学位論文要旨



No 117247
著者(漢字) 窪田,邦宏
著者(英字)
著者(カナ) クボタ,クニヒロ
標題(和) 脳内アクチビンによる栄養摂取制御機構の解析
標題(洋)
報告番号 117247
報告番号 甲17247
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2443号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 助教授 武内,ゆかり
 東京大学 助教授 山内,啓太郎
内容要旨 要旨を表示する

 アクチビン/インヒビンは,形質転換成長因子(TGF)-βスーパーファミリーに属する細胞成長因子であり,下垂体由来の卵胞刺激ホルモン(FSH)分泌を促進/抑制する物質として同定された.その後の研究で,アクチビン/インヒビンはオートクリンあるいはパラクリン様式で機能する液性因子として,赤芽球分化,培養マウス2細胞胚の発生停止現象(2-cell block)の解除,アフリカツメガエルの中胚葉誘導や器官形成,下垂体前葉の性腺刺激ホルモン産生細胞の分化など,細胞の増殖,分化,機能制御という多様な側面で生理学的調節作用を有していることが明らかとなっている.また,インヒビンはアクチビンとアクチビンレセプターの結合を阻害することによりその生理作用を発揮すると考えられている.脳内の各部位においてアクチビン/インヒビンおよびアクチビンレセプターの発現が報告され,これらが特に中枢における体内栄養環境の認知に関わっていることが示唆されている.本研究は,個体の維持にとって最も根源的な「摂食/摂水」という行動を合目的的に制御する神経機構において,脳内アクチビン/インヒビンが担う役割を明らかにすることを目的としたものである.

 アクチビン/インヒビンは,α, βA, βBという3種のサブユニットがホモダイマー/ヘテロダイマーとして結合することで構成されている.βA/βAの結合したものがアクチビンA, βB/βBがアクチビンB, βA/βBがアクチビンABと呼ばれ,α/βAがインヒビンA, α/βBがインヒビンBと呼ばれる.第1章においては,雄ラットを用いて脳内におけるこれら3種のサブユニットmRNAの発現部位を,in situ hybridization法により検討した.その結果,視床下部,海馬,扁桃体においてαサブユニット,βAサブユニットmRNAの強い発現が認められた.特に,視床下部においては弓状核(ARC),海馬においてはCA1, CA2, CA3の錐体細胞層,および歯状回の顆粒層において両者の強いシグナルが見られ,これらの部位においてインヒビンA,あるいはアクチビンAが合成されていることが考えられた.しかし,βBサブユニットmRNAは,検討した脳の全ての領域において極めて低いレベルでしか検出できず,他のサブユニット遺伝子と比べて発現量が少ないことが考えられた.αサブユニット,βAサブユニット遺伝子が,視床下部,海馬,扁桃体という視床下部/辺縁系で発現しているということは,インヒビンAあるいはアクチビンAが自律機能の制御や,情動行動,本能行動の発現など,脳の低次機能の制御に特異的に関与していることを強く示唆している.

 第2章においては,視床下部,扁桃体,海馬におけるアクチビン/インヒビンのサブユニットmRNAの発現に対する,12時間,および60時間の絶食および絶水の影響をRT-PCR法により検討した.その結果,視床下部ではαサブユニットmRNAは絶食後12時間で有意に減少したが,60時間では回復してほぼ絶食前のレベルに戻った.βAサブユニットmRNAは絶食後有意に増加し,60時間後には絶食前の約2倍以上にまで上昇した.βBサブユニットmRNAの発現量には変化はみられなかった.絶水条件においては,βBサブユニットmRNAにのみ,60時間で増加が認められた.絶食のαサブユニットmRNAの変化が一過的であったのに対し,βAサブユニットmRNAが絶食時間の経過とともに連続的な変化を示したことから,インヒビンは急性的な体内環境の変化に対応する情報担体であり,アクチビンは絶食により持続的に進行する体内環境の変化をそのまま反映する情報担体である可能性が考えられた.リジン欠乏状態のラットにレバー押しによりリジン含有食を与えるというオペラント条件付けを行なった場合,摂食中枢である視床下部外側野(LHA)にインヒビンやフォリスタチンなどアクチビンの作用を阻害する物質を投与するとレバー押しの回数が減少するということが報告されており,今回の結果と併せると,絶食,あるいはリジン欠乏などによる体内栄養環境の恒常性の破綻が視床下部のARCに伝達され,ARCからアクチビンAが液性因子として放出されてLHAに到達し,摂食に対する動機付け,あるいはリジン含有食の獲得行動(レバー押し)が誘起される可能性が考えられた.

 扁桃体においては,絶食によってαサブユニットmRNAには変化は認められなかった.βAサブユニットmRNAは絶食12時間では変化しなかったものの,絶食60時間においては有意に減少していた.βBサブユニットmRNAは絶食12時間以降,有意に減少していた.絶水条件においては12時間では全てのサブユニット遺伝子に変化がなかったものの,60時間ではαサブユニットmRNAのみ増加し,インヒビンが脱水状態の認識と摂水行動の誘起に関与していることが考えられた.扁桃体は従来より摂食との関わりが指摘されており,さらに嗜好性を司っているとされている.その嗜好性は海馬や中隔との連携による過去の記憶に大きく依存していると考えられているが,その反応系にもアクチビン/インヒビンが関わっている可能性が考えられる.一方,海馬においては,αサブユニットとβAサブユニットのmRNAは絶食12時間で有意に減少したものの,60時間では有意差はなくなった.βBサブユニットmRNAは絶食時間の経過とともに顕著に減少した.絶水条件においては12時間以降,αサブユニットおよびβAサブユニットmRNAが減少したが,βBサブユニットmRNAは60時間ではじめて有意に減少した.海馬におけるβBサブユニットmRNAの発現は極めて低いと考えられたが,その発現量の有意な変化から考えて,その生理学的意義は小さなものではないと想像される.βBサブユニットはおそらく相対的な発現量の高いαサブユニットと結合し,インヒビンBとして機能しているのではないかと考えられるが,海馬は記憶に関与する部位でもあることから,海馬のインヒビンBが以前に摂食した食物に対する嗜好性など,記憶が関連するような摂食行動の調節に関わっている可能性が考えられた.

 絶食/絶水条件下における脳脊髄液中のアクチビンA,インヒビンB蛋白の濃度を検討したところ,有意差はなかったもののアクチビンAは絶食60時間で増加し,インヒビンBは絶水12時間,60時間ともに減少していた.遺伝子発現の変化と考え合わせると,絶食時の視床下部におけるβAサブユニットmRNAの増加と脳脊髄液中のアクチビンAの増加は対応していると考えることが可能で,アクチビンAが摂食制御に特に深く関連していることが示唆される.またインヒビンBの絶水時における減少は,海馬におけるα,βB各サブユニットmRNAの有意な減少と対応していると考えることができる.脳脊髄液中においてこれらの物質の存在が確認できたことにより,アクチビン/インヒビンが脳脊髄液を介して,液性情報伝達物質として摂食,摂水の制御に関わっていることが改めて示唆された.

 第3章においては,アクチビンA,インヒビンA,およびアクチビンに特異的に結合してアクチビンの作用を阻害するフォリスタチンを,予め第3脳室内に留置したカニューレより脳脊髄液中に自由行動下で投与して,12時間の摂食/摂水行動に対する影響を検討した.その結果,アクチビンAは摂食を対照群と比較して促進し,インヒビンAは摂水を対照群と比較して用量依存的に抑制した.フォリスタチンは摂食量を用量依存的に抑制し,摂水に対しても抑制効果を示した.これらの結果は,アクチビン,特にアクチビンAが摂食/摂水行動に対して促進的作用をもつことを示している.一方で,近年インヒビンには独自のレセプターが存在し,アクチビンとは独立の作用を有することも示唆されているので,アクチビンは主に摂食の,インヒビンは主に摂水の制御機構に関わっている可能性も否定できない.

 以上,本研究によりアクチビン/インヒビンが脳内において体内栄養環境の認知および摂食/摂水行動の発現制御に液性因子として深く関わっていることが示唆された.さらに,インヒビンはアクチビンの作用発現を阻害するばかりではなく,栄養環境の変化に対するサブユニット遺伝子発現の応答や,脳室内投与の摂食/摂水行動に対する効果がアクチビンのそれらとは異なることから,インヒビンとアクチビンはそれぞれ独自の役割を担っている可能性が考えられた.脳内では,シナプスにおける神経伝達物質を介した情報伝達とともに,アクチビン/インヒビンのような液性因子を介した情報伝達というデュアルシステムが機能することにより,刻々と変化する栄養環境の変化に対して様々なタイムコースで的確に対応していけるのではないかと考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

 アクチビン/インヒビンは,形質転換成長因子−βスーパーファミリーに属する細胞成長因子であり,下垂体由来の卵胞刺激ホルモン分泌を促進/抑制する物質として同定された.その後の研究で,アクチビン/インヒビンはオートクリンあるいはパラクリン様式で機能する液性因子として,細胞の増殖,分化,機能制御という多様な側面で生理学的調節作用を有していることが明らかとなっている.近年,脳内の各部位においてアクチビン/インヒビンおよびアクチビンレセプターの発現が報告され,これらが特に中枢における体内栄養環境の認知に関わっていることが示唆されている.本論文は,摂食/摂水という行動を合目的的に制御する神経機構において,脳内アクチビン/インヒビンが担う役割を明らかにすることを目的としたものである.

 アクチビン/インヒビンは,α, βA, βBという3種のサブユニットから構成され,βA/βAがアクチビンA, βB/βBがアクチビンB, βA/βBがアクチビンABと呼ばれ,α/βAがインヒビンA, α/βBがインヒビンBと呼ばれる.第1章においては,雄ラットを用いて脳内におけるサブユニットmRNAの発現部位を検討した.その結果,視床下部,海馬,扁桃体においてαサブユニット,βAサブユニットmRNAの強い発現が認められた.βBサブユニットmRNAは,検討した脳の全ての領域において極めて低いレベルでしか検出できなかった.αサブユニット,βAサブユニット遺伝子が,視床下部,海馬,扁桃体という視床下部/辺縁系で発現していたことから,インヒビンAあるいはアクチビンAが自律機能の制御や,情動行動,本能行動の発現など,脳の低次機能の制御に特異的に関与していることが示唆された.

 第2章においては,視床下部,扁桃体,海馬におけるサブユニットmRNAの発現に対する,12時間,60時間の絶食及び絶水の影響を検討した.その結果,視床下部ではαサブユニットmRNAは絶食後12時間で有意に減少したが,60時間ではほぼ回復した.βAサブユニットmRNAは絶食後連続的に増加した.絶水ではβBサブユニットmRNAにのみ増加が認められた.これらより,インヒビンは急性的な体内環境の変化に対応する情報担体であり,アクチビンは絶食により持続的に進行する体内環境の変化を反映する情報担体である可能性が考えられた.扁桃体においては,絶食60時間でβAサブユニットmRNAが有意に減少した.βBサブユニットmRNAは絶食12時間以降,有意に減少した.絶水ではαサブユニットmRNAのみ増加し,インヒビンが脱水状態の認識に関与していることが考えられた.一方,海馬においては,αとβAサブユニットのmRNAは絶食12時間で有意に減少した.βBサブユニットmRNAは絶食時間の経過とともに顕著に減少した.絶水では12時間以降,αサブユニット及びβAサブユニットmRNAが減少した.βBサブユニットは発現量の高いαサブユニットと結合し,インヒビンBとして機能しているのではないかと考えられ,海馬のインヒビンBが記憶が関連するような摂食行動の調節に関わっている可能性が考えられた.

 第3章においては,アクチビンA,インヒビンA,及びアクチビンの作用を阻害するフォリスタチンを第3脳室内に投与して,12時間の摂食/摂水行動に対する影響を検討した.その結果,アクチビンAは摂食を促進し,インヒビンAは摂水を用量依存的に抑制した.フォリスタチンは摂食量を用量依存的に抑制し,摂水に対しても抑制効果を示した.これらの結果は,アクチビン,特にアクチビンAが摂食/摂水行動に対して促進的作用をもつことを示している.一方で,近年インヒビンには独自のレセプターが存在し,アクチビンとは独立の作用を有することも示唆されているので,アクチビンは主に摂食の,インヒビンは主に摂水の制御機構に関わっている可能性も考えられた.

 以上,本研究によりアクチビン/インヒビンが脳内において摂食/摂水行動の制御に液性因子として関わっていることが示唆された.さらに,インヒビンはアクチビンの作用を阻害するばかりではなく,栄養環境の変化に対するサブユニット遺伝子発現の応答や,脳室内投与の効果がアクチビンとは異なることから,インヒビンとアクチビンはそれぞれ独自の役割を担っている可能性が考えられた.脳内では,神経伝達物質を介した情報伝達とともに,液性因子を介した情報伝達が機能することにより,刻々と変化する栄養環境に対して的確に対応していけるのではないかと考えられる.これらの知見は,資源動物の摂食の人為制御などにも新たな方法論を提供するものであり,学術上,応用上貢献するところが少なくない.よって審査員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものとして認めた.

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