現量の低さにも関与することも推察できる興味深い知見であると考えられた。(第一章)

 しかし、さらにウィルス感染時におけるPrP機能解析をin vitroで解析するためには詳細な検討が必要であり、HpL3-4を用いたPrnp欠損細胞株およびPrnp再導入株の樹立を試みた。これまでに報告されたin vitroのPrP研究においては、Prnpを有し、PrPを発現している細胞株へ一過性にPrP過剰発現させた系であった。遺伝子導入によるPrnp再導入株の樹立は、これまで困難とされており、現在でも効率的な遺伝子導入法が模索されている段階である。本系ではサイトメガロウイルスプロモーターを有するベクターpIRES-Hygを用い、prnp ORF上流にコザックシークエンスを挿入したプラスミドを構築、さらに遺伝子導入後フローサイトメトリーによる迅速で効率的なクローニングを行なう等の工夫を試みた。結果、Prnp再導入株の樹立に成功し、既に神経細胞で報告されたと同様のPrPの細胞表面における産生局在および糖鎖付加パターンを示すことも確認した。また、Prnp欠損、再導入株は共に神経細胞様の性質を保持していると考えられた。本章はin vitroにおける'loss of function'の解析が可能なシステムの確立に関するの最初の報告である。(第二章)

 最後に第二章で得られた細胞株を用いることで、CVB3感染時におけるPrnp欠損、再導入両細胞株の比較検討を試みた。その結果、Prnp欠損、再導入株双方においてCVB3感染が成立するものの、再導入株ではPrnp欠損株に比し、CVB3増殖およびCPEの抑制が認められた。さらに、CVB3感染初期に再導入株でIFN-α,β mRNAの転写が認められたのに対し、Prnp欠損株では検出限界以下であった。この結果は感染初期のIFN-α,β産生の差異が両細胞株におけるCVB3増殖効率を決定する一因となることを示唆する。さらに、Prnp欠損株ではCVB3感染によるDNA断片化およびミトコンドリア膜電位の低下が強く誘導されることが明かとなった。これらよりPrP欠損細胞ではCVB感染がアポトーシスによる細胞死を強く誘導するのに対し、PrP存在下ではミトコンドリア膜電位を伴うアポトーシスシグナル伝達が抑制されることが示唆された。(第三章)

 PrPがType I interferon産生やミトコンドリアを経由するアポトーシスシグナル伝達にどのようなカスケードを経て関与するかは今後さらなる研究を進める必要がある.しかし,PrPが細胞膜上のシグナル伝達の重要な場であると考えられるraftに存在するタンパク質であり,PrP欠損によりウィルス感染による複数のシグナル伝達の抑制・阻害がおこる可能性が考えられる。また,PrP欠損細胞株を利用したウイルス分離等、応用法としての報告は他になく,今後の研究の方向性がさらに拡大すると考えらる。したがって本研究結果は今後のPrPの機能解析の一端を担うものと考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

伝達性海綿状脳症(transmissible spongiform encephalopaties : TSE)は難治性神経変性疾患の一つであり、ヒトにおけるクロツフェルト・ヤコブ病、ゲルストマン・スライスラー・シャインカー病など、脳萎縮、神経細胞の脱落と皮質の海綿状変化を特徴とする疾患である。また、ヤギやヒツジにおけるスクレイピー、ウシにおけるウシ海綿状脳症などもTSEに分類される獣医学領域の重要疾患である。TSEはその発症に深く関与すると考えられるプリオン蛋白質(prion protein : PrP)にちなんでプリオン病とも呼ばれる。これらTSEの発症には遺伝的要因が考えられる場合と、感染性要因が疑われる場合とがある。特に後者においてはプリオン蛋白質が構造変化することにより病原性を獲得し(scrapie isoform of prion protein : PrPSc)、さらにはPrPScそのものが正常型プリオン蛋白質(cellular isoform of prion protein : PrPC)のPrPScへの変換を引き起こすと考えられているが、PrPScによるPrPC→PrPScの変換機構は未だ解明されておらず、TSE発症はPrPSc蓄積によるもの('gain of function'仮説)かあるいはPrPCの消失によるもの('loss of function'仮説)であるかも現在明らかとはなっていない。以上の理由から、PrPC研究は、TSEにおけるPrPScの機能解明への発展性の可能性からも重要であると考えられる。PrPCは種間において高度に保存されていることが判明しており、また、神経細胞や免疫系細胞などに産生が認められることから、神経系におけるシグナル伝達や免疫システムにおける重要な機能が予想される。本博士論文は、ウィルス感染時、特にエンテロウィルス科コクサッキーウイルスB群(CVB)感染時の神経細胞におけるPrPCの機能関与を示唆した新たな知見である。

 まず第一章にて、プリオン遺伝子(prion protein gene : Prnp)欠損細胞HpL3-4がCVBに対し高感受性を示すことが確認され、またCVB検出系として応用利用が可能であることが示された。しかし、さらにウィルス感染時におけるPrP機能解析をin vitroで解析するためには詳細な検討が必要であり、まず、PrPCの機能を検討できるin vitroの系を確立するため、Prnp欠損不死化神経細胞株を用い、Prnp再導入株の構築を行なった(第二章)。得られた細胞株は神経細胞様の性質を保持していると考えられた。本章はin vitroにおける'loss of function'の解析が可能なシステムの確立に関するの最初の報告である。最後に、第三章にてこれら細胞株を用いたPrPCのCVB感染時における機能解析を試みた。結果、Prnp欠損、再導入株双方においてCVB3感染が成立するものの、再導入株ではPrnp欠損株に比し、CVB3増殖および細胞変性効果の抑制が認められた。さらに、CVB3感染初期に再導入株でIFN-α,β mRNAの転写が認められたのに対し、Prnp欠損株では検出限界以下であった。この結果は感染初期のIFN-α,β産生の差異が両細胞株におけるCVB3増殖効率を決定する一因となることを示唆する。さらに、Prnp欠損株ではCVB3感染によるDNA断片化およびミトコンドリア膜電位の低下が強く誘導されることが明かとなった。これらよりPrP欠損細胞ではCVB感染がアポトーシスによる細胞死を強く誘導するのに対し、PrP存在下ではミトコンドリア膜電位を伴うアポトーシスシグナル伝達が抑制されることが示唆された。PrPがType I interferon産生やミトコンドリアを経由するアポトーシスシグナル伝達にどのようなカスケードを経て関与するかは今後さらなる研究を進める必要がある.しかし,PrPが細胞膜上のシグナル伝達の重要な場であると考えられるraftに存在するタンパク質であり,PrP欠損によりウィルス感染による複数のシグナル伝達の抑制・阻害がおこる可能性が考えられる。また,PrP欠損細胞株を利用したウイルス分離等、応用法としての報告は他になく,今後の研究の方向性がさらに拡大すると考えらる。したがって本研究結果は今後のPrPの機能解析の一端を担うものと考えられる。以上より、審査員一同は当人が博士(農学)の資格を充分に有すると認定した。

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