学位論文要旨



No 117264
著者(漢字) 厳,軍麗
著者(英字)
著者(カナ) ヤン,ジュンリー
標題(和) 胎盤発生におけるレチノイン酸シグナルの機能に関する研究
標題(洋) Study on the Role of Retinoic Acid Signaling in the Placental Development
報告番号 117264
報告番号 甲17264
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2460号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 教授 土井,邦雄
 東京大学 助教授 田中,智
 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
内容要旨 要旨を表示する

緒言

 胎盤は哺乳類の胚発生において最初に形成される臓器のひとつである。胎盤の大部分を構成する栄養膜細胞は受精卵に由来する細胞で、いくつかのサブタイプに分化したそれらが胎盤の主要な機能を担う。遺伝的要因、および、母体側の環境要因は栄養膜細胞の発生・分化に影響を及ぼし、胎盤機能の欠陥と、それによる胎児の成長遅延や胎児死を引き起こす。近年、マウス栄養膜幹細胞(TS細胞)株が樹立されたが、この細胞はin vitroですべての栄養膜細胞サブタイプ、すなわち栄養膜巨細胞、海綿状栄養膜細胞、および迷路部栄養膜細胞に分化できることが示されている。また、TS細胞はキメラ形成能を有し、in vivoで胎盤構築に寄与することができるが、胎児の体細胞および生殖細胞には分化しない。これらの性質から、TS細胞は胎盤形成過程における栄養膜細胞の増殖・分化制御機構を解析するための有用なツールとして用いられている。

 核内受容体スーパーファミリーには、甲状腺ホルモン、ステロイドホルモン、レチノイド、ビタミンDなどの受容体、および、その内在性リガンドがまだ同定されていない、いわゆるオーファン受容体が含まれる。これらの核内受容体は、胚発生、細胞分化、代謝調節、恒常性の維持などにおいて様々に重要な役割を果たしていることが明らかになっているが、胎盤発生における役割に関する知見は未だに非常に乏しい。核内受容体スーパーファミリーのうち、レチノイン酸に対する各種受容体の遺伝子がマウス胎盤で部位特異的に発現されている。このことなどから、胎盤の発生と機能の制御にレチノイン酸シグナルが関与する可能性が示唆されているが、既存のレチノイン酸受容体であるRARのノックアウトマウスでは胎盤形成に異常は見られず、胎盤発生過程にレチノイン酸シグナルがどのように関与しているのかは、未だ謎である。

 そこで本研究では、in vitroとin vivoにおけるレチノイン酸シグナルの影響を、TS細胞と生体内の胎盤について解析を行った。ここで得られた結果は、レチノイン酸シグナルが栄養膜細胞の分化方向の決定に影響を及ぼすこと、またレチノイン酸代謝酵素であるCYP26A1が栄養膜幹細胞の維持に働いていることを強く示唆する。これらの結果をもとに、レチノイン酸の作用・代謝経路およびその胎盤形成における重要性について述べる。

第1章 TS細胞における核内受容体の発現

 エストロジェン及びプロジェステロンは胚発生、特に胚の着床に重要な役割を担うが、胎盤での働きについては結論が出ていない。ここでは、TS細胞におけるエストロジェン受容体(ERα、ERβ)、およびプロジェステロン受容体(PR)の発現をRT-PCR法を用いて調べ、これらがTS細胞では発現されていないことを確認した。一方、各種オーファン受容体が胚発生に重要な役割を果たしていることから、これらが栄養膜細胞系列の中でどのような働きをしているか調べるために、GCNF、TR2、COUP-TFII、Rev-Erb、RORのTS細胞における発現を調べた。その結果、それぞれがTS細胞に発現しており、TS細胞の増殖・分化条件においてさまざまな発現パターンを示すことがわかった。これらのことから、オーファン受容体が栄養膜細胞系列の発生過程でも何らかの役割を果たしていることが推測された。

第2章 レチノイン酸は栄養膜細胞を栄養膜巨細胞に分化させる

 前章においてTS細胞での発現が認められたオーファン受容体のほとんどは、レチノイン酸受容体との相互作用などを介し、レチノイン酸シグナルおよびそれによる遺伝子発現の制御にも関与していることが知られている。そこで、レチノイン酸が胎盤形成に与える影響を解明するために、TS細胞の増殖および分化に対するレチノイン酸の作用を解析すると同時に、レチノイン酸を投与し、外胎盤錐(ectoplacentalcone)の発生への影響を解析した。

 通常の培養下では、TS細胞はRARβを除く全てのレチノイン酸受容体のサブタイプを発現していた。また、RARβの発現も、培養液中にレチノイン酸を添加することによって誘導されることがわかった。FGF4と胎児繊維芽細胞培養上清(EMFI-CM)の除去によっておこる、TS細胞の各種栄養膜細胞サブタイプへの分化において、レチノイン酸は、海綿状栄養膜細胞の分化を抑制すると同時に、栄養膜巨細胞への分化を促進することがわかった。さらに、妊娠中のレチノイン酸投与(妊娠6.5および7.5日の二回投与)の結果でも栄養膜巨細胞の過形成と、海綿状栄養膜細胞の減少が見られた。これらから、レチノイン酸は細胞外シグナル因子として働き、栄養膜細胞の細胞運命の決定に関与することが考えられる。母体側の子宮脱落膜細胞がレチノイン酸産生能を持つことと、栄養膜巨細胞がこの脱落膜細胞に接する位置に局在することを併せて考えると、本研究によって得られた結果は、レチノイン酸が栄養膜巨細胞の分化を促す生体内位置情報として作用していることを示唆する。

第3章 栄養膜幹細胞におけるレチノイン酸シグナルの負の制御

 TS細胞の培養系では、レチノイン酸がFGF4とEMFI-CMの分化抑制/増殖促進作用に拮抗する作用を及ぼすことが分かった。このことは、生体内での胎盤形成時には、内在性レチノイン酸の局在が厳しく制御されていることが必要であることを示す。レチノイン酸の不活化酵素であるCYP26A1は不必要なレチノイン酸シグナルから胚細胞を守る働きがあると言われている。興味深いことに、CYP26A1は原始内胚葉層に加え、栄養膜幹細胞集団が局在すると考えられている胚体外外胚葉で特異的に発現している。また、CYP26A1は未分化条件下のTS細胞のみで発現しており、FGF4とEMFI-CMの除去後12時間で発現は失われる。この急激な発現の消失は、CYP26の発現が他の栄養膜幹細胞特異的遺伝子と比べても、よりその幹細胞条件と密接に関わっていることを示す。さらに、ノックアウトマウスの解析から、CYP26A1の欠損は巨細胞過形成を伴う胎盤形成初期の異常につながることが明らかとなった。これらの結果は、CYP26A1が栄養膜幹細胞の早発的な分化を防ぐという新しい役割を示すものである。胚体外外胚葉にCYP26A1の発現が必要なことは、栄養膜幹細胞の維持条件として、FGF4の存在とレチノイン酸の不在の双方が必要であることを示唆している。

総括

 本研究は、レチノイン酸が胎盤細胞の分化に影響を与え、その一方でレチノイン酸代謝酵素CYP26A1が栄養膜幹細胞の維持に働いていることを明らかにし、レチノイン酸の作用と代謝機構が胎盤形成に重要であることを示した最初の報告である。

 レチノイン酸は栄養膜細胞を巨細胞側へ分化誘導する。この結果は、生体内における栄養膜巨細胞とレチノイン酸産生部位の局在、さらにレチノイン酸受容体の発現部位を併せ考えて、レチノイン酸が、栄養膜巨細胞が胎盤辺縁部で形成されるための位置情報として働く可能性を示唆する。ビタミンA欠損ラットの胎児死と胎盤異常についての報告があるが、レチノイン酸産生の欠如が巨細胞形成に影響を与えうることから、大変興味深い現象であるといえる。

 レチノイン酸の不活化酵素として、CYP26A1は後脳のパターン形成、脊椎骨のidentityの獲得、及び体後部の発生に重要である。さらに、組織・細胞によって様々な細胞分化制御における役割が報告されている。栄養膜細胞におけるCYP26A1の役割はここで初めて示されるものである。CYP26A1欠損マウスは栄養膜幹細胞の維持に働くErrβやFgf2rの変異体に似た異常を示す。このことから、やはり栄養膜幹細胞の維持には、適切な増殖因子による分化抑制/増殖促進機構と、レチノイン酸による分化促進作用からの防御機構が、同時に必要であることがいえるだろう。本研究は、胎盤発生におけるレチノイン酸シグナルの役割とその重要性に新たな知見を与えるものである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、胎盤の形成過程におけるレチノイン酸の役割を解明することを目的に、胎盤の幹細胞株であるTS細胞を用いて解析した結果を中心に論じたもので、三章より構成されており、要約すれば以下のようになる。

 第一章では、まず、核内受容体スーパーファミリーに含まれるいくつかの分子について、その遺伝子のTS細胞における発現が、RT-PCRにより解析されている。その結果、胚の子宮への着床に重要な役割を担うことが知られているエストロジェンやプロジェステロンに対する核内受容体は発現されないことがわかった。その一方で、GCNF、TR2、COUP-TFII、Rev-Erb、およびRORといった、何らかのかたちでレチノイン酸シグナルに関与することが報告されている受容体が、TS細胞の増殖あるいは分化条件において、様々な発現パターンを示すことが明らかになった。

 第一章の結果から胎盤形成にレチノイン酸が作用する可能性が示唆されたため、第二章では、それを検証する目的で、TS細胞の増殖および分化に対するレチノイン酸添加の影響と、妊娠マウスへのレチノイン酸投与による、胎盤の原基である外胎盤錐(ectoplacental cone)の発生への影響が解析された。FGF4と胎児繊維芽細胞培養上清(EMFI-CM)の除去によってTS細胞は各種栄養膜細胞サブタイプへ分化するが、レチノイン酸は、海綿状栄養膜細胞の分化を抑制すると同時に、栄養膜巨細胞への分化を促進した。さらに、妊娠中のレチノイン酸投与でも、栄養膜巨細胞の過形成と海綿状栄養膜細胞の減少が見られた。これらから、レチノイン酸は細胞外シグナル因子として働き、栄養膜細胞の分化方向の選択に関与することで、栄養膜巨細胞の分化を促す母体組織由来生体内位置情報として機能していることが考えられる。

 第三章では、まず、TS細胞の培養系では、レチノイン酸がFGF4とEMFI-CMの分化抑制/増殖促進作用に拮抗する作用を及ぼすことが示されている。このことは、生体内での胎盤形成時には、内在性レチノイン酸の局在が厳しく制御されていることが必要であることを示す。そこで、レチノイン酸の不活性化酵素であるCYP26A1の発現様式を調べると、興味深いことに、CYP26A1は原始内胚葉層に加え、栄養膜幹細胞集団が存在すると考えられている胚体外外胚葉で特異的に発現していることがわかった。また、CYP26A1は未分化条件下のTS細胞でのみ発現しており、FGF4とEMFI-CMの除去後12時間で発現は失われた。さらに、CYP26A1ノックアウトマウスの解析から、本酵素の欠損は巨細胞過形成を伴う胎盤形成初期の異常につながることが明らかとなった。これらの結果は、CYP26A1が栄養膜幹細胞の早発的な分化を防ぐという新しい役割を示すものである。

 本論文で論じられた解析結果と、生体内における栄養膜巨細胞とレチノイン酸産生部位の位置関係、さらにレチノイン酸受容体の発現部位を併せ考えると、レチノイン酸は栄養膜巨細胞が胎盤辺縁部で形成されるための位置情報として働く母体組織由来因子である、という可能性が考えられる。ビタミンA欠損ラットの胎児死と胎盤異常についての報告があるが、レチノイン酸産生の欠如が巨細胞形成に影響を与えうることから、大変興味深い。

 レチノイン酸の不活性化酵素として、CYP26A1は後脳のパターン形成、脊椎骨のidentityの獲得、及び体後部の発生に重要である。さらに、組織・細胞によって様々な細胞分化制御における役割が報告されている。栄養膜細胞におけるCYP26A1の役割はここで初めて示されるものである。CYP26A1欠損マウスは栄養膜幹細胞の維持に働くErrβやFgf2rの変異体に似た異常を示す。このことからも、栄養膜幹細胞の維持には、適切な増殖因子による分化抑制/増殖促進機構と、レチノイン酸による分化促進作用からの防御機構が、同時に必要であることがいえるだろう。

 本研究は、レチノイン酸が胎盤細胞の分化に影響を与え、その一方でレチノイン酸代謝酵素CYP26A1が栄養膜幹細胞の維持に働いていることを明らかにし、レチノイン酸の作用と代謝機構が胎盤形成に重要であることを示した最初の報告である。本研究による発見は、胎盤発生におけるレチノイン酸シグナルの役割とその重要性を強く示唆する。これは、哺乳動物胚発生に必須である胎盤の形成制御機構機構を解明していく上で重要な知見で、獣医学領域に貢献しているところが少なくない。よって、審査員一同は、本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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