学位論文要旨



No 117252
著者(漢字) 神谷,和作
著者(英字)
著者(カナ) カミヤ,カズサク
標題(和) マウス聴覚系の生後の発達および可塑性変化に関する研究
標題(洋) Postnatal development and plasticity of mouse auditory system
報告番号 117252
報告番号 甲17252
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2448号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 教授 土井,邦雄
 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 助教授 九朗丸,正道
 東京大学 助教授 久和,茂
内容要旨 要旨を表示する

 近年、哺乳類の脳や感覚器系でニューロンあるいは感覚細胞が出生後に新生や再生をすることが数多く報告され、新たな概念が生まれつつある。マウス聴覚系の内耳蝸牛組織ではこれまで、胎生期(胎生16日齢)にほぼすべての内耳聴覚系を構成する細胞(有毛細胞、支持細胞、神経細胞等)の分裂が終了し、生涯これらを維持すると考えられてきた。しかし本研究では、細胞増殖のマーカーであるBrdU連続投与等の手法により、生後12日齢、14日齢のらせん神経節におけるニューロンの新生を確認した。さらに10日齢までにニューロンの自然発生的なアポトーシスも確認された。これらの日齢の聴覚機能レベルでの発育段階を知るため、ABR(Auditory Brainstem Response:聴性脳幹反応)測定により、生後はじめて脳幹を通じて外界音(気導音)を認識する時の脳波の変化を解析した。生後11日齢までは10および20KHzでのABRの閾値は100db以上であったが生後12日齢に外耳道が開くと同時に、それまで確認されなかった100db以下でのABRの脳波が確認できるようになり、生後14日齢にはほぼ成熟個体に近い閾値となった。つまり上記のニューロンの新生は機能的にも成熟した時期(12日齢以降)においても起こっているということになる。これにより上記のニューロン新生が外界音に適応した変化である可能性が示唆された。

 一方、幼若マウスはGERと呼ばれる有毛細胞や支持細胞の前駆体と考えられる細胞塊を持つ。我々はこのGER細胞が12日齢までに表層部がアポトーシスにより消失していき、一方で基底部から新生している細胞があることを発見した。昨年GER細胞の一部を人為的に聴覚有毛細胞に分化させたという報告もあり、GERが聴覚への発生運命の決まった増殖能の高い細胞塊であることが本研究により明らかとなった。これにより、GER細胞をin vitroで増殖させた後に有毛細胞に分化誘導し、それを再生医療に応用するという新たな可能性が見いだされた。

 我々は上記のような生後の聴覚系でのアポトーシスが、多くのアポトーシスのトリガーとして知られるCaspase3の活性を経て起こることを免疫組織化学的手法により確認した。さらに、Caspase3が欠損すると我々の発見した生後のアポトーシスが起こらず、聴覚系になんらかの異常が生じると推測し、Caspase3遺伝子欠損マウス(−/−)について、ABRによる聴覚閾値の測定および組織学的検索を行った。その結果、(−/−)は野生型(+/+)に較べ、明らかな難聴であることが示された。組織学的観察では、2週齢の(−/−)では、らせん神経節細胞と有毛細胞の数および配置は、ほぼ正常であったが、5週齢ではらせん神経節細胞の約60%、内有毛細胞の約54%、外有毛細胞の約34%が消失していた。また、2週齢において(+/+)のGERは上記したようにアポトーシスにより消失しているが、(−/−)ではこのアポトーシスが起こらず、GERが残存した未熟な状態に留まっていた。これらのことからCaspase3欠損による形態異常や機能障害は、胎生期の形態形成よりもむしろ本研究にて観察された、生後の発育過程におけるアポトーシスに大きく関わっていると考えられる。本研究により、聴覚系で生後に起こるアポトーシスが正常な聴覚機能を保つためには必須であることが初めて明らかとなった。

 また、外部からの音刺激の入力が12日齢に始まるという上記の結果から、音刺激依存的に発現が増加する遺伝子をDifferential Display (DD)法により解析した。生後11日齢、13日齢および成熟個体を比較したところ、生後13日齢にのみ発現している遺伝子や生後13日齢と成熟個体にしか発現していない遺伝子が多数あることを発見し、生後12週齢を境に遺伝子発現パターンに大きな変化があることが示唆された。これらは音刺激の入力に適応した可塑的変化であると推測される。変化のあった遺伝子をクローニングし、その配列から多くの既知遺伝子および機能的には未知の遺伝子が同定された。多くの遺伝子は機能的には未知であるcDNAクローンであったが、生後11日齢から13日齢にかけて発現が増加する遺伝子の一つにマウスTIS7のmRNAが同定された。この遺伝子は、ニューロンへの分化の際に発現することが知られており、音刺激に適応したらせん神経節細胞への分化に関与している可能性が示唆された。

 生後11日齢、13日齢、成熟個体の蝸牛mRNAを比較することにより、聴覚の可塑性だけではなく、発育、加齢に関わる遺伝子も容易に同定することができた。このシステムは、蝸牛組織内の様々なステージにおける遺伝子発現の変化を解析する有用な方法であると考えられる。

 また、この実験によって、幼若期の蝸牛で成熟個体に比べて高レベルのmRNA発現を示す遺伝子としてPhosphatidy linositol 4-phosphate 5-kinase type I-alpha (Pip5kla)が同定された。Pip5klaはPhosphatidylinositol経路において様々な細胞機能やシグナル伝達に関与していることが知られており、近年ではアクチン重合による細胞骨格の再構成を制御していることが数多く報告されている。RT-PCRにおける定量的解析では、12日齢および13日齢は、4週齢に比べて75%以上Pip5klaのmRNA発現が高いことが示され、この高レベルのmRNA発現が生後初期の発育において特異的に起こっていることが示された。抗Pip5klaモノクローナル抗体による免疫組織化学的検索では、哺乳期マウス(11および13日齢)の外有毛細胞のクチクラ板およびGERの領域に多く存在することが示された。これにより、Pip5klaが哺乳期におけるアクチン重合による細胞骨格の再構成、外有毛細胞の感覚毛の維持に関わっている可能性が示唆された。また、Radiation Hybrid法による解析では、Pip5klaは第19染色体のセントロメアから約17.5cMの位置の限定された領域に位置づけられた。この領域はマウスの難聴遺伝子dnの領域のごく近傍に位置し、Pip5klaがdnの有力な候補遺伝子であると考えられる。これらのことから、Pip5klaは生後初期の蝸牛の発育においてきわめて重要な役割を担っていることが示唆された。

 本論文によって、生後の蝸牛組織は音刺激の入力開始の前後において、音に対応した可塑性変化をはじめとする様々な変化を引き起こし、これらが正常聴覚の形成には必須であることが明らかとなった。これらことから、生後の発達こそが聴覚系の複雑な発育様式および難聴の解明の鍵を握るものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 これまでマウス聴覚系では、胎生期に全ての神経細胞や有毛細胞等の分裂が終了し、これらを生涯維持すると考えられてきた。しかし、本研究ではbromodeoxyuridine連続投与等の手法により、生後に起こるらせん神経節でのニューロンの新生(14日齢まで)およびアポトーシス(10日齢まで)を確認した。ABR(聴性脳幹反応)測定では、音刺激の入力開始は生後12日齢であり、上記のニューロン新生は機能的に成熟した時期(12日齢以降)においても起こっていることが明らかとなった。また、幼若マウスはGER(Greater Epithelial Ridge)と呼ばれる有毛細胞の前駆体細胞塊を持つ。本研究ではこのGER細胞が7日齢を中心に上皮側が劇的なアポトーシスにより消失することを明らかにした。さらに12日齢までにGER細胞の一部が基底部側から細胞新生をすることを発見した。これによりGER細胞が有毛細胞への発生運命の決まった増殖能の高い細胞塊であることが確認され、再生治療への応用が期待できる。

 また、上記のアポトーシスがCaspase3の活性を経て起こることを確認し、この欠損により聴覚系に異常が生じると推測してCaspase3欠損マウス(−/−)の聴覚機能および蝸牛構造の解析を行った。その結果、Caspase3(−/−)が高度な難聴であることがABRにより示された。さらに、2週齢で有毛細胞およびらせん神経節細胞数はほぼ正常であったが、5週齢ではこれらの多くが消失していたこと等から、この聴覚障害が胎生期の形態形成よりもむしろ本研究にて発見されたような生後のアポトーシスに大きく関わっていると考えられる。

 また、外部からの音刺激の入力が12日齢に始まるという上記の結果から、音刺激依存的に発現が増加する遺伝子をDifferential Display (DD)法により解析した。生後11日齢、13日齢および成熟個体を比較したところ、生後13日齢にのみ発現している遺伝子や生後13日齢と成熟個体にしか発現していない遺伝子が多数あることを発見し、生後12週齢を境に遺伝子発現パターンに大きな変化があることが示唆された。これらは音刺激の入力に適応した可塑的変化であると推測される。変化のあった遺伝子をクローニングし、その配列から多くの既知遺伝子および機能的には未知の遺伝子が同定された。多くの遺伝子は機能的には未知であるcDNAクローンであったが、生後11日齢から13日齢にかけて発現が増加する遺伝子の一つにマウスTIS7のmRNAが同定された。この遺伝子は、ニューロンへの分化の際に発現することが知られており、音刺激に適応したらせん神経節細胞への分化に関与している可能性が示唆された。

 生後11日齢、13日齢、成熟個体の蝸牛mRNAを比較することにより、聴覚の可塑性だけではなく、発育、加齢に関わる遺伝子も容易に同定することができた。このシステムは、蝸牛組織内の様々なステージにおける遺伝子発現の変化を解析する有用な方法であると考えられる。

 また、この実験によって、幼若期の蝸牛で成熟個体に比べて高レベルのmRNA発現を示す遺伝子としてPhosphatidylinositol 4-phosphate 5-kinase type I-alpha(Pip5kla)が同定された。Pip5klaはPhosphatidylinositol経路において様々な細胞機能や細胞内シグナル伝達に関与していることが知られており、近年ではアクチン重合による細胞骨格の再構成を制御していることが数多く報告されている。RT-PCRにおける定量的解析では、12日齢および13日齢は、4週齢に比べて75%以上Pip5klaのmRNA発現が高いことが示され、この高レベルのmRNA発現が生後初期の発達において特異的に起こっていることが示された。抗Pip5klaモノクローナル抗体による免疫組織化学的検索では、哺乳期マウス(11および13日齢)の外有毛細胞のクチクラ板およびGERの領域に多く存在することが示された。これにより、Pip5klaが哺乳期におけるアクチン重合による細胞骨格の再構成、外有毛細胞の感覚毛の維持に関わっている可能性が示唆された。また、Radiation Hybrid法による解析では、Pip5klaは第19染色体のセントロメアから約17.5cMの位置の限定された領域に位置づけられた。この領域はマウスの難聴遺伝子dnの領域のごく近傍に位置し、Pip5klaがdnの有力な候補遺伝子であると考えられる。これらのことから、Pip5klaは生後初期の蝸牛の発育においてきわめて重要な役割を担っていることが示唆された。

 以上を要するに、本論文は生後の蝸牛組織が音刺激の入力開始の前後において、音に対応した可塑性変化をはじめとする様々な変化を引き起こし、これらが正常聴覚の形成には必須であることが明らかにしたものであり、その成果は学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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