学位論文要旨



No 117284
著者(漢字) 市瀬,多恵子
著者(英字)
著者(カナ) イチセ,タエコ
標題(和) 遺伝子改変マウスを用いたmGluR1遺伝子による運動制御機構の解析
標題(洋)
報告番号 117284
報告番号 甲17284
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1892号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 野本,明男
 東京大学 教授 新井,賢一
 東京大学 教授 吉田,進昭
 東京大学 助教授 金井,芳之
 東京大学 助教授 仙波,憲太郎
内容要旨 要旨を表示する

 グルタミン酸は中枢神経の主要な興奮性神経伝達物質で、その受容体は、シナプス可塑性や記憶、学習と深く関与している。1994年に2つのグループによりmGluR1遺伝子欠損マウス〔mGluR1 (-/-)マウス〕が作成され、解析された。mGluR1 (-/-)マウスは、海馬長期増強の欠損、海馬依存性の記憶のゆるやかな障害、歩行失調、登上線維シナプス除去における障害、小脳長期抑圧の欠損、自発運動能および協調運動能の低下、小脳依存性の連合学習における障害を示した。しかし、mGluR1 (-/-)マウスは、脳全域でmGluR1遺伝子が欠損しているため、見られた表現型が、脳のどの領域、もしくはどの細胞のmGluR1遺伝子の機能を反映しているのか結論付けることは難しかった。そこで、小脳唯一の出力系であるプルキンエ細胞に着目し、mGluR1による運動制御機構を解析するため、プルキンエ細胞のみでmGluR1遺伝子を発現するマウスを作成し、解析することを計画した。

1.mGluR1-rescueマウスの作成

 プルキンエ細胞特異的な発現を示すことが知られているL7タンパク質のプロモーターとラットmGluR1a遺伝子のcDNAを用いてトランスジーンを構築し(L7-mGluR1)、マウス前核期受精卵にマイクロインジェクションして8系列のトランスジェニックマウスを作成した(L7M-1〜8)。5系列のL7MトランスジェニックマウスにおいてRT-PCRを行ったところ、L7M-6とL7M-7の2系列で小脳特異的なトランスジーンの発現があることが分かった。交配により、mGluR1 (-/-)マウスにL7Mトランスジーンを導入したところ〔mGluR1(-/-); L7M (Tg/+)マウスとする〕、mGluR1 (-/-)マウスに見られた企図振戦や歩行失調が、mGluR1 (-/-); L7M-6 (Tg/+)マウスではわずかに、mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスでは見かけ上完全に回復していた。本来、mGluR1は嗅球、大脳皮質、視床、海馬、小脳など脳全域で発現しているが、免疫染色を行いmGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスにおけるmGluR1の発現を調べたところ、小脳プルキンエ細胞特異的であることが確認された。

2.登上線維シナプス除去

 生後まもなくの幼若動物では1個のプルキンエ細胞が複数の登上線維支配を受けている。発達につれ過剰な登上線維が淘汰され、マウスでは生後20日で成熟型の1対1の結合が完成し、成熟した機能的神経回路網が形成される。mGluR1 (-/-)マウスは、小脳の発生に伴う登上線維の淘汰が正常に起こらず、成熟しても約1/3のプルキンエ細胞が登上線維の多重支配を受けたままであった。一方、mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスでは、登上線維シナプス除去が正常に起き、プルキンエ細胞と登上線維の間で1対1の結合が観察された。

3.長期抑圧

 プルキンエ細胞は平行線維と登上線維の2つの経路を介して興奮性のシナプス入力を受けているが、この2つの入力が時間的に一致して、反復して起きたとき、平行線維とプルキンエ細胞間のシナプスに伝達効率の持続的低下、すなわち長期抑圧(LTD)が生じる。プルキンエ細胞で起こる長期抑圧は、小脳を必要とする運動学習の細胞レベルでのメカニズムであると考えられているが、mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスでは、mGluR1 (-/-)マウスで欠損していた長期抑圧が回復していた。

4.歩行

 四足にインクを付け歩行時の足跡をとると、mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスは、野生型マウスと同様、正常であった。mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスの歩行をさらに仔細に解析するために、マウスの頭を固定し、流れベルト上で自発運動させ、左右両肢の接地するタイミングを調べた。mGluR1 (-/-)マウスでは、左右両肢の接地するタイミングは完全に乱れていた。一方、mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスは、野生型マウス同様、正常な左右両肢の接地リズムを示し、このことにより、mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスの歩行は野生型マウス同様、回復していることが明らかとなった。

5.自発運動能

 オープンフィールドで自発運動能を測定すると、mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスの総歩行距離は野生型マウスと差が見られなかった。このことにより、mGluR1 (-/-)マウスで見られた自発運動能の低下は、歩行失調が原因であることが分かった。

6.協調運動

 ローターロッドテストでmGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスの協調運動能を調べると、mGluR1 (-/-)マウスと比較して回復しているものの完全ではなかった。mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスの小脳におけるトランスジーンの発現量は野生型マウスに比べ少なかったため、mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウス同士を交配し、トランスジーンをホモ型に持つマウスを作成した。mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/Tg)マウスの小脳におけるmGluR1の発現量をウエスタンブロッティングにより解析したところ、ヘテロ型の2倍であった。mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/Tg)マウスを用いてローターロッドテストを行ったところ、自発運動能は野生型マウス同様、完全に回復していた。

 mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスあるいはmGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/Tg)マウスでは、mGluR1 (-/-)マウスで見られた、歩行失調、登上線維シナプス除去および小脳LTDにおける障害、協調運動能の低下が野生型マウス同様回復していた。このことから、これらの制御には、小脳以外の脳領域や、平行線維が由来する顆粒細胞に抑制性入力をしているゴルジ細胞、登上線維が由来する延髄下オリーブ核などで発現しているmGluR1は関与しておらず、小脳プルキンエ細胞で発現しているmGluR1が必要十分であることが分かった。

 また、既に作成されている遺伝子欠損マウスの解析結果から、登上線維シナプス除去が正常に起きず、プルキンエ細胞が登上線維による多重支配を受けたままだと、協調運動能に障害がでることが考えられた。mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスは、登上線維シナプス除去は正常であったが、協調運動能には障害が残った。このことから、協調運動が正常に行えるようになるためには、登上線維シナプス除去が正常に起こること以外に何か他のメカニズムが存在し、このメカニズムはmGluR1の発現量により規定されていることが明らかとなった。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、遺伝子改変技術および発生工学的手法を用いて、小脳プルキンエ細胞でのみmGluR1遺伝子を発現するマウスを作成し、解析することで、タイプI代謝型グルタミン酸受容体(metabotropic glutamate receptor subtype I, mGluR1)のプルキンエ細胞における生理的役割について考察している。

 1994年に作成されたmGluR1遺伝子欠損マウス〔mGluR1 (-/-)マウス〕は、歩行失調、登上線維シナプス除去における障害、小脳長期抑圧の欠損、自発運動能および協調運動能の低下、小脳依存性の連合学習における障害を示した。そのため、mGluR1は、登上線維シナプス除去や小脳LTD、歩行や協調運動の制御において重要な役割を担う分子であることが考えられた。しかし、mGluR1 (-/-)マウスは、脳全域でmGluR1遺伝子が欠損しているため、見られた表現型が、脳のどの領域、もしくはどの細胞のmGluR1遺伝子の機能を反映しているのか結論付けることは難しかった。そこで、本論文では、小脳唯一の出力系であるプルキンエ細胞でのみmGluR1遺伝子を発現するマウスを作成し、mGluR1による運動制御機構を解析することを試み、下記の結果を得た。

1.L7タンパク質のプロモーターとラットmGluR1a cDNAを用いてトランスジーンを構築した(L7-mGluR1)。マウス前核期受精卵へのマイクロインジェクションによりトランスジーンを導入して、小脳特異的なトランスジーンの発現を示す2系列のトランスジェニックマウスを作成した(L7M-6、L7M-7)。交配により、mGluR1 (-/-)マウスにトランスジーンを導入したところ〔mGluR1 (-/-); L7M (Tg/+)マウスとする〕、mGluR1 (-/-)マウスに見られた企図振戦や歩行失調が、L7M-6系列のmGluR1 (-/-); L7M-6 (Tg/+)マウスではわずかに、L7M-7系列のmGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスでは見かけ上完全に回復していた。本来、mGluR1は嗅球、大脳皮質、視床、海馬、小脳など脳全域で発現しているが、免疫染色を行いmGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスにおけるmGluR1の発現を調べたところ、小脳プルキンエ細胞特異的であることが確認された。

2.mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスでは、mGluR1 (-/-)マウスで見られた、登上線維シナプス除去および小脳LTDの異常が正常に回復していた。このことから、登上線維シナプス除去および小脳LTDの制御には、小脳プルキンエ細胞で発現しているmGluR1が必要かつ十分であることが分かった。

3.mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスの歩行を、歩行時の足跡、左右両肢の接地するタイミングを指標として解析すると、野生型マウスと同様、正常であることが分かった。また、オープンフィールドで自発運動能を測定すると、mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスの総歩行距離は野生型マウスと差が見られなかった。このことにより、mGluR1 (-/-)マウスで見られた自発運動能の低下は、歩行失調が原因であることが分かった。次に、ローターロッドテストでmGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスおよびmGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/Tg)マウスの協調運動能を調べた。mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスの協調運動能は、mGluR1 (-/-)マウスと比較して回復しているものの完全ではなかった。mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/Tg)マウスの協調運動能は、野生型マウス同様、完全に回復していた。これらの結果から、mGluR1 (-/-)マウスで観察された、歩行失調および協調運動能における障害は、プルキンエ細胞で発現しているmGluR1が欠損したために生じたもので、他の脳領域で発現しているmGluR1は関与していないことが明らかになった。また、mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/Tg)マウスの小脳におけるmGluR1の発現量をウエスタンブロッティングにより解析したところ、ヘテロ型の2倍であった。このことから、小脳におけるmGluR1の発現量に依存する、協調運動能の制御機構の存在が示唆された。

4.既に作成されている遺伝子欠損マウスの解析結果から、登上線維シナプス除去が正常に起きず、プルキンエ細胞が登上線維による多重支配を受けたままだと、協調運動能に障害が出ることが考えられていた。mGluR1 (-/-); L7M-7 (Tg/+)マウスは、登上線維シナプス除去は正常であったが、協調運動能には障害が残った。このことから、協調運動の正常な制御には、登上線維シナプス除去が正常に起こること以外に何か他のメカニズムが存在し、このメカニズムはmGluR1の発現量により規定されていることが明らかとなった。

 以上、本論文は、mGluR1 (-/-)マウスの解析では結論付けることの出来なかった、小脳プルキンエ細胞におけるmGluR1の、登上線維シナプス除去、小脳LTD、歩行、強調運動における必要十分性を明らかにした。本研究は、今後の脳機能の解析に貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク