学位論文要旨



No 117256
著者(漢字) 机,直美
著者(英字)
著者(カナ) ツクエ,ナオミ
標題(和) ディーゼル排気微粒子の雌性生殖器作用および繁殖機能障害に関する研究
標題(洋)
報告番号 117256
報告番号 甲17256
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2452号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 唐木,英明
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 助教授 西原,真杉
 東京大学 助教授 桑原,正貴
内容要旨 要旨を表示する

 ディーゼル排気(DE)は、国内外で深刻な社会問題となっている大気汚染発生源の一つである。DEの健康影響に関する研究は、これまで喘息性疾患、肺癌あるいは気管支炎等の呼吸器に及ぼす影響を中心に行われてきた。しかしながら、近年は人の死亡率に関する疫学的研究の結果や次世代影響の面から、DEの循環器系や生殖器系に対する影響が注目されるようになった。そこで本研究では、まずDE曝露が雄の生殖器系に及ぼす影響の有無を検索するためにFischer 344雄ラットに高脂肪食を摂取させた後、8ヶ月間のDE吸入曝露を行った。その結果、精巣自体には影響がみられなかったが副生殖腺重量の低下や血清テストステロン値の増加といった内分泌系に変化が観察された。次いで、DE中には多くの多環芳香族炭化水素が含まれることに着目し、Aryl hydrocarbon receptor (AhR)の感受性が高いといわれているC57BL/6N雌マウスを用いて、DEによる生体影響として重要視される次世代への影響あるいは繁殖機能に対する影響を明らかにするために、雌性生殖器および繁殖機能に及ぼす影響について検討した。

 DE吸入曝露は、DE中の粒子濃度が0.3、1.0および3.0 mg/m3の3群と対照群(清浄空気のみ)をおき、曝露期間は約4ヶ月間(午後10時から午前10時まで12時間/日、7日/週)とした。さらに次世代影響を調べるために上記の曝露終了後、曝露されていない10週齢の雄と一週間同居交配させた。

 その結果、母マウスの流産や娩出不全等の繁殖異常が認められたが有意ではなかった。また、新生子の外貌異常についても曝露群と対照群との間に有意な差はみられなかった。しかし、親の営巣行動の評点は、正常出産雌の3.0 mgDEP/m3群では有意に低下した。また、出生子の体重変化は、成長するにしたがって雌雄ともに高濃度曝露群で有意に減少した。雄子マウスは、30日齢では0.3 mgDEP/m3群で生殖突起肛門間距離(AGD)が有意に短くなった。一方、雌子マウスでは、70日齢における頭臀長の有意な短縮(1.0 mgDEP/m3群、3.0 mgDEP/m3群)が示された。一方、雌子マウスにおける腟開口時期については、0.3および1.0 mgDEP/m3群で有意に早まった。

 このように親の繁殖機能への影響については行動学的な変化以外はほとんどみられなかったが、出生子に関しては臓器重量や腟開口時期の早期化といった次世代にわたる間接的な影響がみられた。そこで、このようなDEの生体影響の根源と考えられているディーゼル排気微粒子(DEP)を直接同系統の妊娠マウスに皮下投与した際にどのような変化が現れるかについて詳細に検討することにした。

 C57BL/6Nマウス雌145匹(10週齢)を同系統同週齢の雄と一週間同居交配後、妊娠8、10、12日目にDEP抽出物(DEPE)を皮下投与(計0.006、0.06、0.6、6.0あるいは60mg/mouse)して、生殖機能および出生マウスの生後発育に及ぼす影響を調べた。交配後毎日体重計測を行ったが、分娩までほぼ順調に体重が増加したマウスは正常出産する一方、非妊娠マウスはごくわずかな通常の体重増加しか示さないことから、妊娠と非妊娠の区別が可能であった。また、妊娠後途中まで体重が増加したが、ある時点で急激に体重が減少した個体は流産が生じたものとみなされ、DEPE投与群に多かった。すなわち、0.006、0.06、0.6、6.0あるいは60 mg/mouseの全曝露濃度で有意な流産率の増加が認められた。流産率は高用量投与群よりも低用量投与群に高い傾向がみられた。DEPE皮下投与群では出生子の体重減少および雌マウスの腟開口時期に対する影響がみられた。この現象は上述したDEの吸入曝露実験による成績に類似した。また、特に低用量投与群で頭臀長に変化が観察され、雄の副生殖腺重量の減少も低用量投与群でより明瞭であった。これらの成績により、DEPEの皮下投与によってDEの吸入曝露と同様に出生子(第二世代)への影響、特に生後発達に異常が生じることが明らかとなった。

 上述の流産や娩出不全などの生殖機能異常が生じる要因には、子宮筋、胎盤および胎子の側における様々な因子が考えられる。それらの一部として子宮筋の収縮感受性の変化も挙げることができる。そこで、DEあるいはDEP曝露による子宮収縮反応の変化の有無を明らかにするために以下の実験を行った。子宮収縮反応はオキシトシン(OT)に対する収縮反応の相違を比較する方法で行った。この実験においては、卵巣ホルモンの関与による影響を考慮して、まずC57BL雌マウスを卵巣摘出(OVX)群と卵巣非摘出(無処置)群に分け、それぞれDEに1ヶ月間または4ヶ月間吸入曝露した上記のマウスの子宮収縮反応を調べた。

 その結果、DE4ヶ月間曝露の無処置群において、0.3および3.0 mgDEP/m3曝露群で有意な体重の減少が生じたが、子宮重量および子宮収縮反応には有意な変化は示されなかった。しかしながら、3.0 mgDEP/m3群でOT滴下による収縮頻度の有意な減少がみられた。1ヶ月DEを吸入曝露させたOVX群において、0.3および1.0 mgDEP/m3群では有意な体重の増加が生じたものの、子宮重量には変化が認められなかった。しかしながら、3.0 mgDEP/m3群のOTに対する子宮収縮反応は有意に増加した。このように、卵巣存在下のマウスではDEによるOT誘発子宮収縮への影響は見られなかったことから、卵巣機能が維持されている個体ではDEによる子宮筋影響が何らかの機序によって緩衝されている可能性が示唆された。

 次いで、OVXマウスにDEPE(0.006、0.6あるいは60 mg/mouse)を皮下投与した実験において、対照群と比較して有意な収縮の増強が示された。その結果、非経気道的に投与された個体においてもDEPは子宮のOT収縮反応を増強することが明らかになった。さらに、DEPEを子宮筋に対して短時間または長時間直接作用させたときのOT収縮反応を検討した。その結果、OVXマウスの子宮にDEPE 3×10-4〜3 mg/mlを滴下したときの投与直後および投与後の最大収縮反応は、DEPEを滴下しない標本と比べて有意な収縮の増加を示した。OVXマウスの子宮標本でOT収縮反応を確認した後、DEPE(0.3 mg/ml)を24時間持続的に作用させたときのOTに対する収縮反応は有意な変化を示さなかった。以上の成績により、DEPEは体内の血液循環を介して子宮筋に対する収縮増強効果を与えること、その場合このような変化は内分泌系に対する影響の他にDEPEが直接的にも子宮に影響する可能性が示唆された。このような子宮筋収縮反応変化の詳細な機序は不明であるが、流産や娩出不全などの生殖機能障害をもたらす一因となる可能性は否定できない。DEPE皮下投与では出生子の成長にも影響を与えるなど次世代に及ぶ影響が生じることも明らかになったことから、DEPEあるいはその代謝物質は胎盤を介して胎子へと移行するか、また母マウスの生理学的状態の変化が発生段階にある胎子の細胞に何らかの異常を来たすことが推測される。上記までの研究によってDEあるいはその抽出物質であるDEPEはC57BL/6Nマウスに対してかなり強い生体毒性を有することが明らかになった。

 DEPE中には多種多様な生体影響物質が含まれていると報告されており、そのうちフタル酸エステル類は内分泌撹乱化学物質の観点から重要である。そこで、この研究で使用したDEPから抽出分離された4−ヒドロキシフタル酸(以下、free体と略)および4−ヒドロキシイソフタル酸(以下、iso体と略)、また構造類似体の4−ヒドロキシフタル酸−1−メチルエステル(以下、dimethyl体と略)および4−ヒドロキシフタル酸−2−メチルエステル(以下、2Me体と略)の4種類のフタル酸エステル類を用いてこれまでと同様な実験を試みた。

 その結果、4種類のフタル酸エステル類で母マウスの出産率の変化は出現せず、DEPE皮下投与でみられたような異常出産もみられなかった。しかし、営巣行動はiso体や2Me体の非妊娠マウスで有意に評点の高い巣の形成がみられた。また、群内における妊娠マウスと非妊娠マウスとの比較では、フタル酸エステル類投与群では変化がみられなかったが、対照群(DMSOおよびestradiol)内の比較で有意に高い巣の形成がみられた。また産子数にも変化はみられなかったが、出生子マウスの異常個体数は、iso体で有意に増加し特に成長不良が多かった。その他の奇形として、DE曝露やDEPE皮下投与で観察されたときと同様に眼に異常を示す個体がみられた。30日齢における子の身体計測では、2Me体、free体、estradiolの投与で雌雄ともAGDが有意に長くなった。このように妊娠マウスへのフタル酸エステル類の投与により、DEPE投与で観察された例に類似した出生子の成長影響が認められたことから、DEPE投与による生殖機能障害の少なくとも一部はフタル酸エステル類が関与する可能性が示唆された。

 次に上記4種類のフタル酸エステル類における子宮収縮反応についてOVXマウスを用いて観察した。フタル酸エステル類(1 mg/kgBW)を皮下投与されたOVXマウスのOTに対する子宮収縮反応の変化、ならびに投与を受けていないOVXマウスのOT直接作用に対する子宮収縮反応を調べた。その結果、free体および2Me体を皮下投与したマウスの子宮では投与直後および投与後の最大収縮反応に有意な収縮の増加がみられた。一方、フタル酸エステル類を短時間および24時間作用させたときのOTに対する収縮反応は、特に有意な変化を示さなかった。このように、一部のフタル酸エステル類は子宮筋に対して間接的あるいは直接的に収縮を与えうることが明らかになった。これらの現象は、DEPEの作用と類似することから、フタル酸エステル類はDEおよびDEPEによる生体毒性、特に生殖機能障害や次世代の発達障害の原因物質として関与する可能性が濃厚であることが推測された。

 以上の実験成績および考察から、近年における大気汚染物質の主要因であるDEPは、それを構成するフタル酸エステル類などの作用を通じて第一世代の生殖機能障害ならびに第二世代の成長、発達障害をもたらす潜在的リスクを有することが明らかになり、これらの知見は今後の大気環境科学分野での諸研究を推進する上で重要な基礎を与えるものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 ディーゼル排気(DE)は、国内外で深刻な社会問題となっている大気汚染発生源の一つである。本研究はDEによる生体影響として重要視される生殖機能影響および次世代の生後発達に及ぼす影響を多面的に検討したものである。

 実験動物としてAryl hydrocarbon receptor (AhR)の機能発現が高いといわれるC57BL/6N雌マウスを用いた。DE中の粒子濃度が0.3、1.0および3.0 mg/m3の3群と対照群(清浄空気のみ)を設け、約4ヶ月間にわたって吸入暴露させた。このマウスに対してDEに曝露されていない雄と一週間同居交配させ、妊娠率、妊娠期間中の流産率、営巣行動などを観察した。また、産子については体重および各臓器の変化、生殖器の発達、膣開口日等を調べた。さらにDEに暴露された雌マウスの摘出子宮筋のオキシトシン(OT)誘発子宮収縮反応を測定した。その結果、母マウスの流産や娩出不全等の繁殖異常は曝露群と対照群との間に有意差は認められなかった。しかし、親の営巣行動は、正常出産雌の3.0 mgDEP/m3群で有意に低下した。また、出生子の体重変化は、成長するにしたがって雌雄ともに高濃度曝露群で有意に減少した。雄子マウスでは生殖突起肛門間距離(AGD)の有意な短縮、雌子マウスの頭臀長の有意な短縮が示された。一方、雌子マウスの腟開口時期は、0.3および1.0 mgDEP/m3群で有意に早まった。

 ついで、ディーゼル排気微粒子(DEP)を直接妊娠マウスに皮下投与した際にどのような変化が現れるかについて検討した。その結果、0.006、0.06、0.6、6.0あるいは60mg/mouseの全曝露濃度で有意な流産率の増加が認められた。流産率は高用量投与群よりも低用量投与群に高い傾向がみられた。DEPE皮下投与群では出生子の体重減少および雌マウスの腟開口時期に対する影響がみられた。また、特に低用量投与群で頭臀長に変化が観察され、雄の副生殖腺重量の減少も低用量投与群でより明瞭であった。これらの成績により、DEPEの皮下投与によってDEの吸入曝露と同様に出生子(第二世代)への影響、特に生後発達に異常が生じることが明らかとなった。

 上述の流産や娩出不全などの生殖機能異常が生じる要因の一部を明らかにするために、雌マウスを卵巣摘出(OVX)群と卵巣非摘出(無処置)群に分け、それぞれDEまたはDEPEに1ヶ月間または4ヶ月間曝露し、子宮収縮反応を調べた。その結果、3.0 mgDEP/m3を含むDEの4ヶ月間曝露群ではOTに対する子宮収縮反応が有意に増大した。さらに、OVXマウスにDEPEを直接皮下投与した実験において、有意な収縮増強が示された。その結果、非経気道的に投与された個体においてもDEPは子宮のOT収縮反応を増強することが明らかになった。さらに、DEPEを子宮筋に対して短時間または長時間直接作用させたときのOT収縮反応を検討した。その結果、OVXマウスの子宮へのDEPE 3×10-4〜3 mg/ml作用により有意な収縮の増大が示された。

 DEPE中には多種多様な生体影響物質が含まれており、そのうちフタル酸エステル類は内分泌撹乱化学物質の観点から重要である。そこで、DEPから抽出分離された4−ヒドロキシフタル酸(以下、free体と略)および4−ヒドロキシイソフタル酸(以下、iso体と略)、また構造類似体の4−ヒドロキシフタル酸−1−メチルエステル(以下、dimethyl体と略)および4−ヒドロキシフタル酸−2−メチルエステル(以下、2Me体と略)の4種類のフタル酸エステル類を用いてこれまでと同様な実験を試みた。その結果、4種類のフタル酸エステル類で母マウスの出産率の変化および異常出産はみられなかった。しかし、営巣行動はiso体や2Me体の非妊娠マウスで有意に評点の高い巣の形成がみられた。出生子マウスの異常個体数は、iso体で有意に増加し特に成長不良が多かった。また、眼の異常やAGDの有意の増大が認められた。最後に上記4種類のフタル酸エステル類における子宮収縮反応についてOVXマウスを用いて観察した。その結果、free体および2Me体を皮下投与したマウスの子宮では最大収縮反応に有意な収縮の増加がみられた。上記の実験成績および考察から、DEPは、それを構成するフタル酸エステル類などの作用を通じて第一世代の生殖機能障害ならびに第二世代の成長、発達障害をもたらす潜在的リスクを有することが明らかになった。

 以上を要するに、本論文はディーゼル排気の健康影響を実験的に証明したものであり、その成果は学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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