学位論文要旨



No 117237
著者(漢字) 若林,嘉浩
著者(英字)
著者(カナ) ワカバヤシ,ヨシヒロ
標題(和) 哺乳類のフェロモン受容機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 117237
報告番号 甲17237
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2433号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 助教授 山内,啓太郎
 東京大学 助教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

 哺乳類には二種類の嗅覚系が存在する。匂い分子は嗅上皮に存在する嗅神経で受容され、その情報は嗅神経が投射する主嗅球へ伝達される。この経路が主嗅覚系である。一方、フェロモン分子は鋤鼻器に存在する鋤鼻神経で受容され、その情報は鋤鼻神経が投射する副嗅球へ伝達される。この経路を鋤鼻系という。齧歯類では3種類の受容体ファミリー(V1Rs, V2RsおよびV3Rs)遺伝子が鋤鼻器特異的に発現しており、いずれもフェロモン受容体をコードしていると考えられている。しかし齧歯類以外の様々な哺乳類でこれら遺伝子が存在・機能しているかどうかは殆ど解っていない。フェロモン受容体遺伝子は、哺乳類では齧歯類とヒトで同定されている。哺乳類の中でも、視覚よりも嗅覚に依存した齧歯類では、主嗅覚系・鋤鼻系共に発達している。一方で、ヒトの嗅覚系は、他の哺乳類と比較すると非常に退化しており、鋤鼻系に関しては機能的な鋤鼻器が存在するかどうかは未だ論争の的となっている。嗅覚系は、その生物の棲息環境によって、発達の程度が非常に異なっている可能性が考えられ、齧歯類で用いられている嗅覚受容機構が、全ての哺乳類で一般的に用いられているかどうかは疑問である。

 本研究では、齧歯類におけるフェロモン受容機構をもとに、機能的な鋤鼻器を有し、また雄効果と呼ばれるフェロモン効果が存在することが既によく知られているシバヤギを対象に、そのフェロモン受容機構に関する研究を行った。さらに、ヒツジ、ブタなどの数種類の哺乳類では、鋤鼻系だけでなく主嗅覚系でもフェロモン分子を受容する可能性を示す報告があることから、これら2種類の嗅覚系におけるフェロモン受容体遺伝子の発現様式を解析することで、シバヤギにおける主嗅覚系および鋤鼻系の機能について検討した。本論文は以下の五章からなる。

 第一章は総合緒言であり、嗅覚系および鋤鼻系に関する現在までの研究を概観し、本研究の背景と目的について述べた。

 第二章では、主に齧歯類で同定されているフェロモン受容体遺伝子が、偶蹄類でも存在しているかを検討するために、2種類のフェロモン受容体遺伝子ファミリー(V1Rs, V2Rs)のそれぞれに属するホモログ遺伝子の同定を試みた。その結果、2種類のV1Rホモログ遺伝子(gV1R1, gV1R2)と8種類のV2Rホモログ遺伝子(gV2R1-8)を同定することができた。V1Rホモログ遺伝子の予想されるアミノ酸配列は、齧歯類V1Rsと約40-50%の相同性を示した。また、V2Rホモログ遺伝子断片の予想されるアミノ酸配列は齧歯類のものと約50-70%、魚類のものと約30-40%の相同性を示した。これらの遺伝子のなかで、V1Rホモログ遺伝子の1種類のみ(gV1R1)がopen reading frame(ORF)を持っていた。

 齧歯類のフェロモン受容体ファミリーは、互いに高い相同性を持つ数十〜百前後の遺伝子によって形成されている。そのため、齧歯類においてgenomic Southern hybridizationを行うと、緩い条件下では、10本前後のバンドが検出できる。シバヤギフェロモン受容体遺伝子では、齧歯類と同様の条件下でもバンドは1-2本しか検出できなかった。このことから、シバヤギV1Rファミリーの遺伝子数は、齧歯類に比べると少ないと推察された。

 第三章では、同定されたホモログ遺伝子の種々の組織における発現を、RT-PCR/Southern hybridization法を用いて解析した。さらに、ORFを持ち、鋤鼻器に発現しているgV1R1遺伝子について、発現細胞の同定と、gV1R1およびGタンパク質との関係について検討する目的で、in situ hybridizationによる解析を行った。齧歯類の鋤鼻神経細胞層では、apical側半分にV1Rsが発現し、さらにV1Rs発現領域にGタンパク質αサブユニットのGi2が発現している。一方、basal側半分には、V2RsとGoが共発現することが知られている。シバヤギと齧歯類の鋤鼻器における鋤鼻神経細胞層を比較すると、鋤鼻器自体の大きさは齧歯類に比べてずっと大きいにも関わらず、神経細胞層の厚さは齧歯類の約1/3程度しかない。これらのことから、シバヤギ鋤鼻神経細胞層においては、齧歯類のような2層に分離した構造をとるとは考えにくく、おそらく齧歯類とは異なる構造を持つであろうと予想された。そこで、シバヤギ鋤鼻神経上皮について、gV1R1,Gi2およびGo mRNAの発現を調べる目的でin situ hybridizationを行った。その結果、gV1R1 mRNAは、鋤鼻神経細胞に特異的に局在していることが示されたが、齧歯類でみられるようなapical側に限局した発現は観察されなかった。また、Gi2は鋤鼻神経細胞層全体に発現していたのに対して、Goの発現は検出できなかった。さらにGi2およびgV1R1遺伝子のdouble labeled in situ hybridizationの結果から、シバヤギ鋤鼻神経細胞において、これら2種類の遺伝子は同一細胞で発現していることが明らかとなった。これらの結果から、シバヤギでは齧歯類で見られたような2種類の受容機構は存在せず、V1Rs-Gi2の受容機構のみが存在している可能性が示唆された。

 第四章では、フェロモン受容体の主嗅覚系における発現について検討した。齧歯類のフェロモン受容体遺伝子は、鋤鼻器特異的に発現しており、嗅上皮に発現しているという報告はない。しかし、最近、V1Rホモログ遺伝子がヒト嗅上皮に発現していることが報告され、またヒツジ、ブタおよびウサギでは、フェロモンが嗅上皮で受容されることを示唆する報告がある。これらのことから、ある種の哺乳類では、フェロモン分子が嗅上皮でも認識されている可能性が推察された。そこで、シバヤギ嗅上皮にフェロモン受容体遺伝子が存在しているかどうかをRT-PCR/Southern hybridizationを用いて解析した。その結果、嗅上皮mRNA内に、gV1R1 mRNAが存在することが示された。次に、gV1R1発現細胞を同定する目的で、シバヤギ嗅上皮のin situ hybridizationを行った。その結果、gV1R1発現細胞は、嗅上皮の感覚神経細胞層に発現していることが示された。これらの結果から、シバヤギでは鋤鼻器だけでなく、嗅上皮においてもフェロモンを受容している可能性が示された。

 第五章では、総合考察を行った。本研究より、シバヤギではV1Rs-Gi2の共発現系は存在しているが、V2Rs-Goの共発現は存在していない可能性が示された。これまでに哺乳類を含む多くの脊椎動物において報告されている知見を考え合わせると、V1Rs-Gi2系を有するものは主に陸生脊椎動物であり、V2Rs-Go系を有するものは主に水性脊椎動物であるということが注目された。すなわち、動物の棲息する環境によって、フェロモン受容機構が大きく異なっているものと推察され、こうした観点から、哺乳類におけるフェロモン受容機構を解明するためには、今後、さらに様々な動物種を対象とした研究が必要であると考えられた。

 また、本研究では、シバヤギのフェロモン受容体遺伝子の発現様式が齧歯類とは大きく異なることが明らかとなった。フェロモン受容体遺伝子は、齧歯類では鋤鼻器特異的に発現すると考えられている。一方、機能的な鋤鼻器を持たないとされるヒトでは、嗅上皮mRNA内にフェロモン受容体遺伝子が発現していることを示唆する報告があり、本研究ではin situ hybridizationによる解析から、哺乳類の嗅神経細胞におけるフェロモン受容体遺伝子の発現をより直接的に証明することが出来た。このことから、シバヤギをはじめ哺乳類のいくつかの種では、フェロモン分子が鋤鼻器だけでなく、嗅上皮でも受容されている可能性が考えられた。

 以上、本研究の結果より、シバヤギにおいても、2種類のフェロモン受容体遺伝子ファミリーが存在すること、鋤鼻神経上皮におけるその遺伝子とGi2およびGoの発現様式が齧歯類とは異なっていること、さらに嗅神経においてもフェロモン受容体遺伝子が発現していることなどが示された。齧歯類で発見されてきた知見の一部はシバヤギには適応せず、このことから動物種によって異なる様々なフェロモン受容機構が存在する可能性が考えられた。しかし、V1R遺伝子とGi2の共発現系はシバヤギと齧歯類のいずれにおいても確認できたことから、おそらくこの系は種を越えて保存された受容機構であろうと推察された。また、嗅上皮におけるフェロモン受容体遺伝子の発現については、フェロモン分子が主嗅覚系でも受容される可能性を示したものといえよう。複雑な哺乳類のフェロモン受容機構を解明する上で、フェロモン受容における主嗅覚系の関与ついて示唆した本研究の結果は、今後の研究進展に新たな方向性を示すものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 多くの哺乳類には主嗅覚系と鋤鼻系という二つの嗅覚系が存在しており、匂い分子は前者でまたフェロモン分子は後者でそれぞれ受容されると考えられている。齧歯類では鋤鼻器特異的に3種の受容体遺伝子ファミリー(V1Rs、V2RsおよびV3Rs)が発現しており、いずれもフェロモン受容体をコードしているであろうことが最近の研究から推察されている。しかし、他の哺乳類のフェロモン受容体遺伝子に関する情報はほとんど得られておらず、系統進化における嗅覚系の多様性という観点からも、比較動物学的研究の進展が待たれていた。本研究は、機能的な鋤鼻器を有しており、また雄効果とよばれる明瞭なフェロモン効果の存在が知られているシバヤギを対象に、そのフェロモン受容機能に関する検討を分子生物学的手法を用いて行ったものである。本論文は以下のように5章から構成されている。

 第1章は総合緒言であり、これまで行われてきた哺乳類のフェロモン受容機構に関する研究が概観され、本論文の目的が述べられている。

 第2章では、これまでの主に齧歯類を対象にした研究から同定された2種類のフェロモン受容体遺伝子ファミリー(V1Rs、V2Rs)のそれぞれに対するホモログ遺伝子の探索が試みられ、その結果、V1Rsホモログ遺伝子2種とV2Rsホモログ遺伝子8種類が同定された。これらの遺伝子の中でV1Rホモログ遺伝子の一つ(gV1R1)だけがopen reading frame(ORF)を持っており、またGenomic Southern Hybridizationの結果からシバヤギV1Rsファアミリーの遺伝子数は齧歯類に比べてかなり少ないことが明らかにされている。

 続く第3章では、検出感度に優れた新たなRT-PCR/Southern hybridization法を用いて、前章で同定されたホモログ遺伝子の種々の組織における発現が検討された。さらにORFを有するV1R1遺伝子については鋤鼻器における発現細胞の同定および情報伝達系のG蛋白αサブユニット遺伝子の発現との関係についてin situ hybridizationによる解析が行われている。G蛋白αサブユニットのうち、Goの発現は検出されなかったが、Gi2は鋤鼻神経細胞層全体に発現しており、さらにGi2およびgV1R1遺伝子のdouble labelled in situ hybridizationの結果から、シバヤギ鋤鼻神経細胞においてこれら2種類の遺伝子が同一細胞で発現していることが明らかにされた。またシバヤギでは齧歯類などとは異なり、V1Rs-Gi2の受容機構のみが機能している可能性が示唆されている。

 第4章では、シバヤギの嗅上皮にもフェロモン受容体が存在するかどうかについてRT-PCR/Southern hybridization法を用いた解析が行われている。その結果、嗅上皮においてgV1R1mRNAの発現していることが明らかとなり、シバヤギでは齧歯類と異なり、フェロモン受容体遺伝子が鋤鼻器だけでなく嗅上皮においても発現しており、主嗅覚系がフェロモン受容にも関与している可能性が示された。

第5章は総合考察であり、本研究で得られた結果を中心に、哺乳類だけでなく脊椎動物全般に及ぶ既報の様々な知見を援用しながら、フェロモン受容機構の進化が分子生態学的観点から考察されている。本研究では、シバヤギにおけるフェロモン受容体遺伝子の発現様式が、これまでに主な研究対象とされてきた齧歯類におけるそれとは大きく異なる結果が得られており、様々な動物を対象とした比較動物学的検討が、フェロモン受容系の包括的理解には欠かせないであろうという考えが提唱されている。

 以上、要するに本研究は、高等哺乳類であるシバヤギにおいても2種類のフェロモン受容体遺伝子ファミリーはゲノム上に存在しており、また実際に機能を持つと考えられるフェロモン受容体遺伝子の嗅覚系における発現様式は、これまでに齧歯類で得られた知見とは大きく異なっていることを明らかにしたもので、得られた研究成果は今後の哺乳類におけるフェロモンや鋤鼻系に関する研究に新たな道を切り開くための基盤的情報となりうるものであり、学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は申請者に対して博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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