学位論文要旨



No 117269
著者(漢字) 廣井,賀子
著者(英字)
著者(カナ) ヒロイ,ノリコ
標題(和) 哺乳類Rcd1の分化における役割
標題(洋) A conserved role for mammalian Rcd1 in cell differentiation
報告番号 117269
報告番号 甲17269
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1877号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松島,綱治
 東京大学 教授 清水,孝雄
 東京大学 教授 廣川,信隆
 東京大学 教授 宮園,浩平
 東京大学 助教授 久保田,俊一郎
内容要旨 要旨を表示する

 細胞分化は、多細胞生物においては、生体に必須の細胞機能である。しかし一方で、酵母を含んだ多くの単細胞生物が、環境に適応するために分化を起こすことが知られている。この分化という現象を、制御機構の観点から見ると、2つの段階に分けることができる。1つ目は分化を行うかどうかの方向付けをする段階、2つ目は、分化した細胞の性質を決める分子が発現される段階である。この第一段階の、分化を行うかどうかを決める段階の制御機構は、細胞の種類、生物種によっても違いが少ないという可能性が考えられる。

 分裂酵母は、その遺伝子構造、細胞周期制御機構、さらに分化開始機構においても、より高等な真核生物に近いことが知られているが、Rcd1(required for cell differentiation 1)は、分裂酵母の分化機構の中の、窒素源枯渇条件下での分化の開始に必須の因子として同定された。

 この分子は、真核生物の中では、酵母から哺乳類まで、アミノ酸レベルで70%以上とその一次構造が高く保存されている。この非常に高い一次構造保存の状態から、細胞内での機能も保存されている可能性が高いことが推測された。そこで、Rcd1は新たな進化上共通の分化開始機構を司る分子の候補であるとして、その解析を開始した。

 はじめにこの分子の哺乳類ホモログが、単に遺伝子で存在するだけでなく、実際にタンパクとして発現しているのか、また発現しているとすればどのような部位で発現しているのかを調べるため、ラット臓器を用い、Rcd1の発現パターンをウエスタンブロッティング法で調べた。ラットembryo各臓器においては実験に用いたすべての臓器で発現が見られ、胎生日数が進むにつれ多くの臓器で減少する傾向が見られた。また、5週齢のラット各臓器でのRcd1タンパク発現は、胸腺、脾臓、骨髄の他、肺、睾丸、脳などで多かった。この結果から、実際にRcd1の哺乳類ホモログがタンパクとして発現していること、胎生初期の各臓器で多く発現していること、ある程度成熟の進んだ個体では、造血系の臓器等で発現の多いことが示された。この結果を受けて、in vitroで分化誘導可能なヒト白血病細胞株や、発生の過程を部分的に再現できることが知られているテラトカルシノーマの細胞を分化誘導し、その際のRcd1タンパク発現の変動を確認した。結果、実験に用いたどの細胞株でも発現が確認され、F9、HL-60をレチノイン酸(RA)で分化誘導する系では、分化誘導前は発現が少なかったものの、分化マーカーが確認されるようになる時期までに一過性で発現が上昇し、再び下がるという現象が見られた。この分子が分化開始の機構に関わるものだとすると、分化誘導刺激を加えた後に発現上昇し、終分化段階までにその発現が再び減少するF9、HL-60での発現パターンは興味深い。そこで初めに、発生初期に起こる細胞分化の過程を一部再現出来るF9をモデル系として選び、以下の実験を行った。

 まず、F9のRA刺激による分化にRcd1が必須の因子であるかを調べるため、Rcd1のantisense-oligoを用いて、F9をRA処理し分化誘導する際、Rcd1の発現上昇を抑えると、分化にどのような影響がでるか確認した。結果は、antisense-oligoを用いてRcd1の発現上昇を抑えると、分化マーカーであるc-Junの発現上昇、α-fetoprotein(AFP)の発現が抑えられた。また、同時にF9分化の際形成されるembryoid body(EB)の形成も強く阻害された。この結果より、分化誘導の過程で起きるRcd1発現の一過性の上昇が抑えられると、通常の分化を起こせなくなることが示された。次に、この系の中に、Rcd1が常時発現していた場合、分化にどのような影響が出るか確認するため、ヒトRcd1の全長をトランスフェクションした細胞株を樹立した。これらの細胞株では、Rcd1の発現は増殖には影響しなかった。一方、Rcd1発現株ではRA処理前からc-Junの発現が見られ、その後の経時的な変化は、WT、ベクターのみ導入の株と同様の変化が早いタイミングから観察された。また、Rcd1発現株では、RA添加前からEB様の細胞塊が観察された。この細胞塊は、細胞塊凍結切片のヘマトキシリン−エオシン染色、AFPの免疫染色、また細胞塊抽出液のAFPに対するウエスタンブロッティングにより、染色パターン、AFP発現パターンがほぼ同じであったことから、WTをRA処理したときに形成されるEBと同じものであると判断した。このことから、Rcd1導入株では、Rcd1導入によって分化が亢進されていると考えられた。この分化亢進が、Rcd1により直接引き起こされているのか、又はRcd1により、血清培地中に微量に含まれるRAのシグナルが増幅されるために起きているのか確認するため、RAの特異的な拮抗阻害剤で細胞を処理し、その時のEB様細胞塊形成率を確認した。すると、RA拮抗阻害剤で細胞を処理することにより、EB様細胞塊形成は抑制された。以上より、Rcd1は外から分化の刺激を受け取ったあとのシグナルを増幅する因子であることが推測された。

 これまで実験に用いてきたF9にRAを用いて分化誘導する系では、ATF-2(activation transcription factor-2)という転写因子が、RA刺激後、DRE(differentiation regulatory factor)と呼ばれるc-junのエンハンサー領域に結合することから起こることが知られている。一方で、この転写因子にどのようにRAのシグナルが伝達されているのかがこれまで明らかとされていない。この機構に、Rcd1がどのように関わっているのかを調べるため、RA処理前後で経時的に回収した細胞抽出液に対し免疫沈降法を用い実験を行った。結果、RAR(RA receptor)とRcd1は、RAの添加にかかわらず常に共沈し、分化誘導後、Rcd1とATF-2、ATF-2とRARの共沈が観察された。ATF-2とRARの共沈が、Rcd1とATF-2の共沈が起きるのとほぼ同時に起きることに着目し、両者の複合体形成にRcd1が必須の因子であるかどうか調べるため、Rcd1のantisense-oligoでRcd1発現量が上がらなくなるようにした細胞の抽出液を用いて実験を行ったところ、ATF-2、RARの細胞内の量には大きな差が見られないにもかかわらず、ATF-2-とRARの共沈は起こらなくなった。以上の結果から、RA刺激後、RARがRcd1を介してATF-2に結合していることが示唆された。このRcd1-ATF2のコンプレックスは、ラットembryoの各臓器でも観察されたことから、Rcd1-ATF-2の結合はin vivoでも起きていることが示唆された。また、ATF-2-RAR-Rcd1のコンプレックスが、実際にc-junのプロモーターにあるATF-2結合領域DRE上に、複合体の形で存在しうるのか調べるため、DREを用いてゲルシフトアッセイを行った。その結果、三者の複合体は、RA刺激によりDREに共に結合した形で存在することが示された。

 以上より、F9をRAで刺激することにより初期発生過程で起こる細胞分化を誘導する系では、Rcd1は必須の因子であり、RAによる刺激を、分化に必要な因子を発現させるために作用する転写因子へ伝える働きをしていることが示された。

 次に、Rcd1がより生理的な条件での発生の制御に関わるのかを調べるため、マウス胎児肺培養系を用いた実験を行った。マウス胎児の肺発生では、RAにより、肺胞原器の形成が阻害され、細気管枝原器の成長が亢進されることが知られている。この系でantisense-oligoを用い、Rcd1の発現を抑えた際の、肺形態形成への影響を調べた。結果、RAによる肺胞原器、細気管枝原器への影響が、antisense-oligo処理により解除されることが観察された。この結果から、Rcd1は単に一細胞株についてだけでなく、より実際の発生の過程を反映した系でも、RAシグナルの影響下で発生に関与していることが示唆された。

 また、Rcd1は造血系の臓器で発現が高いことがラット臓器を用いた実験により示されたが、血球系の分化には寄与しているかどうか、幹細胞様の性質を持つK562を用いて調べた。K562はin vitroで方法を選択することにより、様々な系統の血球細胞に分化させることがでる。今回、TPA(12-o-tetradecanoyl phorbol-13-acetate)を用いて巨核球系の細胞に分化させた場合と、NaB(n-Butyric acid sodium salt)を用いて赤芽球系の細胞に分化させた場合の二つの場合について、Rcd1のantisense-oligoでRcd1発現量を抑えた時の影響を調べた。結果、どちらの場合においても、分化により発現するマーカー分子の発現がみられなくなった。以上の結果から、Rcd1は、哺乳類細胞においては、発生初期過程のみならず、血球系の細胞分化にも関与していることが示された。また同時に、RAのみならず、そのほかのシグナルによって起こる分化においても何らかの関与をしている可能性が示された。

 以上より、Rcd1はマウステラトカルシノーマ細胞F9を、RAを用いて分化誘導する系において、分化の機構に関与する転写因子のコファクターとして作用する、分化に必須の因子であることが示された。また、マウスの肺の正常な形態形成において、RAシグナル影響下で必須の因子であることが示された。また、ヒト慢性骨髄性白血病細胞株K562においては、巨核球、赤芽球に分化する過程で必須の因子であることが示された。以上により、Rcd1の哺乳類ホモログは、その酵母におけるホモログ同様、分化において正の作用を持つ分子であることが示された。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は哺乳類における分化・発生制御機構を明らかにするため、酵母から哺乳動物まで一次構造が高く保存されているRcd1タンパクについて、その哺乳類ホモログが、分裂酵母ホモログ同様に、分化の制御機構に関与するか、複数の分化・発生の過程を再現できる系で解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

 1.ラット臓器を用い、Rcd1の発現パターンをウエスタンブロッティング法で調べた。ラットembryo各臓器においては実験に用いたすべての臓器で発現が見られ、胎生日数が進むにつれ多くの臓器で減少する傾向が見られた。また、5週齢のラット各臓器でのRcd1タンパク発現は、胸腺、脾臓、骨髄の他、肺、睾丸、脳などで多かった。この結果から、実際にRcd1の哺乳類ホモログがタンパクとして発現していること、胎生初期の各臓器で多く発現していること、ある程度成熟の進んだ個体では、造血系の臓器等で発現の多いことが示された。

 2.in vitroで分化誘導可能なヒト白血病細胞株や、発生の過程を部分的に再現できることが知られているテラトカルシノーマの細胞を分化誘導し、その際のRcd1タンパク発現の変動を確認した。結果、実験に用いたどの細胞株でも発現が確認され、F9、HL-60をレチノイン酸(RA)で分化誘導する系では、分化誘導前は発現が少なかったものの、分化マーカーが確認されるようになる時期までに一過性で発現が上昇し、再び下がるという現象が見られた。

 3.F9のRA刺激による分化にRcd1が必須の因子であるかを調べるため、Rcd1のantisense-oligoを用いて、F9をRA処理し分化誘導する際、Rcd1の発現上昇を抑えると、分化にどのような影響がでるか確認した。結果は、antisense-oligoを用いてRcd1の発現上昇を抑えると、分化マーカーであるc-Junの発現上昇、α-fetoprotein(AFP)の発現が抑えられた。また、同時にF9分化の際形成されるembryoid body (EB)の形成も強く阻害された。この結果より、分化誘導の過程で起きるRcd1発現の一過性の上昇が抑えられると、通常の分化を起こせなくなることが示された。

 4.同じ系において、Rcd1が常時発現していた場合、分化にどのような影響が出るか確認するため、ヒトRcd1の全長をトランスフェクションした細胞株を樹立した。これらの細胞株では、Rcd1の発現は増殖には影響しなかった。一方、Rcd1発現株ではRA処理前からc-Junの発現が見られ、その後の経時的な変化は、WT、ベクターのみ導入の株と同様の変化が早いタイミングから観察された。また、Rcd1発現株では、RA添加前からEB様の細胞塊が観察された。この細胞塊は、細胞塊凍結切片のヘマトキシリン−エオシン染色、AFPの免疫染色、また細胞塊抽出液のAFPに対するウエスタンブロッティングにより、染色パターン、AFP発現パターンがほぼ同じであったことから、WTをRA処理したときに形成されるEBと同じものであると判断した。このことから、Rcd1導入株では、Rcd1導入によって分化が亢進されていると考えられた。この分化亢進が、Rcd1により直接引き起こされているのか、又はRcd1により、血清培地中に微量に含まれるRAのシグナルが増幅されるために起きているのか確認するため、RAの特異的な拮抗阻害剤で細胞を処理し、その時のEB様細胞塊形成率を確認した。すると、RA拮抗阻害剤で細胞を処理することにより、EB様細胞塊形成は抑制された。以上より、Rcd1は外から分化の刺激を受け取ったあとのシグナルを増幅する因子であることが推測された。

 5.F9にRAを用いて分化誘導する系では、ATF-2(activation transcription factor-2)という転写因子が、RA刺激後、DRE(differentiation regulatory factor)と呼ばれるc-junのエンハンサー領域に結合することから起こることが知られている。一方で、この転写因子にどのようにRAのシグナルが伝達されているのかがこれまで明らかとされていない。この機構に、Rcd1がどのように関わっているのかを調べるため、RA処理前後で経時的に回収した細胞抽出液に対し免疫沈降法を用い実験を行った。結果、RAR(RA receptor)とRcd1は、RAの添加にかかわらず常に共沈し、分化誘導後、Rcd1とATF-2、ATF-2とRARの共沈が観察された。ATF-2とRARの共沈が、Rcd1とATF-2の共沈が起きるのとほぼ同時に起きることに着目し、両者の複合体形成にRcd1が必須の因子であるかどうか調べるため、Rcd1のantisense-oligoでRcd1発現量が上がらなくなるようにした細胞の抽出液を用いて実験を行ったところ、ATF-2、RARの細胞内の量には大きな差が見られないにもかかわらず、ATF-2-とRARの共沈は起こらなくなった。以上の結果から、RA刺激後、RARがRcd1を介してATF-2に結合していることが示唆された。このRcd1-ATF2のコンプレックスは、ラットembryoの各臓器でも観察されたことから、Rcd1-ATF-2の結合はin vivoでも起きていることが示唆された。

 6.ATF-2-RAR-Rcd1のコンプレックスが、実際にc-junのプロモーターにあるATF-2結合領域DRE上に、複合体の形で存在しうるのか調べるため、DREを用いてゲルシフトアッセイを行った。その結果、三者の複合体は、RA刺激によりDREに共に結合した形で存在することが示された。以上より、F9をRAで刺激することにより初期発生過程で起こる細胞分化を誘導する系では、Rcd1は必須の因子であり、RAによる刺激を、分化に必要な因子を発現させるために作用する転写因子へ伝える働きをしていることが示された。

 7.Rcd1がより生理的な条件での発生の制御に関わるのかを調べるため、マウス胎児肺培養系を用いた実験を行った。マウス胎児の肺発生では、RAにより、肺胞原器の形成が阻害され、細気管枝原器の成長が亢進されることが知られている。この系でantisense-oligoを用い、Rcd1の発現を抑えた際の、肺形態形成への影響を調べた。結果、RAによる肺胞原器、細気管枝原器への影響が、antisense-oligo処理により解除されることが観察された。この結果から、Rcd1は単に一細胞株についてだけでなく、より実際の発生の過程を反映した系でも、RAシグナルの影響下で発生に関与していることが示唆された。

 8.血球系の分化には寄与しているかどうか、幹細胞様の性質を持つK562を用いて調べた。K562はin vitroで方法を選択することにより、様々な系統の血球細胞に分化させることがでる。今回、TPA(12-o-tetradecanoyl phorbol-13-acetate)を用いて巨核球系の細胞に分化させた場合と、NaB(n-Butyric acid sodium salt)を用いて赤芽球系の細胞に分化させた場合の二つの場合について、Rcd1のantisense-oligoでRcd1発現量を抑えた時の影響を調べた。結果、どちらの場合においても、分化により発現するマーカー分子の発現がみられなくなった。以上の結果から、Rcd1は、哺乳類細胞においては、発生初期過程のみならず、血球系の細胞分化にも関与していることが示された。また同時に、RAのみならず、そのほかのシグナルによって起こる分化においても何らかの関与をしている可能性が示された。

 以上より、Rcd1はマウステラトカルシノーマ細胞F9を、RAを用いて分化誘導する系において、分化の機構に関与する転写因子のコファクターとして作用する、分化に必須の因子であることが示された。また、マウスの肺の正常な形態形成において、RAシグナル影響下で必須の因子であることが示された。また、ヒト慢性骨髄性白血病細胞株K562においては、巨核球、赤芽球に分化する過程で必須の因子であることが示された。以上により、Rcd1の哺乳類ホモログは、その酵母におけるホモログ同様、分化において正の作用を持つ分子であることが示された。本研究は、レチノイン酸刺激に応答しておこる分化制御機構の、これまで明らかにされていなかった転写制御機構解明に貢献をなした。また、その他哺乳類における分化・発生制御機構の解明に貢献をなしたと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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