学位論文要旨



No 117243
著者(漢字) 根岸,孝至
著者(英字)
著者(カナ) ネギシ,タカシ
標題(和) ムギネ酸類合成系の酵素遺伝子に関する研究
標題(洋)
報告番号 117243
報告番号 甲17243
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2439号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西澤,直子
 東京大学 教授 山根,久和
 東京大学 教授 森,敏
 東京大学 助教授 中元,朋美
 東京大学 助教授 山川,隆
内容要旨 要旨を表示する

 鉄は地殻上で第4番目に存在量の多い元素であるにもかかわらず、通常の好気条件下では3価鉄の不溶態として存在しており、植物はこれを吸収することができない。特に、母材が石灰岩の場合には土壌はアルカリ性となって,多くの植物は不溶態の鉄を吸収,利用することができずに鉄欠乏によって枯死する.植物は不溶態の三価鉄を利用するための戦略を進化的に獲得してきた。

 イネ科植物はファイトシデロフォアと総称される天然の鉄キレーターであるムギネ酸類を根から分泌し、土壌中の不溶態の3価鉄を「鉄−ムギネ酸」として可溶化し、キレートの形で根から吸収することによって鉄欠乏を回避する巧妙なメカニズムを持っている。

 ムギネ酸類の合成と分泌は鉄欠乏条件によって強く誘導される。これまでに知られているムギネ酸類は6種類存在し、それぞれのイネ科植物によって分泌されるムギネ酸の種類と分泌量は異なっており、この違いがイネ科植物間の鉄欠乏耐性の差となっていると考えられている.ムギネ酸分泌の特徴的な現象として、日周性が挙げられる.オオムギは日の出後からムギネ酸の分泌を始め,3〜5時間をピークに減少し、日没時には分泌が終了する。鉄欠乏によってオオムギ根の微細構造は変化する。鉄欠乏オオムギの根の皮層細胞、表皮細胞それに根冠細胞内には、特殊な顆粒が観察される。その顆粒は表面にリボソームがついていて、粗面小胞体(rER)由来と考えられた。この顆粒はムギネ酸が分泌される日の出前には膨潤した状態で存在し、ムギネ酸類が分泌されるに伴い収縮することから、ムギネ酸類の合成・貯蔵部位であると推定されていた。ムギネ酸生合成経路の酵素タンパク質(NAS, NAAT)の細胞内局在解析をしたところ、いずれの酵素タンパク質も鉄欠乏オオムギの根で増加する特殊な顆粒に局在し、その顆粒がムギネ酸類の合成部位であることが明らかになった。オオムギにおいてムギネ酸類の生合成経路は既に確定しており,メチオニン→S−アデノシルメチオニン(SAM)→ニコチアナミン(NA)→ケト体→デオキシムギネ酸(DMA)→ムギネ酸(MA)の順に生合成される。ムギネ酸はさらに水酸化されると(エピ)ハイドロキシムギネ酸((epi)-HMA)となる。イネ、トウモロコシ、コムギはムギネ酸類生合成経路の最初のムギネ酸類であるDMAまでを分泌し、オオムギとライムギはDMAと、MA、(epi)-HMAを分泌する。エンバクはDMA,アベニン酸(AVA)を分泌する.調べられている限りイネ科植物はすべてDMAを分泌し、DMAまでの合成経路をもっていると考えられる。

 ムギネ酸類合成系においてSAMからNAへの反応を触媒するニコチアナミン合成酵素(NAS)とNAからケト体への反応を触媒するニコチアナミンアミノ基転移酵素(NAAT)の活性は鉄欠乏処理で強く誘導される。いずれの酵素も鉄欠乏オオムギ根から精製され,その遺伝子が単離された。その他ムギネ酸類生合成経路に関わるタンパク質としてIDS3とがあげられる.Ids3遺伝子は,鉄欠乏処理で最も強く発現する。最近になって、Ids3遺伝子を導入した形質転換イネは、DMAに加えてMAを分泌することが明らかになり、IDS3がDMAからMAを合成する酵素であることが証明された。また、メチオニンからSAMを生成するSAM合成酵素の遺伝子も単離されており、ムギネ酸生合成経路上のほぼすべての酵素遺伝子が単離された。しかし、唯一、ケト体からDMAを生成する酵素はNADH、またはNADPH依存型還元酵素であることが知られてはいたが、そのタンパク質、遺伝子のいずれも精製・単離には至っていない。そこで、本研究ではムギネ酸類生合成経路中の酵素で唯一単離されていないケト体からDMAを生成させる"デオキシムギネ酸合成酵素遺伝子"の単離を目的とした。

デオキシムギネ酸合成酵素遺伝子の単離

 デオキシムギネ酸合成酵素について得られている知見は、NAD(P)H依存型還元酵素であることのみである。そこで、まずデオキシムギネ酸合成酵素が属する可能性のある還元酵素ファミリーの検索を行った。その結果、様々なNAD(P)H依存型還元酵素を網羅するaldo-keto reductase superfamilyが最も可能性のある酵素ファミリーであると考えられた。そこで、デオキシムギネ酸合成酵素がそのファミリーに属するという仮定に基づいて、このファミリーに属する酵素群に共通して保存されているアミノ酸配列からディジェネレイトプライマーを作成しPCRを行った。鋳型には、鉄欠乏オオムギ根cDNAライブラリーを用いた。その結果、3つのPCR断片が得られた。ムギネ酸類生合成経路中で、デオキシムギネ酸合成酵素の前後に働く酵素、すなわち、NAからケト体への反応を触媒するNAATと、DMAからMAへの反応を触媒するIDS3がいずれも鉄欠乏でその発現が誘導されることから、デオキシムギネ酸合成酵素遺伝子の発現も鉄欠乏で誘導される可能性が高い。そこで、上記で得られた3つのPCR断片をプローブに用いてノーザン解析を行ったところ、そのうちのひとつにおいて、鉄欠乏による発現の誘導がみられた。よって、デオキシムギネ酸合成酵素遺伝子は、このPCR断片の塩基配列を含んだcDNAであると考えられた。そこで、そのPCR断片をプローブにコロニーハイブリダイゼーションによって、デオキシムギネ酸合成酵素遺伝子のスクリーニングを行った。その結果、4つのcDNAクローンが得られた。次に、各々のクローンが、ケト体からDMAの反応を触媒する酵素活性を持つことがどうかを確認した。それぞれの遺伝子を酵母に形質転換して得られるタンパク質を用いて酵素反応は行い、生成産物のDMAはHPLCにより検出した。その結果、4つのクローンのうち3つのクローンで活性がみられた。3つのクローンについて、塩基配列を決定したところ、2つのクローンについては同一のものであった。従って、2つの独立したデオキシムギネ酸合成酵素遺伝子が得られ、それぞれ、DMAS1(DeoxyMugineic Acid Synthase 1)、DMAS2と名づけた。いずれもイネのglutathione reductaseに高い相同性を示した。DMAS1とDMAS2について、ノーザン解析を行ったところいずれも鉄欠乏に応答していた。

 イネ科植物における鉄欠乏耐性機構の研究は主にオオムギを用いてなされ、ムギネ酸類生合成経路の決定とそれに関わる酵素の精製と遺伝子の単離が中心となっていた。イネ科植物において、ムギネ酸類生合成経路に関連する遺伝子以外の鉄欠乏誘導遺伝子として、Fe-MAsトランスポーター遺伝子であるys1がある。ys1は、とうもろこしから単離され、鉄欠乏の根でその発現が誘導される。他には、metallothionine-like gene(Ids1)、elF2Bα-like gene(IDI2)、ABC-type transporter gene(IDI7)、36kDタンパク質をコードするunkown gene(Ids6)がオオムギ根から鉄欠乏誘導遺伝子として単離されている。

 このように、イネ科植物の鉄欠乏耐性機構に関わる遺伝子は、ムギネ酸類生合成経路に関連するものがほとんどで、それは鉄欠乏耐性機構の一部分に過ぎないと考えられる。さらに、ムギネ酸類の分泌の分子機構は全く分かっていない。オオムギにおいて、分泌の日周性と、ムギネ酸類1分子がアニオンチャネルを介して分泌されることが示されているが、それを制御する分子機構、あるいはムギネ酸類の分泌トランスポーター同定についても全く分かっていない。

 そこで、ある条件のもとで発現が誘導・抑制される遺伝子群の網羅的解析を行うのに最適なcDNAマイクロアレイ法を用いてイネ科植物の鉄欠乏回避の分子機構の解明を目指した。

cDNAマイクロアレイ法による鉄欠乏誘導性遺伝子群の網羅的解析

 cDNAマイクロアレイ法は、cDNAがスポットされたスライドグラス上に、逆転写したRNAを蛍光標識してハイブリさせて、蛍光強度によって発現差をみるものである。本研究では、8987個のイネ独立ESTクローンののったスライドグラスを用いて、鉄欠乏オオムギ根でその発現が誘導される遺伝子群の同定を試みた。蛍光強度が鉄欠乏区/鉄供給区≧2のものを、鉄欠乏誘導性遺伝子とした。その結果、約200個の鉄欠乏誘導性遺伝子が検出された。その中には、これまでに単離されているほとんどの鉄欠乏誘導性遺伝子が検出された。新たに鉄欠乏誘導性遺伝子として検出されたものの中には、メチオニン合成に関わる遺伝子が含まれていた。鉄欠乏下では、Yang cycleによるメチオニンの再利用だけでなく、transsulfuration pathwayを介したメチオニン新規合成が盛んであることを示唆していた。さらに、約200個の鉄欠乏誘導性遺伝子のうち、ムギネ酸類分泌の日周変動に関連する遺伝子を明らかにするために、盛んにムギネ酸類が分泌されている時間と分泌の終了している時間の鉄欠乏オオムギ根を用いて、マイクロアレイを行った。ムギネ酸類分泌に関わっている遺伝子は、蛍光強度が(ムギネ酸類分泌の盛んな時間帯)/(ムギネ酸類分泌の止まっている時間帯)≧2のものとした。その結果、約50個の遺伝子が検出された。その中には、ムギネ酸類分泌の日周性に、前記のムギネ酸類を合成する部位である顆粒のpolar transportが関与することを示唆するものがあった。

審査要旨 要旨を表示する

 審査員一同は、平成14年1月31日、申請者により提出された論文「ムギネ酸類合成系の酵素遺伝子に関する研究」について審査を行った。全陸地の約25%を占める石灰質アルカリ土壌では、土壌中の鉄が水酸化第二鉄として沈殿し不溶態であるために、植物はこれを吸収できない。イネ科植物はムギネ酸類と総称されるキレーターを根から分泌して、三価の鉄を可溶化し、「鉄−ムギネ酸類」錯体として固有のトランスポーターにより吸収することによって必須元素である鉄を獲得する。鉄欠乏をシグナルとして、ムギネ酸の合成と分泌は飛躍的に上昇する。ムギネ酸類は、メチオニンを出発として、S−アデノシルメチオニン、ニコチアナミン、ケト体、デオキシムギネ酸、ムギネ酸、その他のムギネ酸類の順に生合成される。近年の研究により、ムギネ酸類生合成経路の酵素遺伝子はひとつの酵素を除いてすべて単離された。本論文は、唯一残されていた、ケト体からデオキシムギネ酸を生成する反応を触媒する酵素の遺伝子を単離することを目的とし、さらにイネ科植物の鉄欠乏耐性機構を分子レベルで解析するために、cDNAマイクロアレイ法を用いたオオムギの鉄欠乏誘導性遺伝子群の網羅的同定を試みている。また鉄欠乏誘導性の新規S−アデノシルメチオニン合成酵素遺伝子を単離した。全体は5章から構成されている。

 第1章では、序論として研究の背景、目的と意義について述べられている。

 第2章では、ムギネ酸類生合成経路上の酵素遺伝子のうち、唯一単離されていなかったデオキシムギネ酸合成酵素遺伝子のオオムギからの単離について述べられている。これまでの知見により、目的とする酵素は鉄欠乏誘導性のNAD(P)依存型還元酵素であることが明らかとなっている。そこで、この酵素がアルド・ケト還元酵素スーパーファミリーに属するものと仮定した。このファミリー内に存在するいくつかの保存されたアミノ酸配列のなかから2つの領域を選び、ディジェネレイトプライマーを設計してPCRを行った。得られたPCR断片のうち、鉄欠乏で誘導されるものをノーザン解析により選抜し、そのPCR断片を用いて鉄欠乏オオムギ根cDNAライブラリーから候補遺伝子のスクリーニングを行った。得られたcDNAクローンを酵母に導入して、そのタンパク質産物がデオキシムギネ酸合成酵素活性を持つことを検定した。その結果、2つのデオキシムギネ酸合成酵素遺伝子の単離に成功した。ノーザン解析により、これらの遺伝子はオオムギにおいて鉄欠乏に応答してその発現が上昇し、鉄添加によってその発現が抑制された。本章における、デキオキシムギネ酸合成酵素遺伝子のクローニングの成功により、ムギネ酸合成経路上の酵素遺伝子がすべて単離されることとなった。

 第3章では、cDNAマイクロアレイ法を用いた、オオムギの鉄欠乏誘導性遺伝子群の網羅的解析について記述している。イネゲノムプロジェクトにより提供された、8987個のイネESTクローンがスポットされたマイクロアレイを用いて、オオムギ根での遺伝子発現解析を行った。鉄欠乏により誘導されるオオムギ遺伝子群を明らかにするために、鉄供給区と鉄欠乏区のオオムギ根からRNAを抽出し、蛍光ラベルしてハイブリダイゼーションを行った。鉄欠乏区の転写量が鉄供給区の2倍以上になっているものを鉄欠乏誘導性遺伝子とした。その結果、約200個の遺伝子が鉄欠乏誘導性として同定された。オオムギにおけるムギネ酸類の分泌は、顕著な日周性を示すことが明らかになっている。そこで、この分泌の日周変動にかかわる遺伝子群を明らかにするために、ムギネ酸分泌がピークに達している、明期開始後1時間半の午前11時と、ムギネ酸類を分泌していない午前1時の鉄欠乏オオムギ根からそれぞれRNAを抽出して、さらにマイクロアレイ解析を行った。鉄欠乏によって誘導され、また午前11時の転写量が、午前1時の転写量の2倍となっている遺伝子をムギネ酸類分泌の日周変動にかかわる遺伝子とした。その結果、約50個の遺伝子が得られた。50個のうちの5個について、その転写量の24時間の経時変化をノーザン解析により調べたところ、このすべての遺伝子は、明期開始まで転写量は増加し続け、明期開始と同時に転写量は減少しており、発現に日周変動を示すことが明らかとなった。これらの遺伝子の機能から、ムギネ酸類分泌の日周変動には、オオムギ根細胞内における極性小胞輸送が関与している可能性が示された。以上の結果、これまで知られていなかった200個近い遺伝子が鉄欠乏により誘導されることが明らかになった。これらの遺伝子群の機能を解明することにより、オオムギの鉄欠乏耐性機構が分子レベルで明らかにされると考えられる。また、ムギネ酸類分泌の日周変動が極性小胞輸送によって制御されている可能性が示されたことは、イネ科植物の鉄獲得機構研究ばかりではなく、植物の細胞生物学の分野においても新しい展開をもたらすことが期待される成果である。

 第4章では、鉄欠乏によって誘導されるS−アデノシルメチオニン合成酵素遺伝子のオオムギからの単離が述べられている。第3章におけるマイクロアレイ解析によって得られた鉄欠乏誘導性遺伝子群のなかに、S−アデノシルメチオニン合成酵素遺伝子が含まれていた。S−アデノシルメチオニン合成酵素は、ムギネ酸類合成経路の最初の酵素として大変重要であり、これまでにオオムギのS−アデノシルメチオニン合成酵素遺伝子は3種類単離されている。しかし、そのいずれも鉄欠乏による発現の誘導がみられなかった。このことは、未同定の新たなS−アデノシルメチオニン合成酵素遺伝子がオオムギに存在することを意味していた。そこで鉄欠乏によって発現が誘導されるS−アデノシルメチオニン合成酵素遺伝子をオオムギから単離することを目指した。その結果、2種類の候補遺伝子が得られた。これまで、ムギネ酸合成経路上の酵素遺伝子のうち、S−アデノシルメチオニン合成酵素遺伝子だけが鉄欠乏によって誘導されないと考えられてきたが、本章の結果により、鉄欠乏によって誘導されるS−アデノシルメチオニン合成酵素遺伝子が存在することが明らかになった。第2章の結果とあわせると、ムギネ酸合成経路上の酵素遺伝子のすべてが鉄欠乏によって誘導されることが明らかとなった。

 第5章では、得られた結果をもとに総合考察を行っている。

 以上のように、本論文は、これまでムギネ酸合成経路上で唯一未同定だったデオキシムギネ酸合成酵素の遺伝子の単離に成功し、また200個近くの新規鉄欠乏誘導性遺伝子を明かにし、さらにムギネ酸類分泌の分子機構解明への手がかりを示した新規性と独創性に富む内容であり、今後の研究の発展に大いに貢献することが期待される。よって審査員一同は、本論文を博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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